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新将門考

2020.11.24 12:52

https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/d458c51dd33e8d0356c76e97ed903798 【新将門考-少年まさかど君の巻】より

はい、皆さん大丈夫ですか~?「お前はどうなんだよ!」ええ、あんまり大丈夫じゃありません。 

丑寅金神や将門コンセプトの話しをしているうちに、『怨念の開放』というお仕事を、皆さんや桔梗(ききょう)さんと一緒にすることになりましたね。そして将門公ご自身の復活宣言・・・。

こういうことがなぜ私を通して起こっているのかわからないんですね。って言うよりも、わかりたくないというのが本音のところではないでしょうか。でももう「逃げられない」という感じがいたします。新田義貞公のときもそうだったのですが、「まさか」と思って意識の底に封印しようとしても、次から次へと関連することが起こって、結局私が義貞公のトラウマを開放することになってしまいました。

今回もそのような感じがいたします。しかも3倍でかい規模で起こっているような・・・。

だったらこの際、正面から将門探求に入ってみましょうかね。

これまでで将門公の外堀はほとんど埋めましたので、今まで敢えて探求してこなかった将門様ご自身の生涯について探求してみましょうか。そうすればまた、はっちゃんにしか書けないものが出てくるかもしれませんし、未来への指針を提示できるかもしれません。何が出てくるのかわかりませんが、とりあえずやってみましょう。

<少年まさかど君>

まずね、将門公の生涯といえば、最初に探求しなければならないのが、『中央への仕官』だと思います。将門って言うと、『権威や権力への反逆』というイメージがあるのですが、中央でちゃんと仕官していたことがあるんですね。これいつ頃だったかといいますと、将門自身が「少年の頃」と書いた書簡がありますし、藤原忠平が右大臣の頃(913~924)なので、20歳前のことではなかったでしょうか。(将門は940年、38歳で没)

誰に仕えていたかと申しますと、上記の『藤原忠平』です。この人、はっちゃん全然知らなかったのですが、かなりの重要人物ですね。どう重要かといいますと、この人から藤原氏全盛時代がはじまったと言っても過言ではない人です。お兄さんの『藤原時平』がですね、宇田天皇の御治世に、あの菅原道真と共に仕えているのですが、醍醐天皇の御治世になってから、この二人の確執が表面化します。2人がそろって右大臣・左大臣になったとたん、道真は九州・大宰府へ左遷、2年後に無念の死。時平もその念を蒙って早逝(そう言われている)。この因縁の対決が終わったあとに急上昇してくるのが、将門公が仕官した、藤原忠平だったわけです。この忠平からの嫡流が、師輔→兼家→道長と続いて、伊勢平氏が台頭してくるまで、隆盛を誇るわけであります。

 この忠平に直接仕官しているというポジションは、考えてみるとすごいですね。将門公がこんなに中央に近いポジションにいたということは、驚きのイメージです。

でももっと驚きなのは、このときあとから仕官してきたのが、伊勢平氏の祖で、藤原秀郷とともに将門を討ったとされる、あの貞盛なんですね。すでに少年時代、この中央というポジションで、二人は因縁の出会いをしているわけです。

 そもそもどうして将門が忠平公に近づけたのかはよくわからないのですが、坂東千年王国というサイトでは、将門のお母さんが縄文系ネイティブの『犬養一族』という有力部族出身で、その犬養氏が藤原氏と親交があったからではないかと、推測されています。

 何はともあれ、将門自身が自分のコネを使って中央に仕官したのであれば、将門は夢と強い意志をもってそうしようとしていたのだと思います。

 ここで想像を膨らませてみると面白いですね。少年まさかど君が何を夢見ていたのだろうかって考えますと、やっぱり武門の誉れ、『鎮守府将軍』ですかね。このころは征夷大将軍という名前はなかったそうなので、同じポジションなんですが、ようするに『英雄』ですよ、日本武尊とか、坂上田村麻呂とかね、まぁ武門に憧れる少年剣士にありがちな真っ直ぐな英雄志向というのでしょうか、私的にはそういうものに直線的に向かっていたのだろうと思います。実際お父さんの良持(良将)がその職に就き、陸奥守を兼任していますしね、忠平の近衛というのは、武門出世の入口としては絶好のポジションだったのではないかと思われます。

 ここで皆さん想像してみてください。

「僕は将軍になりたい、英雄として名を残すんだ。」

そういう夢を持って瞳をキラキラさせている、ごっつい少年『まさかど君』・・・。

 なんかかわゆくないですか?

 『将門』という名前に恐いイメージが付く前に、こんなまさかど君がいたということを、ちょっと皆さんに知っていただきたかったんです。恐いイメージをいったん壊してみてください。しかし・・、そんな少年まさかど君の夢が壊れるまでにはあまり時間がかかりませんでした。

あとから来た従兄弟の貞盛がトントン拍子に出世して馬守になっていったのに対し、まさかど君は無位・無官のまま・・・。

そしてとうとう忠平は、まさかど君に相馬御厨(伊勢神宮の荘園)の下司として、母の郷里・下総に帰るようにとの通達を出すのです。

郷里へ向かうまさかど君の背中には、どんな色が映っていたのでしょうか・・・。

<あとがき>

結局将門は、醍醐天皇の下で将軍にはなれなかったんですね。このことを考えていたら、自分の中でシンクロしたのは、新田義貞公のことでした。義貞は後醍醐天皇の下で『左兵衛督』という武門長の位を授かっています。これを平将門と関連付ける人は居ないと思いますが、私にはなんだか義貞公が将門の夢を叶えたような気がするんですよ・・・

醍醐天皇と将門・・・

後醍醐天皇と義貞・・・

もしそうだとすると、桔梗さんの夢を叶えた人も、義貞の側にいたのでしょうか・・・


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/bc7e1f15a7752217768527246b73d645 【新将門考-母系因縁の巻】 より

 その昔坂東の地では、坂東太郎(利根川)を挟んで東西二つの部族が、覇を競っていた。西側部族を武蔵一族と言い、その祖先を物部氏に持っていた。物部氏は出雲ノ国を脱し、諏訪を経て武蔵の国造となり、そのとき氷川神社を勧請し、出雲神を祭祀した。一方東側の部族を毛野族(けのぞく)と言い、そのルーツを紀ノ国(熊野)や三輪山に持っていた。彼らは尾張国を経て、坂東太郎の東側に入植し、上毛野・下毛野という二つの国を治めた。そして日光と宇都宮にて、二つの二荒山神社に出雲神を祭祀した。こうして系統の違う二つの出雲族が、律令制度で国造が廃止されるまで、王国を築いていたのである。

 やがて時代は下り、上毛野・下毛野の国はそれぞれ常陸・下総ノ国と呼ばれていた。常陸ノ国では元の大掾(だいじょう・国司の一職)・源護(みなもとまもる)が土着して広大な私営田を領有し、一大勢力を築いていた。下総の国は利根川や小貝川の流域にあたり、度重なる氾濫により農耕には適していなかった。そのような土地に勢力を張ることができたのは、差別的な立場で動物や金属を扱える、出雲系原住民・犬養氏である。彼らはその技能を生かし、牧畜や鉱山、そして流通で広大な領土に勢力を保ち、富を誇っていた。その領土を伊勢神宮に寄進し、税金逃れをしながら・・・。(この当時荘園を寺社に寄進するのが流行ったのは、税金逃れと国司立ち入り禁止のためだったらしい)

 毛野国がこのような勢力図のときに、桓武平氏の祖・高望王が上総ノ国に国司として赴任してきた。その子供たちは次々と国司になっていった。国香は常陸ノ国・大掾、良兼は下総介、良持は鎮守府将軍兼陸奥の守になった。しかしかれらは、表向きの役職がある役所の場所には住んでいなかった。国香・良兼は源護の勢力圏に館を構えていた。良持は犬養一族の勢力圏・下総に居を構えていた。これは一体どういうことだろう。

 その理由は結婚制度にあった。平安時代の結婚のありかたは、戦国時代の武将のそれとは全く違う。当時は結婚したら男は入婿するのである。館や土地は女性が用意するのがしきたりで、そうできないと恥じとされた。この当時『土地と建物』の主導権は女性が握っていたのである。

 ちょっと平家の系図を見てほしい。高望王の子供たちは、その結婚相手によって二派に別れた。国香・良兼・良正の三人は、土着貴族・源護の娘に入婿した。良文は武蔵の国・村岡郷に入婿し、将門の父・良持は、下総の国は犬養氏に入婿した。よって高望王の子供たちは、その結婚相手によって嵯峨源氏・源護派と、武蔵&下野毛・出雲連合派にきっぱり別れてしまったのである。この区別は単に結婚相手というだけでなく、『土地』というこれから育っていく武士にとってはきわめて重要な要素による区別なのであった。

 そんなこんなの坂東勢力地図の中、まさかど君はおそらく901年、その名前を小次郎として、おそらく今の佐倉市・将門山と思われるところ、たぶん出雲族と思われる、犬養一族の館で生まれたのである(この辺は全部はっきりしていない)。犬養一族の子として生まれ育ったまさかど君は、馬や金属の扱いに長けていたに違いない。そんなまさかど君は夢を持って上京したのであるが、前回お話ししたとおり、後から来たさだもり君に先を越されて、すごすごと下総の地に帰ってくるのである。

 この将門と貞盛・・、250年後の源平合戦にまで尾を引いてしまう因縁の二人は、一体どこがどう違うのだろうか。なぜ忠平は貞盛を残して将門を帰したのだろうか。私が考える二人の間の最大の違いは、ずばり『母親』なのである。従兄弟なんだから母親が違うのが当たり前なのだが、その違い方が尋常でない。貞盛の母親は嵯峨源氏系の女で、皇室の血を継ぐものである。将門の母親は縄文系と言われている犬養一族なので、その時代から存続している民族というのは出雲系なのである。つまり何が言いたいのかというと、貞盛と将門の違いというのは、天孫と出雲の違いだと言うことである。

 皆さんは『出雲の国譲り』というお話しをご存知でしょうか。古事記や日本書紀、はたまた古代史研究サイトでは必ず取り上げられている、日本人のルーツにおける最大相克のテーマなのであります。その謎を追って探求している人が跡を絶たないのですが、実は貞盛・将門の相克のエネルギーは、日本国成立の際に発生した天孫・出雲の相克エネルギーから来ているという主張を、このサイトではしておきたい。母親が違うというだけで、この二人は壮大な古代史ロマンを背負ってしまっているのです。その太古の昔から流れ込んできているエネルギーが、この後とんでもない事件を引き起こし、平安京を根底から震撼させることになろうとは、将門少年当時、誰も知る由がなかったのでありました・・・。

 続く・・・

<あとがき>

明日は節分ですね。

節分では「鬼は外、福は家(うち)」って言いますよね。

これって最近すごい差別用語なのではないかと、思うようになりました。

だって『鬼』って将門のような存在を言うんでしょう?

恐いから豆ぶつけて東北の『鬼門』に封印しちゃうんですか?

冗談じゃありません、恐いのは差別して裁く存在がいるからです。

だから怒ったり祟ったりするんじゃないんですか?

誰が裁くのでしょう。それが『天孫』なのです。

そしてその天孫・出雲の相克エネルギーは、今も地殻の中にくすぶるエネルギーとして、

そして『癒されない強烈な今』として、地球を苦しめているのだと、私は感じます。

だとしたら天変地異とかって神様方にも責任があると思いませんか?

私は最近自分の体の中に、その相克のエネルギーを強く感じるのです・・。

裁くのも祟るのも、もう止めにしませんか、神様方。

母さんが痛いって言っているのですから・・・。


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/f0df4a3479ea1595e8254ffa2e9a3b0f 【新将門考-崇門の巻】 より

平安の都は、全然平安ではなかった。人々は祟りを恐れ、それを真面目に信じていた。特に信じていたのが朝廷だった。そもそも平安京が創られた理由そのものが、祟り封じだったのだ。平安時代を理解するには、この『祟り』を避けて通るわけにはゆかない。

 長岡京に都を移してから一年後、時の桓武天皇は大変な政変に見舞われていた。785年、腹心の藤原種継が暗殺されたのである。首謀者は大伴継人等とされすぐに逮捕されたのだが、類は桓武天皇の弟・早良(さわら)親王にまで及んだ。親王は元々皇太子と決まっていたのだが、藤原種継の娘と天皇のあいだにできた子(安殿親王)が皇太子となる可能性が出てきたため、それを阻止する行動と見られたのである。しかし早良親王はこれを不服とした。幽閉先の乙訓(おとくに)寺で講義の断食を行い、淡路島へ流される途中で無念の餓死・・。

 さあ、それから天皇の周辺は大騒ぎ。まず妃の一人旅子の母が病死、続いて旅子も亡くなり、天皇の母・高野新笠(たかのにいがさ)、皇后の乙牟漏(おとむろ)も相次いで死亡。さらに皇太子として立てた安殿(あて)親王が重い病気にかかったまま回復の兆しなし。この事態を陰陽師に占わせたところ、なんと『早良親王の祟り』と出る。桓武天皇は慌てて平安京への遷都を決定した。その後早良親王は祟道天皇という称号を与えられ、大和に手厚く葬られることになる。

 平安京への遷都そのものも陰陽師の占いによって決定された。それは邪悪なものがしないようにと、風水に基き計画され、造営されていったものだった。四神相応(東・青龍、西・白虎、南・朱雀、北・玄武)の地形に囲まれ、羅生門の左右を、東寺・西寺で固め、さらに東北の鬼門・比叡山には延暦寺を建立。あの手この手を尽くして怨霊が進入しないようにと、措置が取られていた。しかしそんな努力も、桓武天皇六世の将門・貞盛の時代には、役に立たなくなっていた。

 時は醍醐天皇の御治世、903年、大宰府の地で菅原道真公が無念の死を迎えると、道真公左遷の張本人、藤原時平の周辺では、相次ぐ不幸に見舞われる。906年、大納言・藤原定国死去(41歳)、908年、参議・藤原菅根死去(53歳)。そしてついに藤原時平自身も、909年39歳の若さで死亡。それだけでは終わらず、913年、道真公の代わりに右大臣に座った源光が『底なし沼』に引き込まれて事故死(69歳)。このころから道真公の崇りといううわさが流れるが、そのうわさも皇太子・保明(やすあきら)親王が923年、21歳の若さで急死したことにより表面化。醍醐天皇は慌てて道真公左遷時の詔書を破棄して右大臣に戻し、改めて正二位を贈り、年号も延喜から延長に改正する。 そこまでして皇太子に据えた孫の慶頼(よしより)王も、2年後の925年、わずか5歳で天然痘により死去。いよいよ醍醐天皇は、心理的に追い込まれていくのである。

 藤原時平が死亡したころから、日食・月食・彗星・落雷・地震・旱魃・洪水・火事・伝染病の流行が頻繁に起こるようになり、それも道真公の崇りのうわさに拍車をかけていたのであるが、930年、ついに決定的な事件が宮中で勃発してしまうのである。6月26日、旱天続きの対策で、諸卿が殿上に侍して請雨の件で会議していたところ、にわかに雷鳴し、清涼殿西南の第一柱に落雷。殿上の間の東北隅座っていた大納言・藤原清貫と右中弁・平希世等が震死,紫宸殿に居た右兵衛佐美努忠包等が髪を焼かれるなどして死亡。

 醍醐天皇はこの事件に激しい衝撃を受けて病床に着き、咳病を患って病勢を募らせた。死期を悟った天皇は、9月22日に寛明親王に譲位(朱雀天皇)、左大臣の忠平に摂政のことを依託し、29日46歳を以て崩御されるのであった。

 将門が叔父たちの縁戚に不意打ちを食らって、鬼として暴れ始めるのが、この五年後の935年と将門記(しょうもんき)は伝える。そしてその将門記では、将門公の晩年、死んだはずの菅原道真公と直接関わる記述が載っているのである。

<あとがき>

 将門が中央で仕官したいた時は、なんと直接醍醐天皇の側仕えとして侍していたという記述を、平家礼賛というサイトにて発見いたしました。そのころの中央朝廷の雰囲気って、こんなにもおどろおどろしかったんですね。教科書には載せることができない、歴史の真実といったところでしょうか。だから陰陽師も発達してくるわけでありますが、スーパースター安倍晴明が誕生したのは921年、将門が19歳のときではないかと、伝えられております。

 ちなみに道真公が神として祀られるようになるのは、将門死後の話しであります。道真怨霊伝説は、まだまだ序の口なのでありました。う~こわっ。。