鹿島神宮
https://blog.goo.ne.jp/youkaiou/e/c12e71ac1c871e4b440e804c0d2702ab 【将門の首伝説は、悪路王の首伝説の焼き直しである。】 より 山口敏太郎
@過去幾度となく書いてきた仮説
現在、鹿島神宮の宝物殿に悪路王の首が奉られている。悪路王とは、かつて大和朝廷に逆らった東北地方の抵抗勢力のボスである。伝説上では悪路王と呼ばれることが多いが、歴史上ではアテルイと呼ばれる。権力者えある大和朝廷側から見ると彼は鬼神であり、反逆する妖怪でしかなかったのだが、東北地方の庶民から見ると地元のヒーローであった。最近では歴史上でも再評価されつつあるが、長らく蔑視されてきた。朝廷軍を率いた田村麻呂は、何度か合戦で戦ううちにアテルイが殺すには惜しい好人物だと見抜き、朝廷に降るように説得する。田村麻呂の熱意に打たれたアテルイは京都に参上するが、首をはねられてしまう。その後、悪路王の首が東日本に向かって飛行したという伝説が囁かれた。
この悲劇に落涙した田村麻呂はアテルイが死んだ場所に寺を建てる。それが現在の清水寺である。以来、アテルイの首は朝廷を護る為に呪術の道具にされてきたのだ。鹿島神宮にある悪路欧の首は、勿論、木彫りの首なのだが、この首は帝都の鬼門に奉られることにより強力なパワーを持っている。大手町に封印された将門の首塚は、悪路王の首塚の焼き直しの結界に過ぎない。つまり、反逆の首が関東に向かって飛び、関東の結界に使われたという伝承のオリジナルは、将門ではなく悪路王の方が先である。
将門は関東独立を図った稀代の英雄である。彼の魂は今も東京を護っている。荒俣宏の「帝都物語」により、将門の怨霊は一般的にも有名になった。それまでは、怨霊といえば菅原道真であり、崇徳上皇であった。この本来秘すべき怨霊・将門の再認識により、霊的な帝都防衛の仕組みが明らかになりつつある。現在、都内に残されている将門縁の神社の七箇所を結ぶと北斗七星になるが、これは帝都に関東の土地神(将門の怨霊)を封印するための仕組みである。また、将門の一族が信仰していた妙見信仰(北斗七星を信仰する習慣)に由来する。更に、大手町にある将門の首塚と茨城にある将門の胴塚をつなぐレイラインが鬼門を護り、裏鬼門は源頼朝の首塚、北は徳川家康が眠る日光東照宮が護るのである。この強固な霊的防衛網は、家康のブレーンであった天海が施工したものであり、徳川幕府が300年続いた秘密でもある。明治維新後、狡猾な明治政府はこの結界をそのまま使用し、現在に繋がっている。今も、将門の首塚は、帝都防衛の結界(北斗七星)に組み込まれている。
@これらの記事は山口敏太郎のオリジナル解釈や推理に基づいております
http://www001.upp.so-net.ne.jp/densetutanbo/akuroou/kajima.html 【鹿島神宮の宝物館の片隅に、酒に漬けられて運ばれた桶と並んで悪路王の首像がある。】 より
この鹿島神宮の宝物殿に「悪路王」の首と首桶が祀られている。
小さな宝物殿の片隅にさりげなく置かれた首像は、眉間から切られた傷跡とともに、かっと眼を見開いていて、激しい憤怒を込めている。
胡粉や朱で彩色された顔面から、彩色が剥げ木地をむき出した大きな鼻が突き出し、唇は固く結ばれ赤く、血の色を思わせる。
宝物館の説明には、
「平安時代、坂上田村麻呂将軍が奥州において征伐した悪路王(阿弖流為‐アテルイ)の首を寛文年間・口伝により木製で復元奉納したもの。
悪路王は、大陸系の漂着民族とみられるオロチョン族の首領で、悪路(オロ)の主(チョン)とみる人もいる。」とある。
後半の説明は無視して、悪路王即ち阿弖流為とすることに注目したい。
阿弖流為は、『続日本紀』などに坂上田村麻呂と戦った蝦夷(えみし)の首領として記録された歴史上の人物である。
だが、この時代には「悪路王」という呼称はなかった。
江戸時代には「悪路王」と「アテルイ」は、二人の人物ではなく、同一人として一般化していたのであろうか。口伝の詳細は全く伝わっていない。
茨城県東茨城郡桂村高久字休塚にも「鹿島神宮」があり、ここにも「悪路王」が祀られている。
那珂川の中流に位置する小さな神社にある看板には、次のように説明されている。
「(悪路王面形彫刻は)延暦年間、坂上田村麻呂が北征のおり、下野達谷窟で賊将高丸(悪路王)を誅し凱旋の途中、携えてきた首を納めた。 桂村教育委員会」
「達谷窟」は、岩手県平泉町にある「西光寺・達谷窟毘沙門堂」を連想させる。
下野達谷窟はどこなのか。今の栃木県矢板市田谷ではないかという郷土史家がいる。
田谷は、那珂川の支流で塩原町から流れる菷川に面し、この近くだけが小高い丘になっていて、麓を流れる川で深くえぐられている。
この悪路王面形彫刻は、口を開き、大きく見開いた眼、月代にざんばら髪で、斬首されは敗残の兵をおもわせる。
かつては、眼の動きを操作できるようになっていたという。人形芝居か何かに使われたのであろうか。
この首像と神社の保存には、光圀はじめ水戸徳川家は援助を惜しまなかったとつたえられている。
光圀は、正統とは何かを追求しただけではなく、増えすぎて藩の財政だけではなく、民衆の生活まで圧迫するようになった寺社を整理再編しようとした。その風潮のなかでも悪路王への想いは消えることがなかったのである。
http://kashimashi.info/bunkazai/?page_id=4403 【東北進出と鹿島神宮】より
大和朝廷の東北進出
蝦夷(えぞ)とは,大和朝廷から見た東部・北部の原住民の蔑称であり,この時代では東北地方(鎌倉時代以降は北海道)を指しています。
大和地方を根拠としていた大和朝廷は,4~5世紀にかけて九州をはじめ東国に進出し,大化改新などにより天皇を中心とする中央集権国家を建設し,海上から,または陸路の東海道・東山道から東北地方へ進出していきました。『日本書紀』には,斉明4年(658年)に阿部比羅夫(あべのひらふ)が軍船180艘で征討したことが記されています。
蝦夷と鹿島神宮
当時の蝦夷征討は東海道・東山道を経由しての軍事行動が大部分であり,延暦21年(802年)に征夷大将軍 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が蝦夷制圧するまでの144年間にわたり,朝廷は断続的に東北地方へ軍隊を送り続けました。
そのため常陸国などの街道周辺国の民は租庸調(そようちょう)・雑徭(ぞうよう)・兵役・運脚(うんきゃく)・仕丁(しちょう)などの税負担のほかに出挙(すいこ)の返済、臨時の食物徴用などや,護送中の蝦夷俘囚の反乱に伴う被害などもあり,圧迫された生活を送っていました。
鹿島神宮は,武の神である武甕槌大神を祭神とする「天の大神の社」と地元の神である「坂戸神社」「沼尾神社」で構成されています。蝦夷征討時,征討軍は武神である鹿島神宮の御祭神 武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)を奉じて東北へ進出していきました。そのため,陸奥国には鹿島神宮の分社である鹿島御子(児)神社・鹿島天足和気(あまたらしわけ)神社・鹿島神社など38社が鎮座しています。
阿弖流為(あてるい)との戦い
鹿島神宮の宝物館には「悪路王の首」と題された木製の首が展示されています。この悪路王とは,征討された蝦夷の大将で,蝦夷の英雄,阿弖流為のことだとも言われています。(他には,大陸系の漂着民族オロチョン族の首領であるとの見方もあるようです。)阿弖流為は常に兵力が数倍の朝廷軍と戦いました。悪路王の首
『続日本紀』延暦7年(788年)3月3日の条には,来年3月までに常陸国鹿嶋神饌・武勲のあった者・弓馬に優れたもの集めて,歩兵と騎兵52,800余人を徴発して多賀城に集結せよと桓武天皇の勅命があったことが記されています。
延暦8年(789年)3月に52,800余人が多賀城に集結し,第1回の戦いは副将軍入間広成軍4,000人,阿弖流為軍12,000人で戦い,阿弖流為軍の大勝利に終わります。朝廷軍の戦死者(溺死者を含め)は1,055人だったのに対し,阿弖流為軍は89人でした。その後朝廷軍と阿弖流為軍との間に小競り合いが続きますが,大規模な戦いは無く,6月には朝廷軍が撤退しました。
『日本紀略』には,延暦13年(794年)に,朝廷軍10万人と阿弖流為軍が戦い,朝廷軍が大勝利したと書かれていますが,阿弖流為軍の損害は軽微で実質的には引き分けでした。
延暦16年(797年)11月に坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命された後,次々と懐柔策を行い,阿弖流為を孤立させ,延暦20年(801年)2月に朝廷軍4万人で遠征し,9月には桓武天皇に勝利の報告をし,胆沢城(いさわじょう)を築いています。延暦21年(802年)4月15日,阿弖流為は田村麻呂に降伏し,144年間に渡る蝦夷進出戦争が終わりました。
鹿島神宮の悪路王の首(木製)は,時代を下って江戸時代に奉納されたものです。昭和49年発行の『鹿島町史 第2巻』には,寛文4年(1664年)に奥州の住人,水谷加兵衛満清が奉納したものであると記載されています。奉納の経緯などについては不明ですが,この悪路王の首は,今も境内の宝物館で見学者を険しい顔つきで睨んでいます。
参考文献等:『図説鹿嶋の歴史 原始古代編』『鹿島町史 第2巻』『常陽藝文2005年2月号』
https://open.mixi.jp/user/10076855/diary/1948654700 【常陸の国の不思議と鹿島神宮】
より
常陸の国の不思議さについて
私の好きな仏像に筑波山西光院の巨大な十一面観音菩薩像がある、立木をそのまま彫った筑波の山の神のような存在である。
また、この寺には懸崖造りのお堂があり、眺めは抜群で筑波山麓が一望できる、由緒としては法相宗の学僧徳一が建てた寺といわれている。
徳一とは、天台宗最澄に論争を仕掛けた人物として有名であり、一時筑波山にて布教をしていたといわれている、後会津盆地に移り、そこから最澄に論争を仕掛けたらしい。
徳一は、興福寺の出という伝承があり、関東では鹿島に入り神宮のご加護の元、常陸一帯を布教しているという。興福寺は、藤原氏の寺、その氏神は、そう、鹿島香取の二神である。
そもそも、常陸の国の特異性は、時代の転換期になると先祖がえりのように、この地に引き出される人物が出てくることである。
上述した法相宗の学僧・徳一、新皇を名乗った平将門。そして、稲田の草庵における関東東北教化の約20年間の親鸞だ。
親鸞はこの地で浄土真宗の根本聖典となる『教行信証』草稿本を撰述している。その地稲田は、浄土真宗立宗の聖地である。
また、太子信仰の証として聖徳太子像が多数真宗寺院に残されていることも注目すべきであろう。
平将門といえば、時宗僧・他阿真教が、東国布教の際、1309年延慶二年、平将門を神田明神に合祀し神として敬うこととしたという、関東においては平将門が無視できないほどの信奉があったという証左であろう。
実は、江戸時代に入り大納言烏丸光広の奏上により将門は、朝敵の汚名を除かれていることも面白い事実である。
また、成田山新勝寺は、将門調伏のために建立された寺であり将門にゆかりのある関東平氏の子孫、築土神社、神田明神等の氏子たちは参拝することを忌避しているという。
まだある、南北朝期には、神皇正統記を小田治久が拠る小田城において執筆し、禅僧・夢窓疎石が悟りを開いたといわれる常陸臼庭の禅窟も不思議な風光だ。
常陸太田の佐竹一族の出といわれる画僧雪村周継、彼は西国に赴くことなく独自の画風を築き上げた。鹿島神宮に対する尊崇は高く百馬図が鹿島神宮に今も伝わっている。
幕末期には、天狗党之乱という水戸藩内の熾烈な抗争があり筑波山で天狗党は挙兵している。
君ゆえに すつる命はおしまねど 忠が不忠に なるぞ悲しき
このような辞世の歌があるが、これは天狗党を壊滅させた水戸藩家老市川三左衛門が、維新後更なる復讐を受けた時の歌である。
明治期には、岡倉天心が、1905年明治38年に茨城県・五浦海岸へ別荘を建築し日本美術院を移転させ、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山らを呼び寄せた。鹿島神宮には横山大観筆「鹿島洋朝瞰図」も奉納されている。
常陸の国の不思議さは、反骨精神ということで表現されていたが、私は巨大なエネルギーの集積地だと考えている。
その淵源は果たしていかなるものなのだろうか。