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伊勢志摩国浅間信仰図

47 山梨県 富士吉田の火祭り

2016.08.28 04:57

#47

写真1 町の中心にある金鳥居から見る松明の列


 富士山麓最大の富士講御師町である山梨県の富士吉田市。毎年八月二十六日の夜、北口本宮浅間神社から、この表通りにある金鳥居を超えて約2キロが火の海となる。「富士吉田の火祭り」と呼ばれている。祭りは日中から、諏訪神輿と富士山型神輿の、ふたつの神輿巡行が中心となって進められ、夕方時に表通りに並べられた松明に火が着けられると、祭りの盛り上がりは最高潮に達する。

 祭りには富士吉田の市民はもちろん周辺地域から人が押し寄せ、通りの両側に露店が並び、祭りは非常に盛大である。大勢の老若男女が集うこの祭りの大きな趣旨は、富士吉田市民の夏祭りであるが、その主催者となっている浅間神社にとっては、富士講講者とその案内人である御師が集い、富士山を敬うその一年で最大の祭礼である。

 けれど、この祭りの起源は浅間神社というよりも、その境内に浅間神社以前から鎮座する諏訪神社にあり、詳細に注意してみると、近世から興隆した富士講以前の祭りの内容が見え隠れし興味深い。この吉田の火祭りは、多くは関東の富士講講者が関わる富士の登拝信仰によって支配される部分が多い為はっきりとしないが、それより以前の、諏訪神社が富士の噴火活動が活発な頃から行ってきた、火山の鎮め儀式のみられる稀有な祭りである。


写真2 御霊の移動は最近、神宮の遷御を倣ってなのか、幕が掛けられる


 北口本宮浅間神社が、元々は諏訪神社が主役として鎮座した諏訪の森に、後から出来た神社であることを覚えておくと面白い。諏訪の森は、富士吉田の住民が昔から大切に守ってきた富士山と町の間にある広大な森であるが、現在ここでは、浅間神社と諏訪神社、ふたつの神社が、「併存」している。諏訪神社が北口本宮浅間神社の境内摂社のひとつであるという、現時点を見ての捉え方では面白さは半減する。

 祭りの当日は、午前十時から、古くからこの祭りに関わってきた西念寺住職の、「諏訪神社」での法楽に始まり、午後三時からは、「浅間神社」での本殿祭が行われる。本殿祭では、氏子総代、世話人、富士講社、御師ら百名余りが出席し、供え物、祝詞などの儀式が進む。そして儀式の後がいよいよ神職によって浅間神社の御霊が本殿から取り出され、一旦御霊は諏訪神社に移されると、この時点で、諏訪神社には、諏訪の御霊と、富士浅間の御霊、ふたつの御霊が同居していることになる。

 さてここからが本格的に御霊が動く御動座祭で、神輿の周囲に幕を張って、御霊を神輿に移す神事に取り掛かるのだが、ここで注意しておかなければならないのは、それぞれの神が、富士山型の神輿と諏訪明神神輿、別々の神輿に移るのではないということである。調査報告書によると、この祭りでは、富士の神も、諏訪の神も、仲良く同じ明神神輿に乗る。

 もう一度確認すると、もともと北口本宮浅間神社のある場所は、諏訪神社の境内だった。それが富士講の隆盛により浅間の神、つまり富士山の神を厚く奉る必要がでてきたので、現在のように大きく浅間神社の名前を掲げている。神社の境内に立てば、浅間神社本殿とは別に、諏訪神社の社の大きな存在感に気付くはずである。この祭りの、ふたつの神輿巡行と火祭りは、そもそもこの諏訪の森に鎮座していた諏訪神社が開催してきたものである。


写真3 地べたと神輿台、神輿の扱いの違いを最初の休憩地「高天原」から見せつける


 祭り当日の赤い富士山神輿は、諏訪神社のガラス張りに収まっているときには、照明がなかったせいか、落ち着いて見えたのだが、出立の儀が済んで、日差しの下に出てきた姿は、祭りの雰囲気にかなり興奮して、紅潮しているように見える。浅間神社と諏訪神社の併存という複雑な状態の中で、なんといっても見栄え的に中心の存在であるお富士神輿は、今日という今日は孤軍奮闘となる。

 その行動は、晴れの祭りの日となれば、その体内に御霊がないことなど無関係と言わんばかりに、腰掛なしで地べたに座るし、大地を揺らす火山である自身の癇癪も、三度地面に身を投げ出して見世物紛いに披露する。そんなお富士神輿を横目で見ながら、宮司は諏訪の明神神輿に供え物や祝詞を上げるのに対して、お富士神輿は放ったらかしにされる。


動画1 三度地面に落とされる富士山神輿


 さらにお富士神輿の健気なのは、明神神輿の権威を誇示する自分勝手な堂々巡りにも、常に前に出ることなく、後ろからお供をするし、宵山の一晩をゆっくり休むために清められた立派なお宿でも、到着してその胎内に潜り込む穴に見立てた、やぐらの操を切る明神神輿を、じっと後ろから見て、文句も言わずにいるのもお富士神輿でなのある。

 翌日の祭り次第でもその扱いは変わらない。神輿の休憩に、きちんとした輿掛け台を使ってもらえるのかと思っていると、その台は後でぬか漬けに使う、酒臭い酒樽だったりする。ふたつの神輿は街を練り歩いた後、諏訪ノ森の奥に、古きより据え置かれている御鞍石と呼ばれる、土地鎮めの要石に向かうのだが、そこでも、ようやくにありがたい石に乗せてもらえるのは、明神神輿だけである。火山である富士が、要石に乗っては本末転倒でもある。

 この祭りでの富士山は、崇められる対象というよりは、完全に従である。ここでの富士山は、富士講の崇拝心という別の観念のために鳥居や柵などがめぐらされているが、実際には住人の生活に害を及ぼす厄介者の役目なのである。想像力をたくましくすると、それは古い時代に富士を神と仰いだ人々の服属儀礼にも見れるが、ここでは、純粋に諏訪神が暴れる富士を手なずけ、村人のために噴火を阻止している鎮火祭と取るのが正しい。または諏訪ノ森の主役を奪われた諏訪神社の、小さな抵抗とも勘繰るか。


写真4 本来は諏訪神社の氏子である世話人によって松明は着火される


 祭りのもうひとつの主役である、「火」の扱いについても同じである。火は、富士の放つ火山の噴火を意味しているが、この祭りで扱われる火は、全て鎮火の神である諏訪明神によって律せられている。灯される松明へ着火する付火は、当初、お旅所内に注連縄の結界によって閉じ込められているが、明神神輿のお旅所への到着儀式で注連縄が切られることで、付け火は一気に解き放たれる。大松明に付けられた炎は、街を埋め尽くすが、街の古くからの伝承によると、火が建物等に乗り移って火事になったことは一度もないと言われている。つまり、諏訪明神の仕切りのおかげで火厄は除けられている、ということなのである。

 浅間神社という後からの別の信仰を取り外してみれば、吉田の火祭りの富士山の扱いは、純粋に諏訪神社の神が、富士山の噴火を鎮める祭祀を行っていたことを映していることが分かる。富士吉田に住んだ人々は、富士の登拝が流行する以前は、ここで他の村と同じように農耕や採取で生計を立てていたのである。富士は生活に必要な水を与えてくれる恵みの山でもあったが、時折人知の及ばない絶大な力で災害を及ぼす気まぐれな山だった。この祭りは、その頃の富士山祭祀の様子を留めている稀有な祭りである。


写真5 山中湖の明神山である鉄砲木の頭では、山中諏訪神社の奥宮が富士と対面している


 そしてこの祭りを見ていると、この地方には富士の神と、諏訪の神とが併存していたということにも気づく。富士山の北側には、諏訪神社と浅間神社のふたつの神を奉る神社がいくつか見られる。

 すぐ近くの山中湖にある山中諏訪神社の奥宮は、以前はもっと山奥にあったというが、今は富士山を正面に展望する鉄砲木の頭に鎮座する。鉄砲木は「木」は、鉄砲水の「水」の字が変化したもので、麓の沢はよく鉄砲水を出したそうである。山中諏訪神社も、境内に立派な浅間神社を置く富士山を強く意識した神社である。次回は、富士山北麓地域の、浅間神社と諏訪神社の二重祭祀について触れてみたい。



引用参考文献

・富士吉田市教育委員会「国指定記録選択無形民俗文化財調査報告書/吉田の火祭り」2005年