Okinawa 沖縄 #2 Day 62 (11/12/20) 旧兼城 (4) Kakazu Hamlet 賀数集落
賀数集落 (かかず、カカジ)
- 旧村屋跡
- 村屋跡、大門 (ウフジョー、大門御嶽)
- 賀数公民館
- アギガ-
- 後之井泉 (クシンカー)
- ミーガー、アナガー
- 中道 (ナカミチ)
- 前道 (メーミチ)
- 兼城間切番所跡 (兼城小学校)、馬場跡 (ウマィー)
- 神道 (カミミチ)
- 鶴松 (チラマチ) 腹の神屋
- 与座之前 (ユザンメー) 腹の神屋
- 謝名屋 (ジャナヤー)
- ンママーラシー石
- 賀数グスク
- 下之殿 (シチャヌトウヌ)
- 上之殿 (イーヌトゥヌ)
- シロトングワ
- カカンダキ (カカンブー)、嘉数之嶽
- 城井 (グスクガー)
- サーシ墓 (ジングラ)
- ビービル (ビジュル)
- 与座之前 (ユザンメー) 腹の墓
- 仲城腹の墓
- アンマサーガマ
前回11月30日に阿波根集落を訪問してから日にちが経ってしまった。12月に入り昨日まで連日雨でまるで梅雨のような気候だった。那覇では12月に入り昨日まで日照時間はゼロという状態。今日は朝から日がさしている。天気予報では夕方からまた雨の様だ。昼の雨が降っていない間に、次の訪問地の賀数集落に向かう。今日は夏日となり、暑い。汗でびっしょりだ。
賀数集落 (かかず、カカジ)
賀数は糸満市城の北部にあり、南と西は字座波に、北西は字阿波根、北は字北波平、東は八重瀬町字小城にそれぞれ接している。住民の多くはサラリーマン世帯で、字の主要産業は農業で大半はサトウキビ我培を主とした兼業農家。とはいってもサトウキビの生産量は全盛期の十分の一以下にまで下がっている。
1976年 (昭和51年) に大田原の自衛隊官舎の建設により大量に自衛官が入居したことによるもので、一般の住民の流入ではない。2001年に人口が激減しているのも、自衛隊官舎の建て替えにより一時的に他の字に自衛官が移動したことによる。1976年以降の現在までの45年間で人口増加は20%でとどまっている。比較的増加率は低い方だ。世帯当たりの人数が現在では2.9人とかなり多い地域になている。人口の内、かなりの割合は単身自衛官がいることを考えると、この字は世帯当たりの人数の実態は3人を超えてと思われる。これは沖縄の中でも多い。家族には住みやすい地域なのだろうか?
140年前の1880年 (明治13年) では武富集落に次いで人口の少ない字 (たった2人だが...) であった。以降の人口は増加はしているが、現在でも下から二番目に人口の少ない字だ。
糸満市史 資料編13 村落資料 旧兼城村編に記載されている文化財
旧村屋跡
賀数集落は賀数原にあり、集落の村屋は3回変わっている。もともとは集落の中心部にあったが、かなり前のことで面影はない。
村井 (ムラガー)
旧村屋跡の側には村井 (ムラガー) がある。戦後埋め立てられて当時の面影はないのだが、かつては30度の急斜面を降りてそこにあった水を汲んでいたそうだ。
村屋跡、大門 (ウフジョー、大門御嶽)
その後、戦前に東側に移ったのだが、沖縄戦で焼失し、戦後畳表製筵作業場となっていた。
村屋跡にはコンクリート造りの祠が建っている。ムラの氏神が祀られていると言われ、戦前はそこの木一本切っても祟りがあったといわれ、怖い神様として恐れられていた。現在は、おとなしい神様になったそうだ。現在は公園になっており、学校が終わった子供たちが、そんな怖い神様がいたことなどには無頓着に元気に遊んでいる。
賀数公民館
1972年 (昭和47年) に製糖小屋 (サーターヤー) 跡に公民館を建設して現在に至っている。このサーターヤー跡には運動公園も造られている。戦前にはここはサーターモーと呼ばれ、各組の製糖小屋 (サーターヤー) があり、4基のンマグルマを馬を使ってサトウキビを圧縮し、それを小屋の竈で煮詰めて黒糖を製造していた。1937年 (昭和12年) には、この場所に大型機械化をした共同製糖場が建てられ、製糖高が大幅に伸びた。沖縄戦で共同製糖場は焼失し、戦後1950年 (昭和25年) に再開された。しかし、黒糖から分蜜糖へと市場が移っていったことにより、1960年 (昭和35年) に廃業となった。製糖場があった時には、クシュックイ (腰体み) と呼ばれ、製糖作業終了祝いを行っていた。製糖場がなくなってしまった現在でも、公民館でこのクシュックイを行っているそうだ。
アギガ-
1882年 (明治15年) に賀数住民が総出で掘った井戸。アギガ-は現在は農業用水として造られている。水量は豊富で地下から吹さげるように出たのでアギガ-と名がつけられた。(アギは沖縄方言で上 (あげ) を意味している。) 水道が設置されるまで、集落の主要な水源で、産井で産湯や正月の若水に使われている。集落住民が自ら作り、最も重要な井戸であったので、この井戸の使用には村で細かい規定を設けていた。飲み水と洗い場は区切りがされていた。
このアギガ-の水は青年会が掘った水路を通して、シチャグムイ (下の小堀) に流れ込み、そこには女性用の水浴び場と家畜や農機具の洗い場が設けられていた。グムイでは子供たちが水遊びをしていたそうだ。シチャグムイ (下の小堀) は埋め立てられ、コンビニとなっている。
シチャグムイ (下の小堀) からは更に南の水田に流れ込むようになっていた。その水路はカコ-アレーと呼ばれたおむつなどの洗い場になっていた。
アギガ-のところには沖縄100名木がある。沖縄では一般的なクワーディーサーの木で、枝が広く広がり日影ができるので、人の集まる場所によく植えられている。
後之井泉 (クシンカー)
後原にある井戸で、賀数の井の中で最も古く、かってはンブガー (産井泉) でもあったが、集落から遠く、間に賀数グスクがあるウナンチヂの丘陵を越えなければならない不使さから、後に造られたアギーガーに産井の機能は移っていった。道路から階段を下った所に井戸がある。井戸の周りは地盤沈下で危険なので立ち入り禁止になっている。井戸の周りは崖に囲まれ、そこには幾つか洞窟になっている。
ミーガー、アナガー
公民館のある運動公園の隣の南にミーガーとアナガーの拝所がある。この二つの井戸はこの近くにあったのだが、現在は埋められてしまい拝所だけがここに移ってきている。ミ-ガ-はヒガー (樋井) でー時期は水量が豊富だったのだが次第に枯渇してしまい 1971年 (昭和46年) にうめたてられた。アナガーは18世紀以前からある古い井戸であったが、利用者もなくなり埋め立てられてしまった。
中道 (ナカミチ)
旧村屋は集落にナカミチ沿いにあった。ナカミチはメインストリートなので、この道沿いには有力門中の屋敷があり、ナカミチは集落の北にある賀数グスクの拝所に通じていた。ナカミチの一部は両側が屋敷の石垣に沿って走っている。沖縄らしさが残っている。幅も自動車が一代通れるぐらい。これが当時の道幅だったのだろう。このナカミチ (中道) を境に西をイリンダカリ (西村渠)、東をアガリンダカリ (東村渠) と称し、更に村屋跡と鶴松屋敷跡之北側を走っている道を境に北をクシンダカリ (後村渠)、南をメーンダカリ (前村渠) と称した。この東西及び南北の境界を基準に集落内は4つに区分されていた。
前道 (メーミチ)
もう一つのメインストリートの前道 (メーミチ) が集落の南側に走っている。かつて、ここには兼城国民学校があり、現在は兼城小学校となっている。
兼城間切番所跡 (兼城小学校)、馬場跡 (ウマィー)
現在の兼城小学校の場所にはかつての兼城間切番所が存在していた。この賀数は琉球王朝時代には兼城間切之中心地であった。
兼城間切番所の南東には馬場跡があった。
神道 (カミミチ)
兼城の根屋から賀数の下之殿 (シチャヌトウヌ) へ至る道が神道と呼ばれていた。この道は兼城ノロが下之殿までいき、そこから賀数グスクのカカンダキ (カカンブー) を祭祀にむかったのだ。
鶴松 (チラマチ) 腹の神屋
旧村屋から中道 (ナカミチ) を挟んだところに賀数集落の国元 (クニムトゥ) の鶴松 (チラマチ) 腹の神屋があるはずなのだが .... 鶴松は後継者がいなく絶えてしまっているので、ウマチーなどでは村の代表者が御願している。現在は空き家になっており、神屋なのか小屋なのか、その所にヤギがつながれていた。どうも、このヤギはペットの様で、かなり人懐っこい。写真を撮っているとこちらに近づいてくる。じっとこちを見ている。何か食べモノでももらえると思っているのだろうか?
与座之前 (ユザンメー) 腹の神屋
旧村屋があった同じブロック内のナカミチ沿いには、集落の嶽元 (タキムトゥ) の与座之前の神屋がある。国元の鶴松と同じように後継者がおらず、村で管理御願がされている。
謝名屋 (ジャナヤー)
ナカミチを賀数グスクに向かい北に向かう。琉球国由来記にある嘉数里主所と考えられている。当時の地頭が謝名で今婦仁間切の謝名村から賀数に移住し、その後、何代かして子孫が絶えてしまい、集落の人が現在地に祀ったといわれている。そこには地頭火之神と7つの香炉が置かれており、今帰仁への遙拝所 (お通し ウトゥーシ) にもなっている。
ンママーラシー石
兼城ノロは謝名屋 (ジャナヤー) まで馬で来て、この場所にあるンママーラシー石 (馬を廻す石) を三回廻ってから馬から降り、人と参拝者が盃を交わして御嶽に向かったそうだ。
賀数グスク
下之殿 (シチャヌトウヌ) から賀数グスクに入る。賀数グスクはウナンチヂと呼ばれる標高77mの石灰岩の丘にある。14-5世紀に築かれたらしいが築城者は不明。三山時代に南山での国王争いで登場する。
汪応祖 (第三代南山王在位: 1403年 - 1413年) が1413年に亡くなった後、南山は汪応祖の兄である達勃期 (第四代南山王在位: 1413年 - 1414年) と汪応祖の子の他魯毎(第五代南山王在位: 1415年-1429年) が争っていた。賀数大親は汪応祖に仕えていたが汪応祖の死後、八重瀬グスクを中心として勢力を広げている達勃期よりは、賀数に近い豊見城を拠点にしている他魯毎側に味方していた。達勃期が戦死した後は前米須按司で武寧之弟の摩文仁大主が甥に賀数グスクを攻めさせ、その際に賀数大親の長男は戦死。その後、摩文仁大主側の真栄里大親之娘が賀数グスクを守っていた次男の妻であったことから、城内に兵を侵入させることに成功して、次男は戦死した。摩文仁大主の甥が賀数グスクに入城し、賀数按司となった。その後、他魯毎が摩文仁を攻めて破った際に、賀数按司は逃走し、賀数グスクは再度、他魯毎の支配下となった。
下之殿 (シチャヌトウヌ)
謝名屋 (ジャナヤー) すぐ北には、「琉球国由来記」で記載されている下之殿 (シチャヌトウヌ) がある。下之殿は賀数グスクにあるカカンダキへの入り口に位置している。この下之殿 (シチャヌトウヌ) の写真が見当たらなかったので、これがそうなのかは確信はないのだが、謝名屋 (ジャナヤー) から賀数グスクへの道を入ったところにあるので、たぶんそうだろう。
上之殿 (イーヌトゥヌ)
下之殿 (シチャヌトウヌ) から、グスク内を進むと、野積みの石垣に囲われ場所に上之殿 (イーヌトゥヌ) がある。琉球国由来記にも記載されている。
シロトングワ
グスクの別の場所にはもう一つ殿がある。シロトングワと呼ばれ、グスクミチムン (城道殿) とも言われている。グスクの食事を煮たきする台所だったといわれている。一説にはカニマンとも云われている。
グスク頂上を目指してさらに進むと幾つかの拝所や墓跡がある。グスク内には午ヌ方 (ウマヌフア、南)、卯ヌ方 (ウヌファ、東)、子ヌ方 (ニーヌファ、北) と呼ばれる拝所があるようなのだが、場所は書かれていない。このうちのどれかがそれにあたるのかもしれない。
カカンダキ (カカンブー)、嘉数之嶽
頂上に上がると貯水タンクがあった。集落北丘段をカカンダキといわれる。この場所には一つ拝所があった。名称はわからなかった。カカンダキは山のたたずまいが女性のひだスカートのような下裳のカカンの形に似ていることからその名がついたとをいわれている。また、カカンダキは子供のナージキー (名付け) の神様として拝んだといい、赤子の命名の時にカカンを頭から被ったそうだ。カカンダキはウナンチヂと慣れ観しんで呼ばれており、ウナー (名) をつけてくれる神様のいるチヂ (頂き) からそう呼ばれるようになったと推測されている。
頂上付近にあるカカンブーと呼ばれている岩のところに御嶽がある。岩場は石垣が残っている。この岩場をよじ登って頂上に着く。草むらの隙間に香炉が見えている。これが琉球国由来記に載されている「嘉数之嶽、神名イシカワノ御威部」だ。
城井 (グスクガー)
ウナンチヂの賀数グスク内にはカー (井泉) が3つあったという。東からアガリガー (東泉)、グスクガー、イリーガー (西井泉) なのが、深い雑木林の中にあるので見つけるのは難しそうだ。資料にも、はっきりとした場所は記載されていない。集落の人たちは、今では下の道からタンカーノーシ (お通し) しているそうだ。見つけた井戸跡はグスクの頂上付近にあった。この井戸が城井 (グスクガー) かどうかはわからなかった。
サーシ墓 (ジングラ)
グスクの丘陵の中ににはサーシ墓 (サシン墓、ジングラ、クミクラ) がある。サーシとは施錠のサーシ (鍵) のことで、昔は鶴松ノ前門中の蔵で、そこには金と米という字が書かれた2個の甕が納められていたそうで、墓の様ではなかったと伝わっている。また、墓の管理所であったともいわれている。この丘陵には多くの墓があり、その管理所というわけだ。墓参りに来る人はまずここで案内を乞う習わしだったそうだ。戦時中は日本軍の兵糧米の蔵として使われていた。
サーシ墓 (ジングラ) から更に奥に進むといくつもの古墓跡がある。その幾つかは入り口を塞いでいた石積みが崩れたか、取り除かれたのか、洞窟が丸見えになっている。
ビービル (ビジュル)
グスクの丘陵から出て、西側にある道路を渡った森にビジュル (霊石) がある。祠には約50cm四方の平べったい石が置かれている。ここでは豊作、雨乞い、航海の安全、子授け、子どもの健康等の祈願がされている。この拝所は賀数集落だけでなく座波集落の人々にも拝まれている。
与座之前 (ユザンメー) 腹の墓
集落の西外れグスクの丘陵の西の斜面に嶽元 (タキムトゥ) であった与座之前 (ユザンメー) 腹の墓がある。亀甲墓で二つの墓がつながっているターチバカで、一つは字糸満の与座之前復、もう一つは字北波平の与座之前履のもので共同墓になっている。この二つの腹は賀数与座之前門中からの分家だ。
墓の奥には幾つかの古墓が残っている。
仲城腹の墓
ウナンチヂ北料面にある仲城腹の墓がある。この墓の前には庭 (ナー) があったそうで、そこでは戦前にはモーアシビーが盛んに行われていた。三線や太皷に合わせて若い男女が踊る交際の場で、ここで将来の結婚相手を見つけたのだ。本土でも祭りはこのような交際の場であったが、沖縄も本土と同じ様に、このモーアシビーはなくなってしまった。
アンマサーガマ
現在の公民館の少し北の場所にガマ跡があるそうだ。このガマはアンマサーガマと呼ばれ、昭和20年3月に米軍の沖縄上陸が始まると、集落住民が避難した場所だ。6月8日に米軍に集落は占領された。当時の集落の395人の内152人が犠牲になった。この後、捕虜となった人は収容所に送られ、半年後の12月末に帰村が開始され、村の再建が始まることになる。地図で示された場所はこのあたりだが、この中に入る道は見当たらず、結局ガマは見れなかった。
今日でいったん沖縄集落訪問は中断。3日後には9泊10日で東京に行く予定。病院の定期検査のためだが、メインの目的は今まで2回の東京訪問でやっていた江戸城巡りだ。今回は東京も新型コロナ感染がますます広がっているので、東京で会うのはほんの数人になってしまう。少し残念だが、もう少しの辛抱だ。東京行きまでの残り3日間は江戸城巡りの下調べを使う。沖縄集落巡りは東京から帰ってきてからの再開となる。
参考文献
- 糸満市史 資料編13 村落資料 旧兼城村編 (2011)
- ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
- 尚巴志伝 (酔雲)