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彩ふ文芸部

相対化ツールとしての読書 執筆者:shikada

2020.11.28 08:45

最近になって、自分にとって読書が持つ意義について考える機会があった。現時点で考えていることを、記事にして残しておきたい。この文章で述べたいことは次の2つのことだ。


1 本は、非同期型のコミュニケーションが行えるツールである

2 非同期型のコミュニケーションを行うことで、自分が生きる世界を相対視できるようになる


この2つについて、順番に整理していきたい。


①非同期型のコミュニケーション


「同期」とは複数の意味を持つ言葉だが、この文章では「時間を一致させること」という意味で用いることにしたい。また「コミュニケーション」はさしあたって「思考や情報を伝える」という意味で使う。


コミュニケーションは、この「同期」を行うものと、そうでないものの2種類に分けられる。


同期を行うものを、同期型コミュニケーションと呼ぶ。


同期型コミュニケーションは、お互いに同じ時間を共有してコミュニケーションを行うことを指す。場合によっては、時間に加えて同じ空間も共有する。たとえば同じ場所に居合わせて面と向かって話したり、電話で話したりすることだ。後述する非同期型コミュニケーションと比較して、互いの時間を拘束するものの、細かい疑問点をその場で解消したり、身振り手振りを含めて感情を伝えたりしやすい。また、時間をともにすることで、相手との親密度を高めることも可能になる。


いっぽうで、同期を行わないものを、非同期型コミュニケーションと呼ぶ。


非同期型コミュニケーションは、お互いの時間を共有せずに行う。手紙やメールなどが代表的な例だ。読み手は、書き手と時間を共有することなく、書き手の送ったメッセージを受け止めることができる。たとえば、書き手がきのう書いたメッセージを、今日になって読んだりすることができる。


この2種類のコミュニケーション方法のうち、文章を用いた本は非同期型のコミュニケーションを行えるツールといえるだろう。メッセージの送り手である著者と、受け手である読者は、時間も空間も同期していない関係である。


この非同期型コミュニケーションを行えることが、本の持つ強みであると考えている。著者の意図は、時間と空間を超えて読み手に届く。古代ギリシャの哲学者が、考え抜いて書いたことを、令和の日本人が読むことができる。ただし、全ての本が残るわけではなく、時間と空間を超えるだけの、読ませる力を持った本以外は淘汰される。


もちろん、非同期型コミュニケーションを行えるツールは、本に限らない。音声や映像でも可能だ。音声や映像も、非常に強力なツールである。しかし、文章は音声や映像と比べて、相対的に昔から残っているものが多い。音声や映像の記録と再生が一般に普及したのは、せいぜい数世紀前からだろう。数世紀以上前を生きていた、時間的に隔たった人とコミュニケーションを取れるという点においては、本に利がある。


そして、本は著者の時間を拘束しないため、著者の意図を、非常に多くの人間に届けることができる。たとえば、聖書は数十億人の人間に読まれたという。イエス・キリストがどんなに努力したとしても、数十億人の人間と同期型コミュニケーションを行うことは不可能だっただろう。


同期型コミュニケーションで、多人数と一方通行でない対話を行うことは難しい。コミュニケーションに関わる人数が増えるほど、同期型の強みである双方向的なコミュニケーションが複雑で困難になり、またコミュニケーションの当事者としての意識が薄れ、集中を欠く人も増えるからである。非常に多くの人間が参加する会議を想像してもらえれば、このことは理解しやすいだろう。


もちろん、非同期型コミュニケーションにも欠点はある。コミュニケーションが一方通行的になってしまったりすることがそうだ。同期型のコミュニケーションなら、浮かんだ疑問をその場で相手に確認して、すぐに解消できる。こうした双方向性は、非同期型のコミュニケーションには持てないものだ。


②自らが生きる世界の相対視


前の章で、読書が非同期型のコミュニケーションであることや、その特徴を説明してきた。この点を踏まえて、この章で読書が持つ意義について述べていきたい。


読書という非同期型コミュニケーションでは、読み手と書き手が時間と空間を共有しない。このために、読書は、自分とは異なる時間や空間から見た視点を提供してくれる。その結果、自らが生きる世界を相対視するきっかけを生み出す。「相対視」とはどういうことか。


まず人間は、自分が生まれ育った環境を普遍的で絶対的なものだと思いがちだ。アインシュタインは「常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」と言ったらしいが、人間が生まれ育った環境で「常識」をはぐくむことを示した言葉だろう。人間は育っていくなかで、徐々に「社会とはこういうものだ」「仕事とはこういうものだ」「結婚とはこういうものだ」…などなど「こういうものだ」という一種の思い込みの束を身に着け、その中で生きることになる。この「こういうものだ」との思い込みは、しばしば「こうあるべき」というメッセージに変貌し、人から自由を奪い、苦しめることがある。


たとえば、日本での生き方として「大学を出たら正社員になって終身雇用され、結婚して子どもを作って、家と車を買って…」といったモデルを一つの常識と呼ぶことができるだろう。常識は多数の人の言動によって形成され、そうしたマジョリティの共通認識になる。しかし、その常識に沿った生き方に疑問を持つ人々や、そうした生き方ができない人に対して、常識はしばしば牙をむく。「常識ではこうなのに、なぜ自分はそう考えられないのだろう」「常識どおりの生き方がなぜできないのだろう」などと、常識とのギャップは時折人を悩ませる。


しかし、本を読んで、今の自分とは異なる空間、異なる時間を生きた人の考えを知ることで、今の世界の常識は普遍的なものでも絶対的なものでもないことを知ることができる。たとえば、日本と違う空間のこと(たとえば外国人の思考)を知るとか、現代の日本と違う時間のこと(たとえば昔の日本人の生き方)を知る、などということができる。それを知ることで、自分が生きる社会のかたちが絶対的なものではなく、それ以外のかたちもたくさんあるということに気づける。これが、自分が生きる世界を相対視するということである。


もちろん、異なる時間や空間の視点を得ることは、本に頼らずとも可能だ。自分と異なる環境に生きる人に話を聞けば良い。ただし、この方法は、読書に比べると、自分に比較的近い視点しか得られないだろう。人間の交友関係には限界があるし、自分と付き合いのある人は、所属するコミュニティが同じで、自分との共通点があることが多い。それに、人間の寿命から考えて、百数十年以上前の世界を生きた人と話すことも難しい。自然と、得られる視点の多様性は限られる。


その点、読書は非常に多様な視点を提供してくれる。ただし、読む本のジャンルは交友関係と同じで偏りがちだし、本を出す人は全人類のごくごく一部である。その点さえ忘れなければ、時間的にも空間的にも、自分とは非常にへだたった人と非同期型コミュニケーションを取って、多様な考え方にふれることができる。


実際に私も、本を読むことでこの非同期型コミュニケーションを行っている。顔も知らない、生まれた時代も育った場所も違う著者が書いた本を読むことがある。それによって日本社会の歴史や構造を知ることで、先ほど例にあげた「大学を出たら正社員になって終身雇用され、結婚して子どもを作って、家と車を買って…」といったモデルは、普遍的なものでも絶対的なものでもないことを理解することができた。そのモデルは、高度経済成長期に限って大多数の人が達成できただけの、たまたま一時的に成立したに過ぎないモデルだということが分かった。これも、異なる視点を得ることによる相対視の一例だと考えてよいと思う。


ここでは社会や歴史に関する本を例にあげたが、本のジャンルは非常に多彩だ。数世紀前に書かれた古典小説、海外に住む人のエッセイ、近未来を描いた小説などなど、これらはすべて、自分が今生きている時間と空間を相対視するきっかけになりえる。たとえば古典小説を読めば、当時の人と現代人との思考回路や言動の違いに気づくだろう。


こうした相対視による気づきを重ねることで、常識は絶対的なものでも普遍的なものでもないと知り、自分を縛る常識の枷のようなものを、徐々に少なくしていくことができる。知識は人を自由にする。


もちろん、全面的に常識に乗っかって生きることができれば、常識通りのマジョリティとして快適に生きることができるだろう。しかし、常識とは時に、アップデートされずに古いままに残ったりしているものがある。社会の変化の速度と、常識が変化していく速度は必ずしも一致しない。古い常識を盲信するのは危険なことだ。


ただ、なんでもかんでも常識を疑えば良いという話でもない。私自身も、かなりの部分は常識に沿って生きている。すべての常識に背を向けて生きるのは、鉄人か仙人でもない限り不可能なことだ。たとえば資本主義と言う名の巨大な常識を全否定して現代を生きるのは、常人には難しいことだろう。


しかし、自分が住む世界を相対視して、常識が成り立った背景を知っていくことが重要であることに違いはない。世の中に多数ある常識ひとつひとつに対して、「その常識がいま・ここの自分にも適用されるべきものか?」との問いを繰り返すことで、自分が乗っかるべき常識と、排除すべき常識を選り分けることができる。そうすれば、自分の生き方に対して、不要なプレッシャーを感じることが少なくなる。


また、常識を絶対視しないことで、自分自身にも他人にも常識を押し付けない、寛容さが身につくだろう。自分の考える常識を押し付け合う社会は、きっと窮屈なものだ。


ここまでの内容をまとめると、読書は、異なる時間や空間を生きた人との非同期型コミュニケーションである。その過程で、自分が生きている世界を相対視できるようになる。そのためのきっかけをくれるツールが、本であると考えている。


長々と書いてきたが、こんな小難しいことを考えずとも、読書は知的好奇心が満たされるし、本を読む体験はそれ自体が楽しかったりする。だからこそ、これだけ膾炙した文化になっているのだろう。


幸いなことに現代の日本には、本というツールが豊富に存在する。決して、なんでもかんでも解決してくれる万能のツールではないが、ここまでに述べてきたような意義を持つ、非常に有用なツールである。予算と時間が許す限り使い倒していきたい。

(了)