「ルノワールの女性たち」7 麗しき女優達③エレン・アンドレ
ドガの代表作でもある「アプサント(カフェにて)」(1876年 オルセー美術館)。労働者階級の女性がアプサントのグラスを前にしてうつろな表情で座り、隣りの赤い目をした男は通行く人を眺めている。都会の人間関係の希薄さと孤独感を見事に表現し、パリの下層生舌の一面を容赦なく見せた作品だ。当時のパリに蔓延し社会的な問題になっていたアルコール中毒が克明に描写されている。公開当時は「不快極まりない下劣な絵」、「胸が悪くなる酔っ払いが描かれた不道徳な絵」など酷評を受けたが。
アプサント(absinthe)は、フランス語でニガヨモギという薬草のことだが、むしろ多くは、それを主原料にして作られる薬草リキュールのことを指す。アルコール度数が高く、70%前後で、水を加えると白濁する。19世紀末の芸術家たちに愛好され、作品の題材にもとりいれられている。中毒作用があり、ロートレックは身体を蝕まれ、ゴッホは、その幻覚作用のせいで、耳を切り落とした。中毒患者や犯罪者が多発したため、20世紀初頭に製造禁止されたが、現在では成分の条件付きで、容認されている。
ところでこの絵の女性は女優のエレン・アンドレ。彼女は画家の意図に従い、堕落し、荒廃した存在としての女を驚くほど見事に演じている。この女優をモデルにした作品をマネも描いている。ドガの「アプサント(カフェにて)」に影響を受けて制作したのではないかと推測される「プラム」(1877年頃 ワシントン・ナショナル・ギャラリー)だ。モチーフは、カフェに座っている若い労働者の女性。そのたたずまいには静寂と哀愁が漂っている。女性の前には当時のカフェで流行っていたブランデー漬けのプラムが置かれている。左手に火のついていない煙草を持ち、右手に頬を乗せやや前方にもたれかかっている。うつろな表情で、物思いにふけっているのか、視線はぼんやり遠くを見ている。彼女は、客を待っている売春婦なのかも知れない。
この女優エレン・アンドレ。ルノワール作品にも登場する。1枚は有名な「舟遊びの人びとの昼食」(1880~81年フィリップス・コレクション ワシントン)の中の飲み物を飲んでいる女性(ちなみに右端の女性は女優ジャンヌ・サマリー)。もう一枚が「昼食後」(1879年)。
【作品12】「昼食後」1879年 シュテーデル美術研究所 フランクフルト
ルノワールは、食事を楽しむ人々の姿を何度か描いているが、このくつろぐ人々の姿はモンマルトルのキャバレー「オリヴィエ」の庭で描かれた。白い服を着て、右手にグラスを持ち、うっとりするような視線を送る女性が女優のエレン・アンドレ。同じモデルでも、ルノワールが描くとドガやマネと違ってこうも魅力的になってしまうからおもしろい。子どもっぽい表情をたたえ、つば広帽子と大きなモスリンのリボンを誇らしげにつけて立っている黒いドレスの女性は、画家の馴染みのモデルで当時のルノワールの作品に何度か登場しているが、名前はわからない。画面右端で煙草に火をつけている男はルノワールの弟エドモン。彼は兄が描いたこの絵について次のように書いている。
「彼は肖像を描いているのだろうか?彼はモデルにいつもの態度をとるように頼み、ごくふつうにするように彼女を座らせ、いつもの服を着せており、無理な感じやとりつくろった感じはまったくない。こうして、芸術的な価値はさておき、彼の作品は近代生活に忠実な絵として独特の魅力をすべてそなえるのである。彼が描くものは我々が日々目にしているものである。彼が作品の中に記録しているものはまさに我々の存在そのものであり、それはこの時代の最も生き生きとして調和のとれたものとして確実に残されていくだろう」(『ラ・ヴィ・モデルヌ』誌 1879年6月19日)
エドモンが吸っている紙巻きタバコは、そのカジュアルさが受けて、それまでのパイプや葉巻にかわり、このころ若者を中心に流行しはじめていた。
1879「昼食の終わり」
エドガー・ドガ「アプサント(カフェにて)」1876 オルセー美術館
マネ「プラム」(1877年頃 ワシントン・ナショナル・ギャラリー)
マネ「カフェにて」1878 このモデルもエレン・アンドレ
エレン・アンドレ
ヴィクトル・オリヴァ「アプサンを飲む男」(1901年) アプサン中毒による幻覚
1880~81「舟遊びの人びとの昼食」フィリップス・コレクション ワシントン
後ろでグラスを持った女性がエレン・アンドレ
この女性もジャンヌ・サマリーがモデル
#ルノワール