Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

栃木県に残されている藤原秀郷の伝説 ②

2020.11.26 03:16

https://www.totitabi.com/asikaga/keisoku.html 

栃木県:歴史・観光・見所>足利市:歴史・観光・見所>鶏足寺 より

概要・歴史・観光・見所

鶏足寺(足利市)概要: 仏手山鶏足寺は栃木県足利市小俣町に境内を構えている真言宗豊山派の寺院です。鶏足寺の創建は平安時代初期の大同4年(809)、東大寺(奈良県奈良市雑司町)の定恵上人が開山したのが始まりと伝えられています。当初は正頂山(標高:259m)の中腹(寺の窪)にありましたが仁寿元年(851)には慈覚大師円仁(3代天台座主、比叡山延暦寺の高僧)が現在地に境内を移し多くの堂宇を建立するなど尽力を尽くし天台宗の寺院として整備しました。天慶2年(939)の平将門の乱の際、藤原秀郷(田原藤太 俵藤太)が戦勝祈願の為、当寺の法印と図り、将門の土人形を依り代として法力を施したところ明朝に土人形には鶏の足跡が3つ付けられていました。数日後、秀郷が見事に念願成就した為、鶏の足跡が吉兆と悟り世尊寺一乗坊から鶏足寺に改称し、さらに、この功により天皇の勅願寺となり紺紙金泥両界曼荼羅図などを賜っています。

鎌倉時代の文永年間(1264~1275年)に下野薬師寺の慈猛上人を招き再興、その際、真言宗に改宗すると慈猛流の総本山として寺運は隆盛し最盛期には山内に24院、48僧房、全国に310余の末寺を擁し室町時代には鑁阿寺とともに鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)の別当となりました。天文12年(1553)に上杉謙信の兵火により多くの堂宇、寺宝、記録などが焼失し一時衰退しましたが天正19年(1591)に徳川家康によって再建されています。現在の鶏足寺勅使門は切妻、こけら葺き、一間一戸、四脚門形式、上杉謙信の兵火以前に建てられた唯一建物で正和年間(1312~1316年)に建てられた(伝)鎌倉時代末期の古建築物として貴重なことから昭和45年(1970)に足利市重要文化財に指定されています。

鶏足寺の寺宝である「鶏足寺印」は平安時代に製作されたもので鋳銅製、高さ7.5cm、縦5.5cm、横5.5cm、1行2字(鶏足寺印)、古式を伝える印として貴重なことから昭和30年(1955)に国指定重要文化財に指定されています。山門は切妻、桟瓦葺き、一間一戸、薬医門形式。鶏足寺本堂は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行7間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造白漆喰仕上げ。不動尊堂は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、妻入り、間口3間、正面1間軒唐破風向拝付き、外壁は真壁造板張り。足利坂東三十三観音霊場:第7番札所(札所本尊:聖観世音菩薩・御詠歌:有難や 鶏の足跡 標にと 踏み分け登る 補陀落の山)。山号:仏手山。院号:金剛王院。宗派:真言宗豊山派。本尊:釈迦如来。

鶏足寺の文化財

・ 太刀 銘力王 附黒漆太刀拵-鎌倉~室町-国指定重要文化財

・ 鶏足寺印(銅印)-平安時代,一辺5.5cm,高さ7.5cm-国指定重要文化財

・ 梵鐘-天慶年間、鋳銅製、総高97.8cm、口径56.3cm-国指定重要文化財

・ 紺紙金泥両界曼荼羅図(2幅)-南北朝時代-栃木県指定重要文化財

・ 絹本著色五大明王像-鎌倉時代-栃木県指定重要文化財

・ 銅造釈迦牟尼仏坐像-室町,紺紙金泥,縦188cm,横126cm-足利市指定文化財

・ 紋織物(山藤の錦)-江戸時代-足利市指定有形文化財

・ 鶏足寺勅使門-正和年間(1312~1316)-足利市指定有形文化財

・ 鶏足寺のサルスベリ-推定樹齢300年,樹高8m超,幹周1m超-足利市天然記念物

・ 石尊山梵天揚げ-足利市指定無形民俗文化財


https://www.totitabi.com/oyama/suga.html

 栃木県:歴史・観光・見所>小山市:歴史・観光・見所>須賀神社  より

概要・歴史・観光・見所

須賀神社(小山市)概要: 須賀神社は栃木県小山市宮本町一丁目に鎮座している神社です。須賀神社の創建は平安時代の天慶3年(940)藤原秀郷(田原藤太 俵藤太)が天慶の乱(平将門の乱)に鎮圧の折、日夜素盞嗚命に戦勝祈願をし念願成就した事から京都の祇園社の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。中世は藤原秀郷の後裔で当地の領主である小山氏の崇敬社となり平安時代後期の保元年間(1156~1159年)祗園城(小山城)築城時に現在地に遷座し小山荘六十六郷の総鎮守として信仰を集めました。小山氏の庇護により社運も隆盛しましたが天正18年(1590)の小田原の役で北条氏が滅亡すると小山氏も所領が没収され一時衰退します。

須賀神社を崇敬した小山氏は藤原秀郷の後裔とされる太田氏が下野国小山荘(現在の栃木県小山市周辺)の領主となり、平安時代末期に太田政光が当地に入り地名に因み「小山」姓を名乗ったのが始まりとされます。政光の後妻で八田宗綱の娘である寒河尼は源頼朝の乳母を勤めた事から鎌倉時代には幕府の有力御家人の地位を確立しています。鎌倉時代末期の当主小山秀朝は新田義貞の討幕運動に従い功を挙げ、建武の新政時には下野国守護職と下野国国司を兼任するなど版図を広げましたが、宇都宮家との対立が私闘と判断され粛清されています。

その後、下野守として復権したものの往時には及ばず、関東八屋形に選ばれたものの宇都宮家の台頭により結城家の従う立場となっています。戦国時代に入ると小田原北条氏が台頭し天正3年(1575)に北条家の侵攻により居城である祇園城が落城し大名としての小山家は没落しています。その後、北条家の家臣として祇園城に入りますが天正18年(1590)に豊臣秀吉により北条氏が滅ぼされると小山の地を離れた為、須賀神社は庇護者を失っています。

慶長5年(1600)、関が原の合戦の折、徳川家康が上杉討伐の為上杉家の本城(鶴ヶ城)のある会津(福島県会津若松市)に進軍しますが上方で石田三成の挙兵の報を聞き急遽須賀神社境内で小山評定が行われました。この小山評定により多くの豊臣家恩顧の大名を徳川方に味方に付ける事に成功した為、大きく上方に展開することが出来、家康は須賀神社に戦勝祈願し石田三成との決戦に臨みました。結果、家康率いる東軍が勝利した為、感謝の意から須賀神社は徳川家の崇敬社となり社領51石(うち15石が朱印地)を寄進し、万治元年(1658)には朱神輿(日光東照宮を手掛けた職人により製作)が奉納されました。明治時代初頭に発令された神仏分離令により神社として独立し郷社に列しています。

須賀神社随身門(神社山門)は入母屋、銅板葺、三間一戸、桁行3間、張間2間、八脚単層門、外壁は真壁造り板張り、左右には随身像安置。拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅板葺、平入、桁行6間、正面1間唐破風向拝付、外壁は真壁造り板張り。本殿は一間社流造、銅板葺。祭神は素盞嗚命・大己貴命・誉田別命。

須賀神社の文化財

・ 朱神輿-万治元年(1658),高さ225㎝,重さ1.5t-栃木県指定重要文化財

・ 蓬莱鏡-永喜2年(1527),青銅製,直径23.3㎝-国指定重要美術品

・ 徳川家康寄進状-江戸時代-小山市指定有形文化財

・ 月宮鑑-小山市指定有形文化財

・ 牛頭天皇額-小山市指定有形文化財

・ 公孫樹-小山市指定天然記念物

・ 須賀神社の鳥居-承応2年,高さ4.1m,柱間3.34m-小山市指定文化財


https://www.totitabi.com/oyama/abou.html 

 栃木県:歴史・観光・見所>小山市:歴史・観光・見所>安房神社  より

概要・歴史・観光・見所

安房神社(小山市)概要: 安房神社は栃木県小山市 粟宮に鎮座している神社です。安房神社の創建は崇神年代(紀元前97~30年)に勧請されたのが始まりとされ、その後、仁徳年間(373~399年)に再建したと伝えられています。延長5年(927)にまとめられた延喜式神名帳に記載されている式内社下野国十一社の1つ阿房神社(下野国寒川郡 阿(安)房神社)とされ格式の高い神社でした。天慶2年(939)、藤原秀郷が平将門の乱平定の折、戦勝祈願すると見事念願成就、神意に感謝し社領の寄進や汁器の奉納など行い、藤原家代々の守護神として長く崇敬庇護しました。中世以降周辺を支配した小山氏は秀郷の後裔を自称する国人領主で秀郷縁の当社を崇敬社し小山領総鎮守として庇護し鎌倉公方・古河公方からも崇敬されました。

戦国時代の兵火により安房神社の境内にあった多くの社殿、社宝、記録などが焼失、さらに天正3年(1575)に小田原北条氏の侵攻により祇園城(小山城)が落城し小山氏が没落すると庇護者を失い一時衰退しましたがその後再興されています。古くから神仏習合し"粟宮明神"などと呼ばれていましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が排され、現在の社号である安房神社に改称、明治10年(1877)に郷社に列し、明治40年(1907)に神遷幣帛料供進社に指定されています。

安房神社拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅板葺、平入、正面千鳥破風、桁行4間、梁間2間、正面1間軒唐破風向拝付、外壁は真壁造り板張り。本殿は一間社流造、桧皮葺、外壁は精緻な彫刻と極彩色で彩られ殿内には寛政8年(1796)に太々神楽講中により奉納された絵馬が掲げられています。祭神は天太玉命・道稚郎子命。配神は火産靈命、木花開耶姫命、大己貴命、天津神、国津神。

安房神社の文化財

・ 安房神社文書(10通)-俵藤太戦勝祈願文他-小山市指定有形文化財

・ 太々神楽-例祭:大晦日~元旦・4月第2日曜日奉納-小山市無形民俗文化財

・ アワガラ神輿習俗-例祭:11月21日-小山市指定無形民俗文化財

・ モミ群落-推定樹齢130年、樹高約20m他-小山市指定天然記念物


https://www.totitabi.com/oyama/ookawasima.html

  栃木県:歴史・観光・見所>小山市:歴史・観光・見所>大川島神社  より

概要・歴史・観光・見所

大川島神社(小山市)概要: 大川島神社は栃木県小山市大川島に鎮座している神社です。大川島神社境内から見た拝殿正面と石造狛犬大川島神社の創建は天慶3年(940)藤原秀郷が平将門の乱平定に際し戦勝祈願した際勧請されたのが始まりと伝えられています。中泉庄と呼ばれる現在の小山市西部から大平町まで一帯の総鎮守として信仰され、歴代領主などからも崇敬庇護されました。古くからから神仏混合し"惣大権現"と呼ばれ別当には光明寺が担っていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が排され社号を大川島神社に改めています。

正面の鳥居は元禄4年(1691)に当時の領主朝倉氏、戸田氏が願主になって建立したもので江戸柳原の弥兵衛・善兵衛、栃木町出身の石屋三左右門作、明神鳥居形式、高さ3.18m、柱間2.80m、大川島神社本殿覆い屋と透塀小山市内では三番目に古い石造鳥居として平成12年(2000)に小山市指定有形文化財に指定されています。大川島神社本殿は宝永6年(1709)に建てられた古建築物で一間社流造、銅板葺、安永3年(1774)と文化5年(1808)に彫刻を付け加えています。彫刻は本殿が磯部義兵衛隆顕、拝殿が磯部義兵衛隆信、比較的小規模な建物ですが時代過程において彫刻化していった好例として平成2年(1990)に小山市指定有形文化財に指定されています。拝殿は入母屋、桟瓦葺、桁行3間、梁間2間、正面1間向拝付。祭神は大己貴命、配神はたかおかみの神。


https://www.totitabi.com/oyama/siro.html 

 栃木県:歴史・観光・見所>小山市:歴史・観光・見所>祗園城(小山城) より

概要・歴史・観光・見所

祗園城(小山城)概要: 祗園城の築城に諸説あり藤原秀郷(田原藤太 俵藤太)が築いたとも久安4年(1148)に小山政光(藤原秀郷の後裔とされる大田政光が小山城に入り小山氏に改称)が築いたとも言われます。その際、城の鎮守社として祗園社(現在の須賀神社)を勧請した事から祗園城と呼ばれるようになりました。

14世紀になると古文書の記録にも出てくるようになり康暦2年(1380)の宇都宮氏との戦いでは小山氏の重要な拠点となったようです。この戦いをきっかけに鎌倉公方足利氏満と戦闘状態となり永徳2年(1382)年に祗園城は落城し当時の当主小山義政は自陣、跡を継いだ若犬丸は至徳3年(1386)に一時祗園城を奪取したものの制圧され応永4年(1379)に会津で自陣、又は蝦夷地に逃れたとされ事実上小山氏は没落します。

その後、祗園城に入った結城泰朝は名跡を継いで小山泰朝と名乗る事となり戦国時代まで小山周辺を支配し再び国人領主として一定の影響力を持つまでに勢力を回復しました。小山領は上杉氏、北条氏、武田氏の領地に近接していた事から常に狙われ、小山氏はその度主家を変えていましたが戦国時代末期の天正4年(1576)、北条家の侵攻により祇園城は落城し城主だった小山秀綱は北条家の旗下に下ります。天正18年(1590)ので豊臣秀吉の小田原攻めにより、北条家は滅亡、小山氏も運命を共にして祗園城(小山城)も廃城となります。城下には歴代小山家の菩提寺となった天翁院や崇敬社だった須賀神社が境内を構えています。

江戸時代に入ると慶長13年(1608)本多正純が3万3千石で祗園城に入城し城郭の整備をして現在に見られるような形になりましたが、元和5年(1619)に正純が宇都宮城に転封になり、廃城になりました。城は丘陵に築かれた平山城で東西約400m、南北約700、思川を天然の外堀に見立て各曲輪は大きな空堀と土塁により隔てられていました。現在でもそれらの遺構が色濃く残り平成3年(1991)に小山市指定史跡に指定されています。現在は城山公園として整備され市民の憩いの場になっています。


https://www.totitabi.com/yaita/kibata.html 

 栃木県:歴史・観光・見所>矢板市:歴史・観光・見所>木幡神社 より

概要・歴史・観光・見所

木幡神社(矢板市)概要: 木幡神社は栃木県矢板市木幡に鎮座している神社です。木幡神社の創建は伝承によると東国の蝦夷平定の際、坂上田村麻呂は日頃から信仰してた山城国宇治郡に鎮座する許波多神社(京都府宇治市・祭神:天忍穂耳命)で戦勝祈願を行い、蝦夷追悼の願が叶ったたならば新たに社を設ける事を約束しました。延暦年間(782~806年)当地まで進軍した際には現在の境内背後の高台に陣を張り、平定を終え凱旋帰国する際にも同じ場所に陣を張りました。その地は四神相応の霊地で約束した社の境内には申し分ない場所だった事から許波多神社の分社である木幡神社を創建しました。

木幡神社は当初、峯村の地に鎮座していましたが平安時代初期の大同2年(807)に現在地に遷座し田村麻呂縁の赤鶴の面が奉納され特に雨乞いに御利益があるとして信仰されました。天慶3年(940)、藤原秀郷が平将門の乱(承平天慶の乱)を際、当社で戦勝祈願をし将門を討ち取ると社領1000石が寄進され、永承6年(1051)には源頼義、義家父子が前九年合戦の戦勝祈願を行い宿願である安部貞任を討ち取っています。

文治2年(1186)、当時の領主塩谷惟頼が平家追討の戦勝祈願し念願が達成すると、領内の総鎮守と定め代々の崇敬社としました。又、建久4年(1193)、源頼朝が那須野の原で狩をしていた際、愛犬が狂犬病になった為、病気快癒の祈願を行うと忽ち平癒し以後病犬除けの御利益があるとして信仰されました。

中世に木幡神社を庇護した塩谷氏の出身などは客観的な資料が無く不明な部分が多いですが、平安末期から鎌倉初期の当主で歌人、御家人でもある塩谷朝業が「氏のやしろ によみて奉り あわれみよ われもあらしになりぬべし ははちりはてしもりの木のもと」と詠っている事から当時から木幡神社を信仰していた事が窺えます。

塩谷氏は鎌倉時代以降、宇都宮家から養子を迎え宇都宮家の一族として重責を担い、豊臣政権下で何らかな問題が発生し、宇都宮家が文禄4年(1595)に改易になると当主である塩谷義綱も連座し、一族は常陸国(現在の茨城県)の佐竹氏の家臣になった為当地を離れています。

慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで佐竹氏は東西中立を選択した事により久保田藩(現在の秋田県の大部分)に移封になると塩谷氏も随行し十二所(秋田県大館市十二所)の所預となっています。木幡神社の本殿と楼門(神社山門)は塩谷氏時代に造営されたもので、社殿の規模から察しても塩谷氏はある程度財力がある国人領主だった事が窺えます。

文禄4年(1595)当時の当主塩谷義綱が改易になると、木幡神社は庇護者を失い衰退しましたが江戸時代に入ると幕府が庇護し社領200石が安堵され日光二荒山神社を相殿するなど日光東照宮(栃木県日光市)とも関係を深くしています。明治時代初頭に発令された神仏分離を経て明治3年(1870)に郷社に列し、明治40年(1907)に神饌弊社帛料供進神社に指定されています。

現在の木幡神社本殿は室町時代中期に造営された建物で三間社流造、銅板葺、外壁は真壁造板張り、構造部朱塗り、壁面部白塗り。木幡神社楼門(随身門・神社山門)は室町時代中期の建築で、一間一戸、入母屋、銅板葺き(旧茅葺)、四脚楼門、上部高欄付き、外壁は真壁造板張り、構造部朱塗り、壁面部白塗り。

木幡神社本殿、楼門は室町時代の建築の特色が見られる神社建築として大変貴重な事から昭和25年(1950)に国重要文化財に指定されています。境内に建立されている鉄灯籠は元和3年(1617)、土佐藩2代藩主山内忠義が徳川家康の一周忌に日光東照宮に寄進したもので何らかの経緯で木幡神社に移されています。祭神は正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊。配神は事代主命、田心姫命、大己貴命 。

【 備 考 】-木幡神社の本社的な存在である許波多神社(こはたじんじゃ)は京都府宇治市木幡東中に鎮座する神社で、由緒によると大化元年(645)に蘇我馬子の孫とされる蘇我倉山田石川麻呂の奏上により孝徳天皇が勅命を下し中臣鎌足が社殿を造営したとされます。坂上田村麻呂が戦勝を祈願したという伝承も伝わり、平安時代に成立した延喜式神名帳には名神大社として記載され、天忍穂耳命を祭神とする式内社は許波多神社が唯一な事から宗廟の神として特別視されました。木幡神社が坂上田村麻呂によって創建されたのかは判りませんが、本社格である許波多神社の鎮座地の地名である「木幡」も同様である事などから関係が深かった事が窺えます。

木幡神社の文化財

・ 木幡神社本殿-室町時代中期-三間社流造,銅板葺-国指定重要文化財

・ 木幡神社楼門-室町時代中期-一間一戸,入母屋,銅板葺-国指定重要文化財

・ 木造馬頭観音菩薩坐像-室町時代-栃木県指定重要文化財

・ 神像(大国主命・味耜高彦根命・田心姫)-江戸時代-矢板市指定有形文化財

・ 鉄燈籠-元和3年(1617)-矢板市指定有形文化財

・ 陶製狛犬雌雄(1対)-推定:古瀬戸-矢板市指定有形文化財

・ 蝉錠-室町時代-山城国孝廣作,長さ2.5㎝,蝉の彫刻-矢板市指定有形文化財

・ 木幡神社の神號奉額-花山院筆、崎山五左衛門作-矢板市指定有形民俗文化財

・ 木幡神社の和算扁額-和算2題-矢板市指定有形民俗文化財

・ 木幡神社の太々神楽(36座)-矢板市指定無形民俗文化財

・ 木幡神社杉社叢(10本)-矢板市指定天然記念物

・ 境内一帯-2.27ヘクタール-木幡緑地環境保全地域


https://www.totitabi.com/ninomiya/tyouei.html 

栃木県:歴史・観光・見所>真岡市二宮町:歴史・観光・見所>長栄寺 より

概要・歴史・観光・見所

長栄寺(真岡市二宮町)概要: 長栄寺は案内板によると「 長栄寺は、嘉承3年(850)慈覚大師により創建されたと伝えられています。武将名門の信仰篤く、藤原秀郷も平将門征討の祈りに武運先勝を祈ったとされ、以来、祈願所として伝わります。その後、久下田城主水谷蟠龍斎正村が当寺の観音を信仰し、その孫の水谷伊勢守勝隆が寛永9年(1632年)に観音堂、大日堂、楼門、本堂、庫裏を再建しました。現在では楼門のみが残っています。 環境省・栃木県 」とあります。楼門は寛永9年に再建された当時のもので三間一戸、入母屋、瓦葺き、2層目には高欄を廻しています。長栄寺楼門は江戸時代初期の貴重な建物として昭和42年(1967)に真岡市(旧二宮町)指定有形文化財に指定されています。又、同様に寛永9年(1632)に再建された観音堂(千手堂:本尊千手観音、寄棟、茅葺、桁行5間、梁間5間、現在は銅板に葺き替えられています。)があり文化財指定されていましたが平成10年(1998)に月山寺(茨城県桜川市)に移築されています。