『増殖する俳句歳時記』検索: 松尾芭蕉 ③
此秋は何で年よる雲に鳥
松尾芭蕉
死が間近の元禄七年(1694年)九月二十六日、大坂清水での作句。詞書に「旅懐」とある。「何で年よる」の「何で」の口語体に、ただならぬ身体の不調感がよく表われていて、いたましい。「此(この)秋は」、どういうわけで、こんなにも急に老け込んだ感じがするのだろうか。「何故に」ではなく「何で(やろか)」とくだけた物言いのなかに、自問自答の孤独性が滲み出る。誰にせよ、自問自答に文語を使用することはしないだろう。文語はあくまでも他者を意識した表現なのだから、つまり他所行きの言葉なのだから、だ。そして、この「何で」は、皆目見当がつかないという意味でもない。ある程度の心当たりは、これまた誰にでもあるのが普通だ。芭蕉の場合には、愛弟子の人間関係のこじれを、放っておけば関西蕉門の分裂につながりかねないと、自ら調停に乗りだして失敗したことが言われている。「座の文芸」には、参加者の人間関係によって盛り上がりもすれば崩壊もするという生臭さがつきまとう。このときの芭蕉には、今で言えば相当にストレスの溜まった状態がつづいていたわけで、それが身体の弱りをなお促進したと考えてよいだろう。こういうときには、人間は「何で(こうなのか)」と精神的にも天を仰ぐしかない。で、そこには「雲に(消え逝く)鳥」があったと結んだ下五文字について、「寸々の腸(はらわた)をしぼる」と述べている。苦吟もここに極まり、最後の力を振り絞って振り出したような鳥の孤影への飛躍的表現が、「何で」の個人的な思いの切実さに、濃い輪郭と深い客観性とを与えることになった。(清水哲男)
December 19122002
海くれて鴨のこゑほのかに白し
松尾芭蕉
貞享元年(1684年)十二月の句。前書に「尾張の国あつた(熱田)にまかりける此、人びと師走の海みんとて船さしけるに」とある。寒い師走の夕暮れどきに海を見るために船を出すとは、何と酔狂なと思ってしまうが、これまた風流の道の厳しいところだろう。もはや日は没していて、夕闇のなかを行き交う船もなし。しばらく櫓を漂わせた静寂にひたっていると、不意にどこからか「鴨のこゑ」が聞こえてきた。そちらのほうへ目を凝らしてみるが、むろん暗くて姿は見えない。もしかすると、空耳だったのだろうか。そんな気持ちを「ほのかに白し」と詠み込んでいる。この句は、聴覚を視覚に転化した成功例としてよく引かれるけれど、芭蕉当人には、そうした明確な方法意識はなかったのではないかと思う。むしろ、空耳だったのかもしれないという「ほのか」な疑念をこそ「白し」と視覚化したのではないだろうか。聞こえたような、聞こえなかったような……。そのあやふやさを言いたかったので、見られるとおりに、あえて「五・五・七」と不安定な破調を採用したのではなかろうか。そう読んだほうが、余韻が残る。読者は芭蕉とともに、聞こえたのか聞こえなかったのかがわからない「白い意識」のまま、いつまでも夕闇につつまれた海を漂うことができる。(清水哲男)
February 0522003
旅がらす古巣はむめに成にけり
松尾芭蕉
季語は「むめ(梅)」で春。黒っぽい装束で旅をしている自分を「からす」になぞらえて「旅がらす」。ひさしぶりに「古巣」、すなわち故郷に戻ってみたら、例年のように「むめ」の花が咲き匂っていた。やはり、故郷はいいな。ほっと安堵できる……。句意としてはそんなところで、さして面白味はない。が、ちょっと注目しておきたいのは「旅がらす」の比喩だ。現代人からすると、時代劇や演歌の影響もあって、なんとなく木枯紋次郎などの無宿人や渡世人を想像してしまう。「しょせん、あっしなんざあ、旅から旅への旅がらすでござんすよ」。そんな渡世人の句としても成立しないわけではないが、しかし、芭蕉にはそうした崩した自意識や自嘲の心はなかったはずだ。というのも、この「旅がらす」という言葉は、どうやら芭蕉その人の造語だったようだからである。「これ以前に、用例を見ない」と、古典俳句研究者であった乾裕幸『古典俳句鑑賞』(2002)にある。となれば、ひょっとすると渡世人を指す「旅がらす」も、掲句に発しているのかもしれないと想像できる。これは面白い、使える言い方だと、当時の誰かが飛びついた。それも、はじめは俳人や僧のような黒衣の旅人に限定して言っていたのが、だんだん意味が変わってきてしまったのではないだろうか。最近の国語辞典を見ると、もはや芭蕉が発想したであろうような「旅がらす」をイメージしての定義は載っていない。木枯紋次郎の側に、すっかり傾いている。(清水哲男)
September 1092003
ふる里は波に打たるゝ月夜かな
吉田一穂
娘が高校生のときだったと思うが、国語の教科書に一穂の「白鳥」が載っていてびっくりした覚えがある。この難解な詩を、どんなふうに教師は教えたのだろうか。私が教師だったら、生徒には素直に「わかりませぬ」と謝るしかない。一穂の難解さは、徹底して日常的な描写を拒否したところにあった。元来、日本語は感覚的情緒的であり、現実を取捨選択して切り抜くのではなく、現実の流れをなぞって行くのに適している。すなわち描写を得意とするわけだが、ならば芸術までがわざわざ「ナメクジ語」(一穂)を使うことはない。あえてそのようにメロディアスな日本語の特性にさからい、言語的な抽象性を目指すときに、はじめて日本語表現は芸術として自立できるのだ。と、これは私なりの雑駁な理解でしかないけれど、揚句にもむろんこうした詩人の方法論が生かされていると読むべきだろう。詩人は芭蕉を敬愛し、「スケッチ文学」の蕪村を嫌った。安易な描写による抒情性を否定した。だが皮肉なことに、この句には彼が蛇蝎の如く嫌った情緒が纏綿といった感じで滲んで見えている。私の考えでは、この句には方法論的に芭蕉の「荒海や佐渡によこたふ天河」が下敷きにあると思う。「荒海」に対するに「ふる里」、「よこたふ」に「打たるゝ」、そして「天河」に「月夜」。いまある自分の位置からのまなざしや思いの方向が、完全に同一だ。にもかかわらず、一穂句が情緒的に流れて見えるのは何故だろうか。それはおそらく詩人自身がどう反抒情的に句を律したつもりでも、「ふる里」や「月夜」の語彙が既にしてあまりにも抒情の甘さにまみれているからに他ならないだろう。絶対に言えることは、詩人がこの句に託した屹立したイメージは、ほとんど読者には伝わらないのである。いたましきかな。詩集『稗子傅』(1935)所収。(清水哲男)
September 2892003
物言へば唇寒し秋の風
松尾芭蕉
あまりにも有名なので、作者の名前を知らなかったり、あるいは諺だと思っている人も少なくないだろう。有名は無名に通じる。こうした例は、他のジャンルでも枚挙にいとまがない。それはともかく、掲句は教育的道徳的に過ぎて昔から評判は芳しくないようだ。ご丁寧にも座右の銘として、こんな前書までついているからだろう。「人の短をいふ事なかれ 己が長をいふ事なかれ」。虚子も、苦々しげに言っている。「沈黙を守るに若かず、無用の言を吐くと駟(シ)も舌に及ばずで,忽ち不測の害をかもすことになる,注意すべきは言葉であるという道徳の箴言に類した句である。こういう句を作ることが俳句の正道であるという事はいえない」。ま、そういうことになるのだろうが、私はちょっと違う見方をしてきた。発表された当時には、かなり大胆かつ新鮮な表現で読者を驚かせたのではないのかと……。なぜなら、江戸期の人にとって、この「唇」という言葉は、文芸的にも日常的にも一般的ではなかったろうと推察されるからである。言葉自体としては、弘法大師の昔からあるにはあった。が、それは例えば「目」と言わずに「眼球」と言うが如しで、ほとんど医術用語のようにあからさまに「器官」を指す言葉だったと思われる。普通には「口」や「口元」だった。キスでも「口吸ふ」と言い、「唇吸ふ」という表現の一般性は明治大正期以降のものである。そんななかで、芭蕉はあえて「唇」と言ったのだ。むろん口や口元でも意味は通じるけれど、唇という部位を限定した器官名のほうが、露わにひりひりと寒さを感じさせる効果があがると考えたに違いない。「目をこする」と「眼球をこする」では、後者の方がより刺激的で生々しいように、である。したがって、ご丁寧な前書は句の中身の駄目押しとしてつけたのではなくて、あえて器官名を持ち出した生々しさをいくぶんか和らげようとする企みなのではなかったろうか。内容的に押し詰めれば人生訓的かもしれないが、文芸的には大冒険の一句であり、元禄期の読者は人生訓と読むよりも、まずは口元に刺激的な寒さを強く感じて驚愕したに違いない。(清水哲男)
November 04112003
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
松尾芭蕉
ご存知『おくのほそ道』の掉尾を飾る一句だ。「行秋」は「ゆくあき」。どんな文集でもそうだが、終わり方、しめくくり方には大いに気をつかう。終わり方如何で、作品全体の印象が決定づけられる。竜頭蛇尾に終われば、それまでの苦労が水の泡だ。よく知られているように、芭蕉は『おくのほそ道』の推敲にはずいぶんと長い年月をかけた。したがって、文中の句に即吟そのままというのは、あまりないだろう。萩と遊女の句のように、まったくのフィクション句もある。この句は大垣の港から二十年に一度の伊勢の遷宮を拝むために、舟で出発したときに詠まれた。すなわち、芭蕉の旅はまだまだ続くわけだが、彼はあえて大垣をもって旅の終着地としている。せっかくの伊勢詣でなのだから、遷宮の様子もレポートしたかったとは思うが、それをしなかった。なぜなら、伊勢を書けば「ほそ道」一巻を貫く思想が崩れてしまうからなのだ。凡俗の徒の営為などは、あっという間に神の懐に吸引吸収されてしまう。「月日は百代の過客にして」の人間としての一種の悟りも、神の前ではちっぽけな考えでしかないだろう。下世話な言葉を使えば、それではヤバかったのである。だから、大垣で止めた。掲句の「ふたみ」が蛤(はまぐり)の蓋と身にかけてあるように、この句には他にも芭蕉の教養と機知と感覚とがいろいろと詰まっている。詳細についてはしかるべき評釈書を参照していただくとして、ここで芭蕉がねらったのは読者をして一巻冒頭の一行目に回帰せしめることだったと思う。だから惜しみつつ惜しまれつつ別れていく人情を、行く秋への惜別の情に巧みに切り換えることで、芭蕉は素早くも個に立ち返っているのだ。つまり、旅立ちのときの個と同じ位置に戻っている。舟が出たのは午前八時ころだというが、早春に江戸を旅立ったのも早朝であった。時間的にも、ぴしゃりと合わせてある。要するに「ほそ道」は円環体に構成されていて、永久に終わりのない読み物なのだ。それもこれもが、この最後の句の工夫にかかっている。(清水哲男)
May 0252004
ほろほろと山吹ちるか瀧の音
松尾芭蕉
季語は「山吹」で春。『笈の小文』所収の句で、前書に「西河(にしこう)」とある。現在の奈良県吉野郡川上村西河、吉野川の上流地域だ。この「瀧(たき)」は吉野大滝と言われるが、華厳の滝のように真っ直ぐに水の落下する滝ではなくて、滝のように瀬音が激しいところからの命名らしい(私は訪れたことがないので、資料からの推測でしかないけれど)。青葉若葉につつまれた山路を行く作者は、耳をろうせんばかりの「瀧の音」のなか、岸辺で静かに散っている山吹を認めた。このときに「ほろほろと」という擬態語が、「ちるか」の詠嘆に照応して実によく効いている。「はらはらと」ではなく、山吹は確かに「ほろほろと」散るのである。散るというよりも、こぼれるという感じだ。吉野といえば山桜の名所で有名だが、別の場所(真蹟自画賛)で芭蕉は書いている。「きしの山吹とよみけむ、よしのゝ川かみこそみなやまぶきなれ。しかも一重(ひとえ)に咲こぼれて、あはれにみえ侍るぞ、櫻にもをさをさを(お)とるまじきや」。現在でも川上村のホームページを見ると、山吹の里であることが知れる。「ほろほろと」に戻れば、この実感は、よほどゆったりとした時間が流れていないと感得できないだろう。その意味では、せかせかした現代社会のなかでは、もはや死語に近い言葉かもしれない。せめてこの大型連休中には、なんとか「ほろほろと」を実感したいものだが、考えてみると、この願望の発想自体に既にせかせかとした時間の観念が含まれている。(清水哲男)
January 3012005
夜は水に星の影置き冬の菊
加藤耕子
季語は「冬(の)菊」。当歳時記では、一応「寒菊(かんぎく)」に分類しておく。芭蕉の昔より「寒菊」「冬菊」の句は多いが、冬季は花が少ないので自然にこの花に注目が集まるということだろう。が、掲句のように冬の夜の菊を詠んだものは珍しい。池のほとりに咲いている冬の菊。今宵の空は煌煌と冴え渡り、「水」は「星の影」をくっきりと写している。その星々と白い菊の花が、まったき静寂の中で澄み切っている様が目に浮かぶ。がさがさとせわしない現代人の暮らしの中にも、心を鎮めれば、こうした情景をとらえることができるのだ。その意味で、この句は私をはっとさせた。叙景句、あなどるべからず。ところで、季語「冬菊」を「寒菊」とは別種なので別項目にしている歳時記がある。最も新しいものでは、講談社版『花の歳時記』(2004)がそうだ。それによると「冬菊」は普通種の遅咲きを指し、「寒菊」は「島寒菊(油菊)」を改良した園芸品種を指すのだという。そして「(これらを)混同している歳時記が多い」と書いてある。しかし私は、それはその通りだとしても、あえて「混同」的立場に立っておきたい。なぜならば、多くの歳時記がどうであれ、肝心の俳人たちが明確に「冬菊」と「寒菊」の違いを承知した上で詠んできたとは、とても思えないからなのだ。たとえば芭蕉の有名な「寒菊や粉糠のかゝる臼の端」にしても、この菊は園芸種でないほうがよほど似つかわしいではないか。それに別建て論者が典拠とする『江戸名所花暦』は文政11年(1827年)の刊行だから、むろん芭蕉が知り得たはずもないのである。掲句は俳誌「耕」(2005年2月号)所載。(清水哲男)
April 2142005
よく見れば薺花さく垣ねかな
松尾芭蕉
季語は「薺(なずな)の花」。春の七草の一つで、実の形が三味線のバチに似ていることから、俗に「ぺんぺん草」あるいは「三味線草」と言うが、こちらの名前のほうがポピュラーだろう。日頃見慣れている「垣ね」に何気なく目をやったら、いつもの趣とはちょっと違うことに気がついた。何やら小さな白いものが混じっている。そこで「よく見た」ところ、薺の花だったと言うのだ。見たままそのまんまを描いているだけなので、思わず「それはわかりましたが、それがどうかしたのですか」と聞きたくなる読者もいそうである。少なくとも、かつての私はそうだった。が、よくよく繰り返し考えるうちに、この句は薺の花を発見する以前の垣根の変化への気づきを書いたのだと思えてきたのだった。つまり「よく見れば」の前の「よく見ない」状態のときに、ふっといつもとは違う風情を感じたそのことを詠んだのだと……。句に書かれていることは、その気づきが外れていなかったことの証明書みたいなものに過ぎなく、作者はむしろそれ以前の段階での感覚的な世界をこそ指さしたかったのではあるまいか。すなわち、季節の移ろいとともに微細に変化する自然に、いちはやく気づいたことへの喜びと、もう一つはむろん待ちかねた春到来の喜びとが重ねあわされているのだ。わざわざ「よく見れば」を初句に置いたのは、まだ「よく見ない」ときに感じた嬉しい心持ちの強さをあらわしているのだと思う。(清水哲男)
May 0152005
笈も太刀も五月にかざれ紙幟
松尾芭蕉
季語は「幟(のぼり)」で夏。端午の節句に立てる布や紙製の幟である。現在では鯉のぼりが圧倒的に優位にあるが、芭蕉の頃には逆だった。あるいは、鯉のぼりはまだ無かったかもしれない。いかにも五月らしい威勢の良い句だ。『おくのほそ道』の旅で、現在の福島県瀬上町に佐藤庄司(藤原秀衛の臣で、息子二人は義經に殉じた)の旧跡を訪ねた折りの作。かたわらの医王寺に「入りて茶を乞へば、爰に義經の太刀辨慶が笈をとゞめて什物とす」とある。すなわち、折りしも五月なのだから、紙のぼりといっしょに弁慶の笈(おい)も義經の太刀も節句の飾り物にせよと言ったわけだ。しかも、この日は偶然にも「五月朔日のことなり」ということで、ますます威勢がよろしい。昔の読者はみな「ううむ」と感心したのだったが、後に曾良の随行メモが発見されて、これらがフィクションであることが明らかになる。芭蕉は義經の太刀も辨慶の笈も実際には見ていないし、日付も五月一日ではなくて二日だった。このようなフィクションは『おくのほそ道』には他にもあり、ノンフィクションとしては信用できない書き物ではあるけれど、しかし私は、自作を生かすためのこの程度のフィクションは気にしない。もっと大ボラを吹いて楽しませてほしいくらいだ。でも、二日の出来事を「一日」のことだとわざわざ特記するところあたりで、芭蕉はちょっと気がさしたかもしれないなあ。同時代の井原西鶴ほどには、押しが強くなかった人のようだ。蛇足ながら、正岡子規は鯉のぼりが嫌いだったらしい。「定紋を染め鍾馗を画きたる幟は吾等のかすかなる記憶に残りて、今は最も俗なる鯉幟のみ風の空に翻りぬ」と慨嘆している。(清水哲男)
July 1172005
生きていることの烈しき蛸つかむ
吉田汀史
山国で育ち、あとは都会でしか暮らしたことがないので、海のものにはほとんど無知である。掲句の季語を迷いなく「蛸(たこ)」で夏期ととってしまったのも、その証拠のようなものだ。念のためにと思い手元の歳時記にあたってみたところ、季語「蛸」が見当たらないのには愕然とした。「迷いなく」思い込んでいたのは、どうやら芭蕉の有名な「蛸壺やはかなき夢を夏の月」が頭にあったからのようだ。だが、この句でも蛸は季語ではない。ただし調べてみると、蛸の水揚げ量が最も多いのは産卵期にあたる春から夏にかけてだそうだから、徳島在住の作者にとっての蛸漁は、春ないしは夏のイメージなのだろうと推察した次第だ。そんなふうだから、私はもちろん生きた蛸をつかんだことはない。けれども、掲句の言わんとするところはよくわかる。もはやぐたっとなっているかに見えた蛸をつかんだら、想像以上予想外の強力な「抵抗」にあい、たじたじとなると同時に、生命あるものの激しさに畏怖を覚えたのだった。私がそのことを肝に銘じたのは、中学一年のときだったろうか。教室で野ウサギの解剖をしている最中に、麻酔の切れたウサギが猛然と暴れ出したことがあった。思い出すだに冷たい汗の出てくる体験だが、生命の力とは強いものだ。だからこそ逆に、いざ生命が失われてみると、そのはかなさがより強く印象づけられるのだろう。俳誌「航標」(2005年7月号)所載。(清水哲男)
[ 訂正というか…… ]読者からのご教示もあり調べたところ、夏の季語に「蛸」を採用している歳時記がいくつかあることがわかりました。平凡社版、学研版、講談社版など。当歳時記は角川版(ときに河出版)に準拠しており、同版にはないのですが、作者の句風からみて「蛸」を季語としたほうが妥当と考え、夏期に分類することにしました。同様の問題はたまに出現し、悩まされるところです。
December 01122005
冬の雨火箸をもして遊びけり
小林一茶
季語は「冬の雨」。時雨とはちがって、いつまでも降り続く冬の雨は侘しい。降り方によっては、雪よりも寒さが身に沁みる。芭蕉に「面白し雪にやならん冬の雨」があるように、いっそのこと雪になってくれればまだしも、掲句の雨はそんな気配もないじめじめとした降りようだ。こんな日は、当然表になど出たくはない。かといって、鬱陶しさに何かする気も起こらず、囲炉裏端で「火箸をも(燃)して」遊んでしまったと言うのである。飽きもせずに火箸をもして、真っ赤に灼けたそれを見ながら、けっこう真剣な顔をしている一茶の姿が目に浮かぶ。したがって、句はそんな自分に苦笑しているのではない。むしろ、そんなふうに時間を過ごしたことに、侘しさを感じると同時に、他方ではその孤独な遊びにほのかな満足感も覚えている。侘しいけれど、寂しいけれど、そのことが心の充足感につながったというわけだ。そしてこの侘しさや寂しさをささやかに楽しむという感覚は、昔の人にしては珍しい。この種のセンチメンタリズムが一般的に受け入れられるようになったのは、近代以降のことだからである。子供の歌だが、北原白秋に「雨」がある。遊びに行きたくても、傘はないし下駄の鼻緒も切れている。仕方がないので、家でひとり遊びの女の子。「♪雨が降ります 雨が降る/お人形寝かせど まだやまぬ/おせんこ花火も みなたいた」。上掲の一茶の句には、まぎれもなく白秋の抒情につながる近代的な感覚がある。孤独を噛みしめて生きた人ならではの、時代から一歩抜きん出た抒情性が、この句には滲み出ている。『大歳時記・第二巻』(1989・集英社)所載。(清水哲男)
December 07122005
葱白く洗ひたてたるさむさ哉
松尾芭蕉
季語は「さむさ(寒さ)」で冬。「葱」も冬の季語だが、掲句では「さむさ」がメインだ。なお、この句の「葱」は「ねぶか」と読む(『芭蕉俳句集』岩波文庫)。「ねぶか(根深)」は、白い部分の多い関東の葱で、なかには緑2に対して白8という極端な葱もあったという。さて、つとに有名なこの句は巧いとは思うけれど、あまり良い句だとは思わない。当今の句会に出しても点数は入りそうだが、よく読むと実感の希薄な句なので、ぶっちぎりの一句というわけにはいかないだろう。ミソは、寒さの感覚を視覚的な「白」で伝えたところだ。なるほど、白は寒さを連想させるし、その白が真っ白になるまでの寒い作業も思われて、句のねらいはよくわかる。元禄期の俳句としては、この白い葱の比喩は相当に新しかったにちがいない。しかもわかりやすいし、巧いものである。だが、問題は残る。端的に言えば、この句には「さむさ」の主体が存在しないのだ。寒がっているのは、いったい誰なのだろうか。作者はちっとも寒そうではないし、かといって他の誰かというのでもない。好意的に考えれば、ここで芭蕉は「寒さにもいろいろありますが、こんな寒さもありますよね」と、寒さのカタログのうちの一つを提出してみせているのかもしれない。でも、だとしたら、「さむさ哉」の詠嘆は大袈裟だ。おそらく芭蕉は、寒さの感覚を葱の白さに託すアイディアに惚れ込みすぎて、肝心の寒さの主体を失念してしまったのではなかろうか。私には、作者の「どうだ、巧いだろう」という得意顔がちらついて、嫌みとも思える。おのれの比喩に酔う。よくあることではあるけれど。(清水哲男)
March 1732006
両の手に桃とさくらや草の餅
松尾芭蕉
季語は「桃(の花)」と「さくら(桜)」と「草(の)餅」とで、春。彩り豊かな楽しい句だ。この句は芭蕉が『おくのほそ道』の旅で江戸を後にしてから、二年七ヶ月ぶりに関西から江戸に戻り、日本橋橘町の借家で暮らしていたときのものと思われる。元禄五年(1692年)。この家には、桃の木と桜の木があった。折しも花開いた桃と桜を眺めながら、芭蕉は「草の餅」を食べている。「両の手に」は「両側に」の意でもあるが、また本当に両手に桃と桜を持っているかのようでもあり、なんともゴージャスな気分だよと、センセイはご機嫌だ。句のみからの解釈ではこうなるけれど、この句には「富花月。草庵に桃櫻あり。門人にキ角嵐雪あり」という前書がある。「富花月」は「かげつにとむ」と読み、風流に満ち足りているということだ。「キ角嵐雪」は、古くからの弟子である宝井基角と服部嵐雪を指していて、つまり掲句はこの二人の門人を誉れと持ち上げ、称揚しているわけだ。当の二人にとってはなんともこそばゆいような一句であったろうが、ここからうかがえるのは、孤独の人というイメージとはまた別の芭蕉の顔だろう。最近出た『佐藤和夫俳論集』(角川書店)には、「『この道や行人なしに秋の暮』と詠んだように芭蕉はつねに孤独であったが、大勢の弟子をたばねる能力は抜群のものがあり、このような発句を詠んだと考えられる」とある。このことは現代の結社の主催者たちにも言えるわけで、ただ俳句が上手いだけでは主宰は勤まらない。高浜虚子などにも「たばねる能力」に非凡なものがあったが、さて、現役主宰のなかで掲句における芭蕉のような顔を持つ人は何処のどなたであろうか。(清水哲男)
August 0982006
閑さや岩にしみ入蝉の声
松尾芭蕉
芭蕉のあまりにも有名な句ゆえ、ここに掲げるのは少々面映いけれど、夏の句としてこの句をよけて通るわけにはいかない。改めて言うまでもなく『おくのほそ道』の旅で、芭蕉は山形の尾花沢から最上川の大石田へ向かうはずだった。けれども「一見すべし」と人に勧められ、わざわざ南下して立石寺(慈覚大師の開基)を訪れて、この句を得た。「山上の堂にのぼる。岩に巌を重ねて山とし、松栢年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。云々」と記してこの句が添えられている。麓の仙山線・山寺駅で下車して、私は二回その「山上の堂」まで登ったことがある。見上げると切り立つ急峻に圧倒されるが、てっぺんまでは三十分くらいで登れた。一回は1997年8月、秋田からの帰りに種村季弘さんご夫妻と一緒に登った。天地を結ぶ閑けさとただ蝉の声、それは決して喧騒ではなく澄みきった別乾坤だった。あたりをびっしり埋め尽くした蝉の声に身を預け、声をこぎ分けるようにして、汗びっしょりになりながら芭蕉の句を否応なく体感した。奇岩重なる坂道のうねりを這い、途中の蝉塚などにしばし心身を癒された。芭蕉の別案は「山寺や石にしみつく蝉の声」だが、「しみ入」と「しみつく」とでは、その差異おのずと明解である。(八木忠栄)
December 06122006
湯殿より人死にながら山を見る
吉岡 実
季語のない句だが、句柄から春でも夏でもないことは読みとれる。秋から冬へかけての時季と受けとりたい。土方巽や大野一雄に敬愛され、暗黒舞踏に対して一家言もっていた吉岡実は、北方舞踏派の公演を山形へ観に出かけたことがあった。その折の羽黒山参拝をテーマに「あまがつ頌」という詩を書いた。掲出句はそのなかに挿入された俳句七句のうちの一句。「湯殿」は風呂であるが、ここでは湯殿山のことでもある。風呂で裸になった人が山を見上げている、その放心して無防備な姿は、死にゆく者のような不吉なふぜいと見ることもできるだろう。あるいは湯殿山(1500M)にいて、そこに連なる月山(1984M)を見上げている、どこやら不吉な図でもある。月山をはじめとして、ミイラ仏の多い一帯である。(私の祖父はよく「ナムアミダブツ・・・」と呟きながら湯船に沈んでいた。)「あまがつ頌」は詩集『サフラン摘み』(青土社・1976)に収められた。親しかった高柳重信を訪ねた吉岡実が、出来たばかりのこの詩集を渡すと一瞥して「自分には一寸つくれない奇妙な句だと感じ入ったように言った」と後に吉岡実は書き、同時に「芭蕉の『語られぬ湯殿に濡す袂かな』に挑戦を試みた」とも書いている。芭蕉の句を十分に凌駕しているではないか。掲出句と一緒に収められた他の句、「干葉汁すする歯黒の童女かな」は「羽黒」、「葛山麓糞袋もたぬかかし達」は「月山」、「雪おんな出刃山刀を隠したり」は「出羽」、「喪神川畜生舟を沈めける」は「最上川」を、それぞれ言い換えて冴えわたっている。いずれも身の引き締まるすさまじさ! 吉岡実は若い頃に俳句や短歌も実作していただけでなく、生涯にわたってそれぞれにきわめて強い関心をもちつづけた。句集『奴草』(2003)所収。(八木忠栄)
March 1132007
起きよ起きよ我が友にせんぬる胡蝶
松尾芭蕉
現代詩が昆虫をその題材に扱うことは、そう多くはありません。かすかに揺れ動く心情を、昆虫の涙によって表したものはありますが、多くの場合「虫」は、姿も動きも、人の観念を託す対象としてはあまり向いていないようです。片や、季語がその中心に据えられた「俳句」という文芸においては、間違いなく虫はその存在感を存分に示すことができます。季節の中の身動きひとつでさえ、俳人の掌に掬い取られて、時に感情の深部にたどり着くことがあります。掲句、「ぬる」は「寝る」の意味。虫の中でも、「蝶」の、夢のように舞うすがたは、地べたを這う虫とは違った印象をあたえてくれます。芭蕉が「起きよ起きよ」と二度も声を掛けたくなったのも、色彩そのもののような生き物に、弾むこころが抑えられなかったからでしょう。「我が友にせん」というのは、単に話し相手になっておくれということでしょうか。あるいは蝶に、夢の中身を教えてくれとでも言うつもりでしょうか。一人旅の途中で、目に触れたかわいらしい生き物に、つい声を掛けたと思えば、ほのぼのとした情感を持つことができます。ただ、見方によっては、これほどにさびしい行為はないのかもしれません。一人であることは、それが選び取られたものであっても、ちょっとした心の揺らぎによって、だれかへもたれかかりたくなるもののようです。『芭蕉物語』(1975・新潮社)所収。(松下育男)
April 2142007
惜春の紐ひいて消す灯かな
大久保橙青
春夏秋冬、~めく、という表現は、いずれにもあてはまり、新しい季節の兆しに生まれる句も多い。しかし行くのを惜しまれるのは、春と秋のみ、惜夏、惜冬、とは言わない。夏が好きな私などは、秋の気配を感じると、えも言われず寂しく、去りゆく夏を心情的には惜しむのだが、過ごしやすくなる、という安堵感もまた否めない。それは冬も同様だろう。「望湖水惜春」と前書きのある芭蕉の句〈行春を近江の人とをしみける〉にも見られるように、秋惜む、に比べると、春惜む、惜春、は歴史ある季題である。桜に象徴される華やかな春を惜しむ心持ちには、一抹の寂しさがあり、やわらかい風を、遙かな雲を、のどかな空気を、いとおしみ惜しむのである。芭蕉の句の琵琶湖の大きい景に対して、この句の惜春は、ごく日常的である。現在は、部屋の電気を壁にあるスイッチで消す、というのが大半であろうが、その場合、少し離れた所から間接的にスイッチを押し、暗くなった部屋全体に目をやることになる。しかし、ぶら下がっている紐を、その手で直接ひいて明りを消す時は、引きながらその明りに視線が行く。カチリと消した今日の灯(あかり)の残像が、暗がりの中にぼんやり残っているのを見つつ、また一日が終わったなと、行く春を惜しむ気持になったのだろう。惜春の、で切れており、読み下して晩春の穏やかな闇が広がってゆく。『阿蘇』(1991)所収。(今井肖子)
July 0672007
落蝉の眉間や昔見しごとく
山口誓子
落ちて転がっている蝉を拾い、その眉間(みけん)に見入る。ああ、昔見たようだとふと思う。そういう句だ。「見し」ではなくて「見しごとく」なので、はっきり記憶にあるわけではない。見たような感じがするということ。この句を郷愁の句ととることも出来る。蝉捕りをした頃の「昔」の回想。それにしても、蝉の眼と眼の間の距離、色彩、形状。どこにも従来の郷愁的、俳句的情緒のかけらもない。芭蕉の「さまざまのこと思ひ出す桜かな」あたりが一般的抒情のお手本になったからみんな花鳥風月の桜や鶯や風や月の抒情を利用して回顧のシーンや心情に移行するわけだ。ここにはその「典型」がない。日常の瞬間の即物的風景を入口にして、そこから個人的体験へ入っていく。僕はこの句に既視感(デジャ・ブ)をみる。死んだ蝉の眉間にぐんぐん接近するにつれて、カメラは存在の不安ともいうべきものを映し出す。「昔見たような感じ」から「自分がここにこうして在る不思議」へと至るのだ。このカメラワークには世界のクロサワもかなわない。俳句形式でなければ描けない固有の衝撃力がここにはある。存在の不安は即物非情と称せられる誓子作品に一貫しているものであって、それは子規が発案したときに「写生」という方法がもともと持っていた最大の特徴というふうに僕は思うのだが。『遠星』(1947)所収。(今井 聖)
July 1372007
ほととぎす大竹藪をもる月夜
松尾芭蕉
昭和三十年代、鳥取市の小学校に通っていた頃、借家はぼろぼろの木造二階建。部屋の土壁が剥落しているような状態で、雨が降ると家の中のいたるところで雨漏りがした。裏には百坪ほどの畑があり、その向こうに大きな竹薮があった。夏は蚊が大量に出て当時流行した日本脳炎を恐れたものだ。二階から見た月はきれいだった。竹薮の彼方に大きな一本の杉があり、その上に月は昇った。小学校の国語の時間で俳句を習った。教科書だったか、副読本だったかにこの句が出ていた。僕はこの句の「もる」を当時、「盛る」だと思ったものだ。月夜が竹薮を盛っている。まるでしゃもじで飯を盛るように。月光がしゃもじだ。貧しかった時代で大盛りのご飯に憧れがあったのかもしれない。とにかく、月光のしゃもじが大竹藪を掬って盛る。すごい句だな。俳句って、芭蕉ってすごいな。そう思った。やがて中学生になって、この「もる」が「洩(漏)れる」の意味だとわかる。月光が竹薮を漏れているのだ。この句が急につまらない句に見えてきた。この程度なら俺にもできる。そう思って初めて一句作り学習雑誌の投稿欄に投句した。中学二年生の春。俳句を始めたのは芭蕉さんのこの句のおかげだ。そんなに早く俳句を作り始めたのが良かったのか悪かったのかわからないけど。日本古典文学大系『芭蕉句集』(1988)所載。(今井 聖)
October 31102007
無駄だ、無駄だ、/大雨が/海のなかへ降り込んでいる
ジャック・ケルアック
佐藤和夫訳。原文は「Useless,useless,/theheavyrain/Drivingintothesea」の三行分かち書きである。特に季語はないけれど、秋の長雨と関連づけて、この時季にいれてもよかろう。たしかに海にどれほどの大雨や豪雨が降り込んだところで、海はあふれかえるわけではなく、びくともしない。それは無駄と言えば無駄、ほとんど無意味とも言える。ケルアックは芭蕉や蕪村を読みこんでさかんに俳句を作った。アレン・ギンズバーグ同様に句集もあり、アメリカのビート派詩人の中心的存在だった。掲出句を詠んだとき、芭蕉の「暑き日を海に入れたり最上川」がケルアックの頭にあったとも考えられる。この「無駄だ・・・」は、単に海に降りこむ大雨の情景を述べているにとどまらず、私たちが日常よくおかすことのある「無駄」の意味を、アイロニカルにとらえているように思われる。その「無駄」を戒めているわけでも、奨励しているわけでもなさそうだけれども、「無駄」を肯定している精神を読みとらなくてはなるまい。この句はケルアックの『断片詩集(ScatteredPoems)』に収められている。同書で俳句観をこう記している。「(俳句は)物を直接に指示する規律であり、純粋で、具象的で、抽象化せず、説明もせず、人間の真のブルーソングなのだ」。これに対し、自分たちビート派の詩は「新しくて神聖な気違いの詩」と言って憚らないところがおもしろい。佐藤和夫『海を越えた俳句』(1991)所載。(八木忠栄)
November 03112007
落魄やおしろいの実の濡れに濡れ
藤田直子
濡れるは光るに通じている。先日の時ならぬ台風の日、明治神宮を歩いた。玉砂利に、団栗に、ざわつく木々とその葉の一枚一枚に降る雨。太陽がもたらす光とは違う、冷たく暗い水の光がそこにあった。何年か前の雨月の夜、同じように感じたことを思い出す。観月句会は中止となったが、せっかく久しぶりに会ったのだからと、友人と夜の公園に。青い街灯に、桜の幹が黒々と、月光を恋うように光っていた。この句は、前書に「杜國隠棲の地 三句」とあるうちの一句。坪井杜國(つぼいとこく)は、蕉門の一人で、尾張の裕福な米穀商だったが、商売上の罪で流刑、晩年は渥美半島の南端で隠棲生活を送った。享年三十四歳。おしろいの花の時期は、晩夏から晩秋と長いが、俳句では秋季。落魄(らくはく)の、魄(たましい)の一字にある感慨と、おしろいの実の黒く濡れた光が呼応して、秋霖の中に佇む作者が見える一句である。芭蕉は、この十三歳年の離れた弟子に、ことのほか目をかけ、隠棲した後に彼の地を訪ね、別れ際に、〈白芥子に羽もぐ蝶の形見かな〉の句をおくったという。あえかなる白芥子の花弁と、蝶の羽根の白に、硬く黒いおしろいの実の中の、淡い白さが重なる。「秋麗」(2006)所収。(今井肖子)
November 05112007
影待や菊の香のする豆腐串
松尾芭蕉
芭蕉の句集を拾い読みしているうちに、「おっ、美味そうだなあ」と目に止めた句だ。前書に「岱水(たいすい)亭にて」とある。岱水は蕉門の一人で、芭蕉庵の近くに住んでいたようだ。「影待(かげまち)」とは聞きなれない言葉だが、旧暦の正月、五月、そして九月に行われていた行事のことである。それぞれの月の吉日に、徹夜をして朝日の上がるのを待つ行事だった。その待ち方にもいろいろあって、信心深い人は坊さんを呼んでお経をあげてもらうなどしていたそうだが、多くは眠気覚ましのために人を集めて宴会をやっていたらしい。西鶴の、あの何ともやりきれない「おさん茂兵衛」の悲劇の発端にも、この影待(徹夜の宴会)がからんでいる。岱水に招かれた芭蕉は、串豆腐をご馳走になっている。電気のない頃のことだから、薄暗い燈火の下で豆腐の白さは際立ち、折りから菊の盛りで、闇夜からの花の香りも昼間よりいっそう馥郁たるものがあったろう。影待に対する本来の気持ちそのままに、食べ物もまた清浄な雰囲気を醸し出していたというわけである。その情況を一息に「串」が「香」っていると言い止めたところが、絶妙だ。俳句ならでは、そして芭蕉ならではの表現法だと言うしかないだろう。それにしても、この豆腐、美味そうですねえ。『芭蕉俳句集』(1970・岩波文庫)所収。(清水哲男)
January 0212008
今朝の春玲瓏として富士高し
廣津柳浪
明けてはや二日。冬とはいえ、正月はどこかしら春がいくぶんか近くなった気持ちを抑えきれない。「玲瓏(れいろう)」などという言葉は、今や死語に近いのかもしれない。「うるわしく照りかがやくさま」と『広辞苑』にあるとおり、晴ればれとして曇りのない天気である。霞たなびく春ではない。作者はどこから富士を望んでいるのか知りようもない。まあ、どこからでもよかろう。今でも、都内で高層ビルにわざわざ上がらなくても、思いがけない場所からひょっこりと富士山が見えたりして、びっくりすることがある。そのたびにやっぱり富士ってすげえんだと、改めて思い知らされることになる。空気が澄んでいて、いつもより一段と富士山が高く感じられるのであろう。あたりを払って高く感じられるだけでなく、その姿はいつになく晴ればれとしたものとして感受されている。「今朝の春」という季語は「初春」「新春」「迎春」などと一緒にくくられているところからも、春浅く、まだ春とは名ばかりといったニュアンスが含まれている。作者の頭には「一富士、二鷹、三茄子」もちらついていたのかもしれない。さっそうとしてどこかしらめでたい富士の姿。芭蕉の「誰やらが形に似たりけさの春」は春早々のユーモア。深刻・悲惨な小説を書いた柳浪にしては、からりとして晴朗な新春である。廣津和郎は柳浪の次男。『文人俳句歳時記』(1969)所載。(八木忠栄)
August 1182008
家はみな杖にしら髪の墓参
松尾芭蕉
墓参はなにも盆に限ったことではないが、俳句では盆が供養月であることから秋の季語としてきた。芭蕉の死の年、元禄七年(1694年)の作である。句の情景は説明するまでもなかろうが、作者にしてみれば、一種愕然たる思いの果ての心情吐露と言ってよいだろう。芭蕉には兄と姉がおり、三人の妹がいた。が、兄の半左衛門には子がなくて妹を養女にしていたのだし、芭蕉にもなく、あとの姉妹の子も早逝したりして、このときの松尾家には若者はいなかったと思われる。残されて墓参に参加しているのは、年老いた兄弟姉妹だけである。それぞれが齢を重ねているのは当たり前の話だから、あらためてびっくりするはずもないのだけれど、しかし実際にこうしてみんなが墓の前に立っている姿を目撃すると、やはりあらためて愕然とするのであった。この句の「みな」の「杖」と「しら髪(が)」は老いの象徴物なのであって、白日の下にあってはその他の老いの諸相も細部に至るまで、あからさまにむき出しにされていたことだろう。松尾家、老いたり。朽ち果てるのも時間の問題だ。このときの芭蕉は体調不良だったはずだが、、猛暑のなか、かえって頭だけは煌々と冴えていたのかもしれない。矢島渚男は「高齢者家族の嘆きを描いて、これ以上の句はおそらく今後も出ないことであろう」(「梟」2008年8月号)と書いている。同感だ。(清水哲男)
September 1792008
教官の帽子の上や秋の雲
内田百鬼園
百鬼園の小説や随筆は、時々フッと読みたい衝動に駆られる。その俳句もまた然りである。たとえ傑作であれ、月並み句であれ、そこには百鬼園先生独自のまなざしが生き、風が吹いている。こちらの気持ちが広がってくる。掲出句の「教官」は、帽子をかぶって幾分いかめしく、古いタイプの典型的な教官であろうか。その頭上に秋の雲を浮べたことにより、この人物のいかめしさに滑稽味が加味され、どこかしら親しみを覚えたくなる教官像になった。すましこんで秋空の下に直立しているといった図が見えてくる。事実はともかく、さて、この教官を少々乱暴に百鬼園の自画像としてしまってはどうか。そう飛躍して解釈してみると、一段と味わいに趣きが加わってくる。「教官」にはどうしても固い響きがあり、辞書には「文部教官・司法研修所教官など」とある。教員・教師などといったニュアンスとは別である。この教官はのんびりとした秋の雲になど気づいていないのかもしれない。百鬼園は芭蕉の句「荒海や佐渡に横たふ天の川」を「壮大」とした上で、「暗い荒海の上に天の川が光っていると云うのは、滑稽な景色である」と評している。されば掲出句を「教官の帽子の上に秋の雲が浮いていると云うのは、滑稽な景色である」と言えないだろうか。明治四十一年に「六高会誌」に発表された。つまり岡山の六高に入学した翌年の作だから、私の解釈「自画像」は事実とちがう。けれども、今はあえて「自画像」という解釈も残しておきたい。『百鬼園俳句帖』(2004)所収。(八木忠栄)
April 2942009
春徂くやまごつく旅の五六日
吉川英治
上五の「春徂(ゆ)くや」は「春行くや」の意。「行く春」とともによく使われる季語で春の終わり。もう夏が近い。季節の変わり目だから、天候は不順でまだ安定していない。取材旅行の旅先であろうか。おそらくよく知らない土地だから、土地については詳しくない。それに加えて天候が不順ゆえに、いろいろとまごついてしまうことが多いのだろう。しかも一日や二日の旅ではないし、かといって長期滞在というわけでもないから、どこかしら中途半端である。主語が誰であるにせよ、ずばり「まごつく」という一語が効いている。同情したいところだが、滑稽な味わいも残していて、思わずほくそ笑んでしまう一句である。英治は取材のおりの旅行記などに俳句を書き残していた。「夏隣り古き三里の灸のあと」という句も、旅先での無聊の一句かと思われる。芭蕉の名句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」はともかく、室生犀星の「行春や版木にのこる手毬唄」もよく知られた秀句である。英治といえば、無名時代(大正年間)に新作落語を七作書いていたことが、最近ニュースになった。そのうちの「弘法の灸」という噺が、十日ほど前に噺家によって初めて上演された。ぜひ聴いてみたいものである。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
June 1762009
海月海月暗げに浮かぶ海の月
榎本バソン了壱
海水浴シーズンの終わり頃になるとクラゲが発生して、日焼けした河童たちも海からあがる。先日(5月下旬)東京湾で、岸壁近くに浮かぶクラゲを二つほど見つけた。「海月」はクラゲで「水母」とも書く。ミズクラゲ、タコクラゲ、食用になるのがビゼンクラゲ。近年はエチゼンクラゲという、漁の妨害になる厄介者も大量発生する。掲出句は海水浴も終わりの時節、暗い波間に海月がいくつも浮かんで、まるで海面を漂う月を思わせるような光景である。実際の月が映っているというよりも、ふわふわ白く漂う海月を月と見なしている。解釈はむずかしくはないが、「海月(くらげ)」と「暗げ」は了壱得意のあそびであり、K音を四つ重ねたのもあそびごころ。「海の月」と「天の月」をならべる類想は他にもあるが、ここはまあそのあそびごころに、詠む側のこころも重ねて素直にふわふわと浮かべてみたい。了壱は「句風吹き根岸の糸瓜死期を知る」というあそびごころの句にも挑戦して、既成俳壇などは尻目に果敢に独自の「句風」を吹きあげつづけている。かつて、芭蕉の「夏草や兵共が夢の跡」を、得意のアナグラムで「腿(もも)が露サドの縄目の痕(あと)付くや」というケシカランあそびで、『おくのほそ道』の句に秘められた暗号の謎(?)をエロチックに解明してみせて、読者を驚き呆れさせた才人である。そう、俳句の詩嚢は大いにかきまわすべし。『春の画集』(2007)所収。(八木忠栄)
August 3082009
ひやひやと壁をふまへて昼寝かな
松尾芭蕉
昼寝は夏の季語ですが、ひやひやは秋の季語。まあ、夏の終わりの頃と解釈すれば、両方の顔がたつのでしょう。ひやひやは言うまでもなく、足の裏が壁に接したときのつめたい感覚です。漆喰の壁なのか、土壁なのか、どちらにしても材料はもともと大地にあったものです。それをわざわざ立たせて壁にしたわけです。その立たせたものに、今度は人のほうが寝そべって足裏をつけて、ふまえているというのですから、奇妙なことをしているものです。昼寝なのだから、出来うる限り心地のいい姿勢をとりたいと思うのは当然であり、夏の終わりの、まだ蒸し暑い部屋の空気に汗をにじませながら、せめて足裏なりとも、冷たいものに触れていたいと思ったのでしょう。ひんやりとした感覚を想像すれば、なんだか心地よく眠ってしまいたくなるようなけだるさを感じます。ちなみにわたしは今、会社の昼休みにこれを書いていますが、さきほど食べたサンドイッチが胃のあたりに下りてきて、ひどく眠くなってきました。壁ならぬ机の脚でもふまえて、午後の業務までつかの間の昼寝なぞを。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)
November 28112009
人々をしぐれよ宿は寒くとも
松尾芭蕉
今日、十一月二十八日は陰暦では十月十二日。ということは芭蕉の忌日、と「芭蕉句集」を読んでみた。初冬の雨ならなんでも時雨というわけではない、高野素十の〈翠黛(すいたい)の時雨いよいよはなやかに〉の句にあるように、降ってはさっと上がり、日が差すこともあるのが時雨、東京では本当の時雨には出会えない、と言われたことがある、え~そんなと思ったがそうなのだろうか。一方、芭蕉と時雨というと挙げられる、宗祇の〈世にふるもさらにしぐれの宿りかな〉のしぐれは、冷たく降る無情の雨という気がするが、いずれにしても、強く太く降る雨ではないのだろうという気はする。掲出句を読んだ時、寒くてもさらにしぐれよとは、と思ったが、解説には「ここに集まった人々に時雨して、この集いにふさわしい侘しい趣をそえよの意」とある。雨風をしのげれば十分というその頃の宿、寒ければ寒いまま、静かに時雨の音を聞いていたのだろう。「芭蕉句集」(1962・岩波書店)所載。(今井肖子)
January 1312010
手を打つて死神笑ふ河豚汁
矢田挿雲
今はしかるべき店で河豚を食べる分には、ほとんど危険はなくなった。むしろ河豚をおそるおそる食べた時代が何となく懐かしい――とさえ言っていいかもしれない。それにしても死神が「手を打つて」笑うとは、じつに不気味で怖い設定である。あそこに一人、こちらに一人という河豚の犠牲者に、死神が思わず手を打って笑い喜んだ時代が確かにあった。あるいはなかなか河豚にあたる確率が低くなったから、たまにあたった人が出ると、死神が思わず手を打って「ありがてえ!」と喜んだのかもしれない。落語の「らくだ」は、長屋で乱暴者で嫌われ者のらくだという男が、ふぐにあたってふぐ(すぐ)死んでしまったところから噺が始まる。同じく落語の「死神」は、延命してあげた男にだまされる、そんな間抜けな死神が登場する。アジャラカモクレンキューライス、テケレッツノパー。芭蕉にはよく知られた「あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁」と胸をなぜおろした句がある。西東三鬼には「河豚鍋や愛憎の憎煮えたぎり」という、いかにも三鬼らしい傑作があるし、吉井勇には「極道に生れて河豚のうまさかな」という傑作があって頷ける。強がりか否かは知らないけれど、河豚の毒を前にして人はさまざまである。挿雲は正岡子規の門下だった。大正八年に俳誌「俳句と批評」を創刊し、俳人として活躍した時期があった。ほかに「河豚食はぬ前こそ命惜みけれ」という句もある。平井照敏編『新歳時記』(1989)所載。(八木忠栄)
April 1142010
人も見ぬ春や鏡の裏の梅
松尾芭蕉
鏡の表面をミズスマシのように歩いたり、あるいは鏡の中の世界へ深くもぐりこんでいったり、というのは、アリスの国の作者だけではなく、だれしもがしたくなる想像の世界です。この句で芭蕉は、鏡の外でも中でもなく、鏡の裏側の絵模様に視線を当てています。鏡に映っている下界の季節とは別に、鏡の裏側にも季節がきちんと描かれていて、見れば梅の咲き誇る春であったというのです。けれど、この春はだれに見られることもなく、また、時が進んでゆくわけでもなく、取り残されたように世界の裏側にひっそりと佇んでいます。鏡の外の庭には、すでに桜が咲き、さらにその盛りも過ぎようとしています。けれど鏡の裏側には、いつまでも梅の花が、だれに愛でられることもなく咲いています。句全体に、美しいけれどもどことなくさびしさを感じてしまうのは、鏡の裏という位置に、自分の人生を重ねあわせてしまうからなのです。『俳句大観』(1971・明治書院)所載。(松下育男)
May 2652010
五月雨ややうやく湯銭酒のぜに
蝶花楼馬楽
五月雨は古くから俳諧に詠まれてきたし、改めて引用するのもためらわれるほどに名句がある。五月雨の意味は、1.「さ」は稲の植付けで「みだれ」は雨のこと、2.「さ」はさつき、「みだれ」は水垂(みだ)れのこと――などと説明されている。長雨で身も心もくさくさしている売れない芸人が、湯銭や酒を少々買う金に不自由していたが、なんとか小銭をかき集めることができた。湯銭とか煙草銭というものはたかが知れている。さて、暇にまかせて湯へでも行って少々の酒にありつこうか、という気持ちである。貧しいけれど、むしろそのことに身も心も浸している余裕が感じられて、悲愴な句ではない。さすがは噺家である。「銭(ぜに)」は本来、金や銀で造られた「お金」ではなく、小銭のことを意味した。「銭ぁ、こまけえんだ。手ぇ出してくんな…」で知られる落語「時そば」がある。芭蕉の「五月雨の降り残してや光堂」のような、立派で大きな句の対局にある捨てがたい一句。晩年に発狂したところから「気違い馬楽」とも呼ばれた三代目馬楽は、電鉄庵という俳号をもっていた。妻子も弟子もなかったが、その高座は吉井勇や志賀直哉にも愛された。「読書家で俳句をよくし(中略)…いかにも落語家ならではの生活感にあふれた句を詠んでいる」(矢野誠一)と紹介されている。他に「ご無沙汰の酒屋をのぞく初桜」がある。矢野誠一『大正百話』(1998)所載。(八木忠栄)
August 1182010
秋風や拭き細りたる格子窓
吉屋信子
今年のように猛暑がつづくと、一刻も早く秋風にご登場願いたくなる。同じ秋風でも、秋の初めに吹く風と、晩秋に吹く風では涼しさ寒さ、その風情も当然ちがってくる。今や格子窓などは古い家屋や町並みでなければ、なかなかお目にかかれない。掃除が行き届き、ていねいに拭きこまれた格子は、一段と細く涼しげに感じられる。そこを秋風が、心地良さそうに吹きぬけて行くのであろう。もともと細いはずの格子を「細りたる」と詠んだことで、いっそう細く感じられ、涼味が増した。格子窓がきりっとして清潔に感じられるばかりでなく、その家、その町並みまでもがきりっとしたものとして、イメージを鮮明に広げてくれる句である。女性作家ならではのこまやかな視線が発揮されている。信子には「チンドン屋吹かれ浮かれて初嵐」という初秋の句もある。また、よく知られている芭蕉の「塚も動け我が泣く声は秋の風」は、いかにも芭蕉らしい句境であり、虚子の「秋風や眼中のもの皆俳句」も、いかにも虚子らしく強引な句である。「秋風」というもの、詠む人の持ち味をどこかしら引き出す季語なのかもしれない。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
August 3182010
骨壺をはみだす骨やきりぎりす
杉山久子
今月始めに亡くなった叔母はユーモアのある女性で、遊びに行くたびに飼っていた文鳥の会話をおもしろおかしく通訳してくれ、幼いわたしは大人になれば難しい漢字が読めるように鳥の言葉がわかるようになるのだと信じていたほどだった。70歳になったばかりだったが、40代からリウマチで苦しんだせいか、火葬された骨は骨壺をじゅうぶんに余らせて収まった。しかし掲句は、はみだすほどであったという。それは、厳粛な場所のなかでどうにも居心地悪く存在し、まさか茶筒を均らすようにトントンとするわけにもいかぬだろうし、一体どうするのだろうという不安を骨壺を囲む全員に与えていたことだろう。俳人としては、死ときりぎりすといえば思わず芭蕉の〈むざんなや冑の下のきりぎりす〉を重ねがちだが、ここは張りつめた緊張のなかで、「りりり」に濁点を打ったようなきりぎりすの鳴き声によって、目の前にある骨と、自身のなかに紡ぐ故人の姿との距離に唐突に気づかされた感覚が生じた。「はみだす」という即物的な言葉で、情念から切り離し、骨を骨としてあっけらかんと見せている。〈かほ洗ふ水の凹凸揚羽くる〉〈一島に星あふれたる踊かな〉『鳥と歩く』(2010)所収。(土肥あき子)
March 0832011
春なれや水の厚みの中に魚
岩田由美
春なれとは、春になったことの喜びを含む心地をいう。「春なれ」を使ったものに芭蕉の〈春なれや名もなき山の薄霞〉があるが、ここにも平凡な山にさえ春を愛でる心が動いてしまうという芭蕉の喜びを感じる。日に日に春らしくなっていくのは、花の蕾も草の芽も、なにもかも新品で揃えられていくように心楽しいものだ。川や池の水さえも、新しく入れ替えられたように、春の日差しのなかできらきらと輝いている。掲句は「水の厚み」といったところに、手触りを思わせる実感が生まれた。そしてそこに魚が泳ぐことに、命の神秘と美しさが込められた。春の喜びを詠む句は数あれど、掲句の中七から下五にかけてのリズムと風情は、一度口にしたら二度と忘れられない心地良さとなって、胸のなかを泳ぎまわる。『花束』(2010)所収。(土肥あき子)
March 2932011
海暮れて春星魚の目のごとし
大嶽青児
大方の魚類にはまぶたがないが、かわりにやわらかな透明の膜で覆われているため、陸に釣り上げられてからも常にきらきらと潤んで見える。とっぷりと日が暮れ、海が深い藍色から漆黒へと変わるとき、春の星がことさらやわらかに輝いて見える。それをまるで海中にいる魚たちの目のようだと感じる作者は、夜空を見上げながら魚のしなやかな感触と流線型を描いている。そして、作者の視線の先にある夜空は、豊饒の海原へと変わっていく。芭蕉の『おくの細道』冒頭の〈行く春や鳥啼魚の目は泪〉にも魚の目が登場する。映画『アリゾナ・ドリーム』で、主人公の魚に憧れる青年が「魚はなにも考えない。それは、なんでも知っているからだ」とつぶやく印象的なシーンがある。大嶽の満天に泳ぐ魚も、芭蕉の涙をためる魚も、どちらもなんでも知っている魚の、閉じられることのない目だからこそ、どこかに胸騒ぎを覚えさせるのだろう。『遠嶺』(1982)所収。(土肥あき子)
April 2442011
さまざまのこと思ひ出す桜かな
松尾芭蕉
作者が松尾芭蕉なのだから、この句はずいぶん昔に詠まれたものです。それでもと、わたしは思うのです。もしかしたらこの句は、今、この年の春に読まれるために作られたのではないのかと。100人以上の震災孤児と、一万人を超す水死者という事実に、いまだにわたしの思考は止まったままです。それにしても、桜が咲いたことにこれほど無頓着だった年を、経験したことがありません。ああ咲いているなと思い、でも思いはすぐに、もっと大切なことに移ってゆきます。できることならいつの日にか、あたりまえのなんでもない春の中で、無心に桜の花を見上げたいと願うのです。『日本名句集成』(1991・学燈社)所載。(松下育男)
August 2882011
霧しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき
松尾芭蕉
富士山を見ようと楽しみにしてやってきたのに、いざ到着してみたら、霧が深くてなにも見えません。でもそんな日も考えようによっては面白いではないかと、そのような意味の句です。たしかに、生きていればそういうことって、幾度もあります。ディズニーランドに遊びに行こうという日に、朝から雨が激しく降っていたり、家族旅行の前日に、なぜか姉が熱を出して中止になってしまったり。楽しみにしていた分だけ、落胆の度合いも大きくなるというものです。それにしても、やはり芭蕉は普通ではないなと思うのです。この句を読んでいると、決して負け惜しみで言っているようには感じられません。「霧しぐれ」という言葉が、なによりも美しいし、霧の向こうにあるはずの富士の姿が、思いの中にくっきりと浮かんでくるようです。体験している自分に振り回されないって、なんて素敵な生き方だろうって、つくづく思うのです。『芭蕉物語(上)』(1975・新潮社) 所載。(松下育男)
September 0492011
僧朝顔幾死にかへる法の松
松尾芭蕉
今週も芭蕉の句から。幾死は「いくし」、法は「のり」と読みます。誰の句だって、読みたいように読んでしまってよいわけです。しかし、この句はちょっと難しい。僧と朝顔は、死んではまた新しく生まれ出るものを象徴しています。朝顔は年々、それぞれの命を変えるものだし、僧の寿命は朝顔より長いものの、幾度も死んではまた生まれてくると考えれば、同じものと言えます。一方、松の方は、ずっと生き続けるものとして対比されています。法は仏法の法。宗教に携わる僧の命は絶えることがあっても、仏法は松のようにずっと生きているのだということなのでしょう。むろん松にも寿命はあるわけですが、ここは素直に読みましょう。それにしても年をとってくると、宇宙の大きさとか悠久の時の長さの中に、小さな自分をそっと置きたくなるのは、なぜでしょう。『芭蕉物語(上)』(1975・新潮社) 所載。(松下育男)
September 2892011
わが庭に何やらゆかし木の実採り
瀧口修造
意外やあの瀧口修造も俳句を書いた。掲句の「木の実」とは、ドングリなどのたぐいの「木の実」ではなく、実際この場合は「オリーブの実」なのである。もちろん鑑賞する側は、「木の実」一般と解釈して差し支えないだろう。私も何回かお邪魔したことがあるけれど、瀟洒な瀧口邸の庭には枝をこんもりと広げた立派なオリーブの大樹があった。秋になると親しい舞踏家や美術家たちが集まって、稔ったたくさんの実を収穫し、それを手のかかる作業を通じて、塩漬けして瓶詰めにする。それを親しい人たちに配る、という作業が恒例になっていた。私もある年一瓶恵まれたことがある。ラベルには「Noah’s Olives」と手書きされていた。私はいただいた瓶が空になってからも大事に本棚に飾っていたのだが、いつかどこやらへ見えなくなってしまった。秋の一日、親しい人たちがわが庭で、楽しそうにオリーブ採取の作業をしている様子を、修造は静かに微笑を浮かべながら「ゆかし」と眺めていたに違いない。ワガ庭モ捨テタモノデハナイ。「何やらゆかし」は、芭蕉の「山路来て何やらゆかしすみれ草」を意識していることは言うまでもない。そこに修造独特の遊びと諧謔精神が感じられる。修造には、吉田一穂に対する弔句「うつくしき人ひとり去りぬ冬の鳥」がある。『余白に書くII』(1994)所収。(八木忠栄)
October 31102011
菊の後大根の外更になし
松尾芭蕉
花の季節は春の梅ではじまり、秋の菊で終わる。「菊」は「鞠」とも書き、この字は「窮」に通じていて、物事の究極、最後を意味している。つまり菊は「最後の花」というわけで、慈鎮和尚に「いとせめてうつろふ色のをしきかなきくより後の花しなければ」という歌がある。これを踏まえて、芭蕉は掲句を詠んだらしい。「そんなことはない。菊の花が終わった後にも、真っ白くて愛すべき大根があるではないか」と解釈できるのだが、よく考えるまでもなく、菊と大根を並べるということは、すなわち花と根とを比べていることになるので、いくらパロディとは言ってもかなりの無理がある。突飛すぎる。大根も花をつけるが、季節は春だから句にはそぐわない。誰かこのことを指摘していないかと調べてみたけれど、見当たらなかった。そこで私流の解釈をしておけば、この句は花と根を比較しているのではなくて、両者の味わいを比較したのだと思う。つまり「菊」は花を指すのではなく「味」を指している。要するに芭蕉は慈鎮和尚の歌の菊の花を「菊の味わい」と読み替えてパロディ化したわけで、この菊は「食用菊」なのだと思う。菊も美味いが、大根も負けず劣らずの美味さだよ、と。食用菊なら平安の昔からあったそうだから、理屈も通る。どうであろうか。(清水哲男)
March 1132012
雲雀より空にやすらふ峠哉
松尾芭蕉
旅人芭蕉が、雲雀(ひばり)より上の空にやすらいだ実感の句です。元禄元年(1688)の春、『笈の小文』の旅のなか、「臍(ほぞ)峠」、奈良県桜井市と吉野町の境にある峠の句です。標高約700mの峠の頂上から一面の麦畑を見渡していると、雲雀がはるか下の方で鳴いている、しぜん、笑みがこぼれます。ところが、翌元禄二年(1689)刊の『曠野』では、「空に」を「上にやすらふ」と改めています。なぜでしょう。いくつか考えてみました。一、私は当初、「上に」よりも「空に」のほうが好みでした。表現が洒落ているからです。しかし、芭蕉は、そこにあざとさを見て、「上に」と通俗的な表現に改めたのではないでしょうか。二、「空に」という表現には広がりがあり、解放的な気分にさせる一 方で、「上に」とすると雲雀との関係が結びつきやすくなります。空間的な広がりよりも高低差を示したかったからではないでしょうか。三、「雲雀より空に」とすると句の起点が「雲雀」になります。つまり、峠に着いたときの視点からこの句が始まります。一方、「上に」の場合は、句の起点が雲雀より下の里にあるのではないでしょうか。里を歩いているとき、雲雀を上に見あげて聞いていたのが、いまや雲雀の高さをはるかに越えて、この峠まで辿りついた登高のプロセスを含意しているように思われます。芭蕉の推敲を推測しました。『芭蕉全句集』(角川ソフィア文庫)所収。(小笠原高志)
October 07102012
口あれば口の辺深し秋の暮
永田耕衣
永田耕衣という名は、俳句に親しむより前の学生時代に、時折耳にしていました。夜の酒場で割箸の袋に耕衣の句を記されて、「これ、わかるか?」と問われたりして、わかるような、わからないような時間を、結構愉しんだおぼえがあります。なかでも、舞踏家・大野一雄氏の直筆舞踏原稿集『dessin』(小林東編/緑鯨社・1992)の中に、数回にわたって「手のひらというばけものや死の川」(「死の川」はママ、句集『闌位(らんい)』では「天の川」となっている)が、力強い黒マジックの筆跡で書かれていて、大野氏の舞踏作品の源流に耕衣の句があることが示されています。さて、掲句は昭和45年『闌位』(俳句評論社)に、「口在れば口辺に荒し秋の雨」と一緒に所収されています。「口の辺(へ)深し秋の暮」は、寡黙な人物の口の辺(へり)を鉛筆でデッサンしたような深みがあり、閉じている口の陰に奥行きを感じます。一方、「口辺に荒し秋の雨」は、饒舌な人物の口と口の周辺を映像化したような動きを感じます。夕暮には空間の静けさがあり、雨には音を伴うからでしょう。この二句は、芭蕉の「物いへば唇寒し秋の風」をふまえていると思います。これは、前書に「人の短(所)をいふ事なかれ。己が長(所)をとくなかれ」とあるように教訓的です。それに対して「口在れば」の二句は、口は閉じているか開いているか、静か動か、そのいずれかであることは確かなことで、教訓はなく即物的で、この三句のみの比較なら、耕衣に軍配を上げます。(小笠原高志)
November 25112012
海暮れて鴨のこゑほのかに白し
松尾芭蕉
貞享元年(1684)旧十二月中旬。『野ざらし紀行』の旅中、尾張熱田の門人たちと冬の海を見ようと舟を出した時の句です。この句の評釈をいくつか読んできた中に、『「鴨の声が白い」と、音を色彩で表現しているところに新しさがある』という考察があります。現在注目されている視覚と聴覚の共感覚を援用する考え方もあり、ナルホド、と一応理解はできるのですが腑に落ちません。まず、「鴨の声が白い」ということがわかりませんし、そう解釈するなら、中句と下句が主語と述語の関係になり、五・五・七の破格が凡庸になります。むしろ、五・五・七には必然性があり、舟を出して詠んでいるその実情に即して読みたいです。「海暮れてほのかに白し鴨のこゑ」ではなく、「海暮れて鴨のこゑほのかに白し」にした理由は、時系列の必然性にあるのではないでしょうか。港から舟をこぎ出すほどにだんだん海は暮れてきて、遠方は闇の中に沈んでゆく。すると、沖の方から鴨の声が聞こえてきた。その声の主の方を凝視していると、暗闇に目が慣れてきて、「ほのかに」白いものが見える。あれは、翼か雲か幽かな光か。「こゑ」を聞いたあとに、しばらく目が慣れるための時間が必要であり、目で音源を探っている、その、時の経過を形容動詞「ほのかに」で示しているように思います。このように読むと、嘱目の句であり、五・五・七の破格にも必然性が出てくると思うのですがいかがでしょうか。なお、世阿弥は『花鏡』の中で、「幽玄」とは、藤原定家の「駒止めて袖打ち払ふ陰も無し佐野の渡の雪の夕暮」にあると説いています。この歌には「幽玄」の三要素が描かれているように思われます。それは、輪郭が曖昧で、奥行きのある、白黒の世界ということです。雪が降っている夕暮れなので色彩は白黒で輪郭が曖昧になり、川の渡しですから奥行きもあります。掲句の芭蕉は、幽玄という中世の美意識を念頭に置いていたかどうか、定かではありません。それでも、「海暮れて鴨のこゑほのかに白し」は、奥行きのある輪郭が曖昧な白黒の世界を、鴨の声が気づかせてくれています。『芭蕉全句集』(講談社)所収。(小笠原高志)
June 0962013
紫陽花や薮を小庭の別座鋪
松尾芭蕉
元禄七年(1694)五月の作。同年十月死去ですから、最晩年の句です。上方への旅の前に、同じ深川に住む門人の子珊(しさん)亭で詠んだ発句で、「別座鋪」(べつざしき)は、母屋から離れた別棟の小座敷のこと。薮をそのまま庭にして、別座敷から見える紫陽花にも野趣があってよしとする、師から弟子への挨拶句にとれます。旅人として、ますらをぶりを生きた芭蕉には、居心地のよい別座敷でしょう。子珊は、掲句を発句とした底本『別座鋪』の自序に「翁、今思う体(てい)は、浅き砂川を見るごとく、句の形・付心(つけごころ)ともに軽きなり。(略)庭の夏草に発句を乞ひて、はなしながら歌仙終わりぬ。」とあります。芭蕉翁の軽みを「浅き砂川をみるごとく」とたとえたところが門人の眼で、軽みとは、身近に目にすることができながら、そこに足を踏み入れるとすぐに濁ってしまうような危ういはかなさをもはらんだうえで、清澄な明るさを保っていることのようにうけとりました。また、掲句の芭蕉は、子珊亭の別座敷以外に何物も持ち込んでいません。その身軽さも、軽みの一つと思われます。『芭蕉全句集』(2010・角川ソフィア文庫)所収。(小笠原高志)
January 1912014
市振や雪にとりつく波がしら
高橋睦郎
市振(いちぶり)は、新潟県糸魚川市の市振海岸。芭蕉の「奥の細道」では、ここの旅籠に一泊し、「一家に遊女もねたり萩と月」の句が残されています。冬の日本海の空は鉛色で、海も暗い灰色です。モノトーンの中の風雪は荒々しく、雪は縦に、横に、斜めに、左右に、錯綜しながら降り続けています。冬の海の全景は、一つの大きな波の音にまとめることができ、上五のbu、下五のgaといった濁音で構成された音でしょう。それは、初めのうちは襲いかかってくるような恐ろしい音ですが、そのような恐怖もしばらく佇んでいると慣れてきて、心を洗い流す禊ぎのように作用します。波の音に全身を没入しているうちに、詩人は「波がしら」を凝視し始めます。これが、「雪にとりつく」獰猛な生き物に見えてくる。波がしらは、雪にとりつくゆえ、それをのみ込み一瞬白いのか。実相観入。なお、「市振」の「ふる」と「雪」が縁語的につながっているのも、短歌をよくする詩人の技です。また、「とりつく」という擬人法によって、無生物の叙景の中に生き物が立ち現れています。他に、「面白う雪に暮れたる一日かな」。『稽古飲食』(1988)。(小笠原高志)
April 1742014
春月の背中汚れたままがよし
佐々木貴子
春の月が大きい。少し潤んで見えるこの頃の月の美しさ。厳しくさえ返っていた冬月とは明らかに違う。掲載句の「背中」の主体は春月だろうか。軽い切れがあるとすると月を眺めている人の背中とも考えられる。華やかな月の美しさと対照的に「この汚れ」が妙に納得できるのは月の裏側の暗黒が想起されるからだろうか。現実世界の「汚れ」を「よし」と肯定的にとらえることで、春月の美しさがより輝きすようだ。その手法に芭蕉の「月見する坐にうつくしき顔もなし」という句なども思い浮かぶ。さて今夜はどんな春月が見られるだろうか。『ユリウス』(2013)所収。(三宅やよい)
June 1562014
蚤虱馬の尿する枕もと
松尾芭蕉
蚤(のみ)虱(しらみ)馬の尿(しと / ばり)する枕もと。『奥の細道』の途上、南部道、岩手の里、鳴子温泉から尿前(しとまえ)の関にさしかかった時の句です。この地名をもとに、古くから「尿」を「しと」と読む本が多く流布しています。ところが、最近の「俳句かるた」では「ばり」と読ませています。この一語の読み方で、鑑賞が多少変わるかもしれません。例えば麻生磯次の『笑の研究』(東京堂)では「しと」と読み、山番の貧家に泊まった時の実景として捉えています。蚤虱にせめられて安眠できず、枕元では馬が尿をするという悲惨な体験を詠んでいるが、この句からはそれほど悲惨な感じはでてこなく、むしろこの人生を肯定した悟性的な笑いである、としています。一方、雲英末雄の『芭蕉全句集』(角川ソフィア文庫)では、自筆本に「バリ」とふりがながあることを示し、また、『曽良旅日記』にも「ハリ」とふりがなしているので、私は「ばり」説をとります。なお、松隈義男の『おくのほそ道の美をたどる』(桜楓社)によると、この地方の方言で、人間の場合は「しとする」と言い、畜類の場合は「ばりこく」という用例があると述べていることも「ばり」説を後押しします。さて、掲句前の一文には、「三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す」とありますが、曽良日記をもとにすると実際は庄屋の家に一泊だけの宿泊だったことから考えても、「蚤虱」は実景というよりも虚構性の強い作といえるでしょう。私は、「蚤虱」のmi音の韻に、小さな生き物の存在を託し、「尿」bariという破裂音に、馬という大きな動物の存在を示したと読みます。それを枕元で耳にしている芭蕉の設定は、確かにおだやかな境地であったと捉えることができます。また、微小な存在から大きく強烈な存在へと飛躍させるデフォルメは、ギャグ漫画の手法にも似ていて、詩人は、創作意欲を存分に発揮しています(小笠原高志)
December 07122014
寒鮒の口吸う泣きの男かな
永田耕衣
制作年代はバラバラですが、掲句を三連作の最後として位置づけてみました。最初が「水を釣つて帰る寒鮒釣一人」。次が「池を出ることを寒鮒思ひけり」。この二つの「静」から、序破急の「動」が始まります。釣り師が鮒を釣り上げる。その時、まれに相思相愛の糸が赤く染まることがある。針に傷ついた鮒の唇を、男は泣きながら吸っているのである。なぜ泣くのか。泣くとはどういうことなのか。笑いは、瞬間的な落差の結果生ずることが多いのに対して、涙は、時間の蓄積によって溜まった結果流れます。その時間には、苦痛や迷い、希望や落胆が入り交じっていますから、泣くことも、一つの意味や感情に限定されにくい絵巻物のような現れ方をします。釣り師は、寒鮒との長い駆け引きの中で糸を引かずとも、一途な思いを寄せてきました。それは、「水を釣つて帰る寒鮒釣一人」に表れています。では、鮒の方はどうでしょう。「池を出ることを寒鮒思ひけり」です。釣り師は、長い間その気配を感じ続けてきた一方で、寒鮒は、長きに渡る針の漂いに、この唇を託してもいいという決意をしたのではないでしょうか。釣り師と寒鮒が恋に陥り、男が接吻の涙を流す。しかし、ここは人と魚。口吸いは短く終えて、水槽に移さなくてはなりません。異種恋愛には制約が多く、過去には『人魚姫』の悲恋もありますが、この恋はいちおう成就されたようです。たぶん、寒鮒も涙を流していて、これは芭蕉の「行春や鳥啼魚の目は泪」以来の魚類の涙です。ただ、耕衣の後に芭蕉を読むと、ちょっとオトメチックですね。耕衣は激しいますらをぶりです。掲句を17歳の少年に読ませたら、「マジっすか?」と言われそう。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)
February 0922015
恋猫の身も世もあらず啼きにけり
安住 敦
本能的生理的な現象とはいえ、猫も大変だ。芭蕉の詠んだ〈麦飯にやつるゝ戀か里の猫〉も、恋の猫ゆえに麦飯も喉に通らないほどやつれはててしまっている。なるほど、哀れである。安住敦の一句は、猫のむき出しの本能に圧倒されている。愚かしいと言うにはあまりにも哀れであり、あたりはばからずの姿を羨ましいと言うにはいささか浅薄に過ぎる。しょせん、猫は猫なのであり、人間とは違うのだ。そう思うしかないほどのすさまじさである。そういうことを知らない人間の子供たちにとっては、単なる喧嘩だろうくらいの認識しかない。むろん、私も子供の頃はそうだった。うるさい猫どもめ、といつも不機嫌になったものだ。『安住敦句集』(1975)所収。(清水哲男)
August 1282015
蝉鳴くや隣の謡きるゝ時
二葉亭四迷
かつて真夏に山形県の立石寺を訪れたとき、蝉が天を覆うがごとくうるさく鳴いていた。芭蕉の句「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」どころか、岩を転がし砕かんばかりの圧倒的な声に驚嘆したことが忘れられない。ごく最近、海に近い拙宅で一回だけうるさく鳴く蝉の声で、早朝目覚めたことがあった。幸い天変地異は起こらなかったが、いつからか気象は狂ってしまっているらしい。掲出句の蝉は複数鳴いているわけではあるまい。隣家で謡(うたい)の稽古をしているが、あまりうまくはない。その声が稽古中にふと途切れたとき、「出番です」と誘われたごとく一匹の蝉がやおら鳴き出した。あるいは謡の最中、蝉の声はかき消されていたか。そうも解釈できる。「きるゝ時」だから、つっかえたりしているのだろう。意地悪くさらに言うならば、謡の主より蝉のほうがいい声で鳴いていると受け止めたい。そう解釈すれば、暑い午後の時間がいくぶん愉快に感じられるではないか。徳川夢声には「ソ連宣戦はたと止みたる蝉時雨」という傑作がある。四迷には他に「暗き方に艶なる声す夕涼」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
January 3112016
から鮭も空也の痩も寒の内
松尾芭蕉
芭蕉は、乾燥させた鮭を好んで食べたようです。「雪の朝独リ干鮭(からざけ)を噛得(かみえ)タリ」が『東日記』にあります。一方、掲句の「から鮭」は食べ物としてよりも、内臓や脂分が削ぎ落とされた物体として提示されていて、市の聖と言われた空也上人の雑念の無い痩身に重なります。日本史の教科書の口絵には、念仏を唱える空也上人の木像彫刻が掲載されていますが、この実物は京都・六波羅蜜寺の境内のガラスケースの中で無造作に鎮座しており、今も市井の存在です。史実としての空也を 検証する資料がほとんどない代わりに、各地に残されている木像彫刻からその足跡を推測できます。上人は、首から鉦(かね)を下げ、鐘を叩くための撞木(しゅもく)を手にしています。一昨年、淡路島で発見された銅鐸の中から撞木が出てきたことによって、長年その使用法が謎だった銅鐸は、祭事に叩いてその金属音を聴くための祭器であることがわかりました。それから時を経て、空也が生きた平安時代も、鉦の金属音は非日常的な音響であり、人々の内奥までその響きが届いたことでしょう。空也の木像彫刻は、開いた口元から六体の阿弥陀仏が吐き出されていて、念仏と鉦の交響という音の視覚化に特徴があります。およそ平安中期までの仏教は、文字が読める貴族階層のみに浸透していたでしょうから 、空也は、そのほとんどが文盲であった市井の民に福音を届ける宗教の革新者でした。これは、マルティン・ルターが、ラテン語のみしか認められていなかった新約聖書の表記をドイツ語で読めるように翻訳して民衆に広めた改革に比肩すると思われます。なお、掲句の前書には「都に旅寝して、鉢扣のあはれなるつとめを夜ごとに聞き侍りて」とあり、空也忌(旧暦十一月十三日)から行なう四十八夜の「鉢叩」の行に触発された句であることがわかります。その金属音は、K音の頭韻として句中に響いています。『芭蕉全句集』(角川ソフィア文庫・2010)所収。(小笠原高志)