平将門 ③
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/eea53d13ca2e8799bbc7b12fd5ec1a60 【将門、新皇即位【中】】より
「将門、新皇即位・天慶二年(939)12月」【中】
=一巫女、八幡大菩薩の使いと称して将門を皇位につけようと告げる。将門、新皇と自称。
【晶妓の言】
ここで、しつこいようですが、晶妓が語ったことを調べてみました。
○「自分は八幡大菩薩の使いである」
八幡神とは応神天皇(第10代天皇)を指します。伝承によれば、応神天皇が誕生したとき、天から八本の幡(はた)が降りてきたからとか。今でも八幡宮は全国各地にありますが、どれも応神天皇や母の神功皇后等を祭っています。後年八幡神は源氏の氏神とされましたが、それは源頼朝が鎌倉の鶴ケ岡に八幡宮を勧進してからのことで、この時代はそんなことはなかったのです。菩薩は、観音菩薩や地蔵菩薩に代表されます。菩薩というのは仏教で悟りの一歩手前の状態をいいますが、完全に悟った人(如来)と共に信仰の対象になっています。ここで八幡大菩薩というのは神仏習合の結果と考えられ、それによれば神は仏の弟子とみなされるのです。この場合、八幡神が菩薩であるということです。
○「朕の位を蔭子将門に授ける」
当時朝廷における位階が五位以上で親王以下の身分の人の子と、三位以上の人の孫は21歳になると自動的に父・祖父の身分に応じて、従五位下から従八位下の位階を授けられました。この位階を蔭位(おんい)といい、蔭位を受ける資格がある人を蔭子(おんし)といいます。位階とは、早い話が朝廷内の身分等級で、五位以上を貴族、三位以上を公卿といいます。当然ながら役職が重くなるほど位も上がって行きますが、国司として任地では威張り放題の守の場合でも、京にあっては最下級の貴族(従五位下)なのです。さて八幡大菩薩が将門を蔭子としました。なるほど八幡大菩薩は天皇(応神天皇)ですから将門を自分の子とみなせば将門は蔭子となり、蔭位を授かる資格があります。八幡大菩薩は自分自身の位(皇位)を授けるといっています。この神託事件が、興世王達の演出でないことはこれから想像できます。
○「位記は、左大臣正二位菅原朝臣が書き表す」
位記(いき)とは、朝廷から官位などを与えられる時に書かれる文章です。今回の辞令(?)は菅原朝臣(菅原道真)が書いたことになっています。
○「八幡大菩薩は八万の兵で軍を起せ。朕が位を授ける」
このあたりから段々と主語がはっきりしなくなってきます。それまでは八幡大菩薩と朕とは同じだったと思うのですが、この文からは「八幡大菩薩」と「朕」は同じとは思えないような書き方です。もっとも巫女は神がかり状態なのですから、深く考えてもしかたがありません。それと八万の兵という意味もわかりません。
○「三十二相の音楽を鳴らし、早くこれを迎えるがよい」
三十二相とは、仏語で足下平萬、身体淳浄など仏のみが持つ32の身体的特徴をいいます。三十二相の音楽とは何なのでしょう? これもわからない部分です。本来の小乗仏教に音楽はありません。音楽は人の心を癒すどころか堕落させるものとして戒律で禁止しています。
○「左大臣正二位菅原朝臣」
この神託では、菅原道真の登場がかなり唐突に感じられます。八幡大菩薩はまだしも、なぜ菅原道真の名前が出てくるのか。八幡大菩薩と菅原道真が将門の新皇即位を正当化したのは確かです。しかし、菅原道真を引っ張り出したのは『将門記』の作者の創作ではないかと思えます。菅原道真は、左大臣藤原時平の讒言によって大宰府に左遷され、903年に没しました。930年6月26日御所の清涼殿に突然落雷があり、藤原時平の片腕で道真の左遷に協力したといわれる藤原菅根、大納言藤原清貫、右兵衛佐美努忠包等が事故死するという事件が起きました。さらに日蝕、地震、干ばつなどの天変地異も起こり、これは菅原道真の祟りではないかと思われるようになりました。時の醍醐天皇はショックで寝込み、寛明親王(朱雀天皇)に譲位し死去。菅原道真の祟りは、京都の公家達を恐怖のどん底に叩き落したのです。その怨霊譚が、この当時すでに坂東にまで伝わっていたであろうことは容易に想像できますが、それでも上野の田舎娘(神託をした巫女のこと)にとって『左大臣正二位』という知識があったのでしょうか? そこで、菅原道真の名前を出したのは将門記の作者ではないかと思えるのです。この作者も、例外なく当時の国司や朝廷のやることに憤りを感じていたことでしょう。しかしこの僧侶と想像されている作者にとってできることは、このようなかたちで国司・朝廷を批判することだけだったのではないでしょうか?
しかし我々はそんなことを知る必要はないのかもしれません。巫女の神託で将門が新皇を称するようになったことだけを知ればよいのでしょう。この『神託』を、目の当たりに見た興世王と藤原玄明は、貧者が富を得たように喜んだ、という話です。
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/1d838429e3e5a8f90acc0280b35a5bcb 【将門、新皇即位【下】】より
「将門、新皇即位・天慶二年(939)12月」【下】
=一巫女、八幡大菩薩の使いと称して将門を皇位につけようと告げる。将門、新皇と自称。
【新皇即位】
ここで注目したいのは、八幡大菩薩と菅原道真の霊魂とによって、将門の新皇即位を合理化しようとしている点です。この記事に関しては、今日、実際それに近い事実があったとする説と、『将門記』の作者による創作説とが対立しています。まず、前者の事実説に従えば、藤原時平の讒言によって大宰府に左遷され、903(延喜3)年に恨みをいだきながら没した道真の亡霊の祟りは宮廷人たちを恐怖のどん底にたたき落としましたが、その怨霊譚はすみやかに民間に広まり、道真没後36年目の乱の時期にはすでに坂東(関東)地方にまで伝播しており、八幡神に対する信仰もまた坂東地方へ勢力を伸ばしていた、ということになります。一方、後者の作者創作説のうち、多くの支持を受けている見解は次のようなものです。将門の乱の当時、都の貴族たちの間では道真の怨霊が恐れられていた(この点では前者と同様)。そして、志をとげずに無念の討死をとげた将門もまた、のちに怨霊として恐れられ、祭られるようになります。それらの事実を知る後世の作者が、道真と将門という2大怨霊を結びつけ、前述の『将門記』の記事を創作した可能性が強い、というものです。
八幡大菩薩は、もと北九州宇佐地方の土着信仰神です。奈良時代に武力で国家を外敵から護る神に高められ、平安時代初期の九世紀半ばには王城鎮護の神として石清水(いわしみず)宮に勧請され、十世紀初めまでには応神天皇以下三神と認識されるようになった神です。ですが、ここで注意しなければならないのはその称号です。菩薩とはもともと悟りをひらくまえの釈迦のことをいい、のちに大乗仏教で悟りを求めて修行する人を称していいます。すなわち、八幡大菩薩とは、菩薩のかたちをした八幡神という神なのです。仏になろうとする神。ここに神仏習合の典型例があらわれています。なお、中沢新一氏によれば、関東武士団の縄文時代から受け継いだ特質として、「野生の思考」があるといいます。関係部分を次に引用します。
『東日本、岐阜あたりから東のほうは、もともと縄文文化圏ですから狩猟地帯なんです。また、アイヌの人たちを見てもわかるように、入れ墨をする。ですから入れ墨をしたり、狩猟したりしている人たちの文化伝統の地域が、東日本に広がっていた。ところが都を中心にして発達した神道は流血を嫌いますし、女性の血なんかも不浄だと恐れる。神道は清浄をもとめて、仏教は殺生禁断です。いずれにしても、東国の人たちの生き方、縄文的生き方にはそぐわないところがある。ところが東日本では諏訪神社が「動物を殺してもいい」という御札を配っていたんです。狩人たちはそれを持って、狩りに出かけていった。関西では、春日大社なんかを見てもわかりますように、鹿をいっぱい飼いますでしょう。そして殺さない。ところが諏訪大社の場合は、鹿はいっぱいいるんですが、これは大量に殺してサクリファイズします。供犠をする儀式をする。神社毎年数十頭もの鹿の首をはねて、それを神前に並べる儀式を、明治になるまでずうっとつづけていました。(中略)ところが仏教だけが「動物を殺してはいけない」と言う。しかし、その思想は深いところで「野生の思考」に連続している。つまり、狩猟の世界とも深いところで繋がっている思想としての「殺生禁断」なんです。日本仏教は、鎌倉時代にそういう問題とぶつかって、むしろ仏教を乗り越えるかたちで、これを解決しようとした。そのとき、縄文文化的なものと仏教とが、ふたたび出会うことになっています。ところが、キリスト教やイスラム教のほうでは、こんな複雑なことはおこっていません。切れているんですね。』
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/masasoku.html
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/2e774d73264851ea8006a399fe4118f1 【伊和員経の諌言】より
「伊和員経の諌言・天慶二年(939)12月」
=将門の小姓の伊和員経、弟・将平ら、将門に諌止する。
●「伊和員経の諌言」(『将門記』より)
《また、くつろいでいたときに、内竪(ないじゅ=小姓)の伊和員経(いわのかずつね)が謹言した。「諌臣がいれば君主は不義に落ちないものです。もしこのことが遂げられなければ、国家の危機が訪れるでしょう。『天に違えばわざわいがあり、王に背けば罰をこうむる』といいます。願わくば、新天さまは耆婆(古代インドの名医。王をいさめた)の諫めを信じて、よくよくお考えの上での天裁を賜ってください」と言うと、新天皇は勅していう。「能力・才能は、人によっては不幸となり、人によっては喜びとなる。一度口に出した言葉は四頭だての馬車でも追いつけない。だから、言葉に出して成し遂げないわけにはいかない。議決をくつがえそうとするのは、汝らの考えが足りないからだ」といった。員経は舌を巻き、口をつぐんで、黙って閑居してしまった。昔、秦の始皇帝などは書を焼いて儒者を埋めた。あえて諫める者はいなくなってしまった。》
【将門の反論】
将門の反論に員経は説得を諦めたとのことですが、これらの問答はおそらく『将門記』作者の創作だと思われます。大契丹王とは耶律阿保機(やりつあぼき、872~926)のことで、中国北方民族の遼国(契丹国)の建国者(在位916~926)で、中国文化の摂取につとめながら、契丹文字を作ったことでも知られます。この中国大陸の動きを、一介の坂東武者にすぎない将門が知っているとは思えませんし、伊和員経の諫言の内容も当時の武士のそれとは考えられないのです。
弟の将平や伊和員経は将門を諌めましたが、その時は器量が足らずに抑えることは出来なかったのですが、この二人は懐刀となる可能性があります。また、後に将門を討つことになる俵藤太こと藤原秀郷は、いったん将門に従属しようとしていた様子が窺えます。彼がもし将門と共闘していたら、もっと考えれば、もう少し時間があれば、従兄弟である平貞盛とも手を組むことだって可能だったと思えます。貞盛にとって将門は父の仇だが、歩み寄れる素地はあったとも思えるのです。将門は参謀が残念ながら興世王であったため、ことを急ぎすぎました。新国家もビジョンも、まったくありませんでした。興世王にもう少し才覚があれば、「征夷大将軍」というアイデァまではいかなくても、「新皇」としてでなく、もう少し違った形で将門を君臨させることが出来たのではないでしょうか。
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/a762497c1c3af6d9caf14a88a811b3ec【将平の諌言】より
「将平の諌言・天慶二年(939)12月」
=将門の弟・将平、小姓の伊和員経ら、将門に諌止する。
●「将平の諌言」(『将門記』より)
《このとき、新皇の弟の将平らは、ひそかに新皇に進言して言った。「そもそも帝王の業とは、智をもって競うべきものではありません。また、力をもって争うものではありません。昔から今に至るまで、天を経とし地を緯とする(天下を治める)君主も、王位を受け継ぎ国の基を受けた王も、すべて天が与えたものです。どうして論じることができましょうか。おそらくは後世からそしられることになります。決して……」と。これに新皇が勅していうには「武弓の術は日中両国の助けとなってきた。矢をかえす功績は我が命を救う。将門はいやしくも武名を坂東にあげ、合戦の評判を都にも田舎にもとどろかせている。今の世の人は、必ずうち勝った者を君主とする。たとえ我が国に前例がないとしても、すべて他国には例がある。去る延長年間に大契丹王(耶律阿保機)などは正月1日に渤海国を討ち取って、東丹国と改称し、領有した。どうして力をもって征服したのではないといえようか。さらに加えて、こちらは多数の兵力であたっている上、戦い討つ経験も多い。山を越えようとする心はおじけず、巌をも破ろうとする力は弱くない。戦いに勝とうとする思いは漢の高祖の軍をもしのぐだろう。およそ坂東8か国を領有しているあいだに、朝廷からの軍が攻めてきたら、足柄・碓氷の2関を固め、坂東を防御しよう。だから、汝らの申すことは、はなはだ迂遠なことである」といい、それぞれ叱られて退出した。》
【平将平】
平良将の子で平将門の弟。豊田郡大葦原に居を構えていたことから「大葦原四郎」と称しました。一説には、上野守になったともいわれています。終始将門の片腕となって兄を助けた。天慶三年の戦いに敗れたとき、秩父に入って吉田の石間に潜伏しましたが、源経基に襲われてあえない最後を遂げました。なお、将平は生前、この地方を旅して円福寺に詣でその寺の信徒になっていたといいます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E5%B9%B3
「総州猿島大内裏之図」
http://www.city.bando.ibaraki.jp/sights/masakado/018.html
【円福寺】秩父市皆野町皆野
平将門の弟・平将平を開基とし、畠山重忠父重能公を中興開基とする寺で真言宗智山派に属しています。
http://www.sugina.com/j-shitifuku-02.html
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/93613f4e60fd45a1e79524ea8d14b451 【京中の騒動】より
「京中の騒動・天慶二年(939)12月」
=将門謀叛により、京中の騒動がはなはだしい。
●「京中の騒動」(『将門記』より)
《この言葉を聞いて、諸国の長官は魚のように驚き、鳥が飛ぶように早く上京していった。そののち、武蔵・相模などの国に至るまで新皇が巡検して、すべて印鎰を掌握し、公務を勤めるよう留守の役人に命じた。さらに天皇位につくという書状を太政官に送達し、相模国から下総に帰った。さて、京の役人は大いに驚き、宮中は大騒ぎになった。ときに本の天皇(朱雀天皇)は十日の命を仏天に請い、そのうちに名僧を七大寺に集めて、捧げものを八大明神に捧げて祈った。詔して言うには、「かたじけなくも天皇位を受けて、幸いに事業の基を受け継ぎました。ところが将門が乱悪を力となして、国の位を奪おうと欲しているといいます。昨日この奏を聞きました。今日は必ず来ようと欲しているでしょう。早く名高き神々におもてなしをして、この邪悪をとどめてください。すみやかに仏力を仰いで、かの賊難を払ってください」と。そして本皇は座を下りて両手の平を額の上に合わせ、百官は潔斎して千度の祈りを寺院に請うた。ましてや、山々の阿闍梨は邪滅悪滅の修法を行なった。諸社の神祇官は頓死頓滅の式神をまつった。7日間に焼いた芥子は7石以上。そなえたそなえものは五色どれほどか。悪鬼の名号を書いた札を大壇の中で焼き、賊人の像を棘楓の下につり下げた。五大力尊は侍者を東国に遣わし、八大尊官は神の鏑を賊の方に放った。その間に、天神は眉をひそめ口元をゆがめて賊の分をわきまえない野望を非難し、地神は責めとがめて悪王の困った念願をねたんだ。》
【京は大騒ぎ】
大変なことになりました。蝦夷のように異民族と考えられていた人たちは別として、いまだかつて同じヤマト民族で、しかも天皇の流れを汲む者が国家に反逆したばかりか帝位を称し、文武百官を定めるなど空前絶後・前代未聞のできごとだったのです。
将門の常陸、下野、上野の国府襲撃は京を震撼させました。朝廷は大慌てで940年2月8日、藤原忠文を征討将軍に任命します。忠文は当時の貴族としてはめずらしく謹厳な人で、任命されるや帰宅せずにただちに坂東に向かったと言われます。それが可能だったのは、当時は国軍がなかったため、藤原忠文に限らず任命された将軍は身軽だったためです。外国でしたら皇帝の命令で国軍が編成(兵が徴集)された後、将軍に率いられて出発するのです。身軽な反面、将軍達は行く先々で兵を徴集しなければなりませんでした。身軽と言えば身軽、適当といえば適当でした。
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/48f8f4f160fc3be92cb74ce9c24eae64 【新政府の発足】より
「新政府の発足・天慶二年(939)12月」
=将門、徐目を行って東国の国司を任命。王城建設の謀議を行う。
●「新政府の発足」(『将門記』より)
《一方、武蔵権守・興世王は当時の主宰者であった。玄茂らは宣旨と称して諸国の除目を発した。
下野守には、弟の平朝臣将頼(まさより)。
上野守には、常羽の御厨の別当、多治経明(たじのつねあきら)。
常陸介には、藤原玄茂(はるもち)。
上総介には、武蔵権守・興世王。
安房守には、文屋好立(ぶんやのよしたち)。
相模守には、平将文(まさふみ)。
伊豆守には、平将武(まさたけ)。
下総守には、平将為(まさため)。
こうして諸国の受領を決定した一方で、王城を建てるための謀議をおこなった。その記録によると、「王城を下総国の亭南に建てる。さらに、[木義]橋(うきはし)を名付けて京の山崎とし、相馬郡の大井の津を名付けて京の大津とする」。そして左右の大臣、納言、参議、文武百官、六弁八史、みなすべて決定し、内印・外印を鋳造する寸法、古字体・正字をも定めた。ただし、決まらなかったのは、暦日博士だけであった。》
【除目と王城建設】
新皇になった将門は人事発令(?)を行い、これを発表します。多くの人が指摘していますが、これにはとんでもない錯誤があります。常陸、上総の国司を「守」ではなく「介」としたことです。上野国を含めてこの三国の守は、親王が任命されることが慣例になっています。しかし、朝廷に対抗して新政権を樹立するならそんな慣例は無視すべきなのです。この人事は興世王の発案と思いますが、所詮この人はこの程度の男だったのでしょう。このことは将門の左右には有能な謀臣、例えば源頼朝の側近で鎌倉政権樹立に多大な貢献をした大江広元のような人材は一人もいなかった証拠なのです。『将門記』によれば、将門は発令と同時に「王城は下総国の亭南」(坂東市の石井営所との説あり)として、王城建設を計画したといいます。
【平将頼】
「将貞」とも。平良将の子で平将門の弟。「御厨三郎」と称しました。常に将門を助け、将門軍の参謀として働きました。藤原秀郷の子・藤原千晴との合戦で、中野原(中野区中野一丁目あたり)で討死したといわれていますが、史料的裏付けはなく確証はありません。『将門記』では、天慶三年将門討ち死にののち、相模国で殺されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E9%A0%BC
【多治経明居館跡】八千代町平塚
多治経明は、将門軍の第一線部隊長。天慶三年の合戦で、藤原秀郷に敗れましたが生死は不明です。上野の土豪で常羽御厨の別当だった多治経明の居館跡が、結城郡八千代町平塚にあります。一分土塁が残っていますが、その面影を偲ぶよすがもないくらいの林となっており、道に沿って建てられた柵と案内板があるのみです。
http://homepage2.nifty.com/nihon-castle/TOUKAIDOU/ichibanyashiki.htm
多治経明及びその関係者とみられる者について、『将門記』の記すところを見ると、関東の多治氏としては、将門の敵である叔父良兼の上兵として多治良利が見えており(承平七年〔937〕)、天慶二年(939)の太政大臣藤原忠平の家司として多治真人助真が見えます。「タジヒ」を名乗る氏族には、皇親系の丹比真人及び神別で尾張連同族の丹比連(のち宿禰姓)があり、時代により丹比・多治比・丹治と記されましたが、前者は貞観八年二月に多治真人と改姓し、以降その表記で平安中期には中下級の官人となって続いていました。
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keijiban/titibu1.htm
【文屋好立】
将門の一ノ家人。承平八年(938)の「信濃千曲川の戦い」で、貞盛方の佗田真樹は戦死し、将門方の文屋好立(ぶんやのよしたつ)は負傷しましたが助かっています。天慶三年の合戦ののち、生死は不明です。
【平将文】
『将門記』に登場する平将文は、新皇宣言の後に行われた除目で相模守になった将文がいます。彼は将門の4番目の弟として位置づけられている人物です。
【平将武】
平良将の子で平将門の弟。「相馬六郎」と称しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E6%AD%A6
【平将為】
平良将の子で平将門の弟。「相馬五郎」と称しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E7%82%BA
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/5cf5a4164d9143a66e10cb729457181d 【藤原忠平宛の上書】より
「藤原忠平宛の上書・天慶二年(939)12月」
=将門、書を私君の摂政・藤原忠平に送り、心情を述べる。
●「藤原忠平宛の上書」(『将門記』より)
《さて、公家(忠平)に事情を伝える手紙にこうある。将門、謹んで申し上げます。あなたの教えをこうむらないまま多くの歳月をすごしました。拝謁を望んでおりますが、このあわただしい折、何を申し上げられましょうか。伏して高察を賜るならばありがたい幸せであります。さて、先年、源護らの訴え状によって将門を召されました。官符は恐れ多いため、急ぎ上京し、つつしんでおそばにおりました間、仰せを承りまして、「将門はすでに恩赦の恵みにあずかった。そのため、早く返して遣わす」ということでしたので、本拠地に帰り着くことができました。その後、兵のことは忘れてしまい、あとは弓の弦をゆるめて安らかに暮らしておりました。その間に、前の下総国介・平良兼が数千の兵を興して将門を襲い攻めました(※子飼の渡の戦い)。敗走することもできずに防いでいるうちに、良兼のために人やものが殺されたり壊されたり奪われたりしたという事情については、詳しく下総国の上申書に書き記して、太政官に申し上げました。ここに朝廷は「諸国が力を合わせて良兼らを追捕せよ」という官符を下されました。それなのに、さらに将門を召喚するという使いが送られました。しかし、心中不安でならないので、結局上京することなく、官使の英保(あなほ)純行に託して詳細を申し上げました。それに対する裁決がくだらないで鬱々と憂えていましたところ、今年の夏、同じように平貞盛が将門を召喚するという官符を握って常陸国にやってきました。そして、国司はしきりに書状を将門に送ってきました。この貞盛とは、追捕を逃れて、ひそかに上京した者です。公家はこの者を捕らえて事情をただすべきであります。それなのに、逆に貞盛の言い分が理にかなっているとする官符を賜ったというのは、うわべを取り繕っているからにほかなりません。また、右少弁・源相職(すけもと)朝臣があなたの仰せの旨を受けて書状を送ってきた文面には、「武蔵介経基の告訴状により、将門を審問すべきであるという、次の官符を下すことがすでに決まっている」とのことでした。詔使の到来を待つあいだ、常陸介藤原維幾朝臣の息子の為憲は、公の威厳をかさにきて、冤罪ばかり好んでいました。このため、将門の従兵である藤原玄明の愁訴により、将門をその事情を聞くためにその国に出向きました。ところが、為憲と貞盛らは心を合わせて、3000人の精兵を率い、思いのままに兵庫の武器・防具・楯などを持ち出して戦いを挑んできたのです。このため、将門は士卒を激励して、意気を高め、為憲の軍兵を討ち伏せてしまったのです。そのとき、1州を征圧する間に、滅亡した者は数もわからないほどです。ましてや存命した庶民は、ことごとく将門に捕獲されました。介の維幾は、息子の為憲に教え諭せずにこのような兵乱に及ばせてしまった罪を自ら認める詫び状を出してきました。将門は本意ではありませんでしたが、一国を討ち滅ぼしてしまったのです。罪科は軽くなく、百県を征圧するも同じ罪です。このため、朝廷の評議をうかがうあいだに、坂東の諸国を領有していったのです。伏して祖先のことを考えてみますと、将門はまさに柏原帝王の5代の子孫です。たとえ永く日本の半分を領有したとしても、それが天命でないとはいいきれません。昔は兵力をふるって天下を取った者が多く史書に載っています。将門は、天から授かったものは武芸であります。思いはかってみても、同僚のだれが将門に並ぶでしょうか。それなのに、公家から褒賞などはなく、かえって何度も譴責の官符を下されています。身を省みると恥ばかり。面目をどうやって施しましょうか。これを推察していただけますなら、たいへん幸いであります。そもそも将門は少年のころ、名簿を太政の大殿にたてまつり、それから数十年、今に至ります。相国さまが摂政となられた世に、思いもかけずこのような事件となってしまいました。歎くばかりで、何も申し上げることができません。将門は、国を傾けるはかりごとを抱いているとはいえ、どうして旧主のあなたを忘れましょうか。これを察していただけますなら、たいへん幸いであります。一文で万感を込めています。将門謹言 天慶2年12月15日 謹々上、太政大殿の少将(師氏)閣賀 恩下 》
【藤原忠平】
関白藤原基経の三男。将門を家人としたこともあり、将門に対しては終始好意的でした。母は人康親王の娘。長兄時平の在世中は影が薄かったが、時平の死後は右大臣として采配をふるい、醍醐天皇を補佐して比較的安定した政権を作り上げた。これは時平の行った国政改革と合わせて「延喜の治」と呼ばれるもので、後世の人々には理想的な天皇親政の時代であったと評価されています。しかし、実際には律令政治を維持することが困難な状況にあり、時平が守ろうとした律令制度も、忠平が氏長者となってから没するまでの約四十年の間に、急速に崩壊していくこととなりました。人柄は温厚ですぐれており、人相見に「才能・心操・形容、かたがた国に叶う。定めて久しく奉公あるか」と褒められ、そのため宇多天皇は娘の源順子を忠平に嫁がせたという説話があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E5%B9%B3
【将門の文章】
将門はほとんど開き直り。理由にもならない理由です。ところが、将門は「オレのような強い者が天下の半分を支配するのは当然だ」といっておきながら、その後で「思いもかけず、このような事態になってしまった」と詫びているようでもあります。さらに別の疑問ですが、なぜ『将門記』の作者は、将門が藤原忠平宛に手紙を書いたことを知っていたのでしょう? そればかりか、どういう手段でその内容を知ったのでしょう? もしこの手紙がこの作者の創作でなく事実だとしたら、将門記の作者は藤原忠平の近くに仕える誰かだったのではないでしょうか? 『将門記』の前半は、下総・常陸方面の地理・地名が詳しく書かれていますが、後半はそうでもありません。あるいは前半と後半で作者が違うのかもしれません。この手紙は将門のような無学な田舎武者が直接自分で書いたとも思えず、別の学識のある人(例えば興世王)が将門の話すことを書状にしたのかもしれません。その人が誰かに他の人に話したとすればつじつまは合います。将門は「力のあるものが天下を取るのだ」といっています。彼は新皇を称しましたから藤原氏の横暴に憤慨し、天皇に取って代わることを宣言したのです。この点、後世の源頼朝、足利尊氏のように征夷大将軍の称号で満足し、国政を天皇から委任されることを目的に行動した武将とは明らかに違います。将門は天皇になろうとしたのではなく、皇帝になろうとしたのでしょう。詳細はよくわかりませんが、天皇とは皇帝は違うものなのでしょう。天皇になれる者は天皇家の血筋の者に限られるのですが、将門は天皇の血統といっても祖父の高望王が臣籍降下で家臣となっているため、もはや皇族の扱いは受けません。天皇家の論理は、天皇の血統がその地位に就任します。いわば「血の論理」です。これに対して、皇帝とは「力で取って代われる」ものなのです。
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/3efc713d0de82a8ddcb66905e89ef7db【貞盛の妻】より
「貞盛の妻・天慶三年(940)1月」
=将門、常陸に出兵。貞盛らの所在を探索。将門軍、吉田郡蒜間の江のあたりに貞盛と源扶の妻を捕らえる。将門は赦免する。
●「貞盛の妻」(『将門記』より)
《ところが新皇は、井戸の底で浅はかな思いを抱いて、境域外の広い戦略を持っていなかった。そこで相模から本拠に帰った後、まだ馬の蹄を休めないうちの天慶3年正月中旬に、残りの敵を撃つため、5000の兵を率いて常陸国に出発した。そのとき、那珂郡・久慈郡の藤原氏らは国境に出迎えて、贅を尽くした宴会を開いてもてなした。新皇は勅して「藤原氏ら、掾の貞盛と為憲らの所在を申せ」と言った。そこで藤原氏らは「聞いたところによると、その身は浮雲のようで、飛び去り、飛び来たって、住所は不定です」と奏上した。こうしてなおも探索しているうちに、ようやく10日ほどが経った。なんとか、吉田郡蒜間の江のほとりに、掾の貞盛・源扶の妻を捕えることができた。陣頭の多治経明・坂上遂高(さかのうえのかつたか)らの中に、その女たちが連れてこられた。新皇はこのことを聞いて、女人がはずかしめをうけないように勅命を下したが、勅命以前に兵卒らにことごとく凌辱されていた。そのなかでも、貞盛の妻は、服をはぎ取られて裸にされてどうしようもなかった。眉の下の涙は顔の白粉を流し、胸中の炎は心の中の肝を貫いた。思いのほかの恥が自らの恥となったのである。会稽の恥をそそごうとした報いに、その会稽の敵に会ってしまったようなものだ。どうして人のせいにできようか、どうして天を怨むことができようか。生前に受ける恥は、自らに原因があるのだから。そこで傍らにいた陣頭の武将らが新皇に奏上した。「例の貞盛の妻は、顔立ちが美しいものです。罪科は妻にはありません。できれば恩詔をたれて、早く本拠に送り返してください」。新皇は「女人の流浪者は本拠地に返す、というのが法の通例である。また、身よりのない人、孤独な人に哀れみを垂れるのは、古帝の良い手本である」と勅した。そこで一かさねの衣服を賜って、その女の本心を確かめるために勅歌を詠んだ。
「よそにても風の便に吾ぞ問ふ 枝離たる花の宿(やどり)を」
(離れたところにいても、香りを運ぶ風の便りに、枝を離れていった花の行方を私は訪ね求める)
貞盛の妻も幸いに温情ある処遇にあったことから、これに唱和して詠んだ。
「よそにても花の匂ひの散り来れば 我身わびしとおもほえぬかな」
(離れたところにいても、花の香りが散ってやってくるのだから、私の身の上がわびしいものとは思いません)
そのとき、源扶の妻もその身の不幸を恥じて、人に寄せてこう詠んだ。
「花散りし我身もならず吹く風は 心もあはきものにざりける」
(花が散り、我が身には実もならなくなったので、吹く風は心寂しく感じられます)
こういった歌を交わしているうちに人々の心はなごみ、逆心も弱まった。》
【平将門文学碑】坂東市
将門軍の兵たちが敵将の平貞盛の妻と源扶の妻たちを捕らえたという報告を受けた将門は、先の合戦で自分の妻子が捕らえられ殺されているにもかかわらず、二人に衣服を与え和歌を詠んで添える場面が描かれています。碑文には、この時の和歌が二行に分けて彫られています。天慶2年から3年にかけて関東地方一帯で活躍した平将門は、歴史上に名高く残っています。将門といえば、荒武者のように世間では考えられがちですが、自筆による伊勢神宮の奉納文を読むと、その達筆さとともに、すぐれた教養人であったことが察せられます。文学碑は、戦乱の中にあって権力と勇猛さだけでない、将門の心の優しさ、人間性を如実に物語っています。
「平将門文学碑」
http://www.city.bando.lg.jp/sights/historical_masakado/masakadosiseki4.html
【蒜間の江(涸沼)】
蒜間の江は、東茨城郡にある涸沼のこと。
http://business2.plala.or.jp/ibarakit/hinuma/index.htm
http://www14.plala.or.jp/tohmine/aaa/aaaessay/jinmon/kikorekishi/hinuma.htm
【平戸館(貞盛居館跡)】水戸市平戸町
蒜間の江(涸沼)で、多治経明らが貞盛・源扶の妻を捕らえました。貞盛は、涸沼川の辺にある平戸に館を持っていたのです。貞盛居館があった平戸館は平戸の吉田神社一帯にあったとされ、吉田神社の前に居館跡の石碑が建っています。近所の古老に聞くと、伝えられている平戸館跡はここから少し南東に寄った小さな祠のあるところですが、役人がここに建てていったとのこと。
http://homepage2.nifty.com/nihon-castle/TOUKAIDOU/hirado.htm
http://www7a.biglobe.ne.jp/~ao36/ibaraki_kita/mitosyuuhen.htm
【坂上遂高】
将門側の武将。
「坂上氏」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8A%E6%B0%8F
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/d33326876350ae8c59c2d32851d9d96b 【川口村の戦い】より
「川口村の戦い・天慶三年(940)1-2月」
=将門、軍を解いて諸国の兵を帰らせる。残る手兵は千人足らず。貞盛はこれを聞いて下野押領使・藤原秀郷と四千余りの兵を集め、将門を攻めようとする。将門、防戦のため下野に出兵するが、副将・藤原玄茂らの軽挙により敗北。秀郷ら、川口村に追撃。将門、奮戦およばず敗退。幸島郡広江に隠れる。
●「川口村の戦い」(『将門記』より)
《何日も経ったが、例の敵の消息を聞くことはなかった。そのため、諸国の兵士らはみな帰してしまった。わずかに残った兵は1000人にも足りない。このことを伝え聞いて、貞盛と押領使・藤原秀郷らは、4000人あまりの兵を率いて、すぐさま合戦しようとした。新皇は大いに驚いて、2月1日、兵を率いて敵の地である下野方面に国境を越えて向かった。このとき、新皇将門の前の陣はまだ敵の所在を知らなかったが、副将軍・玄茂の陣頭の経明・遂高らの後陣が敵の所在を発見した。実情を見るために高い山の頂に登ってはるかに北方を見ると、実際に敵がいた。気配ではほぼ4000人ほどであった。そこで経明らは、すでに一騎当千の名声を得ていたため、例の敵を見逃すわけにはいかなかった。そこで、新皇に奏上せず、迫って押領使秀郷の陣とうちあった。秀郷はもとより古い計略に通じていて、思いのままに玄明の陣をうち倒してしまった。その副将軍・兵士らは三軍を動かす手に詰まってしまい、四方の野に散っていった。道を知る者は弓のつるのように素早く逃げ去り、よく知らない者は車輪のようにそのあたりを回っているだけだった。生存者は少なく、亡くなった者が多かった。ときに貞盛・秀郷らが敗走軍の後について追撃するうちに、同日の未申(午後三時)ごろに川口村を襲撃した。新皇は声をあげて迎え撃ち、剣を振るって自ら戦う。貞盛は天を仰いで言った。「私兵である賊軍は雲の上の雷のようだ。公の従者は厠の底の虫のようだ。しかし、私兵どものほうには道理がない。公のわが方には天の助けがある。三千の兵は絶対に面を背けて逃げ帰ることがないように」と言った。日はようやく未刻(午後二時ごろ)を過ぎて黄昏になっていた。みな李陵王のような勇猛心を奮い立たせ、死生を決するつもりで奮戦した。桑の弓のように思い切り引くことができ、ヨモギの矢のように見事に的中する。官兵は常よりも強く、私兵は常よりも弱かった。さすがの新皇も馬の口を後ろに向け、楯を前に出して防戦する。昨日の雄は今日の雌。そのため常陸国の兵はあざけり笑って宿営にとどまった。下総国の兵は怒り、恥じながらすぐにそこを去っていった。》
【藤原秀郷】
藤原秀郷は、藤原氏北家房前の子左大臣の魚名の子孫と伝えられています。秀郷は、幼時京都の近郊田原の郷に住んでいたので、田原(俵)藤田秀郷ともいわれています。秀郷の在世当時(平安朝の中頃)は、都の朝廷では藤原氏が代々摂政や関白になって政治の実権を握っていましたが、一族の間で政権争いがくりかえされ、そのために都の政治が乱れてくると地方の政治もゆるみ土着の土豪などが欲しいままに勢力を広げていました。秀郷は、延長5年(927)に下野国(栃木県)の警察にあたる押領使という役に任ぜられ、父祖伝来のこの地に参られ唐沢山に城を築いて善政を施していました。将門が地方で乱暴を働くのをみかねた朝廷が、藤原忠文に征夷大将軍の職を与え将門征伐に出発させました。その軍が到着する前に、秀郷は平貞盛と力を合わせて、将門の軍を下総国幸島において攻め滅ぼしました。時に天慶3年2月14日。秀郷はこの功績により、押領使から下野守(栃木県の長官)になり、さらに武蔵守の役も兼任するようになり従四位下へと進み、その手柄に対し朝廷より土地一功田が与えられました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E9%83%B7
「唐沢山」
http://blog.so-net.ne.jp/chuo_hilltop/archive/200611
【三毳山】
将門軍の偵察で「高い山の頂」に登ってとあるのは、三毳山だといわれています。
http://www.park-tochigi.com/mikamo/
【川口村の戦い】千代田町水口
この戦いのあった川口村は、千代田町水口あたりだといわれています。
天慶三年、新皇将門は正月中旬、残党貞盛や為憲を探し出し討伐するために五千騎の兵を率いて常陸の国へ向かいました。二月に入れば旧暦の農繁期です。兵といえども、日ごろ農業に携わる兵農であり職人です。将門に従う兵も国許に戻さねばなりません。朝廷の組織する征東軍との決戦に備えて、千人の兵を残し大半の兵を國許に戻しました。この好機を伺っていたのが、貞盛や為憲です。逃走していた貞盛、四方八方駆けずり回り下野の豪族・押領使の藤原秀郷と手を組むことに成功しました。秀郷、太政官符により将門の首に懸賞が懸けられていることを知っています。征東軍が来れば懸賞は誰かに横取りされてしまいます。将門の成敗を急がねばなりませんでした。押領使藤原秀郷の助力を得て貞盛・為憲四千騎の大軍を組織し将門に戦いを挑みます。これを知った将門は二月一日下野に向かって兵を動かしました。将門は先陣に立ち下野へと急ぎます。ところが、後陣として後から先陣に合流するはずの将門軍副将軍・藤原玄茂が率いる後陣は、秀郷の作戦にまんまと掛かり敗退してしまいました。勝利した秀郷軍、勢いを得て将門の根拠地川口村(八千代町水口)を焼き払いました。将門は、敗退した後陣の立て直しと川口村にいる秀郷を向かい討つために川口村に戻りました。軍勢に劣る将門軍は、川口村の戦いで散々に打ち破られ退却を余儀なくされ、ひとまず猿島の広大な沼地に身を隠しました。秀郷・貞盛・為憲の軍勢のほうも、農繁期を間近に迎え将門を探し出す暇はありません。新皇の営所の周辺を焼いて回り、将門を誘き出す戦略に出ました。
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/dbf99866ee9788c9a7cc8335e47e0360 【北山の決戦―将門の最期】より
「北山の決戦―将門の最期・天慶三年(940)2月14日」
=貞盛・秀郷ら、兵を倍にして下総国境に進出。将門の館を焼く。将門、北山に陣して貞盛軍と交戦。激戦ののち、神鏑に射られて死ぬ。
●「北山の決戦―将門の最期」(『将門記』より)
《その後、貞盛・秀郷らが語らって言うには、「将門も千年の寿命をもっているわけではない。我々も奴もみな一生の身である。それなのに、将門ひとりが人の世にはびこって、おのずと物事の妨げとなっている。国外に出ては乱悪を朝夕に行ない、国内では利得を国や村から吸い上げている。坂東の宏蠹(巨大なキクイムシ)・外地の毒蟒(毒ウワバミ)であっても、これより害があるものはない。昔の話に、霊力の神蛇を斬って九野を鎮め、巨大な怪鯨を斬って四海を清めたという。まさに今、凶賊を殺害してその乱を鎮めなければ、私的なものから公的なものに及んで、(天皇の)大きな徳が損なわれてしまうだろう。『尚書』に、「天下が平穏であったとしても、戦いはしなければならない。甲兵がいくら強くても訓練しなければならない」とある。今回は勝利したといえども、今後の戦いを忘れてはならない。それだけではなく、武王に病があったときに周公がその命に代わろうと祈念したという。貞盛らは公から命を受けて、まさに例の敵を撃とうとしているのである」と。そこで群衆を集めて甘言をもって誘い、兵を整え、その数を倍増させて、同年2月13日、強賊の地である下総の国境に着いた。新皇は疲れた兵をおびき寄せようとして、兵を率いて幸嶋の広江に隠れた。このとき貞盛はさまざまなことを行ない、計略を東西にめぐらして、新皇の美しい館から味方のあたりの家までことごとく焼き払った。火の煙は昇って天に届くほど、人の家は尽きて地に住人はない。わずかに残った僧や俗人は家を棄てて山に逃げた。たまたま残っていた身分ある者たちは道に迷って途方に暮れた。人々は、常陸国が貞盛によって荒らされたことを怨むよりも、将門らのために世が治まらないことを嘆いた。そして貞盛は例の敵を追い求めた。その日は探索したが会えなかった。
その翌朝、将門は身に甲冑を着込んで瓢序のように身を隠す場所を考え、逆悪の心を抱いて衛方のように世を乱そうと考えた(白居易が言うには、瓢序は虚空にたとえたもの。衛方は荊州の人で、生まれつき邪悪なことを好んで、追捕されたときには天に上がり地に隠れた者である)。しかし、いつもの兵士8000余人がまだ集まってきていなかったので、率いていたのはわずか400人余りであった。とりあえず幸嶋郡の北山を背にして、陣を張って待ちかまえた。貞盛・秀郷らは、子反のような鋭い陣構えを造り、梨老の剣の軍功を上げる策を練った(白居易が言うには、子反・養由の両人は、漢の時代の人。子反は40歳で鉾を投げると15里に及び、養由は70歳で剣を三千里に奪ったという)。
14日未申(午後3時)に、両軍は戦端を開いた。このとき、新皇は順風を得て、貞盛・秀郷らは不幸にして風下にあっていた。その日、暴風が枝をならし、地のうなりは土塊を運んでいた。新皇の南軍の楯はおのずと前方へ吹き倒され、貞盛の北軍の楯は顔に吹き当てられた。そのため、両軍とも楯を捨てて合戦したが、貞盛の中の陣が討ちかかってきたので、新皇の兵は馬を駆って討った。その場で討ち取った兵は80余人、みな撃退した。ここに新皇の陣が敗走する敵軍を追撃した時、貞盛・秀郷・為憲らの従者2900人がみな逃げ去っていった。残ったのは精兵300人だけである。これらの者が途方に暮れて逡巡しているうちに、風向きが変わって順風を得た。ときに新皇は本陣に帰る間に風下になった。貞盛・秀郷らは身命を捨てて力の限り合戦する。ここに新皇は甲冑を着て、駿馬を疾駆させて自ら戦った。このとき歴然と天罰があって、馬は風のように飛ぶ歩みを忘れ、人は梨老のような戦いの術を失った。新皇は目に見えない神鏑に当たり、託鹿の野で戦った蚩尤のように地に滅んだ。》
【北山の決戦】
翌朝甲冑に身を固めた将門は、僅か四百の兵を従えて猿島郡の北山に陣を張り、秀郷・貞盛の軍を待ち受けました。すでに将門には兵を集める力量はありません。北山の合戦が最後となります。2月14日午後三時ごろ、北山を背に将門の反撃が始まりました。この日は南風の強風にあおられ、風は枝を鳴らし砂塵を吹き飛ばしていました。新皇軍は風上に立ち順風を得、貞盛・秀郷不幸にも風下に立ちます。風で加速する弓矢が放たれましが、楯は風に倒され役に立ちません。このため新皇軍は、貞盛・秀郷軍の中陣目掛けて馬に跨り合戦に入りました。新皇軍、瞬く間に80人の兵を打ち倒しました。秀郷軍、恐れ戦き二千九百余人の兵は逃げにかかりました。新皇軍、馬に跨り逃走する兵をさらに追い散らしました。追いに追って再び合戦の場に戻った時、風向きは変わっていました。貞盛・秀郷軍の兵は三百になっていましたが、貞盛・秀郷は力の限り戦いました。相対する新皇、鎧兜を身にまとい駿馬に跨り奮戦していましたが、急に馬が立ち止まり棒立ちになりました。この一瞬、矢が放たれ新皇の眉間を打ち抜き倒されました。新皇相馬の小次郎将門の最期です。この最後は天罰が下ったものであろうか、それとも将門の怨霊は天下の悪と戦い死ぬことはなく何時までも生き延びるのであろうか。
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/47754f59dd3dd734578158c82f453620 【残党の掃討】
より
「残党の掃討・天慶三年(940)2月」
=詔使の御符が発せられる。将門の大兄・将頼や玄茂ら、相模国で殺害される。興世王、上総国で誅せられる。坂上遂高・藤原玄明らは常陸国で斬られる。
●「残党の掃討」(『将門記』より)
《このとき、賊の首領・将門の兄弟や伴類を追捕すべきであるという官符が、去る正月11日に東海道・東山道の諸国に下された。その官符には「もし魁帥(賊の首領)を殺した者には朱・紫の服を着る五位以上に任官し、また副将を斬った者はその勲功にしたがって官職を賜る」とあった。こうして、詔使・左大将軍・参議兼修理大夫・右衛門督・藤原朝臣忠文、副将軍・刑部大輔・藤原朝臣忠舒らを八州に派遣する間に、賊の首領将門の長兄・将頼と玄茂らは、相模国に至って殺害された。次に興世王は、上総国に至って誅戮された。坂上遂高・藤原玄明らは常陸国で斬られた。これに続いて、東海道方面追討軍の将軍兼刑部大輔藤原忠舒は、下総権少掾・平公連を押領使として、4月8日に入国、ただちに謀反人の一味を探して討った。そのうち、賊の首領将門の弟七、八人が、髪を剃って深山に入ったり、妻子を置き去りにして山野に逃げまどった。さらに残った者たちは恐れを成して去っていった。正月11日の官符は四方に広く伝えられた。2月16日の詔使の恩符によって出頭する者もいた。》
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/b1a7555b2636d4f2cd2004f0c5d8e1f4 【「乱後の評価」】より
●「乱後の評価」(『将門記』より)
《今、思案してみると、昔は六王の謀叛により七国の災難があった(呉楚七国の乱)が、今、一人の謀叛で八国の騒動を起こした。この分相応な野望のはかりごとを実行したのは、古今にもまれなことである。ましてや本朝では神代以来このようなことはなかった。このため、将門の妻子は路頭に迷い、臍を噛むような恥を受け、兄弟は行き場を失って身を隠すところもなくなった。雲のように集まっていた従兵は霞のように散ってしまい、影のように付き従っていた者たちはむなしく途中で滅んでしまった。生き別れとなった親子を捜して山・川に向かう者あり、別れを惜しみながら夫婦がばらばらに逃げのびていく者もあった。鳥でもないのに「四鳥の別れ」をし、木でもないのに「三荊の悲しみ」を抱かせられたのだ。犯した罪科のある者もない者も、同じ道ばたによい香り・悪いにおいの草々が混じって生えるように入り乱れ、濁りのある者もない者も、濁った水と清らかな渭水の二つの川が合流するように入り混じって辛酸をなめた。雷電の音は百里内外に響きわたるが、将門の悪はすでに千里を超えて知られるようになった。将門は常に夏王朝の大康のような放逸な悪行を好み、周の宣王のような正しい道を踏み外した。こうして不善を一心になし、天位を九重の宮廷と争った。過分の罪によって生前の名声を失い、放逸の報いとして死後に恥を残すこととなったのである。》
○「将門の評価」
わが国の歴史の上で正当な評価を得なかったのは、将門と足利尊氏だといいます。戦前の日本の歴史では、反朝廷側の人物は「朝敵」として罵倒され筆誅をうけて葬りさられていました。ですが、戦後の日本の歴史を見直すという反省が行われ、将門については「天慶の乱は平安朝時代の関東地方における大規模な叛乱で、それも皇族の曽孫を主将とする、一般人民の地方政治に対する反抗の蜂起であり、また同時に武士階級始動の烽火であった」(『将門塚の記』)と評価されるようになりました。ここでいう「一般人民の地方政治に対する反抗」というのは、「憐憫」(れんぴん)の支配者をもとめることではなかったでしょうか。それなら、将門がぴったりと当てはまったに違い有りません。将門はすでに農民のことを考えていました。しかも、将門の反逆は計画的なものではなく、追い込まれてそうしなければならない境遇にあったからだと思えます。貴族体制に対する批判もなく、もし一族との抗争がなかったならば、一豪族として穏やかな一生を過ごしたことでしょう。しかし、結果から見ると、偏向する政権に投石したことになり、のちの農民指導者の心に勇気を与えることにいたったのです。過去において、将門の行為を最も排斥したのは明治政府でした。一君万民の思想をかざす明治政府にとっては、それがどのような人々にとって勇気を与えることでも、その思想の前には排斥しなければなりませんでした。それに反抗したのが、民間の学者であり研究者たちでした。
○「明治官僚・織田完之」
将門に対する明治政府の反逆者としての扱いに疑問を持ち、雪辱の運動を展開していったのが織田完之です。幕末の三河国に生まれた織田は、やがて尊王攘夷運動に身を投じ、江戸で高杉晋作らと交流したといいます。後に、長州で幕府のスパイとして投獄されてしまい、その間に王政復古、新政府の成立を迎えます。釈放されると大蔵省の官僚となり、続いて内務省に努めています。退官後、明治20年代から将門に対する研究を行っています。明治36年、織田は時の大蔵大臣・阪谷芳郎にすすめて、省内の将門塚に古蹟保存碑を設立。元老・松方正義の書による石碑は、織田の運動が政府を動かした証となりました。翌年には、将門関連の伝説や史跡の調査を集大成した『平将門故蹟考』を刊行。これら一連の出来事によって、将門は反逆者でなく、さまざまな側面から研究される人物となりました。織田の努力は、客観的な視点で将門など歴史上の人物をとらえる史学の先鞭をつけることになったのです。
http://diary.jp.aol.com/umeexm7gem/801.html
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/8674/odakansi_siryousitu.html
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/0808c3c3ca7911304865451d34e633a0 【「将門の評価」】より
「将門の評価・天慶三年(940)2-4月」
=常陸介・維幾朝臣ならびに交替使ら、国館に戻る。将門の首、下野国の解文を添えて京に送られる。
●「将門の評価」(『将門記』より)
《天下にいまだ、将軍が自ら戦って自ら討ち死にしたような例はない。誰が予測し得たであろうか、小さなあやまちをたださなかったため、大きな害に及ぶとは。また、私的に勢力を拡大して、このように公の徳を奪うことになろうとは。このため朱雲のような人に託して長鯢の首をはねるようなことになったのだ(『漢書』にいう。朱雲は悪人である。昔、朱雲は尚方の剣をもらって人の首を斬った)。こうして下野国から解文をそえて、同年4月25日にその首を献上した。一方、常陸介・維幾朝臣ならびに交替使は、幸いに理にかなった運のめぐみを受けて、(2月?)15日をもって任国の館に帰った。それをたとえるなら、鷹の前におびえていた雉が野原に放たれ、俎の上の魚が海に戻されるようなものである。昨日は不運な老人のような恨みを抱き、今は次将(掾の貞盛)の恩を受けていた。そもそも新皇が名声を失い、身を滅ぼしたのは、まさに武蔵権守・興世王、常陸介・藤原玄茂らのはかりごとによるものである。何と悲しいことか。新皇の背徳の悲しみ、身を滅ぼした嘆き。たとえるなら、花開こうとした穀物がその前にしぼみ、光り輝こうとした月が雲に隠れるようなものである。『左伝』にいう。「徳を貪って公に背くのは、威力をたのんで鉾を踏み越えてくる虎のようなものである」と。そのため、ある書に「小人物は才能があっても使いこなせない。悪人は徳を貪っても維持できない」という。いわゆる「遠慮深謀がなければ、身近なところに問題が起こる」というのはこのことか。さて、将門は官都に功績を積み重ねてきて、その忠誠を後々まで伝えている。それなのに生涯になしたことは猛乱が中心であり、毎年、毎月、合戦に明け暮れていた。このため、学業を修める者たちは相手にしなかった。ただ武芸のたぐいを行なっていた。このために楯に向かっては親族を相手とすることとなり、悪を好んで罪を得ることになった。この間、邪悪が積もって一身に及ぶようになり、不善のそしりが八州に広まって、ついに阪泉の地に滅んだ炎帝のようになり、永く謀反人の名を残すことになったのである。》
○「将門の首の伝説」
大手町にある「将門の首塚」には様々ないわくがありますが、将門の乱後から彼の首に関して様々な伝説があります。『平治物語』には、将門の首が獄門にかけられていたのを、藤六という歌読みがこれを見て
「将門は米かみよりぞきられける 俵藤太がはかりごとにて」
と読んだところ、二月に跳ねられた首がこの五月に「しぃ」と笑ったという記述があります。これが『太平記』になると、将門の首は跳ねられて三ヶ月も目をつぶらず、色も変わらず、牙を噛んで「我が五体よどこにいる。ここに来い。我が首を繋いでもう一戦しよう」と怒号をあげていたのが、藤六の歌によって鎮まったといいます。なぜこの歌で将門が鎮まったのかは諸説ありますが、前述した通り「米」「俵」「はかり」が掛詞になっている洒落のユーモアだというのが、一般論のようです。一説には「俵藤太がはかりごと」に重要な意味があるといいます。つまり、将門は正々堂々とした戦いではなく、秀郷の謀で敗れたという事を知ってもらっていたことが嬉しかったというのです。さらに時代が降るにつれて、様々な伝説が付加されておどろおどろしくなっていきますが、寛永期(1624~)に書かれた『本朝神社考』には、「東国から都へ向かって」飛んでいく将門の首が描かれています。実際に今でも京都の一部では、将門が朝廷を怨み、関東ではねられた首が京都まで飛んで来たと伝わっています。天和期(1681~)に書かれたとされる『前太平記』には、例の歌で目を閉じた首は東国が懐かしくなり武蔵国まで飛んだ。落ちた所でその首は毎夜光を放ち見る人は祟りを恐れた。首が飛ぶ方向が「都から東国へ」と、逆になっています。そのほか各地に、将門の首に関する伝承も多く残っていますが、将門の首が秀郷へ向かって飛び立ったという話もいくつかあります。
一方、身体の方ですが、中世までの将門伝説をまとめた『将門純友東西軍記』では、自分の首をもとめ彷徨い歩き武州豊島郡にて力尽きています。この身体が力尽きた所が、元の神田明神だったといいます。「神田」は元々「カラダ」だったものが訛ったという説話です。首無し武者の伝説は、関東各地に多くみられます。夜更けに入り口の戸を叩くものがあり、外に出てみると首無し武者が「我が首いずれにあらん、教えたまえ」と語るといったもので、このことを追っ手に告げると祟りがあるというものもあります。ある農家が追っ手にこのことを話してしまい、それ以来この一族は体の一部が腐り落ちるライ病の血統になってしまったと伝えられています。首伝説も首無し武者の伝説も江戸時代に入って、将門好きの江戸っ子が多い江戸を中心に様々な物語に発達発展していったようです。
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/e2a9f9947f3b1568d0694f8b3b8c7875 【「論功行賞」】より
「論功行賞・天慶三年(940)3月」
=将門追討の功により、武蔵介・源経基を従五位下、常陸大掾・平貞盛を正五位上、下野押領使・藤原秀郷を従四位下に叙す。
●「論功行賞」(『将門記』より)
《その間、武蔵介・源経基、常陸大掾・平貞盛、下野押領使・藤原秀郷らは、勲功があったとして褒賞を受けた。そこで、去る3月9日、中務省に奏上して、軍のはかりごとがよく忠節を尽くした旨を述べ、その結果、賊の首を戦陣にあげ、武功を朝廷にもたらした、と言った。今、介・経基については、始めは虚言を奏上したとはいえ、それがついに事実になったことにより、従五位下に叙した。掾の貞盛は長年合戦を経てきたにもかかわらず、なかなか勝敗が定まらなかった。ところが秀郷が協力して謀反人の首を斬り、討ったのである。これは、秀郷の老練な計略に力があったからである、として従四位に叙した。また、貞盛も多年の艱難を経て、今、凶悪な一味を誅殺することができた。これはまさに貞盛が励んだ結果である。それゆえに正五位上に叙することになった。こうした結果からいえば、将門はあやまって過分の望みを抱いて、水の流れのように死んでこの世を去っていったが、他人に官位を与えることになったわけである。その心には怨みはないだろう。なぜならば、「虎は死して皮を遺し、人は死して名を遺す」というからである。哀れむべきは、我が身を滅ぼしてその後に他人の名を揚げたことだ。》
【その後】
朝廷は将門を討ち取った秀郷に従四位下に叙し、貞盛には従五位上に叙し右馬助に任じた。征東副将軍藤原経基には従五位下に叙し太宰少弐に任じた。功労に対する叙勲です。若くして志半ばで殺された新皇に同情する庶民から色々な伝説が生まれた。怨霊はまだ生きていると噂された。京で晒し首にされた将門の首が空を飛んで舞い戻り、高笑いしていたので首塚をこしらえ怨霊を葬ったとも。殺されたのは将門ではなく身代わりの者で、秀郷を捕らえようと今も追い回している、など。噂は尽きなかったといいます。
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/b22301ca8e9af44dacc6026930649cbf 【「冥界消息」将門記最終】より
「冥界消息・天慶三年(940)6月」
=将門、中有の使いにより、冥界の消息を伝える。
●「冥界消息」(『将門記』より)
《巷説に「将門は昔からの宿縁によって、東海道下総国豊田郡に住んでいた。しかし、殺生の悪事に忙殺されて、善をなす心がなかった。そのため、寿命に限りがあってついに滅んで没してしまった。どこに逝き、どこに生まれ変わり、だれの家に生まれているのか」といわれている。これに答えて、田舎のある人がこう伝えている。
「今、三界の国、六道の郡、五趣の郷、八難の村に住んでいる。ただし、中有の使者にことづけてこういう消息を伝えてきた。『自分は生きていた時に一つの善もなさなかった。この業の報いによって悪趣を廻っている。自分を訴える者は今一万五千人。痛ましいことだ、将門が悪をなしたときには多くの従者を駆りたてて犯したのに、報いを受ける日にはもろもろの罪を被って一人苦しんでいる。身は剣の林の苦しみを受け、肝は鉄囲いの猛火に焼かれる。苦痛があまりにも激しいのは言いようもないほどだ。ただし、一月のうちに一時だけの休みがある。その理由は何かといえば、獄吏が言うには「汝が生きていた時に誓願した金光明経一巻の助けである」という。冥官の暦には、この世の十二年を一年とし、この世の十二月を一月とし、三十日を一日とする、とある。これにあてはめれば、わが日本国の暦では92年にあたり、(金光明経の)本願によってその苦を逃れることができる、という。閻浮提(人間世界)の兄弟、娑婆(苦しみの世界)の妻子たちよ、他に慈しみを施し、悪業を消すために善をなせ。口に甘くとも、生類を殺して食べてはならない。心に惜しいと思ったとしても、進んで仏僧に施して供えなければならない』と。亡魂の便りは以上のとおりであった」
天慶三年六月中にこの文を記す。
ある本にいう。「わが日本国の暦では、93年のうちに一時の休みがあるだろう。我が兄弟らよ、この本願を遂げてこの苦を脱させてほしい」と。こういうことであれば、聞いているところによれば生前の勇猛さは死後の面目とはなっていない。おごり高ぶった報いに、憂いの苦しみを味わうことになる。一代の仇敵がいて、この敵と角や牙をつきあわせるように戦った。しかし、強い者が勝ち、弱い者が負けた。天下に謀叛があって、日と月のように競い合った。しかし、公がまさり、私は滅した。およそ世間の理として、苦しんで死ぬとしても戦ってはならない。現世に生きて恥があれば、死後にも名誉はない。とはいえ、この世は「闘諍堅固」といわれる末法の末にあたり、乱悪が盛んである。人々は心に戦いを抱いているが、戦っていないだけだ。もし思わぬ誤りがあったなら、後世の達識者が書き足してほしい。ここに里の無名の者が謹んで申し上げる。》
『将門記』は、ここまでで最終になっています。
【冥界伝説】
実は将門が地獄へ落ちた後の物語が『将門記』に記載されている。当時噂されていた話を記録したようです。将門の死後、田舎の人に冥界から将門の使いが来て消息を伝えたという。将門は地獄で耐え難い責め苦を伝えていた。しかし、将門は生前、請願をこめて写経した金光明教の功徳により九十二年でこの苦しみから救われるというものだった。遺族に供仏施僧を勧め、この消息は終わっています。神仏の加護についても書かれていた『将門記』ですが、随所に「仏教説話」的な要素が多く見られます。この「冥界消息」にも、この要素は強いように思われます。
出羽に天慶年間、妙達という僧がいましが、にわかに入寂し閻王の宮に赴き七日で蘇生したという記録が残っています。『僧妙達蘇生注記』には、その冥界の様子が記されています。将門は日本の悪王たちを召し遣うために生まれ、前世は天王であったが、天台座主尊意は悪しき修法にて将門を滅ぼした。ゆえに尊意は若くして死んだが、この罪として長い間人になれず、将門と一日に十度戦わねばならず、安らぎを与えられぬ身となってしまった。また、都の代表である太政大臣藤原忠平も九つの頭を持つ竜に成り下がっていたといいます。『華頂要略』には、将門は四天王寺の北方天(多聞天)で、謀反発逆の輩を降伏させるために仮に現れた者として書かれています。生前「大悪人」として見られていた将門が、死後「天王」にまでなっているのに対し、将門調伏に成功し名声を博した尊意が、冥界においては立場が逆転しているのは面白いです。将門について、朝廷は具体的に位を与える事はありませんでしたが、このように東国の人々が高い位を与えていました。これは、将門の拠点であった東国のひいきでしょう。また一方で、仏教説話的要素が絡んでいることから想像すると、将門人気を利用して東国では布教活動が行われていたのではないでしょうか。「成田山」同様、「天台宗」に対抗する広告塔として将門が使われていると思われます。
『将門記』は最終になりましたので、引用は今回までで、次回からは「将門に関する伝承」などを取り上げていきます。
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/60c6dfd6f4c196b373a0d9ce3b198c17 【「何故、将門の【乱】か?」】 より
今回は、「日本歴史上の戦いの区分」について調べてみました。
歴史の教科書に載っているとおり、昔から日本ではさまざまな戦いがありました。でも、同じ戦いでも最後につく語が違います。「○○の乱」「○○の変」「○○の戦い」「○○合戦」など、これらの使い分けはどのように決められているのでしょうか?
根本的に現在における歴史上の戦に対し名称を決めたのは、教科書出版社であり、それを容認したのが文科省です。それは過去の慣習的な呼び方を元に、一部を現代風にアレンジしたり対外的に配慮して変更した名称が用いられています。
○江戸時代の書物に書かれた名称は、江戸時代当時の慣習によったもの。
○明治大正の書物に書かれた名称は、明治大正当時の政府や軍部によって定められたもの。
○戦後昭和・平成は上記の如くで、特に明確な取り決めがあって名付けられたものではないかと思われます。それ故、教科書によって一部の名称が異なります。
1・「変」=変、乱は政治的目的を伴った反乱(内紛・クーデター)を指します。政治的な陰謀・政変や政権担当者側が不意に襲われた場合に使われます。後者では武力が用いられることもありますが,本能寺の変や桜田門外の変・坂下門外の変・紀尾井坂の変などがそれにあたります。ただし,両者に該当せず,戦闘行為が伴っていたとしても「○○の変」と表記されるものもあります。薬子の変と元弘の変がその代表です。天皇・上皇が乱=反乱を起こす道理がないという立場(必ずしもそんなことはないです)から「○○の変」(つまり単なる政治的な陰謀・政変)と表記されるわけですが,薬子の変は平城上皇による嵯峨天皇に対する反乱なので「平城上皇の乱」,元弘の変は後醍醐天皇による鎌倉幕府に対する「謀叛」(当時の史料にはこのように表記されています)=反乱なので「元弘の乱」と表記することもあります。ちなみに,承久の乱は大正期ころからは「承久の変」と表記されることが多くなっていました。
現政権側が鎮圧した場合には乱(不正行為とみなされる反乱)で、政権が転覆した場合には変(反乱軍が勝って、自らの反乱を正当化したもの)で区別されているかも知れません(この区別は特定できませんでした)。事件の突発性に着目した概念だと思われます。いまなら「○○事件」と名前がついたようなもの(応天門の変、安和の変、正中の変、坂下門外・桜田門外の変、慶安の変など)。大きな戦乱が起きていない事件が多いようです。戦乱が起きている事件は「○○の乱」と呼ばれることもあります。「乙巳(いっし)の変」は、皇太子でない皇子(中大兄皇子)が時の最高権力者(蘇我入鹿)を暗殺した事件です。別名「乙巳(きのとみ)のクーデター」ともいわれています。
では、近代で変がないのは何故でしょうか。「二・二六事件」は青年将校の起こしたクーデター(未遂)も変ともいえると思います。ですが、未遂だから変まで行かなかったと言われればそれまでですが・・。元々、明確な取り決めがあって戦いや変があったわけではないでしょうから、大正・昭和の時代には既に過去の言葉となってしまったと思われます。日清・日露戦争も当時及び戦後しばらくは「明治十七八年役・明治二十七八年役」と呼ばれていましたが、昭和初期の書物を見ると「日清戦争・日露戦争」という表現の方が多く見られます。この様に表現の違いで用いなくなっただけかとも思われます。また、公式の開戦手続きがない場合を変、朝廷の命令に因る開戦手続きがある場合を役とも区分できます。
2・「事変」「事件」=乱や変の近代的表現で、戦闘行為を伴わない出来事の呼称としても用いられますが,戦闘行為を伴ったり武力が使用された出来事をさす場合に使われることもあります(特に江戸幕末期以降に多い)。単発的な出来事に対して用いられることが多いのですが(四国艦隊下関砲撃事件や満州某重大事件・ノモンハン事件など),長期にわたる戦闘行為(戦争)のなかの局地的な出来事であっても謀略的あるいは偶発的であれば事件という呼称が用いられます(柳条湖事件や盧溝橋事件など)。
3・「乱」=特に天皇家、朝廷に対する反乱です。秩序に対する反逆という点に重点をおいた概念だと思います(磐井の乱、永享の乱、応永の乱、島原の乱、秋月の乱、中先代の乱、承平天慶の乱、神風連の乱、嘉吉の乱など)。反逆でなく、秩序が一般的に崩壊する点に使われることもあります(応仁の乱、保元・平治の乱など)。ただし、後鳥羽上皇が鎌倉政権に対して反乱を起こした承久の乱は、例外です。昔は、乱ではなく、変といっていました。
4・「役」=対外的な戦争。源氏と蝦夷との前九年、後三年の役など(蝦夷は当時外国とみなされていました)。単に戦争・戦役の総称として用いられている様です。特に対外国・辺境という意味合いがないと思われます。
単純に明治大正の頃まで「大坂の役」「関ヶ原の役」「小田原の役」と表現されていたものの多くが昭和に入って「陣」や「戦い」に置き換えられていったのに対し「元寇」や「前九年」等の一部の用語がそのまま持ちられ定着し、それがたまたま対外国や辺境だったというだけだと思われます。当時最大の繁栄を誇った大坂まで辺境・夷狄の地としてしまうと、それこそ御所周辺以外の地は全て夷狄扱いとなり、「御所以外の地で起きた戦い=役」ということになってしまいます。御所に対しては、乱・変はあっても戦いは起きないとの概念があるようです。もし戦いとなれば、即ち「全ての戦い=役」ということにもなってしまいます。
大阪の役についてですが、大阪方は外夷ではありませんが幕府という政府の外(豊臣家は徳川家の家臣ではない)の敵と戦ったと解釈できます。自分たち(幕府側)からみれば征夷である、との見解のようです。また、元寇や刀伊の入寇などの寇も、外国との戦いですが攻められたときに使うようです。
5・「陣」=滞在する陣を持つ戦争。軍学的表現あるいは講釈ともいえます。陣については軍勢を配置することなので、日本中の大名を集めて陣だてをしたということ。関ヶ原は1日で終了したので「関が原の陣」ではなく、「関が原の戦い」となっています。
6・「合戦」「戦い」=変、乱、役の三つは、戦争全体をさすのに対し、こちらは、主に局地的な戦闘を指すようです。壇ノ浦の合戦、鳥羽伏見の戦いなど。いわゆる戦争のことで、敵味方に分かれて戦うことです。ただし、反乱者や民衆蜂起を相手にはあまり使わず、対等な権力者間の武力闘争に使われていることが多いと思われます。合戦、戦いはどちらも戦闘行為を指し、合戦はそのうちでも双方陣営を集めての大規模なものを指します。
7・「戦争」=宣戦布告など国際法上の開戦手続がある場合を戦争といいます。国家または交戦団体が兵器を使用しておこなう戦闘行為のことです。明治後期以降においては国際法で決められたルールにのっとった戦闘行為(宣戦布告をおこなう)が戦争と呼ばれ(日清戦争や日露戦争など),宣戦布告なしにおこなわれた場合は,戦争に準ずるものとして「事変」と称されます(満州事変や支那事変など)。ただし,宣戦布告がなくとも実質的には戦争と同じだとの判断から戦争との呼称が用いられる場合もあります(支那事変を日中戦争と表記)。また,明治前期以前においては対外的な戦闘行為・武力行使や国内での内乱(いくつかの戦闘行為が連続しているもの)を指して戦争と呼びます(薩英戦争,石山戦争,戊辰戦争,西南戦争など)。ただし,「征伐(征討)」「役」「出兵」「合戦」「戦(戦い)」「乱」「事件」などの呼称も戦闘行為をあらわす表記として使われます。「征伐(征討)」は、政府に背いたものを懲らしめる、という意味をこめた表記ですが(長州征伐など),征伐(征討)の対象は悪者との価値判断が含まれます。そこで,たとえば長州征伐は,そうした価値判断を排除したうえで,幕府と長州藩のあいだでの戦闘行為である点を明確化するために「幕長戦争」と表記されることがあります。
日清戦争・日露戦争と教科書で習ってきたので、○○の役と言い換えられたら確かに違和感がありますが、当時はそう呼んでいました。明治大正の書物に書かれた名称は、明治大正当時の政府や軍部によって定められたもので、戦後の昭和・平成は上記の如くで、特に明確な取り決めがあって名付けられたものではないと思われます。一部今日でもあります教科書への表記問題になりそうです。どれが正しいかは、時代とともに変化するものであるということはできます。それに比べて、今は戦争(騒乱)に関しては表現が少なくなっています。特に「役」「変」「乱」「陣」「合戦」は使われなくなっています。
8.「出兵」=文字どおり他国へ兵を出すことで,朝鮮出兵,台湾出兵,シベリア出兵,山東出兵で用いられています。
http://homepage2.nifty.com/osiete/seito33.htm
「合戦一覧」
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/Green.html
http://hagakurecafe.gozaru.jp/katusen.html
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/c777599679e1b245256d92729cd6c312 【「将門の首塚」】より
「将門の首塚」千代田区大手町
○首塚の歴史
将門伝説といえば、一番有名なのが「首塚の祟り」の話でしょう。皇居(旧江戸城)が間近・大手町にあり、この塚の一角のみが避けられるかのように大手企業のオフィス高層ビルが取り囲んでいます。江戸時代を通じ、「将門塚」あるいは「将門の首塚」と呼ばれる塚は、かつては芝崎村と呼ばれていた場所にあり、江戸時代は酒井雅楽頭の屋敷の中にありましたが、明治四年(1871)この屋敷跡に大蔵省を設置しました。将門の首塚はそのまま構内に残ることとなりました。この当時の首塚は、織田完之著『平将門古蹟考』に次のようにあります。
《大蔵省玄関の前に古蓮池あり。由来これを神田明神の御手洗池なりという。池の南少し西に当りて将門の古冢あり。高およそ二十尺、週廻り十五間ばかり。その冢の傍らに古蓮池に沿いて樅樹(もみのき)の枯れ幹あり。古の神木なりと伝う。(中略)森々鬱々として日光を遮り、白昼も尚くらく陰凄として鬼気人に迫るを覚ゆ。短離を隔て南は内務省なり。冢前の東二間許に礎石あり。幅七尺、長九尺許、中心に今は古石燈篭を置く。この物は昔し冢前の常夜燈にてありしならん。この礎石は真経上人の蓮阿弥陀仏の諡号を刻せし版碑をこの上に立てたりし事は疑うべくもあらず。(中略)古蓮池は面積凡そ三百坪許にして、その池中の南に寄りたる処に千鳥の形状に似たる石あり。千鳥岩と称す。その傍らに古井あり。池水減ずるときは見る。これを将門の首を洗いたる井戸と称す。けだし天慶三年の六月相馬の族党京都において将門の首を願い下げて持ち帰り、江戸上平川村の観音堂に供養をなし、この井戸の水にて洗い、屍体を埋めたるこの冢中に葬りたるものなりと云う。》
ここに、将門の首は相馬の族党が持ち帰って来たとありますが、伝説では《都で獄門となった首が再び戦うことを誓い、体を求め白光を放ち東国へ飛び立っています。しかし首は力尽き芝崎村に落下し、大地は鳴動し太陽も光を失い暗夜のようになったといいます。村人はこれを恐れ、塚を築き埋葬しました。しかし、真経上人が訪れるまで度々祟りをなしていた》と伝えられています。
この『平将門古蹟考』に登場する「真経上人」とは、時宗の二祖にあたる人物で、芝崎村に訪れた時、天災地変により将門塚は荒れ果て、疫病が万延していた。これを将門の祟りとし、徳治二年(1307)将門に「蓮阿弥陀仏」の法号を贈り、塚を修復し供養したところ疫病による被害はおさまったという。さらに延慶二年(1309)に塚の傍らにあった荒れた社を修復し「神田明神」に改称し、村の鎮守としたといいます。徳川家康が江戸入りした際、この神田明神は現在の千代田区神田へ移転しますが、将門塚は古墳であるためそのままこの地に残ったと伝えられています。
○「将門の祟り」
大正十二年(1923)九月一日、関東大震災。この時、大蔵省庁舎は全焼しました。将門塚も崩れ、この機会に塚の調査を行うこととなり、その年の十一月に、工学博士大熊喜邦らに塚の発掘を依頼した。塚の中からは石室が掘り出されましたが、すでに盗掘されており見るべきものが無かったため、塚は取り崩され池を埋め立て平地とし、その上に仮の庁舎が建てられました。ところがその後、大蔵大臣早速整爾が病にかかり大正十五年(1926)九月に死亡します。その後、現職の矢橋管財局課長他その他十数人が死亡しました。また武内作平政務次官他、多くの人が仮庁舎で転倒し怪我をする事故が続出し、これは将門塚を破壊した祟りであるとの噂が広がるに至り、昭和三年(1928)塚域の仮庁舎を撤去し塚跡に礎石を復元し、神田神社社司平田盛胤が祭主となり盛大な慰霊祭を行いました。
第二次世界大戦の重大な局面を向かえていた昭和十五年(1940)。皇紀二千六百年にあたるこの年、将門塚では盛大な奉祝祭が行われました。ところがこの年六月二十日、突然暴風雨がおき、大手町逓信省航空局に落雷、火はたちまち広がり大蔵省をはじめ九官庁が全焼してしまいます。時あたかも将門没後千年にあたり、またも将門の祟りの噂が広がり、これに驚いた大蔵省大臣河田烈は神田神社の社司平田盛胤を招き慰霊祭を執行し、関東大震災で損傷していた故蹟保存碑を新調しました。その後、大蔵省本庁舎は霞ヶ関に移転。その跡地は東京都の本庁舎建設用地として移譲されました。
昭和二十年(1945)第二次世界大戦終了。大手町は東京大空襲により焼土と化していましたが、将門塚は焼け跡の中に取り残されていました。進駐米軍はここに広大なモータープールを造ることを決定し、早速工事に着手しますが、墓のようなものの前突然ブルドーザーが横転し、運転していた日本人が死亡するという事故が起きます。確認した所、この墓のようなものこそが将門の首塚でした。大手町々会長遠藤政蔵氏は住民とともにGHQに出頭し、「ここは古代の大酋長の墓である」と説明し、米軍は了解をし、将門塚は保存されることとなりました。
その後、昭和四十五年(1970)に何者かによって将門塚の板石塔婆が盗まれ、三つに折られ戻ってくるという怪事件が起きます。将門の祟りを引き起すために何者かが犯した犯行なのだろうか?祟りを恐れ、すぐさま新しい板石塔婆を真教上人が将門を供養した徳治二年の旧状を模し再建しました。翌年、将門塚は東京都の文化財として保護されることとなりました。近代に至るも将門の祟りは続いていると、信じられています。
http://hp.vector.co.jp/authors/VA011532/Masakado.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E9%96%80%E3%81%AE%E9%A6%96%E5%A1%9A
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/1c5c813bfbd496ff234bd68e73a19719 【将門の娘たち】より
○「如蔵尼・滝夜叉姫の伝説」
将門一族にも種々の伝説が残っています。ここでは将門の死後、興味深い伝説を残している将門の娘について見ていきます。『今昔物語』には、「如蔵尼」に関連する伝承が見えます。陸奥の国に徳一という高僧が創建した恵日寺という寺があり、その傍らに庵を結び平将行の第三女であるというひとりの尼が信仰の日々を送っていたといいます。この将行というのが誰なのか判りませんが、『元亨釈書』に同様の記述があり、こちらでは将門の三女となっています。この娘も冥途の閻魔庁に行きます。そこで彼女は錫杖を携えた小さな僧と出会いますが、その僧は実は地蔵菩薩で、彼女の生前に罪のないことを知っており、閻魔王に彼女を現世に戻すよう命じ、彼女は蘇生しました。その後、彼女は出家して如蔵尼と名乗り、ただひたすらに地蔵菩薩を信仰したといいます。その一方、如蔵尼と同一人物とも伝わる「滝夜叉姫」の物語は江戸時代に入って芝居などで多く描かれていますが、話の内容が異なっています。
追討使秀郷・貞盛に敗れた将門の娘「五月姫」は、父の無念を晴らすため貴船の社で祈願をかけ、貴船の神の荒魂により妖術を授かります。五月姫は「滝夜叉姫」と名を変え、下総国の猿島に城を構え、手下を従え朝廷に背き悪事を働いていました。朝廷から勅命を受けた陰陽博士大宅中将光圀が下総の国に向かい、陰陽の秘術を以って滝夜叉姫を成敗するというものです。全く話の内容が異なりますが、ラストで如蔵尼と帳尻をあわせるため、陰陽の術でその邪心を祓い清められ、仏道に入って父将門の菩提を弔って余生を過ごした、というのです。如蔵尼も滝夜叉姫も、関東から東北にかけて各地に伝説を残していますが、伝説の伝播時期は異なっています。滝夜叉姫は明らかに江戸時代以降です。仏教説話色を強く残す如蔵尼と、それに相反する妖術使い滝夜叉姫。この二つの物語のヒロインが同一人物というのも皮肉なものです。
「如蔵尼」
http://www.xiangs.com/Masakado/legend/index3.shtml
http://www.bakebake.com/kaido/fukusima/k-aizu/ak04nyoz.htm
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/sub4nyozouni.htm
「滝夜叉姫」
http://uenuda.bgrp.jp/enmoku-takiyasha.htm
http://www.furugosho.com/profile/takiyasha.htm
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/e3c3fe3395e0ab5574da94cd41b86cb9 【「将門調伏伝説」】より
今回は、「将門調伏伝説」の話です。
○「成田山新勝寺」
将門の乱が起きた時、朝廷が寺社に将門調伏の祈祷を依頼しました。伊勢神宮や宇佐神宮でもこの乱鎮定の祈祷をしています。伊勢では二見浦の里人が、白馬に乗った武者の幻が東に向かうのを目撃していて、この日、将門が討ち取られたといいます。宇佐は八幡神の神社ですが、八幡神の化身の老人が呪文と共に矢を射たところ首に命中したといい、将門に「新皇」の位を与えたのも八幡神なのだが、ずいぶんと都合のいいものです。その後、天慶四年(941)三月、将門調伏の賞として伊勢神宮の禰宜に位階を授け、諸国の神社にも神階を授け盛んに行賞を実施しています。比叡山延暦寺でも将門調伏の祈祷が実施されました。座主の尊意は不動安鎮法を大講堂で修したところ炎の中に将門の姿が浮かび上がったといいます。『玉葉』には将門は帝になる運を持つものであったに関わらず、それを降伏せしめたとして、尊意は夭亡(若くして死ぬこと)したのだといいます。このように、炎に将門の姿が浮かび上がる話や東へ向けて異変が起きたという話は多く伝えられています。総じて異変の直後に将門が滅んだといいます。『将門記』にある「神鏑」によって将門が滅んだというのは、これら祈祷の効果だと考えられました。
東国には有名な将門調伏伝承が残る寺として、千葉県成田山の成田山新勝寺があります。『成田山略縁起』によれば将門が相馬郡に都を建て、「親王(新皇ではありません)」を称したため勅命が下り、遍照寺の僧・寛朝が調伏することになります。成田にやって来た彼は不動尊像を安置し、調伏のための護摩を修しました。かくして将門は滅び、寛朝は都へ帰ろうとしたところ、不動尊像はその地で動きませんでした。そこでこの地に現在の成田山新勝寺が建立されました。東国には将門を祀る地が多く残り、これらの土地の人たちの間では成田山参拝忌避の言い伝えが多く残り、今日に至るもそれを守る者は多いようです。我孫子市では、成田山開帳の日は血の雨が降ると伝えられています。明治時代に成田山参拝禁忌を破った者が三十代で若死にしたといい、現在もその家ではこの禁忌を守っていたと伝えています。
ところが、成田山が関東地方で有名になったのは、江戸出開帳を元禄十六年(1703)に実施した際、大成功を納めてからだといいます。その後、成田山の江戸出開帳も頻繁に行われるようになり、江戸っ子の人気もあり、これは信仰上の人気というよりもイベント好きの江戸っ子に歓迎されたようです。ところが宗教上の対立が発生しました。一つは「将門調伏」を掲げていた成田山新勝寺に対し、関東の英雄将門を支持する人も多かった江戸では、当然対立してきます。もう一つは、古くからある在地の宗門としては、新興の成田山に人気があるのは当然面白くない。こういった宗教上の対立が江戸っ子の「将門人気」を利用し成田山忌避の伝承を広げたように思われます。もっとも顕著に忌避していたのは江戸っ子の氏神様「神田明神」でした。成田山忌避伝承はその広がった時代を考慮すると、元禄時代以降に成立したように思われます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%94%B0%E5%B1%B1%E6%96%B0%E5%8B%9D%E5%AF%BA
「成田山不動尊上陸記念碑」
http://www.infochiba.ne.jp/FAINS/spot/0101/1407.html
「神田明神」
http://www.kandamyoujin.or.jp/top.html
○「南都七大寺」
南都七大寺(なんとしちだいじ)は、奈良時代に平城京(南都・奈良)及びにその周辺に存在して朝廷の保護を受けた7つの大寺を指します。
a.. 興福寺(奈良市)
b.. 東大寺(奈良市)
c.. 西大寺(奈良市)
d.. 薬師寺(奈良市)
e.. 元興寺(奈良市)
f.. 大安寺(奈良市)
g.. 法隆寺(生駒郡斑鳩町)
将門調伏を行った七大寺は、何寺を指すのか明らかではありません。ただ、諸大寺で、名僧たちが読経や調伏の修法を行ったことは諸書に見えています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%BD%E4%B8%83%E5%A4%A7%E5%AF%BA
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/43778a9e1855ce82f4722c3b1c758b0c 【「将門祭祀伝説」】より
今回は、「将門祭祀伝説」の話です。
●「祭祀伝説」
将門を祀る寺社は数多く存在しますが、二つのパターンが考えられます。一つは、その土地や家を守る尊敬の対象としての神霊として。もう一つは、非業の死を遂げた将門の御霊を恐れ、それを鎮めるために祀られたものです。
○「神田明神」
まずは、「神田明神」について触れてみます。この神社にも様々な伝承があり、どれも面白い話なのですが、全部真実だと理解しようとすると矛盾が生じてきます。神田明神は元々現在の首塚がある場所、当時の柴崎村にあったとされ、ここに将門の霊を真教上人が嘉元年中(1303~1306)に祀ったのが実際の始まりといわれています。ところが面白いことに、藤原秀郷に討ち取られた将門の体がこの柴崎村まで追ってきて、ここで力尽きたため「からだ明神」として祀り、それが訛って「神田明神」となったという伝承もあります。むろん、飛んで来た首が力尽きた所であるという話もあるのですが、鶏が先か卵が先かというもの。慶長八年(1603)首塚のある柴崎村から駿河台へと遷り、さらに江戸城の北東の方角である湯島台に、元和二年(1616)に遷され、その二年後、桃山風の豪華な社殿を建てたと伝えられています。これは江戸城の守護神として、将門を鬼門封じとして配置するのが目的だったといいます。江戸時代、神田明神は大己貴命を一の宮の神として祀り、将門の霊を二の宮として祀る一殿二座でした。
http://www.kandamyoujin.or.jp/top.html
明治時代になり朝廷に対する謀反人将門は、神田明神の祭神から外されることになります。これは、「江戸幕府憎し」が「武家政治将門」に直結した対応であり、江戸城の守護者を排除しようという考えだったようです。明治6年(1873)、神社側は、朝敵が本社の祭神であることを明治政府に憚り、平将門を別殿に移し、その代わりに少彦名命の文霊を迎え入れたい、との願書を提出しました。翌明治7年(1874)、その許可が与えられましたが、納まらないのは188か町にも及ぶ氏子たち。何しろ、永い間「将門様」と言って崇め奉っていたのです。それが、どこの誰だか知らないような神様を急に迎え入れるなんてことは、神主たちの新政府へのへつらいとしか考えられなかった。そのため、本社には、さい銭がろくに投ぜられないの対し、本社右奥に新造することになった将門社には、続々と醵金が集まるという始末。将門に対する信仰は、その後も続き、明治17年(1884)の神田祭りが台風で中断されたことさえ、「将門様のたたり」として噂に上りました。当時の新聞紙上にも、《祭神から追い払われた将門様は大の御立腹。『おのれ神主めら、我が三百年鎮守の旧恩を忘れ、朝敵ゆえに神殿に登らすべからず、などと言いて末社に追い払いたるこそ奇怪なれ』と言って、祭りを待ち受けていた将門様。『時こそ来れり』とばかりに、日本全国よりあまたの雨師風伯を集め、八百八町を暴れまわって、折角のお祭りをメチャメチャになさった》などという記事が掲載されるくらいでした。
明治東京人は、本殿の祭神を表面上は敬いながらも、実質は将門社への信仰を中心にして、神田祭りの伝統を保っていったのです(ただし、祭りも近代化の進展には勝てず、明治29年(1896)以降は山車が引かれなくなった。というのは、町々に電線が張りめぐらされて、背の高い山車の通行が不可能になったため)。その後、将門が正式に神田明神の三の宮として復帰したのは、なんと昭和五十九年のことでした。これはNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」での、将門ブームが背景にあったといわれています。
○「国王神社」
続いて将門の一族が祀ったとされる神社を見てみます。まずは将門を国王として祀るその名も「国王神社」。これは伝承によれば、前述の将門の娘「如蔵尼」の夢枕に将門が立ち、「自分の像を総州一国の王として祀れ」と命じたといわれています。国王といっても、日本全体の王としてでは無く「上総・下総」の王として祀られた神社というわけで、土地の神として将門一族を守る神としてこの神社は誕生しています。この国王神社も湯島天神で出開帳を行い、そこそこの成果を挙げています。これは宗教的な意図は無く、これまでスポンサーであった相馬氏の援助が得られなくなったためだといわれています。
http://www.kandamyoujin.or.jp/top.html
http://www.city.bando.lg.jp/sights/historical_masakado/masakadosiseki11.html
○「相馬神社」
その相馬氏が将門を祀る神社を「相馬神社」といいます。戦国時代、下総の相馬一族は小田原北条氏に属していたため秀吉の北条攻めで没落し、細々と一族は江戸時代続いていきます。国王神社の援助を打ち切った背景は、単純に金銭的な問題だったと思われます。相馬神社は相馬家の屋敷神として祀られており、ここにも桔梗忌避の伝承が伝えられています。下総以外にも相馬一族は日本各地に点在しており、妙見菩薩を将門と併せて祀っています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E7%A5%9E%E7%A4%BE
http://homepage3.nifty.com/reason_m/soumankmr.html
次は「神明神社」と「明神」の話です。
○「神明神社」
神明神社(しんめいじんじゃ)は、天照大神を主祭神とし、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社です。神明社(しんめいしゃ)、皇大神社(こうたいじんじゃ)、天祖神社(てんそじんじゃ)などともいい、通称として「お伊勢さん」と呼ばれることが多い。神社本庁によると日本全国に約5千社あるとされていますが、一説には約1万8,000社ともいわれています。中世に入り朝廷が衰微するに伴い、伊勢神宮の信者を獲得し各地の講を組織させる御師が活躍し、王家にとってのみの氏神から日本全体の鎮守としての存在へと神社の性格は大きく変わりました。また、布教とともに各地の有力者による神領(御厨)の寄進が行われ、その地に伊勢神宮の祭神が分霊され、神明神社が広範囲に分布することとなりました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%98%8E%E7%A4%BE
○「明神」
明神(みょうじん)とは、日本の神道の神の称号の一つ。吉田神道で神号として用いられます。豊臣秀吉の「豊国大明神」が有名。「明神」とは、神は仮の姿ではなく明らかな姿をもって現れているという意味です。それに対し、仏教系の山王一実神道では神号として用いられる権現(ごんげん)は、「神が権(かり)に現れる」、また「仏が権(かり)に神の姿で現れる」という意味です。徳川家康の「東照大権現」が有名。なお、家康の神号をめぐって、南光坊天海の「大権現」案と、金地院崇伝の「大明神」案をめぐる論争は有名です。仏法が広まるとき、現地の神と争いが起こる場合がありますが、日本の場合は、神は仏の信者を守護するという形で落ちつきました(神仏習合)。これらが明神とか権現と呼ばれ、信仰の対象となっています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%A5%9E
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/8d54fd009b991c1fc08d653f94bd9ce5 【「玉村伝説」】より
今回は「玉村伝説」の話です。
○「玉村の名の起こり」群馬県勢多郡玉村町
《将門が上野国に攻め込んだころ、ある村に大変美しい娘がいて、隣村の若者と相思相愛の仲でした。ところが彼女は将門に媚びる土豪の目にとまったため、その土豪は彼女を将門の側室に差し出すよう彼女の父親にいったのです。娘を不憫に思った父親は彼女を逃がしましたが、彼女は追っ手に追い詰められて進退きわまり、川に身を投じてしまいました。娘を救おうと思って駆けつけた若者も、彼女の後を追って川に身を投げてしまったのです。その後夜になると川の水底に青く光る二つの玉が目撃されるようになりました。村人たちは『あの娘が龍神となって川に住んでいるに違いない』とうわさし合いました。村人たちは二人の霊を慰めようと川畔に祠を建てましたが、ある日の夜この玉が岸に打ち上げられたところを拾い上げ、大明神様として祀っていました。ところがその後川は洪水にみまわれ、水が引いた後なぜか玉が1個なくなっていたのです。その後もたびたび洪水が起きたので村人は『きっと龍神様が玉を返してほしくて洪水をおこすのだろう』と考え、この村の人たちは別のところに新田開発して移り住みました。新田は玉のためにできた村なので、以後その村を『玉村』と呼ぶようになったとか。》
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/e4855b02e311db7808dd7250eb35f0a1 【「七人の影武者伝説」】
今回は「七人の影武者伝説」の話です。
○「影武者伝説と妙見信仰」
平将門にも七人の影武者がいた、という伝承があります。室町時代に書かれた『俵藤太物語』では「将門と全く同じ姿の者が六人いた」といわれており、同じ時期に書かれた『師門物語』では「同じ姿の武者が八騎いた」とあります。茨城県や山梨県などで、実際に七人の影武者伝承の残る寺や山があります。この七人の影武者伝説の背後には、「妙見信仰」があると考えられます。妙見信仰とは、北斗七星・北極星を神格化した妙見菩薩を祀る信仰です。また、北極星は天の中心に位置するいわば天子の星と見られており、この星に陰りや異変が起きると天子に災いがあると見なされ、それが転じて国土安穏のため信仰されていました。平安時代に怨霊思想が広がるとともに、この妙見の修法が盛んに行われ、中世になると千葉氏・相馬氏がこの妙見菩薩を信仰していました。この千葉氏・相馬氏こそが平家一門であり、始祖を将門としているのです。
『源平闘諍録』によると蚕飼河(小飼の渡し)の合戦において河を渡る際、子童が現れ将門を助けました。さらに豊田郡においては弓矢が尽きた時、この子童が再び現れ、落ちた矢を拾い集め将門に与え、自らも矢を放ち応戦しています。将門を追い詰めていた良兼は「只事にあらず、天の御計なり」と恐れ、撤退しました。将門は勝利を得、この子童の前に跪くと「吾は妙見大菩薩である。汝は正直武剛であるので加護を与えた」と言ったといいます。さらに、「上野花園寺から速やかに吾を祀れ」と告げたので、将門はその後、妙見大菩薩を崇敬しました。ところが将門は親王を名乗り、政務を曲げ神慮を恐れなくなったため、将門の元を離れ叔父でありながら将門の養子となった良文に移り、以降子孫である「千葉氏」が代々相伝したといいます。『将門記』では子飼の渡しでも豊田郡でも将門は敗北しているので、歴史的には正しくないのかもしれませんが、将門と妙見の関連を明確にするエピソードだといえます。また、相馬氏も将門の「直系」を称していますが、こちらにも妙見信仰の伝承が残っています。相馬氏は千葉氏と異なり、将門から妙見大菩薩が離れたという伝承がありません。将門の直系の自分達が代々自家に妙見大菩薩を祀っていることを強調した形になっています。将門の子孫を名乗る千葉・相馬の両一族が信仰していた以上、将門自身も妙見信仰に携わっていたと思われますが、残念ながら歴史上の資料を見出すことができません。いずれにせよこの北斗七星・北極星信仰が、将門の影武者を七人とし、中心に位置付く将門を北極星になぞらえたのだろうと思えます。
七人の「影武者伝説」の中でも有名なのが、千葉県千葉市中央区亥鼻台の千葉大学医学部構内に残る「七天王塚」(牛頭天王が祀られている)で、「将門に助力した興世王、藤原玄茂、藤原玄明、多治経明、坂上遂高、平将頼、平将武とする説、弟六人説などがある。」(村上『同上』)しかし、2002年の発掘調査により、「七天王塚」の中央から古墳時代後期と見られる前方後円墳が見つかり、「七天王塚」は中央の古墳を守護する意味をもつ陪墳ではないかという説が浮上してきました。
http://www.ne.jp/asahi/rekisi-neko/index/tiba.html
○ 「桔梗忌避伝説」
さて、七人の影武者伝説の中でどうやって将門を倒したのかを調べてみました。『俵藤太物語』によると、将門の影武者は本体と違い日に向かうと影が無いといい、この影武者というのはどうやら人間では無いようです。この秘密を将門の女房である「小宰相」が、秀郷に教えてしまいます。また、将門の弱点は「こめかみ」であることも教え、秀郷は首尾よく将門のこめかみを射て、滅ぼすことに成功します。小宰相の伝承も各地に残っていますが、福島・関東地方では、この弱点を教える将門の女房の名が「桔梗」となって数多く伝わっています。この桔梗伝説では、秀郷に内通して将門に弱点を教えるのは一緒ですが、将門は裏切られたことを知り「桔梗咲くな」との呪いの言葉をはいています。以来、この地(将門が滅んだという伝承の残る地)には桔梗の花が咲かないのだといいます。前述の「成田山忌避」と同様、花だけにとどまらず模様のついた品物に至るまで「桔梗忌避」する伝承に発展しています。地方によって枝葉末節が様々に異なる伝説が残っていますが、面白い物をいくつか紹介すると、「桔梗」は秀郷の妹であるという千葉県市原市。これなら将門の弱点を秀郷に伝えた理由もわかります。また埼玉県城峰山には秀郷の紋所が「桔梗」だったと伝えていますが、これは史実と異なります。
『将門記』では「小宰相」も「桔梗」の名も出ておらず、あくまで伝承のものなのでしょうが、なぜ「桔梗」の名が使われるようになったのでしょう。「桔梗」が「卑怯」に繋がるという説をあげておられる方もいます。この桔梗伝承が、七人の影武者伝承に付随して生まれたことは明らかです。とすれば、「桔梗」という花の名が使われた理由は妙見信仰となんらかの関わりがあると考えられます。一つに考えられているのは、桔梗の形が「星」を象徴しているためだというもの。もう一つは、妙見信仰と関わりの深い密教・道教等を民間信仰に取り込んでいた山伏の影です。山伏達は古くから独自の医薬技術を持っていたのですが、この将門伝説の本拠地でもある常陸・下総・武蔵は咳・痰・熱の薬として効能の高い「桔梗の根」の産地として有名で、このことは『延喜式』「諸国進年料雑薬の条」に記載されています。飢饉の時には「桔梗の根」は非常食としても利用されていました。いずれにせよ、根は太い方が良いわけですが、太い根を取るためには、花を咲く前に摘んでしまえば良いといいます。桔梗伝説にある「桔梗咲くな」の言葉の背景には、これがあるように思われます。全く花をつけていない桔梗の姿は、傍目で見れば無気味であることから想像されたのではないでしょうか。江戸時代に、上等な薬用の桔梗の事を「相馬」と呼んでいたのですが、相馬一族の妙見信仰が背後にあると考えるのは考えすぎでしょうか。
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/8c0cf922682f777f871baf4d3e7d4545 【「将門の鉄身伝説」】より
今回は「将門の鉄身伝説」の話です。
○「鉄身伝説」
様々な乱に携わり無敵を誇った将門ですが、その無敵さゆえ身体が鉄であったという伝説があります。そもそも『将門記』では、将門最期の場面で彼自身を古代中国の黄帝の時代の伝説的人物「蚩尤」に喩えています。この蚩尤とは獣心人語、銅頭鉄額の巨人です。とても実在したとは考えにくいのですが、日本でも古来より言い伝えに登場し、製鉄民族などからも崇拝の対象になっています。将門がこの巨人に喩えられたのは、あくまで強さの喩えで別に将門の身体が金属だったわけでは無いと思われます。後世の伝説はこれが飛躍し、「将門の体は鉄だった」としたものが多く残っています。『太平記』では比叡山に四天王像を安置し、将門調伏の行に入ったため、将門の鉄身が痛み滅んだとの記述があります。将門の弱点は様々な文献や伝承に登場しますが、別に普通の人物では必要の無い記述です。ところが全身鉄身であれば話は別です。将門の弱点として、もっとも有名なのは「こめかみ」です。これは「俵」藤太からの洒落だと思われますが、下総相馬郡には将門の母が大蛇で将門誕生の際、全身を舐め、加護を与えましたが、「脳天」のみ舐め忘れたためにここが弱点になっています。
ここで面白いのが、古代ギリシアのアキレスに関する伝説との類似です。英雄アキレスは、赤ん坊の時に母親によってスチュクス(Styx) という黄泉の国を取り巻く川の水に浸けられたため不死となった、といいます。しかし、足首を母親に握られていたため、かかとだけは不死の水の恩恵を受けることができなかった。
その他、将門が射抜かれた弱点は「右目」「眉間」などがあります。片目が射抜かれた事についても鉄身との関連があると思われる。古代製鉄技術「たたら」では長時間火を見つめる事が多く、片目が見えなくなることがあるといいます。今では差別用語の関係で死語になってしまいましたが、「めっかち」という片目がおかしい症状は、「目鍛冶」から来ています。これは、将門が実際に持っていた軍事力の背景にある奥州や関東の鉄の技術が、将門の全身鉄身伝説を生んだとも考えられます。実際に、将門の本拠地には鉱山跡がいくつか近年になって発見されています。
https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/5767cba367523572b853b8a9e3bdae93 【「将門伝説の伝播」最終回】より
今回でこのシリーズも最終回となりました。「将門伝説の伝播」の話です。
○「江戸時代の将門伝説」
大衆文化の華やかな江戸時代。その文化の中心だった江戸でかつて将門は新皇の名乗りをあげました。江戸っ子は、この実在の人物に様々な英雄物語を付加し、ある時は超人、ある時は魔神として語り継いでいきました。これが将門伝説の考察を、より複雑にしているといえます。江戸時代化政文化、老中田沼意次が町民層に心をくだき、民間文化が花開いた時代です。町民が言いたいことを言えた日本史上非常に珍しい時代であり、今では当たり前の言論の自由や政治批判が認められていました。天明四年三月、田沼意次の息子山城守意知が佐野善左衛門に殿中において殺害されるという大事件が発生しました。この時代火山や地震、洪水といった自然災害が多発し、町民の不満は時の為政者へ向けられていました。今では考えられないことですが、当時、政治が悪いと天が怒るという思想は常識として信じられていました。そのため意知の殺害事件は不幸にして町民に拍手喝采で迎えられ、この出来事を風刺した将門モノの芝居や瓦版が大ヒットします。殺害した佐野が藤原秀郷で、意知は将門というわけです。江戸っ子の洒落のセンスに脱帽してしまうのは、これら風刺画に描かれている将門は首が跳ねられた時、七つの魂が飛び出しているのです。妙見信仰もかけられているのでしょうが、上手いことに田沼家の家紋は「七つ星」であり、二つの意味合いが込められているように思われます。
このように良くも悪くも、それだけ関東で将門は関心の高い人物であったことだけは疑いようの無い事実です。関東圏で発生した将門伝承の中で、彼の呼称が「新皇」ではなく「親王」であるのは、将門が「正当である」という親しみの表れではなかと思えます。普通「怨霊」に関連する伝説発生は、滅ぼした側の負い目から来る「御霊信仰」が大方の理由なのですが、将門の場合、「相馬・千葉一族による伝播」「妙見信仰」「宗教対立」「布教宣伝」などの理由もそれに加わっています。調べれば調べるほど複雑になる「将門伝説」ですが、興味は尽きない所でもあります。