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粋なカエサル

「ルノワールの女性たち」9 第二回印象派展

2020.11.27 19:57

 1876年4月11日から5月9日まで、デュラン・リュエル画廊を借りて、第二回印象派展が開催された。この展覧会票の中で、ルノワールの習作「陽光の中の裸婦」に関するアルベール・ヴォルフの文章は、印象派に対する旧世代の無理解を示す不名誉な例として、しばしば取り上げられてきた。それは保守的な雑誌『ル・フィガロ』に発表された。

「さて、ルノワール氏に次のことを説明してほしい。女性のトルソ(胴体)は、死体の完全な腐敗状態を示す、紫色がかった緑色の斑点をともなう分解中の肉の塊ではないことを!」

 彼は少女の上半身に施された光と影の効果の表現を、彼女自身の固有色だと誤解していたのである。なめらかに仕上げられた絵画を見慣れた当時の批評家たちの目には、この作品はあまりに大胆な表現に思えた。

 それでも第二回展は第一回展のときよりも新聞・雑誌に多く取り上げられるようになった。相変わらず彼らの作品を揶揄する批評は多かったものの、ゾラやステファン・マラルメなどに注目された。印象派の画家たちが伝統的な絵画から脱却し、新たな表現を模索していることを評価する批評も、わずかではあるが書かれた。ルノワールは18点を出品した。

【作品14】「ルグラン嬢」1875年 フィラデルフィア美術館

 ちょっと緊張気味に手を組み、視線をそらせるようにポーズをとる少女はマリー=アデルフィーヌ・ルグラン。その清楚さを引き立てているのが、真っ白いブラウスと黒いエプロンドレスという装いだ。1867年生まれの彼女は、この絵のモデルになった時、まだ8歳に過ぎない。しかしルノワールは、8歳の少女が自然に放つ愛らしさよりもむしろ、早くも彼女の中に芽生え始めている女性としての美しさに目を向けているようにすら見える。そして、その美しさを捉える画家の絵画技術は驚くばかりに冴えわたっている。背景はいうにおよばず、黒いエプロンドレスも白のブラウスも、さらには頭のリボンや首に巻いた青いスカーフも、みな実に簡略な、何のためらいも感じさせない素早い筆致で措かれているが、そのフォルムの的確さは非の打ち所がない。さらには軽やかになびく髪や、ほんの僅かなハイライトによって輝きを放つ指輪やイヤリング、そして瞳の表現など、まさに名人芸と呼びたくなるような高度な技術が惜しげもなく披露されている。頬や額に置かれたバラ色からは、デルフィーヌが今まさに呼吸して生きていることが実感され、明るいグレーの瞳には清らかな光が宿っている。

 長いあいだ、このモデルの少女は画商のアルフレッド・ルグランの子どもだと考えられてきたが、実は別人だった。彼女の名はマリー・アデルフィーヌ・ルグランといい、販売員の父と麦藁帽子を作っていた母の間に、1867年に生まれた子供である。マリー・アデルフィーヌは25歳で詩人と結婚したが、その際ルノワールは立会人の一人として記録されている。彼女は夫と死別後再婚して79歳まで生きた。

【作品15】「散歩に出かける子供たち」1874年 フィラデルフィア美術館

この作品について、アルチュール・ベニェールはこう書いている。

「遠くから見ると青みを帯びた霧がかかっていて、その上に6粒のチョコドロップがくっきり浮き出ている。はて、これは何だろう。そこで近づいて見ると、何とドロップは3人の人物の目で、霧は母親とその幼い娘たちであった。」

 これはデッサンが不十分で、未完成の戯画的な作品を発表するという、印象派に対する一般的な批判に基づいた典型的な指摘だった。この作品も、習作「陽光を浴びる裸婦」と同様、1876年の第二回印象派展で批評家の嘲笑を浴びた。

 おそろいの高価な子供服を着た二人の少女と若い解母親が散歩をしている。ここは、当時新しく整備されたパリのモンス―リ公園もしくはモンソー公園だろう。右側の子どもが持つ人形は、当時流行した玩具のひとつである。核家族化と少子化が進んでいた19世紀、子どもたちは母親から大いに愛情とお金を注がれるようになった。

1875「デルフィーヌ・ルグランの肖像」

1875「散歩に出かける子供たち」

1876「陽光を浴びる裸婦」習作


#ルノワール