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私の読書日記「放哉と山頭火」

2020.11.28 09:50


学歴エリートの道を転げ落ち、業病を抱えて朝鮮、満州、京都、神戸、若狭、小豆島を転々、引きずる死の影を清澄に詩いあげる放哉。

自裁せる母への哀切の思いを抱き、ひたひた、ただひたひたと各地を歩いて、生きて在ることの孤独と寂寥を詩う山頭火。

アジア研究の碩学、渡辺利夫氏によるこの本には、「死を生きる」という副題がついている。



放哉と山頭火の句が読む者を捕えて離さないのは、「現世からの逃避や過去への執着からの解放」といった「叶えることのできない人間の業のようなもの」を、自由律句という形式を通じて、時に鋭く、時に深々と語りかけてくれるからで、我々の苦悩を「代償」してくれるのだと著者の渡辺利夫氏は言う。



「咳をしても一人」は、放哉が小豆島に庵を構えた晩年の代表作で、ユーモラスかつ冷徹に孤独を詠んだほか、迫りくる死を鋭利に見つめ、死を透明で清澄な句へと昇華させた。


「分け入っても分け入っても青い山」は、山頭火が流浪の旅に出て熊本県から日向路へと抜ける山中で詠んだ代表作で、人間として在ることの苦悩そのままに放浪の生涯を送った。



「春の山のうしろから烟が出だした」(放哉)や、「もりもりもりあがる雲へ歩む」(山頭火)という彼らの辞世の句は、現世では叶えられなかった魂の救済を、死を目前にして漸く手にした喜びの歌だったのかも知れない。



尾崎放哉年譜

明治18年、鳥取県で3人兄弟の末っ子として生まれる。

14歳で俳句を始め、24歳で東京帝国大学を卒業。翌年には生命保険会社に勤務し順風満帆の生活を開始したかに見えたが、36歳の時には組織との折り合いも悪く、酒癖の悪さから降格・辞職に至り、翌年には肋膜炎を患う。

その後朝鮮から満州へと流れたが、酒癖の悪さからの免職や肺結核の増悪もあって帰国。妻と別れ、寺男となって一人静かに生活する道を模索する。

京都の一燈園を皮切りに、知恩院塔頭常称院、須磨寺(神戸)、常高寺(若狭)、龍岸寺(京都)などを転々とした後、西光寺奥之院の南郷庵(小豆島)の庵主となって居住。荻原井泉水をはじめ、俳句仲間や周囲の人々の支えもあって句作に専念するが、41歳の時に癒着性肋膜炎からの結核合併症及び湿性咽喉カタルと診断され、急速に病状が悪化。迫りくる死を冷静に受け止めて衰弱し、最期は隣家の老婆に看取られて瞑目する。



種田山頭火年譜

明治15年、山口県の旧家で5人兄弟の上から2番目として出生。

最愛の母の投身自殺(10歳)に続く末弟や姉の病死、政治への耽溺と放蕩が治まらない父との確執もあって、神経を衰弱し酒に溺れる。

やがて種田家は破産し、妻子と共に熊本に移り古本屋を営むが、弟が岩国愛宕山中にて縊死。37歳の時には熊本での生活に倦み、東京へ出て翌年には妻と戸籍上の離婚。

自殺未遂(42歳)を契機に禅門に入った後は、九州や山陰、四国など各地を行乞行脚しながら層雲同人たちと交わり、50歳で山口県の「其中庵」に結庵。その後も自殺を図るが未遂に終わり、死処を求めて東上の旅に出奔。各地を放浪した後、57歳で松山市の「一草庵」に庵居。

翌年、友人たちとの句会を終えた後、泥酔の果てに倒れて絶命し、心臓麻痺と診断される。