Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

じゅんじゅんホームページ

SNS

2020.11.27 07:04

※画像は下記。

私は今年の初めから、携帯電話の各種新着通知をOFFにしている。

Twitter、Instagram、Facebook、LINE、メッセンジャーなどなど。

早く確認しなくちゃ、とか、早く返事を返さなくちゃ、とか、平常心が揺るがされるからだ。

そして、ひとりの時、余裕がない時、逆に暇な時も、なるべくSNSを開かないようにしている。

SNSを見ると、時間とエネルギーが削られると感じたから。

人は、気持ちや状況、伝えたい物事や思想を、「言葉」という入れ物を使って他人に手渡す。

空気や間合い、ジェスチャー、イントネーション、文字にする場合はフォント等で、「こういう意味ですよ」と匂わせたり、補足したりもする。

言葉は決まった入れ物なので、必ずしも心や伝えたい意思に沿ったものではない。

心に即していないからといって、

「今の私の気分は***」

のように独自の造語を使って共通言語の域を超えてしまうと、伝わるものも伝わらない。

勿論、音楽やダンスなど、言語とは別の伝達の類もあるが、それらが日常のやりとりに適しているとは言えないと思う。

朝起きてから、ミュージカルな毎日を想像してみる。

それは、ちょっとつらい。


ポルノグラフィティのパレットという曲の歌詞に、

"だって知っている言葉はほんのちょっとで

感じれることは それよりも多くて

無理やり 窮屈な服 着せてるみたい"

という一節がある。

当時聴いていて、本当それな、と思った。

私の尊敬する新藤晴一氏の作詞。

さすが晴一氏である。

でも近頃ふと思う。

人と人って、曖昧な部分を個々に解釈して、なんとなく分かり合ったような気持ちになることで成り立っているよな、と。

「伝えたい想いを100%表現する入れ物が無くて窮屈だ」と感じてしまう。

けれど、実際には、「どう入れ物を寄せ集めても詰め込んでも、結局手元にある自分の心を100%伝える事なんて不可能」なのである。

そして、どれだけ上手に想いを詰めても、自分の思い通りの結果には必ずしもならない。

なぜならば、その先には他者という、全く別の脳を持った生き物がいるのだから。

努力すれば報われる勉学のようなものではなく、答えは千差万別で、正解も無い。

勿論、表面上うまくいったと見えることもある。

その場合でも、自分の想いが100%共有出来た実証はない。

私は、人と人が100%同じ景色を見る事は不可能だと思っている。

それはネガティブな意味では無い。

同じ風景を、同じ眼球で、同じように観ることが、感じ取ることが出来たら、気持ちを伝えようとする歩み寄りも、必要なくなってしまうと思う。

それでは彩りがなくなってしまう。

否、己の気持ちを伝えようとはするかもしれない。

でも100%伝わってしまったら、うまい逃げ場が無くなるような気がする。

例えば、全く別の新興宗教者がそれぞれの神が正しい素晴らしいと意を伝え合ったとして、100%伝わった上で「これは間違いだ」とか「私の方が素晴らしい」と言われたら、どうなるだろう。

自ずと争いになると思う。

隅から隅まで伝えようとするのは、傲慢への道でもある。

その先にあるのは、「自分の伝えたい想いを受け取った相手への期待」だからだ。

自分の想いが100%寸分狂い無く伝わって、伝わったからには予想通りの反応が返ってくるはずだ、と。

伝えたいという思いが、いつのまにか期待を膨らませ、エゴイズムに繋がる。

そして、期待は、絶望を生む。

期待したら期待しただけ、現実との差異に愕然とし、裏切られたと感じる。

被害者意識を生む、その源は、皮肉な事に自らの理想や希望だったりする。

何が言いたいかといえば、相互理解も、関係性も、なんとなくでいいと思う、ということ。

面と向かってでさえ100%伝わらないものだから、違う媒体を介すれば、それはさらに屈折して伝わってしまうということ。

要素を増やせば、悩みも増えるということ。

目に見える化が、必ずしも良いとは限らないということ。




ひさしぶりにTwitterを開いた。

DMで相談を受けてやりとりしていた子に返事を書こうとメッセージBOXを開くと、

「今後、この方にダイレクトメッセージを送ることはできません」

の表記。

ブロックされてしまったようである。

私が返事を考え倦ねいて遅かったせいかもしれない。

元々不安定な子だから、待つのが耐えられなかったのかもしれない。

私の言葉遣いが良くなかったせいかもしれない。

私が返答もせずにライブを観に行っていたせいかもしれない。

いくら考えても、無論、答えは出ない。

以前ならば、慌てふためいていたと思う。

でも、今は、焦っても取り繕っても、どうにもならないと知っている。

私は、私に出来ることを、出来る範囲で、やるまで。

もっと求められても応えられないし、頑張ったら私も倒れてしまうから。

その時は、いまはしかたがないねと離れるしかない。

「返事はなるべく順番に返す」

「返事を返していないのにSNSの投稿やいいねはしない」

「慌てて返答して誤解を生んだ事があったからきちんと確認してから送信する」

そんな自分ルールがたくさんある。

気にしすぎだと言われても、不安になるから、やってしまう。

そんな慎重を通り越した臆病な私でも、全ての人と上手くはいかない。

ただ向こうの期待値に達しなかっただけの話。

頭ではわかっているつもりでも、やっぱり、すこし、かなしいなあ。


本来、人と人との関係は、目に見えるものではない。

SNSは、それをまるであるかのようにみせてしまう。

わざわざ「関係があるよ」と作ってみせて、何かの拍子にそれを解除してしまうことで、本来の相互関係にも影響を与えてしまう。

本当は、なにもないのに。

だれが上でも下でもないのに。

SNSがなかった頃は、どんなに喧嘩しても、次会ったときにごめんねを言って済ませられたのにね。

むずかしいね。


それでも、人と人の関係は、指先一つで解消出来るものではない。

いつかまたあの子に会える日がきたら、聞かれていた、出演するのにおすすめのライブハウスを伝えよう。

私が不安になった時使っているアプリも。

ほっとするハーブティーも。

それまで、どうか、無理せず、生きていてね。