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縁地探訪(栃木県)③

2020.11.25 03:57

https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/babf7a6bda0c5373667438454a630de0

今年の春、栃木県矢板市の将門伝説を訪ねてみました。

【木幡神社】矢板市木幡

矢板駅から南に1km。この神社の由緒書きには、《桓武天皇、延暦10年(791)、坂上田村麻呂蝦夷追討の命を受け、当地峯村に宿陣す。将軍、故ありて山城国宇治郡木幡村許波多神社を信仰すること年久し。よってこの地で遙拝して戦勝を祈願し、同14年凱旋の時再びこの峯村に宿陣し、この地が4神相応、宿願を果たすはこの地なりと、この地に1社建立し、許波多神社を勧請し峯村を木幡村と改めた。大同2年(807)現在地に遷座、天慶3年(940)平将門追討の際祈願に功あって社領1千石寄進される。その後八幡太郎の奥州征伐祈願にも功あり、中世の頃は領主塩谷氏の氏神として尊崇深く、源頼朝の那須野が原の狩には、愛犬が狂犬病にかかったものをなおして功ありと伝えられる。》とありました。藤原秀郷がこの社に、将門討伐の祈願をして、その効験があったので、朝廷より社領1千石の寄進を受けることになったといいます。

http://www.tochigi-c.ed.jp/bunkazai/bunkazai/list/103.htm

http://www.tochigi-c.ed.jp/bunkazai/bunkazai/list/102.htm

このほか、矢板市の史跡などを訪ねてみました。

○「川崎城址」=鎌倉時代初期、塩谷朝業(しおのやともなり)により築城され、以降、9代250年間、塩谷一族の拠点になった城址。また、塩谷朝業は歌人として有名で、歌集「信生法師集(しんしょうほうししゅう)」があります。

《鎌倉右大臣、梅の枝ををりてたれかに見せんとてつかはして待りける返事に》 『うれしさもにほひも袖にあまりけり わがためをれる梅の初花』 (嬉しさも、その匂いも、我が袖に余るほどです。私のために折って下さった梅の初花の)

○「城の湯・温泉センター」=川崎城址公園の北側にある市民の憩いの場所。

http://www.city.yaita.tochigi.jp/html/osirase/shironoyu/shironoyu-index.htm

○「矢板武記念館」=矢板武は、明治時代の地元の有力経済人で、那須の開発、国道建設、東北本線開通、地元銀行の創立などに尽力した名士。矢板武の自宅をそのまま保存・公開している記念館で、母屋、長屋門、中庭に加え、市指定天然記念物のしだれ桜も庭園にあります。


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/a669c87a7377bec32ea494ab2778ffe4 

那珂川町(栃木県)

 昨年、栃木県那珂川町(旧馬頭町)の将門伝説を訪ねてみました。

【唐の御所】旧馬頭町和見

JR烏山線終点の烏山駅前から馬頭・藤沢行きJRバスに乗り、「都橋」で下車。このバスは土日には便数が少なくなります。また、JR東北本線氏家駅前からも、馬頭行きのバスがあります。都橋バス停に「唐の御所」の看板があり、左の道を300m行くと「唐の御所入り口」で、駐車場、案内板と説明板があります。山道を登っていくと横穴墓が多くあり、その中の一つに「唐の御所」があります。説明板には次のようにありました。

《「和見実記」によると、その昔、下総の猿島を根城に平将門は関東の大半を征して、自ら新皇と称しましたが、天慶3年に滅びました。その時、三島城主・出雲守小高将良は和見に移り、黄泉寺を建て出家しました。まもなく将門の女が将良を頼ってきて、古墳の中で男の子を出産しましたが、世を憚って唐土帝王の后が讒言によって遠く流されたといいふらしましたので、この横穴が「唐の御所」と呼ばれるようになりました。》 また、将良を頼ってきた女は如蔵尼で、彼女が身ごもった女を引き取ったという説もあります。そして生まれた男子こそは、将軍太郎良門で、彼は十六歳のとき、この地を逃れ出て、父の報復を謀ったともいわれています。

http://batoh.shokokai-tochigi.or.jp/chiiki/karano.htm

http://www.nas.ne.jp/usr/isym/d0984-karanogosyo.htm

ついでに次に寄ってみました。

○「御前岩」旧馬頭町大山田下郷

【注】男子必見ですが記載・放送禁止の名所。

御前岩は武茂川の川岸にある奇岩で、旧馬頭町の観光地の一つであり、たくさんの観光客が訪れます。今から約280年前(元禄5年)徳川光圀が領内(当時は水戸藩の領地でした)検分の折、この「御前岩」をご覧になると「これは誠天下の奇岩じゃ」と驚かれて、「かかるものを衆目にさらすことは、よろしからず」と土地の役人に命じて、御前岩の対岸に竹を植えさせました。このため竹にさえぎられて、国道から御前岩を直接見ることはできません。 http://www.arakawas.sakura.ne.jp/backn009/gozeniwa/gozeniwa.html

「御前岩物産センター」

http://www.gozeniwa.jp/center/index.htm


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/ac16842a27b3373ac3e5240253664503

那須烏山市(栃木県)

昨年、栃木県那須烏山市(旧烏山町)の将門伝説を訪ねてみました。

【山あげ祭り(山あげ会館)】旧烏山町金井

旧馬頭町からの帰り、旧烏山町の「山あげ会館」に寄ってみました。「山あげ祭り」は、烏山町八雲神社例大祭の奉納行事です。時の城主であった那須資胤(那須与一の子孫)が大流行した疫病を収めるため、牛頭天皇を八雲神社にお祀りしました。地元の特産である「烏山和紙」を使った「はりか山」や館・橋などが道路上約100mの間に据えられ、それを背景に町の踊り娘が美しい舞を披露します。木頭(指揮者)の拍子木を合図に、舞台背景が千変万化する仕掛けは見事です。「山あげ会館」内での、ロボット・勘介じいさんの話は聞いていて面白かったです。

○ 山あげ祭りの演目「将門(忍夜恋曲者)」

演目の「将門(忍夜恋曲者・しのびよるこいはくせもの)」は、天保7年(1836年)初演、所要時間45分です。平将門滅亡の後、その娘・滝夜叉姫は、ガマの妖術を使って再興を図ろうとします。討伐に来た大宅太郎光國を色仕掛けで味方に引き入れようとしますが、見破られ大立回りとなります。この曲は、浄瑠璃も踊りも最高傑作とされる曲であり、山仕掛けとも調和するので山あげ祭りには最も数多く演じられています。

「山あげ会館・山あげ祭り」

http://www.mt-crow.net/k-karasuyama/index.php?mode=kk

http://www.mt-crow.net/k-karasuyama/index.php?mode=ym

【八雲神社】旧烏山町中央

烏山八雲神社誌(宮司黒崎寿著)の由緒によると、永禄三年(1560)牛頭天王を大桶から酒主村(烏山町の旧名)十文字に勧請したと書き出されています。永禄三年の頃は、歴史上戦国時代でしたので世の中の統制と治安が乱れ、野盗、追剥が烏山町の近辺にも出没した。その様な不安の中で突然疫病が大流行しました。もちろん医療機関はなく、重病患者は死を待つしかない。そこで主だった人が集まり、その年の吉凶を占易したところ、大桶村から、疫病除け、厄除けの神様を分霊し奉祀すると良いとの卦によって現在の十文字に牛頭天王を勧請し、氏子達が「病気が治りますように」と祈願し、併せて余興を奉納する事になり、神前に舞台を造り、踊りを奉納いたしましたところ、拭が如く病気が治ったと伝えられました。氏子達は大変喜び且つ安墸の胸をなでおろし、以後毎年お祭りを行う事を定め、いつか現今の「山あげ祭り」に発展してきました。

天王様(牛頭天王の特称)信仰は各地に見られますが、八雲神社由緒書によれば、永禄三年(1560)のときの城主那須資胤(那須余一の子孫)は、戦国時代で内乱がうち続き、戦死者多く、且天災のため飢饉に人民は苦しみ、疫病に死ぬものあとを絶えない有様を見て、天下泰平、五穀豊穣、疫病削除を祈願して、大桶村より酒主村(現烏山町)に勧請したといいます。

牛頭天王はもとインドの祇園精舎の守護神であり、京都八坂神社の祭神となり、薬師如来の化身と称し、また素盞鳴命を祭神したといわれています。

正保元年の祭礼は「宝前興行」として、前述の余興が神前に初めて奉納され、天王建として今日に伝えられています。文六年(1666)信仰心篤く社寺行政にも熱心な名君掘美作守親良は、神殿が平地にあることを、現在地を切盛りし石垣を築き神殿を新築奉納しています。人々は烏山特産の和紙を用い「山」をつくり、六人衆や寺の庭に、踊り場を開設して奉納し参拝者に観覧させています。元文三年~宝永四年には、「山あげ」の特長とも言うべき踊りが披露され、踊りも最高潮に達すると、化生(神通力を有するもの)が現れ観衆をわかせ、これが「山」に降臨された八雲大神と神を奉迎した氏子等崇敬者が年番に奉納された「山あげ」の芝居を干渉し相共に喜び合う姿であり、これが山あげ祭の本姿であると考えられます。

古代日本人の神観は「神」は天然自然の山岳に天降ると考えられており、のちに人造の依代にも降臨すると考えられるようになりました。烏山の和紙張りの山にも「神が留る」と考えられたのも自然です。

一、「山」を立てれば、不景気直しになる

一、「山」の「はりか」を裏板に使えば落雷除けになる。

一、古い「はりか」の灰を肥料に使えば豊作になる。

一、屋台の造花を家に挿しておけば火伏せになる。

一、屋台に使った反物を着れば子供が生れ、子供は健康に育つ。

一、屋台のお礼は安産の神

と言われています。

当初、奉納余興として相撲や神楽獅子などが行われていましたが、寛文年間(1661~1672年)には踊りを上演するようになり、さらに元禄年間(1688~1703年)には狂言が行われ、やがて享保から宝暦年間(1716~1763年)にかけて歌舞伎舞踊がとり入れられ、同時に舞台装置や舞台背景も大規模になり、江戸時代末期頃に現在の野外歌舞伎の形態となりました。全国でも類例のない山あげ祭は、烏山町八雲神社例大祭の奉納行事として、450年の歴史を誇っています。

http://homepage2.nifty.com/pon-f/yamaage/01.html


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/a7380a1b6b6ceaef269acc071bee36d4

益子町(栃木県)

今年春、栃木県益子町の将門伝説を訪ねてみました。

【西明寺(高館・益子)城址】益子町高館山

真岡鉄道に乗り益子駅で降ります。まず、高館城址へと向かいます。益子氏は元来紀氏の出であり、奈良時代の征夷大将軍であった紀古佐美の15代の孫、紀貞頼が常陸国信太郡郡司として下向し、その孫にあたる紀正隆が益子に移り、下野権守となり益子氏を称したのが始めといいます。益子正隆は娘を宇都宮氏の祖、宇都宮宗円に嫁がせ、その腹に生まれたのが二代宗綱です。以後、紀氏出身の益子氏は、清原氏出身の芳賀氏とともに「紀清両党」と呼ばれ、宇都宮氏の重臣として活躍します。益子氏は初期には、現在の益子町の中心街の北東にある丘の上に益子古城(後述)を築城してここに拠っていましたが、やがて詰の城として西明寺城を築き、さらに鎌倉時代に現在の益子小学校にあった益子城(古館)に移ったといいます。西明寺城は、益子の市街の南に聳える高館山(標高302m)の山頂を中心に、広大な面積を有する山城です。城へは、西明寺から山道を登ると権現平、そして西郭、本丸へと至ることができます。この城は、鎌倉時代に益子城または益子古城の詰めの城として築かれ、次第に山城として整備されたものと思われます。

「益子町の城→西明寺城」

http://www65.tok2.com/home2/yogokun/masiko.htm

【益子古城址】益子町城内坂

益子古城は、益子の陶器を売る店が建ち並ぶメインストリート(城内坂)の北側の丘の上にあり、主要な三つの郭は現在陶芸メッセという一種の博物館公園となっています。城の形は三つの主要な郭が東西に並ぶ連郭式となっており、その間に空堀が穿たれています。城は康平年間(1058~1065)の築城とされていますが、平安時代末ころから鎌倉初期のものと考えられます。主要な三つの郭は「陶芸メッセ」という一種の博物館となっていますが、ちょっと公園として整備されすぎている感があります。城址のある高台から眺める日光連山は、特にすばらしいです。

「益子町の城→益子古城」

http://www65.tok2.com/home2/yogokun/masiko.htm

【百目鬼川】益子町

益子町の繁華街の北側を、「百目鬼川」が流れています。この川の名の「百目鬼(どうめき)」は、将門伝説に関係があります。宇都宮には、藤原秀郷(田原の藤太)が悪鬼・百目鬼を討ったという「百目鬼伝説」があって、これが宇都宮にある田原街道「百目鬼通り」の由来になったという話があります。これらは、宇都宮市の将門伝説で取り上げてみます。

「宇都宮の百目鬼伝説」

《ムカデ退治で名を馳せた俵藤太こと藤原秀郷は、その武勇を買われて新天皇を称する平将門平定にこの宇都宮の地に遣わされたところ、土地の老人にその腕に百もの目を持つ悪鬼・百目鬼の退治を依頼される。黒雲とともに現れた百目鬼だが、俵藤太の矢は百目鬼の心臓を貫き、百目鬼は身体から火炎を吹き上げて逃げ去り、大曾村にて遂に息絶えた。それ以降この地を百目鬼と呼ぶようになった》

調べたのですが、どうして宇都宮の百目鬼伝説の名の付いた百目鬼川が、益子町を流れているのかはわかりませんでした。

「百目鬼・さて何と読む?」

http://www.st.rim.or.jp/~success/domeki_ye.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E3%80%85%E7%9B%AE%E9%AC%BC


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/e3d11b9377b49de10429b2fb013897af 

二宮町(栃木県)

益子町に引き続き、二宮町の将門伝説を訪ねてみました。

【長栄寺】二宮町大根田

再び真岡鉄道に乗って久下田(くげた)駅まで戻り下車。駅の東方800mの五行川に架かる大根田橋の先に、長栄寺があります。大悲閣とも。慈覚大師円仁の創建と伝わっています。久下田の福聚寺の末で、本尊千手観音は水谷正村の持仏でしたが昭和40年に盗難に遭い、それを安置していた観音堂自体老朽化して解体移築(茨城県岩瀬町月山寺)されてしまいました。楼門にあった仁王門も本寺福聚寺に移され安置されているようです。江戸期まではこの他にも建物があったのですが、案内板には観音堂とありますが前述したように移築されてしまいました。ぽつんと残された楼門が、なんともむなしい感じです。この寺で藤原秀郷が、将門征伐のために武運を祈ったといいます。

http://www.mohkacc.ac.jp/grad/haizi/tatemono/tera/ninomiya/t003.html

http://ninomiya.shokokai-tochigi.or.jp/3chiiki/html/index10.html

以前訪れた、この近く隣町の茨城県筑西市(旧下館市)の「上館(久下田城)」を紹介します。

【上館・中館・下館】旧下館市樋口ほか

藤原秀郷が将門との戦いに際して、下館台地に三つの館(上館・中館・下館)を築き、根拠地としたといわれています。しかし、秀郷が築城(館)したのではなく、実際はそこにあるものを短期間利用しただけではないかといわれています。

「上館(久下田城)」旧下館市樋口

http://yogokun.hp.infoseek.co.jp/kugeta.htm

「過去の日記・旧下館市の将門伝説」

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=547819681&owner_id=7184021


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/981b4922fd5c513ed6b8298452747f5d

河内町(栃木県)

昨年、栃木県河内町の将門伝説を訪ねてみました。

【将門首塚の碑(馬頭観音・白馬神社)】河内町下ヶ橋

JR宇都宮線(東北本線)岡本駅からバスを探したのですがなし。しょうがないのでタクシー利用。タクシーは県道239号を北へ向かいます。西鬼怒川に架かる東下ヶ橋を渡って、すぐ右に馬頭観音があります。ここでタクシーを降ります。『旧古里村誌』によると《当村下ヶ橋字屋敷前に平将門の首塚あり》と記されています。馬頭観音堂の左後ろに、将門首塚の碑(供養碑)があります。古来、この地では将門供養の石碑が伝わっていて、これは将門の縁者がその冥福を祈って建てたもので、その石碑を地元では「将門首塚の碑」と呼んでいます。ちゃんとした説明を刻んだ石碑が横にありました。周辺になにかないかと調べましたが、なにもありません。しょうがなく、帰りのバスを探しましたが見当たらず、また、岡本駅からタクシーを呼ぶことになりました。


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/0a42cfd42dbeeb4e13755e7fd40f915a 

宇都宮市1(栃木県)

昨年、宇都宮市の将門伝説を訪ねてみました。二回に分けてみます。まず、「百目鬼伝説」についての紹介です。

【秀郷の鬼退治】宇都宮市塙田

現在改修中の県庁のあるあたり。秀郷が宇都宮に館を構えたころ、鬼が死馬に食らいついていたのを射殺したといいます。

【百目鬼伝説】宇都宮市大曽

今から千年も昔、平将門という武将が、時の朝廷に反旗を翻して、下総国猿島(現在の茨城県の猿島)において、自らを新天皇と名乗って即位しようとしたことがある。しかし無理は通らないもので、将門は朝廷から派遣されてきた藤原藤太秀郷らの尽力によって、討ち滅ぼされてしまった。この藤原藤太秀郷は、若い頃は、たいそうな乱暴者であったが、近江において大百足(おおむかで)を退治して一躍名を馳せた豪傑で、その腕力を期待されて、東国の平将門の乱に派遣されたのである。その秀郷が、下野国(現在の宇都宮市大曾あたり)に差し掛かった時、突然白髪の老人が現れて、秀郷にこう言ったそうだ。

「そなたは、万民のために、悪鬼を退治されにきたと聞く。大曾村にその悪鬼があらわれる。そこでしばし待たれよ」

秀郷が、その場所まで行くと、ただならぬ雲行きとなり、風が吹いて、その百目鬼という悪鬼が現れたのであった。身の丈は3mばかり。手には百もの目を持って、すごんだが、すでに大百足を退治した秀郷にとっては、物の数ではなかった。さっと弓を引いて、矢を放つと、百目鬼の心の臓に突き刺さって、苦しみながら逃げていった。秀郷の部下達は、その後を追って、明神山の辺りまで行ったが、百目鬼は最後の力を振り絞って、体から火炎を吐き、近づくことが出来ない有様となった。

そこに本願寺の智徳上人という僧侶がやってきて、法力をもって、「汝、我が法力により得度せよ」と呪文を唱えると、百目鬼から発していた炎は消えて、人の姿となって、死んでいった。以来土地の人々は、その地を百目鬼と呼ぶようになったというのである。

「百目鬼・さて何と読む?」

http://www.st.rim.or.jp/~success/domeki_ye.html

二荒山神社の裏手の路地に「百目鬼通り」があります。飲み屋街なので、玄関を入れば白粉を塗った魑魅魍魎だらけかも知れません。

【ふくべ細工】宇都宮市

ふくべ細工は種を取り除いた夕顔の外皮(ふくべ)を乾燥させ、加工を加えたもの。十世紀のころ、藤原秀郷の鬼退治にちなんで宇都宮地方で魔除けの面がつくられるようになったが、かんぴょうを素材とした瓢面は江戸時代に夕顔が栽培されるようになってからである。明治から昭和のはじめにかけては、ふくべの形を生かした炭入れ、花器、小物入れ、魔除け面など実用的に使われていた。

「百目鬼面」

http://www11.ocn.ne.jp/~popyah/tochigi/doumeki.htm

「ふくべ細工」

http://www.nca.or.jp/shinbun/20060303/wagamati060303.html


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/c21a7b0d8515b2271d95cf309770f592

宇都宮市2(栃木県)

引き続き、宇都宮市の将門伝説として、「二荒山神社」や「宇都宮城址」などを紹介します。

【二荒山神社】宇都宮市馬場通

秀郷が将門征伐を当社に祈願した。霊夢によって剣を賜り出陣して、ついに将門を討ち果たした。この報謝として、秀郷は神社の修造を行ったといいます。

http://www.tochigi-jinjacho.or.jp/jinjalist/futaarayama.html

【宇都宮(亀ヶ岡)城址】宇都宮市本丸町

天慶三年、将門追討のため、秀郷が築城したといいます。現在復元中です。

【菅原神社】宇都宮市天神

秀郷が将門を討って、下野・武蔵国守となり、この地に移ったといいます。

「二つの菅原神社」

http://www2.ucatv.ne.jp/~jata-45.snow/c-sugawa.htm

【高龍神社】宇都宮市簗瀬

天慶三年、秀郷の創建と伝えられています。

http://www.asahi-net.or.jp/~dw7y-szk/nikko1.htm

http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/tochigi/utsunomiya/takaryu/tanaryuu.html

宇都宮市の名物は餃子。帰りによく行く宇都宮駅前の「宇都宮餃子館」に寄ってみました。ここは芸能人がよく来るので有名です。水戸黄門御一行様(テレビ番組)もご来店とか。

http://gyozakan.jp/contents/shop/center/index.html


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/ece84f3528b000a711e4a3c5efc1022a

上三川町(栃木県)

栃木県上三川町の将門伝説を取り上げました。

【星宮神社】上三川町東蓼沼

蓼沼親水公園からサイクリングロードを少し行くと、土手下に「星宮神社」が見えてきます。将門が猿島の戦いで滅びた際、「将門の四天王」といわれた側近の武将四人が一族を連れて、鬼怒川をさかのぼりこの神社のあるあたりまで逃れてきました。銅沼まで来たとき、船が沈み四人はそれぞれこの地に住むことにしました。この四天王とは、安保、安達、仁平、藤平氏を指していて、その子孫たちは、成田山に参らないそうです。

【上総堂】上三川町東蓼沼

将門の残党一族がこの地に上陸して、一宇を建てて一族のつながりを保ったといいます。それが現在「上総堂」と呼ばれているお堂だそうです。星宮神社の西すぐに「上総堂墓地」があり、墓地の真ん中に小さな「上総堂」がありました。墓地のお墓を見てみますと、将門の残党一族の仁平家の墓もありました。

「過去の日記・ギョウザを食べに宇都宮へ」

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=398907827&owner_id=7184021


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/270002cdbe51b7c4f525e44418862aa5

日光市1(栃木県)

日光市(旧今市市)猪倉の旧村名「飯食粒村」の故事は、次の高霞(たかお)神社にありましたので、今年4月に訪ねてみました。

○「宇都宮駅レンタサイクル」

宇都宮駅西口の駐輪所(出口から右200m)でレンタサイクルできますので、これを利用して走りまわってみました。市営9:00~21:00。利用料金1日100円。放置自転車の利用なので割安です。

【高龍神社】日光市(旧今市市)猪倉上猪倉

宇都宮駅から長距離になりますが、大沢宇都宮線(県道22号)で日光市(旧今市市)猪倉に向かいます。鞍掛山トンネルまでの登りがきついです。この神社は場所が分かりにくく、地元の人に尋ねてやっとたどり着くことができました。泉福寺の南東300mのところに位置しています。

『将門記』には次のように記されています。《俵の藤太・藤原秀郷は平将門の乱を鎮圧した人物としても知られています。将門の勢力がだんだん大きくなってきたので、その味方に参じようと将門の陣を訪ねたところ、将門は一緒に昼餉を摂ろうと誘い、秀郷もお相伴したのでした。でも将門の御飯の食べる様は幼児のようで、ぼろぼろとお椀から御飯粒を零すのを見て、将門は将たる器にあるまじき人物と悟って陣を辞し、将門を討伐する軍の先頭に立ったとされます。結局将門は俵の藤太が放つ名人級の弓矢によってこめかみを射抜かれて絶命しています。》

この神社は、将門が落としたご飯粒を拾って食べたところとして伝えられており、このことから猪倉の旧村名・飯喰粒(いのくら)村の名が付いたという伝説が、神社の由来に記されていました。

http://www.sunfield.ne.jp/~inokuras/takao.htm

「地名の由来」

http://www.sunfield.ne.jp/~inokuras/yurai.htm

この将門と秀郷と会う場面を、次のサイトから引用させてもらいます。

『江戸川柳で読む日本裏外史 第4部 武士の勃興  高野 冬彦(83歳)

 第2回 藤原秀郷 −英雄の功績と褒美との関係?』

《「俵藤太物語」によれば、秀郷も一時は将門に加担して、関東独立の夢を描いたこともあつたらしい。下野の押領使として、関東の情勢をつぶさに観望していた訳だから、その位のことはあっても当然であろう。しかし、一度相馬に将門を訪ねてみて、ガッカリしたのだという。彼が将門の邸に案内を申し入れた時、将門は大喜びをしたらしい。かねてから、武勇の誉れ高い秀郷との協カを切望していたからである。折から風昌上ガりか何かで、髪を梳っていたのに、それを結びもあえず、片手に握つたまま、しかも白い下着のままで、中門まで駆け出して迎え入れたと言う。我々現代人の目から見れば、誠に気取りの無い爽やかな態度で、男同志胸襟を開いて語るにふさわしい性格と見えるのだが、秀郷には、どうにも軽々しいと映ったらしい。更に、一緒に食事をすることになつた時、将門はしきりに飯粒をこぼし、しかもそれを、自分で拾って口に入れたというのである。秀郷は、"その粗野にして、品のないことは、到底天下を取る器にあらず、又共に語るに足る人物ではない。”と見抜いて、協力を断念したと言う。こうした話を読んでいると、どうも秀郷の貴族趣味が鼻につく感じだが、その秀郷、さて将門を見限ったものの、今度はどうしたら将門が倒せるかと調べてみると、これが又、実に大変な仕事だという事が解つて来た。何しろ将門という男、戦場では常に6人の影武者と言うか、影そのもののような存在に囲まれ、しかも全身これ鉄で覆われ、何処にも矢の立つ所の無い、不死身の怪物だと言うのである。どうしたらよいか迷つた末に、将門の屋形に住む小宰相の局という女に言い寄り、彼女の口から将門の秘密を聞き出すことに成功する。即ち6人の影と言っても、自分から動くのは将門自身しかないこと、全身鉄で出来ているようでも、こめかみだけは唯一の弱点として残されていると言うのである。日本でもアキレスの腱はあったのである。かくして天慶3年(940)2月14日、秀郷と平ノ貞盛の違合軍に急襲された将門は、奮戦の末、38歳を一期に討ち死にをする。これに組した一味徒党も、それぞれに悲惨な末路を辿る中に、秀郷は一人、かねての望み通り鎮守府将軍に任ぜられ、平泉の繁栄に向かって、栄光の礎を築いていった訳だが、かくて万事めでたしめでたしとばかりは行かなかったようである。》

【今宮神社】宇都宮市新里

帰りがけに「今宮神社」に寄ってみました。ろまんちっく村の南に位置しています。秀郷が将門を討伐した時、東新里村の郷士が秀郷の命令で出陣し勲功がありました。そこで秀郷は、秀郷の四子・千種をこの家の後嗣としたといわれていて、その子孫がこの社を勧請したと伝えられています。ついでですが、この神社のすぐ南に大堀城址があります。

「大堀城址」

http://www2.ucatv.ne.jp/~m_wata.sky/utsunomiyashi.html#oohori


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/320841330b3bb8f7f93e27543fdecb14

日光市2(栃木県)

引き続き、栃木県日光市の将門伝説として「日枝神社」を訪ねてみました。

将門伝説のある「日枝神社」は後ほど寄ることにして、先に「日光東照宮」と「二荒山神社」に訪ねてみました。

○「日光東照宮」日光市山内

元和2年(1616)、家康が病に倒れ亡くなりました。その時、天海は山王一実神道の最高神とする「東照大権現」とし日光東照宮に祀りました。日光東照大権現となった家康は、江戸の守り神、更には天子と同格の北極星を神格化したものとなり、江戸の真北に日光東照宮が造営され、「天子南面」と文字通り江戸の町並みを南向きに望める配置としています(真北とは磁石の北ではなく北極星を指し、陽明門中央より夜空を見ると星がその周りを動くように設計されています)。

そして近代、加門七海著『平将門魔方陣』(『将門は神になれたか』を改題)が出版されました。彼女は、帝都の中央より北に一本の線を鉛筆で引きました。西洋ではこうした史跡・遺跡等の地理的関係が一定な規則がある場合、最初に発見した際に各々の名称に「レイ」がついていたことから、その直線を「レイライン」と名付けられています。彼女は、将門封殺のレイラインではないかと睨んで、東京にある将門に関係ある神社を調査すると、北斗七星の形になっていることを突き止めました。そして「天海は家康亡き後の江戸を霊的に保護するために、江戸に北斗の結界を張り東照宮を造営した」という結論を導きだしたのです。

天海は「大元帥法」を修得したといわれています。大元帥法は国家鎮守の秘法であり、その悪用を恐れ山王一実神道と共に封印してしまいました。ですが、北極星と化した家康、それを取り巻く北斗七星には将門の霊力は21世紀の今日も衰えることはありません。将門は、現世における地方分権基礎および武家政治の先駆けとなった先進的考えが、その生涯において結実することはありませんでしたが、後世民衆の心の中にその姿を宿し、やがて帝都の永遠に守りつづける「神」となったのです。

「日光東照宮」

http://www.toshogu-koyoen.com/toshogu/

「江戸の方位線→徳川の方位線」

http://hw001.gate01.com/sangatu/edo.htm

【日枝神社】日光市野口

日光駅前まで戻り、日光杉並木街道(国道119号)を東・宇都宮方面に向かいます。七里を過ぎて、右にJR日光線を潜る道路に入ります。さらに日光宇都宮道路を高架で越えると、生岡集落に入ります。まず、左に日光を開山した勝道上人がここから日光連山を眺めたという石碑があり、右に生岡神社がありますがここは後ほど寄ることにして、先の「日枝神社」に向かいます。日枝神社は、寛永元年(848)七月五日、円仁(慈覚大師)が下野の守護神としてこの地・野口生岡平に日枝神社(旧生岡山王社)を祀り,阿弥陀如来・千手観音・馬頭観音を三仏堂に安置したのが始まりです。また、藤原秀郷が将門討伐後、戦勝報謝して勧請したとも伝えられています。すぐ北に日光宇都宮道路が走り、自動車の騒音がうるさくてのんびりするところではありません。屋根の上を見ると、つがいの猿がこちらを睨んでいました。山王は猿田彦とも関係あるので、この猿が日光の山から下りてきたのか知れませんね。

http://www.shibuyam.com/Toshogu/Zenkoku/Tochigi-hie.html

次に「生岡神社」に寄ってみました。

○「生岡神社」日光市七里

この神社は非常に旧く、祭神は日光二荒山神社と同じであり、主祭神は大己貴命です。神護景雲元年(767)正月8日に創建されたといいます。本殿の西側、他の杉の中に一目立つ杉の木は、地上3メートルから梢にかけて落雷のため幹が焼けて上部の枝もかなり枯れていました。この神社は、強飯式で有名です。

「生岡神社の杉」

http://www.tochigi-c.ed.jp/bunkazai/bunkazai/list/984.htm

帰りは、ハイキングがてら西方の「日光ゴルフパーク」の前を通って、鹿沼日光道路に出てから日光駅へと向かいました。


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/19d14bb62596753da08eade07635f858

鹿沼市(栃木県)

昨年、栃木県鹿沼市の将門伝説として「日吉神社」などを訪ねてみました。

○「レンタサイクル」

鹿沼市内の広範囲を回ることになるので、今回も宇都宮駅西口のレンタサイクルを利用することにしました。まず県道155号を走り、鹿沼市南部の池ノ森を目指します。

【池ノ森の日吉神社】鹿沼市池ノ森

池ノ森小学校の北側に位置します。この神社は、藤原秀郷が勧請したといわれています。

http://10.pro.tok2.com/~a11234842/002hiyosijinnja.ikenomori.html

【下南摩町の日吉神社】鹿沼市下南摩(しもなんま)町

東武線樅山駅から県道15号を、粟野町方面へと西へ向かいます。南摩小学校の手前の県道沿いに、この神社はあります。秀郷は、逆賊将門を討伐することができたら、領地の二十七箇所に二十七社を建立すると誓いました。この社は、その一社といわれています。

http://10.pro.tok2.com/~a11234842/002hiyosijinnja.simonannmamati.html

【押原神社】鹿沼市上殿町

東武線新鹿沼駅の南東500m。大同4年(809)の創建で押原宗丸の勧請といわれ、押原杉本大明神と称しました。将門が起こした承平・天慶の乱のとき、天慶2年(939)藤原秀郷と平貞盛が本社に戦勝を祈願し、将門追討後、弓箭(きゅうせん:弓と矢)などが奉納され宝物とされましたが、正応5年(1292)火災のため焼失したといわれます。明治2年(1869)押原神社と改称されました。

http://10.pro.tok2.com/~a11234842/002osiharajinnja.kamidonomati.html

http://10.pro.tok2.com/~a11234842/kanuma.001.kitaosihara.mappu.kamidono.html

【日吉町の日吉神社】鹿沼市日吉町

東武線新鹿沼駅の北西1km。岩山ハイキングコースの登山口にあたります。この神社は、秀郷が勧請したといわれています。

http://10.pro.tok2.com/~a11234842/002hiyosijinnja.hiyosityou.html

【板荷の日枝神社】鹿沼市板荷

県道164号の板荷小学校の西200m。この神社は、秀郷が将門追討を報謝して勧請したと伝えられています。境内の大杉神社には、奇祭「アンバ様」があります。

http://10.pro.tok2.com/~a11234842/002hiedajinnja.itaga.html

「大杉神社(日枝神社境内)の奇祭・アンバ様」

http://tochikan.dohome.net/sys/doc/1035.shtml

http://kamehameha.blog.ocn.ne.jp/kannonji/2006/03/post_f807.html


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/a3f53965297194bc8651dc86b765d55b

壬生町(栃木県)

2007年10月07日 | 縁地探訪(栃木県)

今年春、栃木県壬生町の将門伝説を訪ねてみました。将門伝説といっても、まったく将門に関係ないところばかりになりました。

栃木市駅前のレンタサイクルを借りて、壬生町から旧国分寺町(次回で紹介)を巡ってみました。

○「金売り吉次の墓」壬生町上稲葉

県道2号線を走り、壬生町の「本丸一丁目」の交差点から日光西街道に入ります。北関東自動車道を潜ってすぐの「上稲葉」交差点の右にあるコンビニの北側に「金売り吉次の墓」があります。松尾芭蕉に随行した曽良の日記に「吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有」と書かれた黄金商人・金売吉次の墓です。源平合戦の後、源頼朝から追われる身となった源義経が奥州平泉に下る際、同行していた金売吉次が、この地に病で倒れて死んだという伝承があります。ここから東20mのところに、吉次の守護仏である観音様を祀ったというお堂があります。金売り吉次の墓といわれるものは、別に福島県白河の関の近くの八幡神社に吉次兄弟の墓がありました。また、東武日光線の楡木駅から30分ほど行った北赤塚町の水田には、源義経の冠を埋めたという全長62mの判官塚古墳(前方後円墳)もあります。

http://www.ucatv.ne.jp/~jk1nao.sun/tochigi/hosomichi%20mibu.htm

○「雄琴神社」壬生町通町

次は壬生市街地に戻って、東雲(しののめ)公園の南にある「雄琴(おこと)神社」に寄ってみました。創建は1091年。鎮守府将軍清原武則の三男保定が下野国壬生に、 その祖である舎人親王を祀ったのが始まり

と伝えられています。 翌年には奥州より上洛する源義家が参詣して社領を寄進。

1094年には盛典が執行され、名を藤森神社として壬生の鎮守となりました。 その後1468年に壬生城を建設した壬生(小槻)彦五郎胤業によって、壬生氏の遠祖である小槻今雄を祀る遠江の雄琴神社から勧請して合祀し、「雄琴」と称するるようになったといいます。

http://www.tochigi-jinjacho.or.jp/jinjalist/okoto.html

○「壬生城址」壬生町本町

壬生中心地の「中央公民館」と「歴史民俗博物館」のあるところが「壬生城址」です。1462年に京都から下ってきた壬生胤業が築城した平城の跡で城址公園化されています。壬生氏は5代目の当主義雄の際、豊臣秀吉の小田原攻めが行われ、壬生氏は後北条氏に味方し小田原城に入城し、小田原落城時に自害しています。 江戸時代にも、本丸を二の丸が囲み、二の丸を三の丸が囲むという環郭方式の近世城郭が築かれました。

○「壬生一里塚」壬生町表町

旧日光街道沿いに残っている日本橋から23里を示す一里塚。 江戸時代の初期、1604年に築造されたもので、国の史跡にも指定されています。 一里塚というと通常、街道の両脇に対でつくられます

が、こちらの一里塚は片方失われています。ここの一里塚はなかなか形が良く、見栄えがします。この一里塚のあるところが、壬生城の入り口にあたるため、将軍の日光社参の際は城主がここで出向かえたといいます。

http://www.tochigi-c.ed.jp/bunkazai/bunkazai/list/207.htm

○「吾妻古墳」壬生町藤井

南に向かい、黒川に架かる御成橋を渡って左の道に入ると「吾妻古墳」があります。墳丘がほぼ似た平面形をなした幅広い土壇上に設けられ、この土壇の周囲が幅約20メートル、深さ3メートルの巨大な空濠によって囲まれています。保存状態は大変良く、栃木県地方における古墳時代後期の代表的古墳です。敷地は個人のものだそうです。

http://a-mist.hp.infoseek.co.jp/tochigi/mibu/azuma.htm


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/c985058613bebde8c0c43d28e648fe5d

下野市(栃木県)

前回の壬生町に引き続き、栃木県下野市(旧国分寺町)の将門伝説として、「愛宕神社」や「下野国分寺跡」などを訪ねてみました。

○「丸塚古墳・山王塚古墳」旧国分寺町国分

次は道標にしたがって国分寺町の「しもつけ風土記の丘」に向かいます。途中に「丸塚古墳」と「山王塚古墳」が並んであります。

丸塚古墳は、直径約74m(墳丘の大きさ58.5m)、高さ7.2mで二壇に造られた円墳です。墳丘の南側に造られた横穴式石室は、側壁・奥壁・天井石とも凝灰岩の巨大な一枚岩により構成されています。また、入り口は一枚岩の中央を刳り抜く「くり抜き玄門」と呼ばれる技法を用いてつくられています。埴輪が無いことなどから7世紀前半頃に造られた古墳と考えられます。山王塚古墳は、丸塚古墳の南西すぐのところにあります前方後円墳です。

「丸塚古墳」

http://www.tochigi-c.ed.jp/bunkazai/bunkazai/list/961.htm

「山王塚古墳」

http://homepage2.nifty.com/o-obuta/kofunn/totigi/kokubunnzi/sannoutuka/sannnoutuka.html

【愛宕神社・愛宕塚古墳】旧国分寺町国分

花見ヶ岡交差点の東に「愛宕神社」があります。愛宕神社は、火を掌る神体を祀っており、京都の愛宕神社を総本山として全国に点在しています。ここの神社は、背後に愛宕塚古墳があります。将門時代の下野国府は国分寺からそうとおくない地、つまり愛宕神社のある花見ヶ岡丘陵台地の中ほどにあったものと推定されています。そして、愛宕神社が総社ではなかったのではないかともいわれています(赤城宗徳氏『将門地誌』より)。

【下野国分寺跡】旧国分寺町国分

下野国分寺は、聖武天皇の天平十三年(741)に国家安穏と万民豊楽を祈るため国ごとに創建されました。正しくは「金光明四天王護国之寺」と呼ばれました。愛宕神社の南1kmの林の中に土檀が残り、一帯に瓦の破片などが落ち葉に埋もれて散在しています。国分寺跡は大正10年に国指定とありますが、現在でも原っぱのままです。「国分寺跡」という表示板と「南大門跡」などという杭で「跡」を知れるだけです。入り口に「国分寺跡見学者以外進入禁止」という看板が立っており、「丘」の中でここだけが未整備だからあまり入って欲しくないという感じです。

http://www.city.shimotsuke.lg.jp/hp/page000000700/hpg000000687.htm

http://www.tochigi-c.ed.jp/bunkazai/bunkazai/list/201.htm

【下野国分尼寺跡】旧国分寺町国分

下野国分寺跡から東500mのところに「下野国分尼寺跡」があります。昭和40年に発掘され、礎石が保存されています。

http://www.city.shimotsuke.lg.jp/hp/page000000700/hpg000000692.htm

あとは、「栃木県立しもつけ風土記の丘資料館」、「天平の丘公園」、「伝・紫式部の墓」などを訪ねてから栃木駅へと戻りました。


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/5f7bd0d327920e7195da68f2d57affb0

小山市1(栃木県)

昨年、小山市の将門伝説を訪ねてみました。三回に分けて紹介します。まず「東箭神社」や「等覚院」などです。

【東箭神社】小山市南小林

南小林交差点の西側。小山義政が合戦のたびに使った戦勝の矢は、遠祖、秀郷が将門を討ったときに用いた矢と伝えられています。後に、この矢は東箭(とうや)神社に奉納されたといいます。

http://www.asahi-net.or.jp/~dw7y-szk/tochigi13.htm

「小山の伝説→秀郷の矢」

http://www005.upp.so-net.ne.jp/mai/densetu-oyama/image056.htm

【大川島神社】小山市大川島

南小林交差点より北東800m。当社の由緒によると、秀郷が将門討伐の際に創建し、中世には惣大権現と呼ばれ、小山市西部、大平町などを領域とした中泉庄の総社として厚く崇敬されてきたそうです。

【河原田神社】小山市下河原田

生駒橋から南に400m。秀郷が将門討伐を祈願し、任を果たしたので創建したといいます。

http://5.store-web.net/~tetsuyosie/tochigi/oyama/kawaharada/kawaharada.html

【等覚院(観音堂)】小山市上石塚

上国府塚文化伝承館から南東800m。将門追討の功により、朱雀天皇より秀郷に下された観音像を祀るという。この像は、一時失われていましたが発見されて、現在の観音堂に祀られています。

http://www005.upp.so-net.ne.jp/mai/densetu-oyama/image059.htm

【摩利支天古墳】小山市飯塚

「しもつけ風土記の丘」の最南部に位置しています。秀郷と平貞盛が、摩利支天に将門討伐の祈願をしました。さらに、摩利支天塚と琵琶塚の間に仮屋を設けて戦いの策を練り、それぞれの歌を献納したという。

『伝えられる歌』

  願わくは み国のために 醜草を討ち

       はらふべきよすが 知らまし  秀郷

  醜草を討ちはらふべき み戦に

       力を添えよ あめつちの神   貞盛

http://www.tochigi-c.ed.jp/bunkazai/bunkazai/list/220.htm

http://homepage2.nifty.com/o-obuta/kofunn/totigi/oyama/marisitenn/marisitenn.html

http://www005.upp.so-net.ne.jp/mai/densetu-oyama/image069.htm

【長栄寺】小山市小薬

浄円寺の北西に位置。天慶五年(942)秀郷の命により、賊魁(将門)調伏のため祈祷を行ったといいます。


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/181878ea50a7e60a6c67fa025f7f5286

小山市2(栃木県)

引き続いて、小山市南部の将門伝説を訪ねてみました。「間々田八幡宮」や「鷲神社」などを紹介します。今回は、レンタサイクルを利用。

【網戸神社】小山市網戸(あじと)

栃木駅前から県道153号を間々田駅へと向かいます。網戸大橋西詰めから南方すぐに「網戸神社」があります。ただ、道路が分かりにくいので思川の土手から行ったほうが分かりやすいです。この神社は、天慶年間(939)藤原秀郷が将門追討を戦勝祈願し、見事大願成就した暁に金百貫文を奉納した、と神社の由緒書きにありました。神社の周辺は、後に「網戸城」が築城されています。神社横を流れる思川は、主祭神・田心姫の名を横にしたもので、かつて「田心(おごり)川」と呼ばれていました。

http://www.genbu.net/data/simotuke/amido_title.htm

【稚児が池】小山市乙女

乙女の北のはずれ、国道4号線の西側の畑地に「稚児が池」といわれるくぼ地があります。約1.5m四方のくぼみで、池というが水はありません。むかしは、熊野権現の境内になっていて神聖な池だったのですが、いつのころか社殿は朽ち果て池も埋められてしまいました。秀郷が将門征伐の際、秀郷夫人がこの池のほとりで男子を出産し、池の水を産水として生み血を洗ったと伝えられていて「稚児が池」という名が付いたといいます。ただ、この池が「乙女上町公園」あたりにあるものと思い探してみましたが、見当たりませんでした。約1.5m四方のくぼみでは、見つけるのは無理かな。

http://www005.upp.so-net.ne.jp/mai/densetu-oyama/image050.htm

【蛇がまいたの像】小山市乙女

間々田駅前にあります。秀郷が関係する間々田八幡宮(後述)の「蛇祭り」は有名です。

http://members.jcom.home.ne.jp/urawa328/mamada.html

【間々田八幡宮】小山市間々田

間々田駅から北1km。間々田八幡宮の創建は古く、今から約1200有余年前の天平年間に勧請されたものと伝えられています。天慶2年(939年)将門の乱が起るや、朝廷は秀郷等に勅して之を討たせました。秀郷は征討に臨み沿道の神社仏閣に戦勝を祈願し、乱平定の後、当八幡宮に神饌御料として供田しました。これより後、里人は飯田(まんまだ)の里と呼称し、それが後に「間々田(ままだ)」となったそうです。

http://www005.upp.so-net.ne.jp/mai/oyama-city/hyakei/mamada/image003.htm

【安房神社】小山市粟宮

間々田八幡宮から北東1.5km。祭神は天太玉命等で、かつて粟宮ともいわれていました。崇神天皇の時代に武淳川別命が創建したといわれています。その名の通り安房国安房神社を勧請したものといわれ、東京神田明神と同じです。天慶二年(939)、秀郷が将門征伐の戦勝祈願を行い、見事将門を討ち取ったことから、願掛けの神社ともいわれています。ちなみに、神社のあるところは粟宮(安房の宮)といい、粟の産地でもあります。

http://www.genbu.net/data/simotuke/awa_title.htm

【鷲神社(鷲城)】小山市外城

安房神社から北に1km。この社は、秀郷が創建したといわれています。後の南北朝時代に、この神社の周囲に小山氏(秀郷の後裔)の居城として「鷲城」が築城されました。

http://www.siromegu.com/castle/totigi/wasi/wasi.htm

http://homepage2.nifty.com/inutomononohu/wasisiro.htm


https://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/f420f2b290df6054961351bafc0b2601

小山市3(栃木県)

続いて、小山市の将門伝説として、「中久喜城址」や「祇園城址」などを訪ねてみました。

【中久喜城址】小山市中久喜

小山市中心部から、今度は東方にある中久喜に向かいます。JR水戸線の線路を挟んで「中久喜城址」があります。この地・中久喜(かつての北山)に、秀郷が将門の乱の平定時、将門調伏のために牛頭天王を祀ったといいます。後に、小山氏が「中久喜(北山)城」を築城したといいます。この地をくまなく走り回ってみましたら、JR水戸線の北側の宅地のはずれに「中久喜城址」の城址碑があり、さらにJR水戸線の北山踏切を渡り南側に行くと、畑になっていますが堀、土塁や城の主郭跡らしきものが見られます。秀郷は一時期、ここ北山に住んでいたとされ、中久喜丘陵の端に北山の由緒を記した碑文が立っているとのことですが、いくら探してもこの碑文の書かれた碑を見つけることはできませんでした。この碑文には、『天慶年間相馬将門反し、田原秀郷公平貞盛と力をあわせ討滅す。まさにこの時に当たり公遥かに京師祇園の社霊を木村に遷し、祠を建て戦勝を祈る・・・・・』とあるそうです。この場所が京の祇園社から牛頭天王を遷し祀ったところとされ、後に宮本町に遷されて須賀神社と称されました。中久喜城は後に、現在の小山中心部の城山公園になっています祇園城址(小山城址、後述)に移されています。

http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Kantou/Tochigi/Nakakuki/

【祇園城址】小山市城山町

今度は再び小山市中心部に戻り、「祇園城址(小山城址、城山公園)」を訪ねてみました。この城は秀郷が築城したとされていますが、秀郷の子孫(10代後)小山政光が平安時代末期にこの城を築いて小山氏を名乗りました。なお、その後の小山氏全盛時代の本城は鷲城(前述)であったといわれていて、祇園城はその北方の守りを任されていたようです。かつて北山(現在の中久喜)にあった中久喜城はここに遷され、同じく城周辺にあった牛頭天王(後の須賀神社)、万年寺(後の天翁院)なども現在の地に遷されました。

http://www.siromegu.com/castle/totigi/gion/gion.htm

「小山の伝説、獅子の面」

http://www005.upp.so-net.ne.jp/mai/densetu-oyama/image022.htm

【天翁院】小山市本郷町

かつて北山(中久喜)にあった万年寺を、ここに遷し「天翁院」としました。小山氏代々の墓があります。

http://www005.upp.so-net.ne.jp/mai/oyama-city/hyakei/oyama/image006.htm

【興法寺】小山市本郷町

秀郷が小山に築城の際、妙薬院を再建し寺号を改めて開基されたといいます。ちなみに、この寺のお地蔵様に戊辰戦争時の砲弾痕が残っています。1868年4月16・17日の2日間、この地で江戸脱走の旧幕府軍(総督大鳥圭介、参謀土方歳三)と、新政府軍の東山道先鋒総督府軍(参謀板垣退助)の先鋒軍(香川敬三、有馬藤汰等)が激突していて、この時の戦さの砲弾跡です。

「興法寺の地蔵様に残る砲弾痕」

http://www5f.biglobe.ne.jp/~toukondankon/totikouhou.htm

【須賀神社】小山市

小山市役所の南側。この社は、将門の乱に際し、秀郷は日夜素盞嗚命に戦勝を祈願し成就することが出来たので、天慶3年(940)4月、京都の祇園社(八坂神社)から御分霊を勧請して祀ったのが創祀です。当初は小山の字北山(現在の中久喜地内)に牛頭天王として祀つられていましたが、小山(祇園)城の築城に際し城の鎮守とも仰がれ、平治年間(1159~60)に現社地に遷座されました。徳川家康は、慶長5年(1600)7月、当社境内にて小山評定(軍議)を開き、参籠して関が原の戦勝を祈願しました。この「小山評定の碑」は小山市役所前庭にあります。

http://www.sugajinja.or.jp/

【現聲寺】小山市宮本町

国道4号線を挟んで須賀神社のまん前、須賀神社参道横に「現聲寺」があります。天慶年間、秀郷の開基といわれ、山号も「秀郷山」と称しています。