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安倍晴明と平将国

2020.11.24 05:34

https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/a1b3123b408aa479fbf9752a9fb18088?fm=entry_awp_sleep 【安倍晴明と平将国】より

●安倍晴明は将門の子・将国か?

将門が治めようとしていた常陸国には信太郡があります。そう、清明誕生伝説の「信太の森の白狐」の「信太」と同じです。しかも、阿倍野だけでなく、ここにも「清明神社」があります。さらに、将門の息子のうち殺されずに生き残ったのが一人います。彼の名は将国。彼はここ信太郡に隠れ、信太(田)姓を名乗ったとの記録が残っています。

そこで、これらから異説が唱えられます。

『安倍清明は大阪(和泉)阿倍野ではなく、茨城(常陸)信太の出身で、実は平将門の生き残りの息子・将国である。』と。

これによっての仮説。清明は信頼できる花山天皇とともに、父・将門の意を継いで東国に独立国を作ろうとしたのですが、夢は花山天皇の退位でもろくも崩れてしまったといいます。

「史実上の安倍清明」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%B4%E6%98%8E#.E5.8F.B2.E5.AE.9F.E4.B8.8A.E3.81.AE.E6.99.B4.E6.98.8E

「安倍清明の隠された過去」

http://fleshwords.at.infoseek.co.jp/dt/dt067.htm

昨年春、茨城県美浦村の「信太の地」から稲敷市(旧江戸崎町)の佐倉城址を訪ねてみました。

【信太の地】美浦村信太

東京駅八重洲口から江戸崎行き高速バスで「美浦トレセン」下車。この地を「信太」といいます。『将門記』によれば、平良兼が常陸国へ出陣して行く場面に次のような記述があります。

《所々のその渡より常陸国の信太郡の奇前(えさき、「奇」には草冠があります)の津に着きぬ。その明日を以て、同国の水守の営所(現つくば市水守)に着けり》

「えさきの津」は、現在の稲敷市(旧東町)の幸田(こうだ)あたりの説が有力で、平良兼軍が下総国神崎の津(千葉県神崎町)から常陸国へと渡った地点です。

また別に、安倍晴明を調べてみると、始めに有名な詩に出会います。

 『恋しくば尋ねきてみん和泉なる 信太の森のうらみ葛の葉』

前述したとおり、常陸にも「信太」という地名があります。さらに「えさきの津」の古名は榎浦津のことで、現在の霞ケ浦は古名を「信太浦」といいます。その西南部を「信太郡」と呼んでいたのです。さらに付け加えると、稲敷郡八代村の古名は「和泉」で、現在の稲敷郡は前述の「信太郡」にあたります。しかも茨城県藤代、取手は稲敷郡のすぐ南にあたり、将門の母は取手を支配していた犬養春枝の娘なのです。

将門の子・将国は、将門が亡くなったのちに信太郡に隠れ棲んでいました。将門の別名・相馬小次郎を継承したのは相馬氏ですが、それは将門の子・将国が常陸国信太郡に落ち延び、末裔である胤国が相馬氏を継承したため残ったとされています。後の相馬氏は千葉常胤の子・師胤と相馬小次郎師国が養子縁組みしたため、相馬氏・千葉氏ともに将門を継承しているという証しで「九曜紋」を使用しています。

●参考「筑西市の安倍晴明生誕地」

さらに補足しますと、平国香の石田館がありました筑西市(旧明野町)東石田の北方に、安倍晴明が花山天皇と共に訪れた「猫嶋」があります。またこの地は、安倍晴明生誕地の一つでもあり「晴明神社」、「晴明井戸」、「明野晴明塚」などがあります。ここはまだ行ってはいませんが、将門がかたずけばいずれ訪れてみたいところです。

http://homepage1.nifty.com/haruakira/seimei/f_01.html

http://members.jcom.home.ne.jp/outo/ryokou/akeno.htm

http://mito.cool.ne.jp/chatora27/diary/diaryseimei.htm

次に、すぐ隣にあります稲敷市(旧江戸崎町)の佐倉城址へと向かいました。

【佐倉城址】旧江戸崎町佐倉

「美浦トレセン」バス停から東方1km。天王宮バス停の近くに佐倉神社があり、この周辺に将門の後裔にあたる信太小太郎頼望が始めて城(砦)を築いたといわれています。佐倉神社の裏、道路西側に土塁らしきものがあります。佐倉神社からさらに東に進むと「城ノ内」地区で、地名の示すとおりここには城があったと思われます。なぜか道の真ん中に、「松姫大明神」の祠があります。城ノ内地区から北東に300mほど進んだところが、「殿屋敷」と呼ばれているところで、民家の入り口に「殿屋敷古墳」がありました。

「江戸崎の城・佐倉城ほか」

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/6650/edosaki.htm

「佐倉城」

http://www.asahi-net.or.jp/~dg8h-nsym/sakura-jou.html

「佐倉城ノ内」

http://www.asahi-net.or.jp/~DG8H-NSYM/sakura-jonouchi.html

「佐倉殿屋敷」

http://www.asahi-net.or.jp/~dg8h-nsym/sakura-tonoyasiki.html

【高田神社】旧江戸崎町高田

江戸崎市街地より東方2kmのところ。県道107号線土浦カントリー倶楽部の西側600mほどのところに「高田神社」があります。このあたりが東条高田城の跡といわれています。この社は、承平年間、朱雀天皇が将門の横暴を鎮めるために、勅願によって紀伊の熊野権現を勧請させたといわれています。

http://hpcgi2.nifty.com/tradevents/wiki.cgi?p=%B9%E2%C5%C4%BF%C0%BC%D2


https://ameblo.jp/ryojun/entry-10023220063.html 【安倍晴明】 より

安倍晴明は、平安時代の最も有名な陰陽師であり、鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖である。

当時最先端の呪術・科学であった「天文道」や占いなどの陰陽道の技術に関して卓越した知識を持ったエキスパートであり、平安貴族たちの信頼を受けた大陰陽師で、その事跡は神秘化されて数多くの伝説的逸話を生んでいった。

道摩法師(蘆屋道満)とはライバル関係にあった。また、平将門の子の平将国が安倍晴明ではないかという説もある。

後世に陰陽道の経典となる秘伝書『簠簋内伝』の著者に仮託されている。

特に近年では夢枕獏の小説のヒットにより、京都にある晴明神社が人であふれかえるほどの大ブームとなった。

安倍晴明は、安倍氏の伝える系図によると、大膳大夫の官にある下級貴族安倍益材の子として摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に生まれた。

阿倍仲麻呂の子孫を称するが、系図では竹取物語にもその名が登場する

右大臣阿倍御主人の直系の子孫であるとされている。

いずれにしても古代から続く名門の家柄に生まれている。

生年は定かではないが、寛弘二年九月(1005年)に85歳で亡くなったと記録されていることから逆算して延喜二十一年(921年)生まれと推定される。

幼少の頃については確かな記録がないが、陰陽師賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、

天文道を伝授されたということになっている。

確かな記録に現れるのは960年で、当時天文得業生(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職)であった晴明は村上天皇に占いを命ぜられた。

出世は遅れていたが占いの才能は既に貴族社会で認められていたことが伺われる。

その後、天文博士の官に任ぜられる。

979年、59歳の晴明は皇太子(のちの花山天皇の命で那智山の天狗を封ずる儀式を行う。

このころから花山天皇の信頼を受けるようになったようで、記録にしばしば晴明が占いや陰陽道の儀式を行った様子が見られるようになる。

花山天皇の退位後は、一条天皇や藤原道長の信頼を集めるようになったことが、道長の日記

『御堂関白記』などの当時の貴族の日記から分かる。

陰陽師として名声を極めた晴明は、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などの官を歴任し、位は従四位下にのぼった。

さらに天文博士や陰陽助(陰陽寮の次官)に晴明の二人の息子安倍吉昌と安倍吉平が任ぜられ、安倍氏は晴明一代の間に師忠行の賀茂氏と並ぶ陰陽道の家となっていった。

なお、両性具有であったとする説もあるが、信憑性は薄い。

墓所は京都嵯峨にあり、渡月橋の近くにひっそりと眠っている。

安倍晴明を祀る神社は、屋敷跡に建てられたという一条戻橋近くの晴明神社や、生誕地の大阪市阿倍野区に建てられたとされる安倍晴明神社など全国各地に存在する。

また子孫では平安時代末期の安倍泰親と室町時代初期の安倍有世が優れた陰陽師であったと言われている。

有世は足利義満から信頼され、その推挙で陰陽師では初めて公卿となった。

有世の子孫は室町時代後期頃から土御門家を名乗り陰陽道のみならず神道や暦などの分野にも大きな影響力を持つ事になる。


https://blog.goo.ne.jp/nobolook47/e/a252ed1443e09440148c6c73d7346ca7 【永井平九郎の兄は安倍晴明!?【平将国伝説】 その1】 より

本来なら「平将門公の息子は安倍晴明!?」の方がしっくり来るのでしょうけど、それはそれ世界で唯一の永井平九郎研究家の私です(恥かしい)。永井平九郎の兄として今回のお題を書きたいと思います。その方が判りやすい部分もありますので。

っとは言っても、「平将国=安倍晴明」説は多くの方が書いてますし、伝説として残っています。私も同じ事をなぞってもしょうがないと思うのですが、後に書きたいと思っている永井平九郎の陰に隠れる瀬織津姫との関係について、序章として語るには都合が良いと思いました。

今回はやっつけ仕事になっちゃいますし発見は無いかも知れませんが、チラッと書いておきます。暫しお付き合い下さい。

さて、あの陰陽師・安倍晴明は平将門公の息子・平将国であると言う伝説が伝わっています。

その前にちょこっと平将国に付いて説明します。将国は将門公の次男から下だと思われます(長男は良門)。平将門の乱で平貞盛、藤原秀郷、藤原為憲に一族郎党が誅され、将門公の息子では唯一生き残ったとされています。

大叔父の平良門に匿われて常陸の国の信太、今の霞ヶ浦まで逃れ二代新皇を名乗り、領地の回復に尽力したとされます。

この平将国が何故に安倍晴明だとする伝説が残っているのか。

安倍晴明は北斗信仰です。北極星の神格化である妙見菩薩を崇めています。そして平将門公も妙見菩薩を守護神としていた。平将門公の家紋である九曜紋も北斗七星を示しています。その点は間違いない。勿論、息子の平将国も妙見菩薩を崇める北斗信仰なのは当然。そこが第一の共通点です。

そして出身地にも謎が残る。安倍晴明は大阪市阿倍野区阿倍野町に鎮座する安倍晴明神社が生誕の地とされています。境内には安倍晴明生誕の地の碑もあります。少なくても関わりのある地なのは間違いないです。

それがもう一箇所生誕の地があります。「ほき抄」と言う書に晴明の由来が書かれており、常陸国筑波山麓の猫島、つまり現在の茨城県真壁郡明野町猫島が安倍晴明の生誕の地と記載されています。

更に安倍晴明の母親は信太の森の白狐だとの話が伝わってます。大阪市和泉区にその伝説の舞台となった信太森葛葉稲荷神社があり、その祭神は安倍晴明の母親の白狐・信太明神が祭られています。

そして信太と言う地名が茨城県にもあるんです。信太の森もあります。そして安倍晴明を祭る晴明神社も。

茨城の信太では平将国がこの信太郡に逃げ延び、信太姓を名乗ったと伝わっています。ここから「安倍晴明=平将国」説が出たと思われます。

平将国である安倍晴明が信頼する花山天皇と共に、父である平将門公の意思を次いでこの地に独立国を作ろうとした。その説が茨城の信太に根付いて晴明神社が建立されたと思われます。

https://blog.goo.ne.jp/nobolook47/e/a9a29f655a3ebff055c38f285149d5f6 【永井平九郎の兄は安倍晴明!?【平将国伝説】 その2】より

続きます。

何故、大阪と茨城で安倍晴明誕生の地が分かれているのか。まっ、どっちかが偽物だとは思います。でも何かしら関連がある筈。

チョット話が変わります。私の生まれ故郷の福島県に何と小野小町の産まれた町があります。その名も小野町です。あの有名なリカちゃんキャッスルがある町です。リカちゃんの製造工場も有ります。

そして東京に瀬織津姫を祭る小野神社がありますが、実はリカちゃんのモデルは小野小町であり瀬織津姫です・・・・・・・・・・っと言うのは嘘ですが、小野氏が瀬織津姫を信仰していたのは間違いない。そして小野町には瀬織津姫の源流が隠されています。

まっそれは又の機会に話したいと思いますが、小野小町の誕生地とされている伝説は、秋田や京都、福井、そして福島等々あります。これは全て小野氏縁の地だからでしょう。

そして小野小町と言う美しい歌人が出た。それじゃ村興しのために誕生の地にしちまえと考えたのではないですかね。多分ですけど。

安倍晴明のケースもそんな感じではないでしょうか。

ただ大阪が先か茨城が先かは判りません。安倍氏は神武天皇に敗れ東北に逃れた長髄彦の兄の安日彦が祖先とも伝わっています。そして秋田には蝦夷征伐に向かった阿倍比羅夫もいた。だから茨城が安倍晴明の生まれ故郷とは言わないまでも、先祖が東北、そして茨城に住んでいた可能性は十分あります。そして信太と言う地名も茨城が先かも知れないですね。

最後ですが安倍晴明の母親とされる信太の森の白狐は誰なのか。

もし安倍晴明が平将国であるならピンとくる人物がいます。平将門の側室であり、永井平九郎の母親とされる桔梗姫です。

福島県天栄村に御鍋神社が鎮座しています。主祭神は永井平九郎。配神は恐れ多くも平将門公と桔梗姫です。この御鍋神社の伝承では桔梗姫が身重の体でここまで逃げ延び永井平九郎を出産。そして女の身での逃亡は足手まといになるからと、この地で自害したと伝わっています。

以前にも桔梗姫については書きましたが、桔梗姫には逃亡前にも三人の子供がいたと伝わっています。もしかしたらですが平将国だった可能性が無い訳ではない。そして桔梗姫を桔梗弁天として祭っている神社もある。

信太の白狐はお稲荷さんとなりますが、弁才天はお稲荷さんである宇賀神を頭に載せいてる神像がある。つまり「弁才天=お稲荷さん」。そうなると桔梗姫が信太の森の白狐であっても辻褄かあるのではないでしょうか。

しかもです。安倍晴明の家紋は五ぼう星。五ぼう星は桔梗紋に入ります。この点も桔梗姫と繋がります。

以上、あっさりとこじ付け論を語って参りました。勿論、私も平将国が絶対に安倍晴明とは考えてはいません。

ただ、平将門公は出羽に何故か五重塔を建立しています。

何故、平将門公が五重塔を建立したのか。私はその地の蝦夷の鎮魂だと考えます。

もしそうであるなら、平将門公にも蝦夷と戦った者の血が流れている。だから祟りを恐れて五重塔を建立した。そしてその血が阿倍比羅夫、阿倍仲麻呂と続く流れなら納得だと思います。

まっ、可能性はあるよ。その程度の話です。無理にお付き合いして頂いたみたいで申し訳ありません。どうもすいません。