Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

律令社会の動揺、平将門と藤原純友の乱

2020.11.24 11:59

http://www.uraken.net/rekishi/reki-jp15.html  【律令社会の動揺、平将門と藤原純友の乱】より

○今回の年表

901年 菅原道真が大宰権帥に左遷される。

907年 唐が滅亡する。

907年 藤原時平ら、延喜格を撰上

907年 このころ、「竹取物語」が成立か。

927年 藤原忠平ら、延喜式を撰上

935年 平将門、平国香らと大規模な紛争を起こす

936年 新羅を破った高麗が、朝鮮半島を統一する。

939年 藤原純友、大規模な海賊行為を行う。平将門、新皇を名乗る。

940年 平将門、平貞盛と藤原秀郷の軍勢の前に戦死する。

941年 藤原純友、敗死する。藤原忠平、関白となる。

○醍醐天皇と藤原時平の奮闘?

 さて、菅原道真が去った朝廷では、醍醐天皇と藤原時平のコンビで政治が進みます。

 この頃の朝廷では、それまでの律令体制による政治が崩壊しつつあり、一部の貴族や寺社、地方の有力者達が荘園(しょうえん)と呼ばれる私的な土地を多く確保。何故かというと、地方の豪族や農民達が朝廷からの課税から逃れるため、有力者達に自分達の土地を寄付するようになったんですね。

 すなわち、

「幾らか貴方様に収穫物を寄進しますから、ここは貴方の土地と言うことで税の取り立てから守ってくれませんか」

「おお、いいよ。郡司や国司が税を取り立てに来るようなら、俺が圧力をかけてやる。」

 というわけ。そのため、地方の行政官である郡司がそこに課税に行っても、

「ここは○○様の土地だ! あんたに課税する権利はない! 文句があるなら○○様に言いな!」

と追い返される。さらに、人々は課税から逃れるために戸籍を偽造したりと、特に地方政治は混乱状態にありました。

 そこで902(延喜2)年を最後に、もはや班田(はんでん)は行われなくなったようで、その一方で同年、法に違反する荘園を作ってはいけないと太政官符を発布(延喜の荘園整理令)。対象は、なんと皇室にまで及びます。

 そして、地方分権を進め、国司に一定の税の納入を義務づける一方で、地方国内の政治を任せるようになりました。

 ※それまでは、地方の大まかな行政は朝廷から派遣されてきた国司が担当し、租税の徴収や文書の作成は郡司が行っていましたが、大きく転換したことに。中央省庁から派遣されてきた神奈川県知事が、鎌倉市長や藤沢市長に代わって、直接地方自治に乗り出した・・・ってな雰囲気ですかね。もちろん、これ以後は国司の権限が拡大し、郡司の権限は減っていきます。

 それから法体系をさらに整備しよう!

 ということで、907年には延喜格が完成。「格」は何度か登場していますが、律令の修正・追加法令のこと。今回は869年から907年までに出された詔勅(しょうちょく)などを取捨選択しながら12巻にまとめました。ちなみに、格といえば「式」ですが、延喜式の方は完成が遅れ、藤原時平が亡くなった後、927年に完成し、施行されたのは、さらにその40年後! でした。

 醍醐天皇と藤原時平は、菅原道真を追い出したことでえらく不評ですが、政治面では意欲的に国家建て直しのための改革に取り組みます。また、政策としては殆ど実現はしませんでしたが、第13回で登場した学者政治家の三善清行は、彼が30年にわたって地方勤務や政治家として活動した経験から、意見封事12箇条を提出。「課税対象者が地方からどんどん消えているぞ!国家財政は危機的な状況になる」「大学生(だいがくしょう)や身分の低い官僚の待遇を是正せよ!」「贅沢を戒めよ」などと書かれており、当時の社会の実情を知る上で良い資料となっています。

委託化する国司達

 ところで、国司が自分で課税しに行く・・・なんて、そんな仕事を全部やっていたら仕事に謀殺されますね。

 しかし、きちんと朝廷から「これだけ国庫に納めろ」と言われた量の税金を確保しなければいけません。そこで、有力な農民(田堵=たと)に一定期間、田畑の耕作を請け負わせて、「名」と呼ばれる課税対象となる土地から税を納めさせます。その代わり、田堵は国司と結託することで有力な立場となることが可能。力を付けていった田堵は、大名田堵とも呼ばれます。

 こうして、国有地を農民に班田し、「耕作させてあげる」代わりに様々な税を納めさせるシステムから、納税請負人に好きにやらせる代わりに一定の税は納めてもらう、というシステムへ変貌。この政治体制を王朝国家として、律令国家と区別することもあります。

 ところが、国司は国司で、地方は好きに運営していいものですから、税率を好き勝手に設定する例も。

 国司になればオイシイ利益が得られるのですから、何とかして国司になりたい!と貴族達は、朝廷や寺社に財産を寄付してポイントを稼ぎ、国司の座を得ます(こうして国司の座をゲットすることを、成功=じょうこう といいます)。また、同じ国の国司に再び任命されることを重任(ちょうにん)といいます。

 ・・・そうしているうちに、「何も俺が田舎に行くこともないじゃないか」と考える奴らも登場。

 なにしろ、国司と一口に言っても4種類に分かれ、守(かみ)、介(すけ)、豫(じょう)、目(さかん)という区別があったのですが、次第に守、介に権力が集中し、豫や目は仕事があまり無かった。そこで、自分の部下を代理として地方に派遣して政治を行わせるような国司も表れます。このやり方を遥任(ようにん)といいます。

 国司についての話は、またそのうち行うことにしましょう。

 色々問題はありましたが、 醍醐天皇の政治は延喜の治として一定の評価は得ています。その醍醐天皇は930年、天皇の住まいである清涼殿に落雷が起こり、多数の死傷者が出たことに仰天し、病死しました。なんでも、菅原道真の呪いと噂されたそうで・・・

平将門、決起!

 こうして地方の支配体制が大きく変貌している中、1つの事件が起こりました。

 それは関東(坂東)で、高望王(桓武天皇の曾孫)の子孫、平氏の一族で内紛が発生したのです。その緒戦となったのは935年のこと。平真樹という土豪(土地の有力者)が、前常陸大豫の源護(みなもとの まもる)と紛争起こしたのですが、平真樹は平将門(たいらの まさかど ?~940年)に調停を依頼します。そこで、

「よっしゃ、俺に任せておけ!」

 と、将門は源護に会うため、常陸に向けて出発しようとしたところ、彼の伯父である平国香と源護の息子、源扶が襲いかかってきたのです。

 応戦した平将門は、これを撃退し戦争へ突入。平国香の館などに攻撃を仕掛け、国香は自殺。源扶ら源護の3人の息子が討ち死にするという事態へ発展しました。平国香は関東における平氏の実力者でしたから、彼の戦死によって関東の軍事バランスは大きく変わることになります。

 そもそも、どうしてこのような事態になったのか。

 平将門は、鎮守府将軍の平良将(よしまさ)の息子で、若い頃は当時の豪族によく見られるように、京へ行って有力貴族の家来となりました(そうして、ある一定の官位=肩書きをもらって帰郷するのです)。彼の場合は藤原時平の弟、藤原忠平に仕えたのですが、どうも宮仕えは性に合わず、しかも親が亡くなったので帰郷することに。

 ところが、その相続を巡って父親の兄弟と対立が起こります。さらに、伯父・平良兼の娘と結婚したい、いやワシは反対じゃ、と紛争になったという説もあります。ともあれ、引き続き平将門は一族を敵に回すようになり、平良兼が病死した後は、特に平国香の息子、平貞盛(さだもり 生没年不詳)と激しく争います。

 そして騎馬隊を中心とした彼の軍勢は強く、孤軍奮闘どころか、貞盛側のほうが旗色が悪い状況。しかも、親分肌だった将門は、頼ってきた人物をかくまい、紛争があれば調停に出かけ、人々から絶大な人気を誇るようになるのですが・・・。939年、常陸国司の藤原維畿より「お前がかくまっている、藤原玄明を引き渡せ!」という要求を拒否し、常陸国府を包囲。なんと藤原維畿を追い出してしまいました。

 こうなるといよいよ、中央政府に反抗する要注意人物としてマークされます。

 常陸国府襲撃から1ヵ月後、側近の興世王の進言に従った将門は新皇(しんのう)を称します。そして、常陸周辺の関東各地を支配し、自分の弟たちを国司に任命。なんと独立国家を作り上げてしまいました。これまで、田舎の豪族どもが何か騒いでいる、程度の認識だった朝廷も、さすがに関東独立の動きには驚き、平将門討伐の動きを加速させ、藤原忠文を征東大将軍、経基王(源経基)を副将軍として派遣することにしました。

 ところが940年、平将門が兵士達を、農作業のため帰郷させている隙を狙って、平貞盛と藤原秀郷(藤原北家の傍流)が率いる軍勢が将門に戦いを挑み、将門を戦死させてしまいました。将門が新皇を名乗ってから約1ヶ月後、正式な朝廷からの将門討伐軍も到着する前のことでした。

 そして、この功績によって平貞盛は、従五位上、陸奥守、鎮守府将軍に、藤原秀郷は従四位下、下野守・鎮守府将軍に任命され、都、東国で大きな力を持つことに成功し、子孫は関東で繁栄していきます。

 こうして東国の動乱を、結局は土着の豪族によって討伐することに成功した朝廷でしたが、まだ西日本で不安材料が残っていました。それが、藤原純友による海賊行為です。

 ※なお、平貞盛の子孫から有名な平清盛が出ますが、これは貞盛の子、平維衡(これひら)が、伊勢・伊賀を拠点として発展した伊勢平氏の系譜。むしろ、関東に残った維衡以外の平氏一族は、経基王の子孫である源氏と結びつくようになり、平氏政権を倒し、御家人層を形成していきます。

 ※また、成田にある有名な、成田山新勝寺。これは朱雀天皇より、平将門の乱平定を祈祷してこいと勅命を受けた寛朝大僧正が祈祷した場所です。

藤原秀郷館跡(現・高安寺)

東京都府中市の高安寺は、かつて藤原秀郷の館跡であったといわれています。のち、足利尊氏が寺を建立。現在も江戸時代の建物が数多く残っており、必見。

○藤原純友の乱

 将門の反乱を時をほぼ同じくして、藤原純友(藤原基経の甥、良範の子)率いる海賊集団が瀬戸内を中心に暴れ回りました。藤原純友は、伊予国の豫(じょう 国司の1種)として赴任した後、土着して力を蓄えていた人物で、海賊を支配下に治め、船で運ばれる朝廷の輸送品や私物等を奪い、神出鬼没の海賊行為を行っていました。

 そこで摂政、藤原忠平は、まずは海賊達を内部分裂させるため、投降すれば罪を問わず、所領も与える・・・と、甘いエサを宣伝します。この取り組みを進めたのは、伊予守に任命された紀叔人(前回登場した菅原道真の友人、紀長谷雄の次男)。狙いは見事に成功し、藤原純友の配下であった小野氏彦、津時成など2500人あまりが離脱したといわれています。こうして、しばらく藤原純友の活動は停滞します。

 ところがどっこい。

 平将門の活動が活発になった939(天慶2)年になると、再び藤原純友の活動が活発になります。その活動範囲は紀伊や摂津から北九州、土佐にまで及んでおり、讃岐など各地の国衙(国府の政庁)を焼き討ちするという、大胆な海賊行為に出ます(果たして平将門と藤原純友が呼応していたかは、不明です)。

 これに対し、平将門を討伐した朝廷は、追捕凶賊使として小野好古、補佐として経基王、征西大将軍として藤原忠文を派遣。藤原純友は、なおも九州における朝廷の拠点である大宰府を焼き討ちにし、機能不全に陥れるなど活動を盛んにしますが、最大の部下であった藤原恒利が寝返るなど、次第に勢力は減少し博多湾で朝廷軍に大敗。

 そして941年、藤原純友は潜伏先の伊予で討ち取られました。

 こうして、朝廷が地方行政を立て直すために進めた国司による強力な支配体制は、逆にそれに反発する勢力を生み出す結果になりました。2つの大乱を鎮めた朝廷でしたが、以後も各地で起こる紛争に悩まされ続けることになり、”兵”(つわもの)と呼ばれる武装集団が跋扈するようになり、やがてそれは武士となっていきます。

 この2つの乱を、承平・天慶(しょうへい・てんぎょう)の乱といいます。

 それは、貴族の時代から、次第に武士の時代へと変貌する、その前兆であるといえるかもしれません。

○土佐日記の誕生

 ところで、平将門が伯父の平国香を倒す前年である934(承平4)年、古今和歌集の選者であり、また土佐守であった紀貫之(きのつらゆき)が、任期を終えて京都に帰還することになりました。そして、その船旅55日間に起こった出来事を日記に書こうと考えます。

 しかし、ただ普通に文章を書くのでは面白くない。

 そこで「をとこ(男)もすなる日記といふものを、をむな(女)もしてみむとて、するなり」として、オカマ・・・じゃない、女性の視点から日記を書いてみたわ、と・・・やはりオカマ・・・風に日記文学を書き上げました。スミマセン、ジョークです。つまり、女性風に書くことによって、もっと気軽に色々と文章を表現したかったんですね。

 特徴は、それまで日記といえば漢文で書くものだったのですが、土佐日記は、初めて仮名文字で書かれたということ。仮名文字は9世紀前後に登場した、日本オリジナルの文字で、現在の平仮名、片仮名の原型。平仮名の方は、「あ」は「安」、「い」は「以」の草書体を元に形成され、片仮名は例えば、「イ」は「伊」の偏を、「エ」は「江」の”つくり”など、漢字の一部分を切り取って成立したものです。

 *ちなみに書道が発達すると、美しさを求めて平仮名の変形バージョンも多く誕生してきます。現在の平仮名に落ち着いたのは明治時代になってから。片仮名は書道とはあまり縁がなかったため、室町時代には現在とほぼ同じになったようです。

 当然、漢文のガチガチの文体で書くよりも、仮名文字を組み込んで書いた方が、より自分の気持ちを素直に文章に表すことが出来ます。紀貫之は、これに着目したわけです。これが女性にも「私も書いてみたい!」と門戸を広げることになり、以後、優れた日記文学が女性の手によって書かれるようになります。なお、土佐日記の内容は、社会風刺だったり、行く先々での感慨であったり、そして土佐で亡くなった娘の思い出であったり色々です。

 ちなみに日記文学というのは、ただ日々の記録をつけただけのものではありません。ある程度の虚構を交えつつ、個人の内面の世界にまで踏み込むことによって、深い洞察をどーしたこーした、芸術性を高めて云々・・・まあ、とにかく一種の芸術作品のようです(あ、筆者が解説を放棄した)