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粋なカエサル

「ルノワールの女性たち」10 第三回印象派展「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」

2020.11.28 20:00

 1877年4月4日から30日まで第三回印象派展がアパルトマンの二階を借りて開催された。再びルノワールはこの展覧会の開催のために尽力する。会期中には週刊新聞『印象派』が発行されたが、編集人をつとめたのはルノワールの友人ジョルジュ・リヴィエール。このときに画家たちは初めて「印象派」を名乗った。酷評に反論することを目的としたこの広報紙で、彼らは一つのグループとして提示された。この週刊新聞は展覧会会期中定期的に刊行され、ルノワールも「画家」の署名で書簡を掲載したり、「現代の装飾美術」という見出しで論文を発表して、芸術の相互依存性と、機械化の犠牲者たる現代の頽廃に関する考察を展開するなどした。そのこともあってか、印象派の特質やその目的を論じる批評も多くなる。その一方画家たちの意に反して、彼らを政治的な意図すら持った反体制集団とみなす見方も生じた。いずれの場合にせよ、批評家の態度が、嘲笑に終わるのではなく、彼らの意図を読み解こうとするものに変化してきたと言える。

 パリの街の北端にあるモンマルトルの丘はパリを見下ろす絶好の地である。1871年のパリ・コミューンの蜂起の場になったのも、地の利のゆえでもあったのだろう。19世紀半ば、バティニョール地区をふくむこのあたりがパリ市に編入されるまでは、畑や風車のある郊外の田舎の村だった。産業革命の影響で風力より蒸気機関が動力源として有名になると、製粉業を営んでいたドブレー親子は、風車だけを残して、製粉小屋を田舎風の舞踏場に改装する。城壁で囲まれていた古いパリ市との境界線上にある地域には、舞踏場や安い居酒屋(ガンゲット)などが軒を連ね、庶民の憩いの地になったが、このモンマルトルの丘の中腹にある「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」のダンス・ホールはとくに有名だった。

【作品16】「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」1876年 オルセー美術館

 日曜日だ、さあ踊りに行こう。これが、当時のダンス好きのパリっ子たちの合い言葉だった。モンマルトルの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」は、なかでも評判のダンス・ホール。毎週日曜日の午後3時から深夜まで、戸外のエリアで舞踏会(というか、むしろダンス・パーティー)が開かれるのだ。入場料格安とあって、財布の中身を気にせずに、だれもが心置きなく踊りに興ずることができた。お金持ちは着飾って、貧乏人もそれなりにおしゃれをして、というのがここでの暗黙のルール。だからみんながファッショナブルに輝いて見える。

 手前に陣取る若者たちも、中継でダンスを踊る何組かのカップルも、すべてルノワールの顔見知りばかり。さながら仲間たちの集団肖像画といった趣きがある。地面や人々に降り注ぐ木漏れ日の具合から見て、描かれた時刻はまだ開場して間もない昼下がり。夜まで陽気に踊り続けよう、お楽しみはこれからだ、という盛り上がった気分が画面いっぱいにあふれている。

 「生きる喜び」という言葉がまさにピッタリの、文句なしにルノワールの最高傑作だ。ジョルジュ・リヴィエールはこの「近代生活」の遺言状ともいうべき作品について、1877年4月の『ランプレッショニスト(印象派)』誌のなかで次のように書いている。

「これは歴史の1ページであり、パリっ子の生活の貴重な、かつきわめて正確な記録である。ルノワールより以前には、だれもこういった日常の出来事をこれほどの大作の主題としてとりあげることを思いつかなかった。彼のこの大胆さは必ずやそれに見合うだけの成功を手にするであろう。我々としてはここで、この絵が将来において担うであろうそのたいへんな重要性をあえて強調したい」

 この舞踏場の名称は、「ムーラン」(風車)を建物の目玉にして、入場者に「ギャレット」というクレープのようなお菓子を配ったことに由来する。ルノワールはこの舞踏場の庶民的な雰囲気が気に入り、モンマルトルの丘の中腹にアトリエを借りてこの作品を描いた。現場で製作するために友人たちがカンヴァスを運ぶのを手伝い、モデルの役もつとめてくれた。

1876「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」部分

1876「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」

1885年頃 ムーラン・ド・ラ・ギャレット

ゴッホ『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』1886年 ベルリン新美術館

ロートレック「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会にて」1889年シカゴ美術館 

現在(2012年)のムーラン・ド・ラ・ギャレット


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