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縁地探訪(栃木県)②

2020.11.25 03:39

https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/ee40318382d454cca3040171958fc9e6

足利市1(栃木県)

昨年、足利市の将門伝説として足利市内を訪ねてみました。まず、「支体埋葬」の話から数回に分けて紹介します。

●『支体埋葬(支解分葬)』

東京都内では、神田明神が将門の「首」、鳥越神社が「手」、築土神社が「足」を祀っているといわれています。このように、死体が生き返ったり、怨霊を荒れさせない(祟らない)ようにと願って、死体を分解して埋葬することを「支体埋葬(または支解分葬とも)」といいます。成田山と同じように、将門調伏の寺として足利市小俣町の鶏足寺があります。鶏足寺と将門の結びつきは、その周辺にも将門の「支体埋葬」の伝承があることからも窺われます。鶏足寺は世尊寺といっていたのを、秀郷に切られた将門の首が、空を飛んでこの寺の屋根にさしかかったところを、三本足の鶏が地に蹴落としたことから、寺号を鶏足寺に改めたのだといいます。これらは、将門を討滅した側の将門慰霊鎮魂ともいわれますが、その伝承が鶏足寺周辺に集中しているということは、鶏足寺が将門調伏において重要な役割を果たしたということなのでしょう。群馬県太田市只上は将門の寵妃桔梗の前の出生地といわれていますが、この只上神社はかって胴筒の宮と呼ばれ、将門の胴体を埋めたところといわれています。同じく、足利市五十部町の大手神社は将門滅亡のときにその手が飛んできたところといい、同市大前町の大原神社はその腹が落ちたところといいます。これらを纏めてみると、次のようになります。

『首が飛ぶ』=鶏足寺(足利市小俣町)

『足』=子の権現(足利市樺崎町)

『手』=大手神社(足利市五十部町)

『腹』=大原神社(足利市大前町)

『胴』=只上神社(群馬県太田市只上)

また、成田山新勝寺と鶏足寺を結ぶ直線上に、将門が政治・経済・軍事の本拠地とした石井の営所跡といわれる島広山(しまひろやま)があります。新勝寺と鶏足寺から挟み撃ちにするように霊的攻撃を加えたということになりますが、この場合は、将門は岩井(石井)にいたことになります。さらに、鶏足寺からの西北30度線上に将門が生まれたという豊田館比定地の一つである結城郡石下町向石下の将門公苑があります。

「江戸の方位線→将門と浅草寺」

http://hw001.gate01.com/sangatu/edo.htm


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/66964d4913e7f08a340a2c6497f9f39e

足利市2(栃木県)

引き続き、足利市の「将門の支体埋葬の地」として「子の権現」と「大手神社」などを訪ねてみました。

今回、回る場所が広範囲になるので、足利学校跡の近くにある「太平記館」でレンタサイクルを借りて走ってみました。

【子の権現】足利市樺崎町字堤谷

国道293号線を鹿沼方面へと向かい、大月小学校の一つ先の交差点を右に入り、奥に見えるゴルフ場を目指します。交差点から500mのところ、左に「子の権現」と刻まれた石標があります。ここが子の権現への参道です。二軒目の民家の右の畑の中の道を行くと、右上に小さな社が見えてきます。この社が、将門が滅びたとき、その股(足)が飛来してきて、それを祀ったといわれています。子の権現は足の神様だということで、祠の横には草鞋が多く吊るしてありました。

【地蔵院】足利市百頭町

地蔵院は、東武線福居駅の南1に位置します。地蔵院の北50mのところにある墓地の中央にある古い五輪塔は、当時この地方の権力者であった御厨太郎のお墓だと伝えられています。この御厨太郎は、将門の弟・御厨三郎のことを指しているといいます。一字も文字が無いのは、当人を憚って文字を入れなかったといいます。

http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/01_kakuka-page/10_kyouiku/05_bunka/bunkazaimeguri/siryou/mikuriya/05.htm

【八雲神社】足利市緑町

この神社は、両毛線沿いの足利公園に並んであります。

『境内の案内板由緒』には、次のように記されていました。

《佐野唐沢山城主、下野守藤原村雄(秀郷の父)が夢のお告げにより、貞観年間(859-876)に創建したと伝えられています。また「栃木県神社誌」によれば、清和天皇の貞観11年(869)、右大臣藤原基経が、当緑町に上社、5丁目に下社を勅願所として創建したといわれています。平将門の乱に平定祈願成就により、足利、梁田両郡の総鎮守となり、牛頭天王と呼ばれ広く崇敬を集め、朝廷や国府からの参拝も行われたと伝えられます。》

http://www.watv.ne.jp/~souun/zinziya.htm

【大手神社】足利市五十部町

足利競馬場の北側にあります。天慶年間、秀郷が将門追討祈願のために建立したといわれ、将門が敗死したときにその手が飛んできたのを祀ったという伝承があります。

『境内の案内板』には、次のように記されていました。

《祭神は天の岩戸開きの神話で有名な天手力男命で、人間の手の神様として尊信し、手を病む者または手の上達を願う者の祈願神であり、手の型を描いた絵馬を奉納する人が多い。ところが、また別にいつの頃からか、その祭神は平将門であるとして、その将門が藤原秀郷に殺害されたのは、桔梗姫が秀郷に将門の居場所を指さして教えたからだと伝えられ、その後、大手神社の敵は桔梗姫であるということから、この神社のある新屋敷町では、桔梗のすべてをきらい、たとえば着物の柄にいたるまで使用しない習慣があるといわれている。》

【大原神社】足利市大前町

「大前三丁目」バス停の先の交差点を左に入ると、両毛線の傍に大原神社があります。この神社は、山城国(京都府)乙訓郡の大原野神社の四柱の大神を勧請したのが起源といわれ、平将門の腹が飛んできたという伝説があり、腹部の病気や安産に霊験あらたかという信仰があるとのことでした。このことは、境内の神楽殿の説明板に詳しく記されていました。

【無量院】足利市葉鹿町

坂西団地の北に位置します。無量院は天慶年間(938~946)のころ、将門を調伏した定海上人によって開かれました。境内のカヤは雌木で門の前の一段高くもりあがったところに立っています。根元は一段と太くなり、根張りが発達している様子がよくわかります。

「無量院の板碑とカヤ」

http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/01_kakuka-page/10_kyouiku/05_bunka/bunkazaimeguri/siryou/hajika/06.htm


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/2a070f6dfedb7d7df580f10420e7ec01 

足利市3(栃木県)

引き続き、足利市西部の将門伝説として「鶏足寺」と「只上神社」を訪ねてみました。

【鶏足寺】足利市小俣町字町屋

両毛線小俣駅北方1.5。1,100年以上も昔、定恵上人によって開創された名刹で、真言密教の大本山です。初めは世尊寺といいましたが、天慶の乱(939~940)の際、平将門を調伏したところから勅命により鶏足寺と改めたといわれます。

『鶏足寺の伝説』

平将門が朝廷に背き乱を起こしたのが天慶2年のこと。翌年、藤原秀郷が天皇の命によって将門と戦います。このとき世尊寺の常祐法印は秀郷の勝利を祈願し、法力で将門を倒すように命じられ、土でつくった平将門の首を供えて連日連夜祈り続けました。ところが8日目、法印はとうとう眠ってしまいました。すると夢の中で、3本足の鶏が血まみれの平将門の首を踏みつけているではありませんか。法印が鶏の笑い声でハッと目を覚ますと、土像の首には鶏の足跡が3つ、はっきりと付いていました。そして、17日目の満月の日、秀郷が平将門を討ち取りました。世尊寺は、このことから「鶏足寺」と改めました。

なお、この地に将門を調伏した常祐法印の塚といわれる「入定塚」があるというのですが、確認できませんでした。

【只上神社】群馬県太田市只上

後日訪ねたのですが、関連がありますのでここにも紹介します。鹿島橋南詰から西すぐのところに位置します。将門の乱ののち、秀郷が将門の首級を下野小俣(現在の足利市)の鶏足寺に送る途中、この地・只上(ただかり)にさしかかると、将門の首が怨霊となって奇声を発した。その後、この地に不思議なことが次々と起こったため、将門の胴体をここに埋め一祠を建てて「胴筒の宮」と呼んだといわれています。これが只上神社の前身だとのことでした。

足利は蕎麦が有名。帰りがてら、大日大門通り(ばんな寺参道)の入り口にあるいつも寄る「めん割烹・なか川」で蕎麦にしました。この店は足利で生まれた「相田みつを」が良く通ったといわれていて、店の看板をはじめ、店内には相田みつをの作品が多くあります。

「めん割烹・なか川」

http://www.soba.info/

「相田みつを美術館」(東京都千代田区丸の内・東京国際フォーラム内)

http://www.mitsuo.co.jp/museum/index.html

  《あとじやできねんだよなあ

    いまのことはいましかできぬ  みつを》


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/688911c1cf432d26594a8ed69c8fec2f

藤岡町1(栃木県)

昨年、栃木県藤岡町の将門伝説として、「藤岡城址」などを訪ねてみました。二回に分けました。

【藤岡城址】藤岡町藤岡字底谷

東武日光線藤岡駅の改札口を出て左(北)に向かうと、「藤岡城址」の道標があります。道標に従い線路を渡り、まっすぐ行くと「ネクスタパッケイ」という製袋工場があります。この工場を左に巻いて行くと「三所神社」と掲げられた鳥居があります。ここら一帯が「藤岡城址」で、鳥居をくぐると「三社神社」という祠ともう一つの小さな祠があります。説明板には、承平二年(932)将門がこの地に城を築き花岡城と称し、将門の弟・将頼を居城させたという。また一説には、興世王の城であったともいわれています。その後、寛仁二年(1018)に子孫の足利成行が再興し、一族の佐貫重光を住まわせたといいます。将門が城を築いた承平二年といえば、将門が相馬御厨に赴任して3年目、それも秀郷の勢力範囲であったこの地に城館をおいたとは驚きです。

http://www65.tok2.com/home2/yogokun/hujiokasi.htm

http://marie.saiin.net/~tochigi-castle/fujioka.htm

【藤岡神社(六所神社)】藤岡町藤岡字城山

藤岡神社は、藤岡城址から南方700mに位置します。将門と秀郷の戦いに、藤岡城からも兵たちが出陣しました。将門軍が敗北し六人の兵が戦場から帰り、この城に着いてから切腹して果てたといわれ、この六人の遺臣をここ城山の地にあった八幡宮に「六所大明神」として祀ったといいます。つまり、天慶三年(940)「六所神社」として、この地の城山に創建。そして、明治八年(1875)に「藤岡神社」と改められたといいます。昔の神社名「紫岡神社正一位六所大明神」の額は、本殿内に掲げてあります。

http://www.cc9.ne.jp/~ssuto/fuji-1.htm

http://www.cc9.ne.jp/~ssuto/fuji-18.htm

【慈福院】藤岡町藤岡

慈福院は、藤岡駅の北東100mの駅前通りにあります。承平二年(932)将門がこの地に浄楽寺を建立し、やがて廃寺となり後に再建されて「慈福院」と号するようになったといいます。また、境内の薬師堂に祀られている薬師像は、将門の守り本尊だといわれています。入り口の藤岡町説明板には、《貞観元年(859)滝口小次郎相馬将門が薬師如来を刻み、藤岡上高野に慈福寺を興す》とあります。これは、将門の時代と随分かけ離れていますがどうなのか疑問が残ります。


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/c034393bdf4b4398ba754dd851c27a43

藤岡町2(栃木県)

引き続き、栃木県藤岡町の将門伝説として「大前神社」と「小南城址」を紹介します。

【大前神社】藤岡町大前

大前神社は、渡良瀬川に架かる新開橋の北方1㎞に位置します。社伝によれば、天慶二年(九九三)平将門の乱の際、村中ことごとく兵火に焼かれ当社も焼失したが間もなく再建されたといいます。

http://www.genbu.net/data/simotuke/oosaki_title.htm

【願成寺跡(小南城址)】藤岡町都賀字館

佐野市との境の三杉川沿いにある丘陵に、「小南城址」は位置します。対岸の佐野市越名町に、秀衡が勧請したという「藤田神社」(後日、佐野市の将門伝説で紹介)があります。将門の乱の後、この丘陵の西端に秀郷が鎌倉の円寿堂を勧請して、寺号を「願成寺」と称して開基したといわれていますが、現在、寺院はなくなっておりただ一面の墓地となっています。ただし、小南城が築かれたのは源頼朝の時代のようです。

「小南城址」

http://www2.ucatv.ne.jp/~m_wata.sky/fujioka.html#shonan


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/e6cfc06c149e30d98fd08bf07d657952

野木町(栃木県)

今年六月、梅雨の晴れ間を狙って、渡良瀬遊水地から栃木県野木町周辺の将門伝説を訪ねてみました。

○「群馬県板倉町レンタサイクル」

東武線板倉東洋大前駅の東口からすぐに、レンタサイクルがあります。受付は「わたらせ自然館」です。渡良瀬遊水地をサイクリングできます。

http://www.town.itakura.gunma.jp/kurashi/asobikata/asobi_03.html

「渡良瀬遊水地」

http://www1.odn.ne.jp/~aan53170/wtrs/

渡良瀬遊水地を爽快に走りぬけ、谷中橋、新赤麻橋(鷹見台)を渡り、右に第2調整池を見ながら巴波川沿いの土手上を走ります。そして、藤岡町部屋集落から小山市白鳥集落を目指します。

【白鳥八幡宮】小山市白鳥

小山市南部の白鳥に位置しています。秀郷が将門を征伐して、この社を勧請したと伝わっています。この神社は、「日の出祭り」が有名です。この祭りの「鬼(悪霊)」は将門のことではないでしょうか。

「白鳥八幡宮の日の出祭り」

http://www.city.oyama.tochigi.jp/contents/7d2b0d122b231d4/7d2b0d122b231d411.htm

http://www005.upp.so-net.ne.jp/mai/oyama-city/hyakei/namai/image000.htm

【御門の地・大塚古墳】野木町南赤塚字御門

野木駅の南東2の字御門の地区。根渡神社の南が御門にあたります。将門が館や軍営を構えた場所だといわれています。現在は存在していませんが、かつて御門様と呼ばれた寺があったということです。

この御門の地区に、大塚古墳があります。墳頂部に稲荷神社がありました。将門が館を構えたのは、このあたりではないかと思われます。この古墳から南200mのところに、秀郷が陣を構えた日月神社(茨城県古河市・旧総和町)があります。ちょうど県境ですが、これは偶然と思えません。私がこの古墳に着いた頃、中高年8名ぐらいのグループが車二台でやってきました。その中の一人、たいそう歴史に詳しい学者風の人と話をすることができ、この地区(野木町周辺)の歴史などいろいろと教えていただきました。

http://www.tochigi-c.ed.jp/bunkazai/bunkazai/list/963.htm

【野木神社】野木町野木

秀郷が将門を追って、この神社まで来たとき、急に癪が起こってそのまま引き返していったといわれています。また、明治の乃木大将は、この神社を厚く敬い度々参詣に訪れ、愛用の軍刀をはじめ累々の家宝を奉納したといいます。

http://rover.seesaa.net/article/9191464.html

http://japan-city.com/nikou/11/

野木神社の二輪草は、有名です。

http://www8.plala.or.jp/meisyo/noginirinsou.html

帰りは野渡橋を渡り、またも渡良瀬遊水地の中を爽快に走りぬけて帰りました。


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/8219100eefc38951cb6718b2e9e1f2a0

太平町(栃木県)

昨年、栃木県の大平町の将門伝説を訪ねてみました。

今回も広範囲になるので、栃木駅前でレンタサイクルを借りることにしました。

【日枝神社】大平町下皆川

大平山公園東麓。藤原秀郷が勧請したといわれています。

【将門霊神古墳】大平町下皆川

中山(143m)東麓。この古墳の南側に富田家があり、この家は代々この古墳を将門の墓と崇めて、小祠を祀り祭祀を続けてきたという。また、この富田家は将門の子孫を称しています。

http://sgkohun.world.coocan.jp/totigi/oohira/masakado.html

【清水寺】大平町西山田

晃石山登山口。天慶十年(947)秀郷が将門征討祈誓の報恩として、堂宇を再建したと伝えられています。

http://www.kimura-product.co.jp/kannon9/simotuke/simotuke09.htm

【神だめ】大平町西山田

この地の沼に、神だめというところがあります。秀郷がここで鎧を脱いでいたところ、突然、神だめから美女が現れて鎧を持っていってしまった。この美女は、秀郷が討った百足の化身であったという。

【晃石神社】大平町西山田

秀郷が将門の乱の折、必勝祈願をして見事勝利を収めた。また、承平年間(947)にこの社が火災に遭ったとき秀郷が再建したという。

http://www.geocities.co.jp/Athlete-Acropolis/3266/215phxf03.12.13oohirasan-teruishisan.html

【如意輪寺】大平町富田

938年2月、秀郷が皆川村(現大平町下皆川)に「摩尼珠山釈迦尊寺」(旧称)を建立し、英(はなぶさ)親王の御霊に調伏を祈り、庄園を寄付し開基したと伝えられています。

http://www.roy.hi-ho.ne.jp/horitan/hudasho/25.htm

【蔵井の諏訪神社】大平町蔵井

永野川に架かる山下橋を渡った左にあります。秀郷が将門討伐のため、信州から勧請したといいます。

http://5.real-sound.net/~tetsuyosie/tochigi/simotsuga/suwa/suwa.html

【真弓の諏訪神社】大平町真弓

当社は磯山(51m、栃木県で一番低い山)の南麓に位置しています。秀郷が将門の反乱を平定するに当り苦戦を強いられ、信州諏訪大明神に戦勝祈願をなし、天慶三年神助により勝利して判官代に任ぜられたことにより、磯山の山上に勧請、西御床十二郷を神領として寄進したのを創始としています。

http://www.tochigi-jinjacho.or.jp/0507jinja/suwa.html

http://www.geocities.co.jp/Athlete-Acropolis/3266/227-8hxf04.01.17nakayama-isoyama.html

【高島神社】大平町下高島

下高島交差点の東側に位置しています。秀郷が武運長久を願い、鹿島神社をこの地に勧請したといわれ、後に社号を高島神社に改めたといいます。

http://komainu.main.jp/oohira2.htm

【榎本の八坂神社】大平町榎本

大中寺の東側。秀郷が将門を征伐して宿願を果たしたので、都の祇園社を小山、結城、榎本に勧請したといいます。

【西水代の八坂神社】大平町西水代

西水代交差点の東側。秀郷が将門追討のとき、戦勝祈願をして建立したと由緒にありました。

http://komainu.main.jp/oohira1.htm


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/e830e60b0415ba840e0da9cbeea7c793

栃木市1(栃木県)

昨年、栃木市北部と都賀町の将門伝説を訪ねてみました。

今回も栃木駅前の自転車屋さんでレンタサイクルを借りて、県道32号栃木粕尾線を星野に向かって走ります。

【春日神社】栃木市大久保町

尻内橋東交差点を過ぎ、大久保バイパスをまっすぐ1.5km行くと「春日神社」があります。周囲の民家は少なく、右手に新しく建てかえられた本殿があります。この神社は、藤原秀郷が創建したといいます。

【布袋岡城址】都賀町深沢

尻内橋東交差点まで戻り、国道293号を左に都賀町に向かいます。道路は狭く砂利トラックが多く走り、自転車で走るのに気を使います。都賀町に入り、宿坪集落で右に深沢集落を目指します。畑仕事の人に訪ねますと、建憧寺の北側200mの要害山東方尾根に「布袋岡(ほていおか)城址」があるとのことでした。尾根末端の民家でも教えてもらい許しを得て、自転車を置いて尾根に入ります。民家の敷地内にお堂らしきものがあるのですが先に進みます。しいたけ畑を過ぎると城址で、土塁・堀などが広範囲にわたっています。この城址はあまり知られていなくて、情報がすくないのですが次のことがわかりました。

○城名=布袋岡城址(別名・要害山)

○築城者=皆川成勝

○築城時期=永正年間(1504~21)

○遺構=曲輪・土塁・空堀

○形式=山城

○標高(比高)=187m(87m)

この城の築城前になりますが、ここに藤原秀郷の居館があったといわれています。

ついでなので、東武日光線合戦場駅周辺を走ってみました。

「磐根神社」都賀町合戦場

合戦場駅の西側にあります。磐根神社の創立は慶長元年(1596)九月一九日。昔は、この神社付近から沼一帯が標茅ケ原(しめじがはら)という沼だったそうです。歌枕の標茅ケ原の跡で、沼の北端に碑があるといいます。そのほかに、歌枕は「室の八嶋」・「しわぶきの森」・「伊吹山」などが知られ、都の人々に詠まれたものがいくつもみられます。

http://www.tochigi-jinjacho.or.jp/0507jinja/iwane.html

「合戦場宿」都賀町合戦場

合戦場という地名は、その字のとおり合戦が行われた場所です。大永3年(1523)10月、宇都宮忠綱と皆川宗成の軍が戦い、皆川方についた小山・結城・壬生の諸氏が宇都宮軍を敗走させた「川原田合戦」の戦場がここになります。合戦場宿は、日光例幣使街道に沿って500mほど続きます。町並を西に入った東武日光線沿いの一郭は、遊郭跡です。宿駅時代の飯盛女を集めて遊女屋としてここにまとめたもので、昭和33年まで遊郭だったというのですがもはや面影はありません。

「升塚」都賀町升塚

日光例幣使街道を行くと「升塚」があります。案内板によると1523年、皆川勢と宇都宮勢との間で戦があり、その時の戦死者を一箇所に集め葬ったとされる塚であるということです。

http://www.nihon-kankou.or.jp/soudan/ctrl?evt=ShowBukken&ID=09368af2170017696

「愛宕神社」都賀町升塚

升塚地区の愛宕神社は、応長15年(1311)京都愛宕山の愛宕神社を勧請したといわれ、火防せの神を祀り、祭神はか軻ぐ遇つち突命・大雷神です。毎年5月3日と11月3日の愛宕神社例大祭に都賀町指定無形文化財の文挟小流獅子舞「升塚獅子舞」が奉納されます。この獅子舞は、日光東照宮造営の際、地固めに踊ったと伝えられています。

http://www.kumagaya.or.jp/~kame/koyomi/tochigi/TsugaMasuzuka.html


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/fba5165c98057dd119284bd7c896ce8c

栃木市2(栃木県)

昨年、栃木市東部の将門伝説を訪ねてみました。

今回も栃木駅前の自転車屋さんから一台レンタサイクルしました。まず栃木市東部の「大神神社」へ向かう前に、「木花咲耶姫(このさくやひめ)の伝説地」を訪ねてみました。大宮町印役から大宮町と国府町の間の道を東に入ります。

「木花咲耶姫について」

http://www.bashouan.com/pdSakuyahime.htm

「高天原御釜神社」栃木市大宮町印役

この地は昔から「高天原」と呼ばれています。天御祖(あめのみおや)の神と呼ばれます天地創造の神、万物生成の神が息吹きされたとき大きな洞穴ができ、そこに空風火水地ができたという伝承があります。この大きな「うつろ(釜)」を尊崇する古代人の信仰によって、生まれてきたものといわれています。

「一度橋跡」栃木市大宮町印役

さらに数メートル行くと「一度(いちどん)橋跡」があります。この地は木花咲耶姫の伝説の多い土地です。この橋の由来は、木花咲耶姫命が父・大山低(おおやまのつみ)の神の譲りを受けた秀峰・富士山に神として移るとき、故郷・室の八嶋(大神神社)を離れる際に、二度と帰らぬと決意をして渡った橋で、「二度と帰らぬ一度橋」と伝えられています。

「見返り浅間」栃木市大宮町印役

さらに数メートル行くと「見返り浅間」があります。木花咲耶姫が秀峰・富士山に赴くときにこの地に留まり、ここに腰をおろして室の八嶋の方に向かって感慨無量となり、暫く故郷の地を眺めて目に焼き付けたのち、先ほどの一度橋を渡って一路富士山へ向かって出発したところと伝承されています。

○下野国国府跡はどこか

将門が下野の国府所在地に入ったのは、承平六年七月と天慶二年十二月の二回。一回目は下館北方樋口あたりの戦いで、敗走する良兼・良正・貞盛連合軍を追って府下を包囲したとき。次は関東制覇を志して国庁に入り藤原公雅、大中臣全行の新旧下野守を京へ追放したときでした。国庁(奈良・平安時代の役所。下野の一国を統治するための拠点になる役所のある場所)跡は、現在、田村町になっています。しかし、国府(役所が集まって地域で町をなしていたような広い場所)跡は、現在の勝光寺境内、大宮集落内(大宮神社周辺)、総社町大神神社周辺、国分寺町の愛宕神社周辺とかいくつかの説があって、どこなのか判然としていません。

「民俗探訪コース・国府跡」

http://www.cc9.ne.jp/~networktochigi/free_campus/free_campus_20020514.html

【勝光寺】栃木市国府町

見返り浅間からさらに東に向かうと「勝光寺」が見えてきます。この寺の南西部に国府があったのではないかという説があります。また、境内には室町時代までは、土塁や堀があったという記録があります。

○「しわぶきの杜」栃木市国府町愛宕

勝光寺から北東1kmに「しわぶきの杜(もり)」があります。この森はもっと広範囲にわたる森林であったと思われ、古代以来、東国の歌枕として京の人々にも知られた名所でした。今は僅かの名残だけが留めるだけにすぎません。

「栃木市の歌枕」

http://www6.ocn.ne.jp/~tntenji/bikou/bg_tochigishi.html#しわぶきの森

【大神神社・室の八嶋】栃木市惣社町

しわぶきの杜からさらに北東2.5kmの惣社町に「大神(おおみわ)神社・室の八嶋(むろのやしま)」があります。神社の境内の池には8つの島があり、「室の八嶋」といわれ、下野国の神々をそれぞれに勧請し、一度にお参りができるようになっています。そのため、「下野惣社」ともいわれています。その昔は、池から煙りが吹き出ていたことから、煙の名所ともいわれていたようです。

 「下野や室の八島に立つ烟 我このしろにつなしやくなり」

主祭神とは別に、富士浅間大社の祭神である木花咲耶姫命や、産屋が火に包まれた中で出産された彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)が祀られているところは、煙との関係があるかもしれません。平安時代以降、その名は京にも達し歌枕にもなるほどで、藤原定家、松尾芭蕉など歌人によって多くの歌が詠まれています。境内には、それらの歌人が詠んだ句を刻んだ石碑が置かれています。また将門伝承では、藤原秀郷が将門討伐の勅命を奉じて戦勝を祈願したといいます。

http://www.genbu.net/data/simotuke/ookami_title.htm

http://www6.ocn.ne.jp/~tntenji/heian.html

○松尾芭蕉の句 「糸遊に結つきたる煙哉」

○松尾芭蕉『奥の細道』(室の八嶋の条)より

《室の八嶋に詣(けい)す。同行會良(そら)が曰(いは)く「此(この)神は木の花さくや姫の神と申(もうし)て、富士一体也。無戸室(むつむろ)に入(いり)て焼給(やけたま)ふちかいのみ中に、火々出見(ほほでみ)のみこと生れ給ひしより、室の八嶋と申(もうす)。又煙を読習(よみならわ)し侍(はべる)るもこの謂(いわれ)也」。将(はた)、このしろとといふ魚を禁ず。縁起の旨、世に伝ふ事も侍(はべり)し。》

*現代訳文=室の八嶋に参詣した。旅を共にした會良が次のように話をしてくれた。「この神社の神は木の花さくや姫の神といって、富士山と同体です。姫が一夜の契りで懐妊したのを疑われたので、四面を土でふさぎ、出入り口のない部屋に入り、もし他神の子なら焼け死んでしまうでしょう。といって火を付けました。火の中に彦火々出見尊を生みました。この子が八嶋の神になりました。このことから、室の八嶋というようになりました。室の八嶋は古くから《煙り立つ歌枕》として聞こえたところだが、そもそもの原因は木の花さくや姫の故事にありました」また、このしろ(中型のものはコハダ)という魚を食べることを禁じられている。

また、『奥の細道』で旅程は次のように記しています。

《この間姿川(思川支流)越える。飯塚より壬生ヘ一里半。飯塚の宿はずれより左ヘ曲り、小倉川(かつて、思川の栃木市を流れるあたりから上流域までは小倉川と称されていたが、現在は思川に統一されている)河原を通り、川を越え、惣社河岸という船着きの上にかかり、室ノ八嶋へ行く(乾ノ方五町ばかり)。すぐに壬生へ出る。(毛武<葵生。栃木市内>という村あり)。この間三里というが二里余り》

http://www.bashouan.com/pdBashous.htm

【下野国庁跡】栃木市田村町

大神神社から南4kmのところに「下野国庁跡」があります。下野国庁跡は、奈良・平安時代に制定された律令制において、中央(朝廷)から地方を統治するための全ての事務案件を処理する役所です。現代でいうところの「政府の出先機関」にあたるところで、昭和54年に発見されました。国庁の仕事は実に多岐にわたっており、国・郡・郷の政治・経済・交易など、およそその国の統治運営にかかわる事務をこなしていました。さらに、この国庁の周囲に官衙(かんが)や国司館(こくしかん・国府の長・国司の任居地)、倉庫群、任官の住まいなどが隣接され、一帯は官庁街のような賑やかさだったことでしょ。北裏手に宮野目神社が鎮座しており、この地区の鎮守の森としてその社叢が悠然とそなわっています。

http://www.city.tochigi.tochigi.jp/kankou/kokuchou/kokuchou.html

http://www.st.rim.or.jp/~komatsu/simotuke.html