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「おくのほそ道」とつかず離れずで歩く東北地方

2020.11.29 13:49

https://ameblo.jp/guideshiken/entry-12620469695.html 【「旅マエ」は深川―「おくのほそ道」とつかず離れずで歩く東北地方】 より

中高時代の古典の授業で覚えさせられた作品のうち、その後の私に最も影響を与えたものは、おそらく「おくのほそ道」だろう。古典的権威に対して斜に構えがちな私にも、この作品の特に冒頭部分は素直に入ってくる。

「月日というものは、やってきては去り、またやってきては去っていく、旅人のようなものだ。(月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり)」

この達観したような深い人生観は、スナフキンや寅さんなど、放浪の旅に憧れた十代の私に「旅=人生」「人生=旅」という公式を埋め込んでくれた。

 人生50年のころ、芭蕉は29歳という決して若くはない年齢で新興都市の江戸に下り、神田川等の上水道工事の手配人という「ガテン系」の仕事をしつつ、日本橋という町人の「都心」で俳諧の宗匠として、経済的、地位的にある程度の成功を収めた。が、37歳にして何を思ったか世を避けるかのように「江上こうしょうの破屋(隅田川の岸辺のボロ屋)」と呼ぶ深川の庵に移り住んだ。当時の深川というのは、「江東」すなわち江戸の東の境、隅田川のさらに東である。

そういえば私も34歳という、若くはない年齢で上京し、通訳案内士を養成しつつ、47歳で首都圏の境界、利根川の東の茨城県取手に引っ越したのでどこか似ているかもしれない。

そんなことを思い返しつつ、深川を歩く。ここで訪日客に人気なのは、体育館サイズの室内に江戸の町をディテールまでリアルに再現した深川江戸資料館だろう。長屋の裏に手拭いが干してあり、そこからまだ水が滴っているほどのこだわった資料館だ。芭蕉資料館よりもこの施設のほうが江戸の庶民の町を体感できる。確かにあの名作の出発地点がこの地であったというにしては、公民館の二階に間借りしただけの芭蕉資料館は玄人向きというべきか、地味というべきか…。

しかし小さな庭にある池は、良くも悪くも見ていて様々な考えが去来する。芭蕉はここを見て、「蛙飛び込む水の音」を聞いたのか?いや、ここは昭和に造られた施設だから、ここの池ではありえない。それに、蛙は何匹飛び込んだのか?いや、そもそも本当に蛙は芭蕉の目の前で池に飛び込んだのか?心象風景に過ぎなかったのでは?そのように考えがあちこちに動く、楽しい池である。

ちなみに文京区には彼が神田川の工事をしていたころに住んでいたとされる「関口芭蕉庵」があるが、後世の再現とはいえ、ここの古池のほうがはるかに芭蕉の世界を体現しているように思える。

さて、庭のすぐ上は堤防になっていており、芭蕉の銅像も置かれている。芭蕉は確かにここからまだみぬ奥羽の地に向かった。目的は彼の思慕する鎌倉時代の歌人、西行法師の奥羽への旅を追体験することであり、「歌枕」、すなわち和歌の名所をたどることであった。今でいうならアニメや映画の「聖地巡り」のようなものだろう。

そのたびに対する思いを「私もいつごろからか、流れるちぎれ雲に誘われるかのように放浪の想いがやまず、(予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず)」「旅のことを考えるとそわそわしてきて、何も手につかなくなる。(そヾろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず)」と、述べている。

観光業界には「旅マエ」「旅ナカ」「旅アト」という概念がある。彼の場合、普通の物見遊山ではなく「旅マエ」に数十年の文学修業があった。深川とは、彼が「都心」から移り住み、具体的に奥州の旅の計画をあたためる場所だったのだ。


https://ameblo.jp/guideshiken/entry-12620699946.html  【最初の別れの地、千住/日光-きらびやかさへの称賛は、芭蕉の戦略か?】 より

最初の別れの地、千住―「おくのほそ道」とつかず離れずで歩く東北

日暮里に住んでいた私にとって、千住とは隣町である。南千住駅前には芭蕉の銅像があり、千住大橋にも彼の旅する銅像がある。こここそ彼が江戸に別れを告げる際、

「千住で舟を降りる。この先三千里の旅が待っていると思うと胸にグッとくるものがある。はかない人生の十字路で出会った大切な人々と、二度と会えないこともあろうと思えば涙があふれて止まらない。そこで一句

-春なのに鳥は悲しく鳴き、魚の目にも涙があふれる― 

(千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。 行春や鳥啼魚の目は泪)

この作品に通底するテーマは「離別」である。それは人生において何度もやってくる別れである。深川では「旅マエ」の期待にあふれていたものの、持病もあり、平均年齢に近い46歳の「高齢者」が、旅に病んで臥すかもしれないなか、千住の地で川を渡ると、いよいよ江戸の人々に別れを告げたという悲壮感があふれてきたようである。

私の「おくのほそ道」をたどる本格的な旅はこうして始まった。

日光-きらびやかさへの称賛は、芭蕉の戦略か?

東京を離れて二時間半。日光に向かう。東照宮を詣でた芭蕉はこのように表している。

「昔『二荒山ふたらさん』と呼ばれていたこの山を『日光』としたのは弘法大師空海だというけれど、千年先にこんなに豪華絢爛な社屋になるということがお見通しだったとは恐れ入る。そのまばゆいばかりの光は徳川家の安泰のおかげが四方八方まで隅々と行き渡り、士農工商みな安心して暮らせることを象徴しているようだ。

―なんとありがたい 青葉や若葉の梢から降りかかる 日の光よ」

(往昔、此御山を「二荒山」と書しを、空海大師開基の時、「日光」と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。 あらたうと 青葉若葉の 日の光)」

徳川家に対する忖度、というよりリップサービスなのだろうか。この句が一番好きだという人は多くはなかろう。そもそも彫刻でごてごて飾り立て、金銀に丹青、白黒など相反する色であふれる東照宮は、枯淡の境地にあるイメージの芭蕉らしくない。また、彼はどうやら感極まると漢文調になる癖があるが、ここにでてくる「千歳未来」「御光輝一天」「恩沢八荒」「四民安堵」などの「とってつけたような」漢文調の成語には、例えば彼が思慕してやまなかった西行法師が伊勢神宮参拝時に詠んだ歌

「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」

のような、心からじわじわと湧いてくるありがたみとは異なる。

戦前にナチスから逃れてこの地にやってきたドイツ人建築家、ブルーノ・タウトは、東照宮を俗物的キッチュとし、本当の日本の美は自然を生かした桂離宮にある、と述べたが、その対比はそのまま伊勢神宮での西行の歌と、東照宮での芭蕉の句にも表れる。

しかしよく考えると「おくのほそ道」は紀行文ではあるが、事実そのものではなく、推敲に推敲を重ねて編集しなおしたものである。関東圏の最北に位置する日光までは、将軍の威光輝く地、そしてこの先の白河の関をこえると、いよいよ夢にまで見た奥州の地である。見方によっては江戸における華やかな「日常感」を、日光まで延長させ、その先の未知なる世界とのギャップを感じさせようとしたのではなかろうか。

いまいち「消化不良」の盛り上がりを感じながらも日光を去った。これも関東圏の日光から、未知の世界の奥州にいざなおうとする、芭蕉の戦略だったのかもしれない。(続)


https://ameblo.jp/guideshiken/entry-12620702545.html 【白河の関とオリエンタリズム―「おくのほそ道」とつかず離れずで歩く東北3】 より

オリエンタリズムとしての奥州

芭蕉は江戸深川にいたころから、いや、おそらくそのずっと前から奥州に憧れていた。その憧れのベクトルは、古代中国に対する憧れとは正反対である。前近代の日本の文人ならほぼそうであったように、古代中国に対する憧れは文化の香り高い国に対する「正統派」のそれである。

一方、特に京の都の人々にとって「蝦夷」の住む奥州の地は、おそらく一生行くことはない。しかし、それゆえに一層「未知の魅惑」にかられ、多くの文人たちが歌に詠んだ。歌に詠みこまれた名所旧跡を「歌枕」と呼ぶならば、都人にとって物理的に遠くはあっても心理的にはそれほどでもない、不思議な魅力あふれる場所が奥州だった。それは例えばゴッホの南太平洋に対するまなざし、あるいは1980年代の日本人のシルクロードに対するまなざしに近かったのかもしれない。しかし前近代の都人の奥州に対するまなざしは現実の奥州ではなく、「歌枕」、つまりあくまで文学的な「オリエンタリズムとしての奥州」である。

この奥州を訪れたことにしてこのような歌を詠んだ人物が11世紀の能因法師である。

都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関

西行法師の跡をたどって

これにつられて本当に奥州に行ったのが、12世紀の西行法師であり、西行法師の後をたどって白河の関をこえることを夢見たのが、17世紀の芭蕉であった。「おくのほそ道」の冒頭で、彼はこう述べている。

「霞んだ春の空のもと、白河の関をこえることを思うと、何かにつかれたかのようにそわそわしてきて…(春立る霞の空に、白川の関こえんと、そヾろ神の物につきて心をくるはせ)」

このように、白河の関とは、まさに京都が代表する「中国文化直系の文明国」と、蝦夷が代表する「野蛮ながらも未知の魅惑あふれる地」の境と考えられていたのだ。

現在、東北新幹線で白河駅に着くと、校内に関所の門のレプリカが据え付けてあり、駅前には旅姿の芭蕉の銅像が迎えてくれる。実際は何の変哲もない地方の小都市に過ぎないのだが、やはりこの千年の「まなざし」の流れを知っているだけに、いよいよ奥州に入ったという気になってくる。「ボーダー・ツーリズム」をしているかのような気分が面白い。

「白河以北一山百文」東北の反骨精神

しかしここで忘れてはならないのが、近代日本において戊辰戦争で敗れた奥州が、政治的、経済的に圧倒的な敗者の地位に立たされたことだ。「白河以北一山百文」という言葉がある。ここから北は山一つでもタダ同然という意味で、関東以西の人から見ると貧困にあえぐ未開の地というように認識される東北地方とのボーダーもこの白河だったのだ。

薩長土肥の藩閥政治の時代に仙台で創刊して現代にいたる東北最大の地方紙「河北新報」の名称も「白河以北」からきているし、また藩閥政治が一段落した大正デモクラシーの頃、岩手県が生んだ東北初の首相、原敬が自らの号を「一山」としたのも、「一山百文」と蔑まれたいわれない東北差別への反骨の表れだった。

江戸時代の芭蕉は歌枕としての奥州に西行ら歌人の影を追い、21世紀の私はそれに加えて東北が歩まされてきた天災・人災による劣位に悩まされてきた庶民のやるせなさをたどりつつ、今なお東北の人々の心にあるこの目に見えない関所をくぐりぬけた。


https://ameblo.jp/guideshiken/entry-12620793784.html 【松島で言葉を失った芭蕉と、石巻で言葉を失った私 ―「おくのほそ道」とつかず離れずで歩く東北】  より

「日本三景」どころか「東洋三景」?

「おくのほそ道」の冒頭で、芭蕉は「松島の月先づ心にかかりて」と書きつけている。白河の関をこえたところにあるもののイメージが松島の月だったというのだ。そのころから「日本三景」の一つとして広く知れ渡るようになったというが、そのはるか前から、「奥州ロマンチシズム」を喚起する歌枕のシンボル的な場所でもあったらしい。

さらに彼は、松島についてこう述べている。

「松島は日本一の風光明媚な地で、湖南省の洞庭湖や浙江省の西湖にも負けていない。(松島は扶桑第一の好風にして、凡およそ洞庭・西湖を恥ず)」言い換えれば日本三景どころか、「東洋三景」の一つが松島だと言わんばかりだ。興奮すると漢文調になるのが彼のお決まりのパターンだが、ここでは奥州の海岸を見ながら大陸的光景を感じているのだ。

松島の句を入れなかった芭蕉-「間ま」の余韻か?

ただ、そこまで松島を想ったはずの彼なのに、同書では特に句を詠んでいない。あるのは同行者にしてお世話役の曾良の

「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」

だけである。そして芭蕉は続ける。

「私は何も言えないまま、寝ようとしても寝られなかった(予は口をとぢて眠らんとしていねられず)」

あまりにも松島の風景が素晴らしく、言葉で言い表せなかったからだという説もあれば、あえて書かずに「間ま」を効果的に生かすことによって読者の想像力を喚起させる手法をとったという説もある。おそらく両方なのだろう。

多島海の美で愛でる松島の月

21世紀の今、松島を歩くと、昔と変わらない美しい多島海が広がる。何度か訪れたが、私の場合東日本大震災の半年後に訪れたときのことが特に印象に残っている。

松島湾だけでも二百以上の島々が浮かぶという。海岸沿いを歩いてみてもよし、「四大観」と呼ばれる山の展望台からみてもよし、また芭蕉たちが隣接する塩竃から舟で到着したことを思い出して遊覧船に乗ってみるのもよい。それぞれの多島海の美が楽しめる。

次から次へと現れる島々の間を通り抜ける遊覧船に乗って感じた。ここは小島の密度が高すぎる。芭蕉の戦略とは対照的に「間」を感じにくい。瀬戸内海や天草のように、それなりの規模の島々がずっと続くというわけではない。小一時間ほどの船の旅は、はじめは餌を求めてやってくるカモメたちと戯れていた乗客たちの多くも、次第に飽きてきたのか、スマホでSNSにアップしたりしだして、せっかくの松島を堪能しているようには思えなかった。船でここにやってきた芭蕉は、もしかしたら多すぎる小島に辟易として、あえて島々も海も読まない、「間」を生かそうと思ったのではないだろうか。

そんなことを考えながらその日の夜は今世紀にできたばかりの松島温泉に投宿した。芭蕉が訪れた地の温泉地なのに、そのホテルはバリ風リゾートホテルという、ミスマッチさをねらったものだった。しかしバリだろうが日本だろうが、宿からは初秋のおぼろ月にぼーっと浮かび上がる島々が堪能できた。「松島の月先づ心にかかりて」という一節が心に浮かんだ。

震災半年後の東松島・石巻で言葉を失う

翌日、隣接する東松島を通って石巻市に向かった。松島町がその半年前の震災による津波で死者・行方不明者が一桁台だった。これは多島海の島々に津波が当たって波力が分散し、市街地を襲った波もそれほど高くなかったことが挙げられる。そういえば松島の名刹瑞巌寺の長い参道の途中には、「津波はここまで来た」ということを表す石碑があったことを思い出した。樹齢数百年の杉木立は塩害で枯れたとはいえ、相対的に被害が軽微だったのは、前日私が「密度が高すぎる」と感じた島の密集具合のおかげだったのだ。

一方、東松島市は壊滅的な被害を受け、1100人以上もの死者・行方不明者を出していた。何もかも根こそぎに奪われた東松島市の海岸から、さらに東に進むと、でこぼこ道のど真ん中に巨大な円筒状の缶詰のような形の看板が転がっていた。周りはがれきの山である。3700人以上の死者・行方不明者を出した市街地の海岸線にも、やはり島々はなかった。松島で言葉を失ったのが芭蕉なら、私も別の意味で石巻では言葉を失った。

あれから半年もたつと、東京のメディアは被災地のことを取り上げる頻度が明らかに減っていた。人々の頭からあのことが風化しつつあったのかもしれない。しかしここは被災地だ。命からがら避難できた被災者の方々の仮設住宅もまだ全戸完成しておらず、体育館などで寝泊まりしている頃、「風評被害で苦しむ被災地を観光することで復興の一助に」と軽々しく考えて、バリ風のリゾートホテルで温泉につかりながら「松島の月まづ心にかかりて」など口ずさんでいた自分の無神経さが恥ずかしく、腹立たしかった。

なぜか芭蕉まで、当時の奥州の農民の苦しみも知らずに、俳諧などをやっている、地に足のつかない人物に思えてきた。災害は文学になりうるが、文学は災害そのものに対してあまりに無力だった。そんなことを考えながら被災地を行脚し、岩手県に向かった。


https://ameblo.jp/guideshiken/entry-12620795188.html 【兵どもが夢の跡-漢詩という色眼鏡で奥州を見た芭蕉】 より

平泉と「兵どもが夢の跡」

石巻から女川町、南三陸町といった被災地をレンタカーで行脚し、岩手県の南側に位置する平泉に向かった。平泉と言えば、「おくのほそ道」のクライマックスの一つである。思うに、初めてここに来たときは大学時代だった。源氏と奥州藤原氏との戦場となった高館から滔々と流れる北上川を見ると、「まづ高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。」と出てきた。

そして「それにしても、忠臣たちがそろってこの城にこもり、大いに名をとどろかせたが、それも一時のことで、今は一面の草むらだ。「国破れても自然は残る、城も春になると草が生い茂る」という杜甫の漢詩を思いおこすと、笠をとって時が移るまで泣き続けた。(さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。国破れて山河あり 春にして草青みたりと、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍りぬ。)

そして例の名句がでる。

 夏草や兵どもが夢の跡

源頼朝の要求を拒んで自分を頼ってきた義経を引き渡さず、頼朝軍の侵攻を受けて平泉の黄金文化は灰燼に帰した。その義侠心に芭蕉は打たれた。そして感極まるといつもの漢文調になり、ついに杜甫の漢詩を一部変えて引用しだす。彼は漢詩という色眼鏡をかけて奥州を見ていたに違いない。

降り残してや光堂-朽ち果てた美ときらびやかな美の対比

そして中尊寺金色堂を拝した芭蕉はこう記している。

「金銀財宝は散り散りになってしまい、宝玉のついていた扉も風に吹かれて破れ、金色の柱も雪に朽ちてしまい、すでにボロボロのがらんどうになって、草だらけになりそうなのを、周囲に建屋をほどこして屋根を覆って雨風をしのいでいる。もうしばらくの間はかつての栄華が偲ぶことができるだろう。(七宝散りうせて、珠の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚のくさむらとなるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨をしのぐ。しばらく千歳の記念とはなれり。)」

五月雨の降り残してや光堂 (金色堂の、ここだけはさっき降った梅雨の雨も遠慮してぬらさなかったのだろうか)

確かに建屋の中は金閣寺さながら光り輝くお堂があり、その中には阿弥陀如来を中心においた諸仏がこちらに極楽浄土からこちらに向かってくるかのようだ。宗派は異なれども阿弥陀如来なので、私はガラスの向こうの諸仏に向かって真宗の正信偈を小声であげた。

女川と南三陸で見た光景こそが芭蕉の世界

しかし見渡す限りがれきの山の女川や南三陸を通ってきた私が、その後に平泉を訪れると、被災地の生々しさが目から、鼻から離れない。

女川では水産工場「佐藤水産」の専務が、海沿いの工場にいた大連からの留学生を助けに向かい、彼女らを丘の上に連れ出した後に自分の妻子を探しに再び海沿いに向かい、かえらぬ人となった。

私はカーナビに「佐藤水産」と入力してその地に向かった。「目的地に到着しました」とカーナビが無機質な声で教えてくれるが、そこには廃墟となった工場の骨組みが残るだけだった。そのすぐ上の丘に登り、夏草ののびきった原っぱで車を停め、廃墟と海を見ながら合掌し、般若心経を唱えて冥福を祈った。

その後訪れた南三陸町では、住宅の基礎のコンクリート部分のみ残っているのを何度も見た。いかに津波がすさまじかったかが分かる。レンタカーのカーナビに「防災庁舎」と入力し、いつもながらの「目的地に到着しました。」の無機質な声が聞こえても、目の前にあるのはニュースで何度も見た鉄骨むき出しの廃墟の塊である。

あの日、町を襲う津波から逃れるよう、ここの放送室で町民に避難を叫び続けて亡くなった24歳の遠藤未希さんたちを偲んで、がれきに囲まれた空き地に祭壇がつくられ、手彫りの観音像が置かれ、花が手向けられていた。確か2011年9月に結婚するはずだった。ここでも私はおもむろに数珠をとりだし、般若心経を読んで冥福を祈った。

被災地でこそ自分のものになった「おくのほそ道」

平泉に行く前にこのようなところを行脚してきたからか、がれきと草むらの中から柱と屋根しか残っていない佐藤水産や、鉄骨むき出しの防災庁舎を見ると「既に頽廃空虚のくさむらとなるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨をしのぐ。」というフレーズが頭から離れない。そして女川の佐藤専務や南三陸の遠藤未希さんの魂に向かって般若心経を唱えると、「さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。」というフレーズが響いてくる。

廃墟となった町と、はびこる雑草、そして何事もなかったかのようにそこにある山々と青い海。そんな光景を見て「国破れて山河あり 春にして草青みたりと、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍りぬ。」の意味をかみしめている自分に気づいた。

芭蕉の奥州に対するまなざしが、漢詩という色眼鏡越しだったように、私の「おくのほそ道」に対する理解は、これら被災地での読経によって自分のものとなったようだ。

そのことを確認しつつ、平泉から奥羽山脈を越え、山形市を目指し、ハンドルを握りなおした。


https://ameblo.jp/guideshiken/entry-12621331240.html 【岩にしみ入る蝉の声-「不易」と「流行」の方程式(山寺立石寺)おくのほそ道⑤】 より

観光バスに乗って奥羽山脈を越え、蔵王温泉で宿泊し、翌朝山寺(立石寺)を詣でた。狭い盆地を見下ろすかのように立ちはだかる山の上にお堂が見える。あそこまで歩かねばならない。気持ちがなえる前に「これは修行なのだ」、と脳内を「修験道モード」に切り替えて山に分け入っていくと、やはり芭蕉と同行者の曾良のブロンズ像が「先に上がってきたよ」と言わんばかりに休んでいた。

ちなみに元々彼らはここに詣でる予定はなかった。「旅ナカ」で人々に勧められてやってきたところ、大当たりだったというわけだ。彼らは意図せず何か素晴らしいものに出会う才能に恵まれていたのだろう。

お目当ての五大堂まで八百段あまり。金刀比羅宮の本宮までより高い。独り黙々と、何も言わずにただただ石段を踏みしめていった。半分ほど歩くと、せみ塚があった。

閑さや 岩にしみいる 蝉の声 

言わずと知れた名句が、ここで詠まれたことを記念するものである。私はここまで来てはじめて、自らの理解が大いに誤りであったことに気づいた。まず、私はこの句の主人公は季語である蝉だと思っていた。しかし秋に訪れたもので、当然蝉は鳴いておらず、あるのは岩だけだった。また、蝉の声がしみいっていた「岩」のサイズを、私はなぜだか郷里の実家にある高さ2m、幅1m弱の庭石サイズだと思っていた。しかし「立石寺」という名に恥じず、山腹は巨石がにょきにょき「生えて」いるかのようである。

「不易」と「流行」の方程式

芭蕉が提唱した俳諧の、ひいては世界観、死生観のコンセプトに「不易と流行」というものがある。「不易」とは永遠にして普遍的なもの、「流行」とは移ろいやすくはかないものをさす。彼は句の中にこれらを込めた。深川で詠んだ「古池や蛙飛び込む水の音」も、古池=不易、蛙=流行である。この新しい俳諧の「公式」の有用性を試したのが「おくのほそ道」の旅であり、それが存分に発揮された場所が、この地だったのだ。

つまり、「俳諧=不易×流行」という公式に、不易=岩、流行=蝉を当てはめたのが、この句だったのだ。このセミの種類は分からないが、おそらく何年間も地中で幼虫として暮らし、生を受けたものの、最後の数週間を木にしがみついてミーン、ミンミンミンミ――ン・・・」という鳴き声を岩に受け止められて、はかなく死んでいく蝉。この蝉の声を受けとめきる岩は、永遠にして普遍的、すなわち何千万年前からここにあったかもしれないこの断崖絶壁の巨岩でなければならない。それは、この句の主人公は蝉だけではなく、その声を「しみいらせて」、音が途絶えた後の余韻まで感じさせる岩でもあることを意味している。

残りの半分をまたとぼとぼと惰性で登っていく。道すがら岩に石仏がところどころ彫ってある。ここは平安時代に慈覚大師円仁が開いた寺ということだ。比叡山延暦寺の最澄が果たすことのなかった天台密教を唐から日本に持ち込み、その波乱万丈の道のりを「入唐求法巡礼行記」にまとめた人物としても知られる。巨石に霊的なものを感じるのは仏教伝来以前の古神道的感覚であるが、平安時代に伝わった密教は、それ以前のものと異なり、山川草木それぞれに魂の存在を認める。山岳仏教に密教が多い所以ゆえんは、密教と古神道の相性の良さが挙げられるのだ。

ここは山城だったのか?グスクだったのか?

ふもとから45分ほど登りきると、空中に浮かぶお堂のように巨石のてっぺんに据えつけられた五大堂が見えてきた。そこに立つと、ふもとの狭い盆地や川が一望できる。ふと城郭マニアである自分のアンテナがピンと立った。

円仁さんがやってくる前、ここは山城だったのではないか?気になりだしてスマホで調べたが、出てこなかった。しかしここは切り立った岩に、ふもとを流れる川。これは天然の石垣と堀に囲まれた難攻不落の山城そのものに見える。そして、奈良時代以前の奥羽で山城に立て籠る人々というと、朝廷の圧迫を受けた蝦夷の民である。

ふと琉球の城ぐすくを思い出した。グスクとは単なる要塞ではなく、霊的な場所「御嶽うたき」や祭祀の場「拝所うがんじゅ」を取り囲むようにして要塞化したもので、そこには神々の霊力で守ってもらうという信仰がある。山寺の巨岩は、沖縄にあったなら最大級の御嶽に、立石寺も拝所になっていたに違いない。ここは蝦夷の民の中央政権に対する拠点だったと考えても不思議はあるまい。

芭蕉の蝦夷に対するまなざし

しかるに、芭蕉の蝦夷に対するまなざしは、時代の制約もあろうが冷たい。例えば、平泉を訪れた際のくだりで

「藤原泰衡たちの城跡は、衣が関を隔てて蝦夷側に対する防御線になっているようだ。(泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。)」

と書いている。芭蕉は奥州藤原氏を「同胞」、蝦夷を自分たちの領土に入り込む「敵」とみているが、実態は逆で、蝦夷の人々からすると奥州藤原氏をはじめとする中央集権こそが侵略者だったのだろう。

下山のおり、また巨石を見上げた。蝦夷の民の思いが心なしか感じられた。岩と蝉の声の新しい解釈が生まれた。「岩」とはこの地に長く住んできた先住民の蝦夷、「蝉」とは坂上田村麻呂を代表とする蝦夷を「平定」すべく送られた人、そしてそれらが交じり合って生まれたのが、後の「みちのく」「東北」意識ではなかろうか。

そんなことを考えながら石段を下っていくと、ふたたびふもとの芭蕉・曾良の銅像が現れた。この後も行く先々に芭蕉たちが先取りしていることを知りつつ、二人にしばしの別れを告げ、北に向かった。


https://ameblo.jp/guideshiken/entry-12621822138.html 【最上川を下る―おくのほそ道とつかず離れずでいく東北】 より

芭蕉は方言が分からない時どうしたか?

山形市の北部を最上川が流れる。流れに沿って車で30分ほど北に下ると、河北町につく。この一帯は江戸時代に紅花の栽培で栄えた地であるが、これは立石寺を開いた慈覚大師円仁が唐からもたらしたものであるという。この染料は川を下って酒田に送られ、そこから北前船に積み込まれ、日本中に流通した。

河北町には往時の繁栄を偲ばせる紅花の豪農の屋敷が「紅花資料館」として公開されており、豪壮という他はないほどの大きく落ち着いた家屋と蔵がずらりと並ぶ。

芭蕉は安宿に泊まる以外は地方のこうした豪農や豪商など、地域の有力者の家に泊めてもらい、句会を開くことで謝礼をもらう旅でもあった。ちなみに芭蕉が旅で大切にしたものはよい宿とよい草鞋という。特に宿は持病を持つ彼からすると旅の疲れをいやす最も大切なインフラであり、金銭的に恵まれなかったためこうした地方の有力者の邸宅に草鞋わらじを脱いだのだろう。そのうちの一人が尾花沢の清風の家である。こうした旅の結果、地方に俳諧が広まっていった。

ところで、山形県では幾度も大衆食堂で食事をし、しばしば地元の高齢者同士の会話を聞く機会があった。ズーズー弁を話す私ではあるが、時に全く聞き取れないことがあった。21世紀の現代でさえそうなのだから、芭蕉の時代はほぼ聞き取れなかったに違いない。しかし上方や江戸との交流のある豪農や豪商たちは、なまりながらも江戸言葉や上方言葉を第二言語として話していたようだ。そのような意味でも彼の旅は地域の顔役に支えられていた。

酒田の芸妓衆

最上川を下っていくと、芭蕉が「五月雨をあつめてはやし最上川」の句のインスピレーションを得たという遊覧船乗り場付近に着いた。しかし時間が遅く、船には乗れなかった。とはいえ、広い大きな鏡のように静かに広がる最上川と、それを左右に削り取るかのようにV字型の山なみをみるだけでも来た甲斐があった。

そして川の周りに山が見えなくなったところが米どころとして名高い庄内平野である。芭蕉の旅が1689年。その十数年前にここの米や紅花などを江戸や上方に運ぶために、伊勢商人河村瑞賢が東回り航路、西回り航路を開いたが、その東西の発着点がこの酒田だった。日本中の富が蓄えられたこの町は、いわゆる「東北の貧困」とは無縁に思えるほど、往時の面影が残っていた。例えば江戸時代から近代にかけて、この町で最大の豪商にして地主であったのが本間家で、現在も立派な邸宅や庭園が残っている。

「本間様には及びもないが せめてなりたや殿さまに」

という都々逸の文句に、その力が現れている。

また、市内の名所に「相馬楼」という料亭がある。酒田の、そして日本中の豪商たちが遊んだあろうこの建物は、まさに豪華絢爛で、壁は紅色、畳などは薄桃色だったりする遊び心が浮世離れしている。そこでは一人千円で京都から伝わった芸妓や舞妓さんの芸に興じることができ、芭蕉たちもみたであろう花柳界の残り香をかぐことができた。

芭蕉とランボー

市内から南に向かい、鶴岡市の湯野浜温泉に宿をとった。そこは「福宝館」という漁師の宿で、とれたての新鮮な魚介類が楽しめる。そして日本海に面したこの温泉宿のもう一つの自慢が最上階にある展望風呂だ。帳場で宿泊手続きを済ませたら、部屋にあがってまずひと風呂浴びに屋上に向かった。海に面しているだけあって、源泉をなめてみるとしょっぱいナトリウム泉だ。そこからちょうど日本海に沈む夕日が見えた。そこで芭蕉が庄内平野と最上川と日本海を見ながら詠んだ句を思い出した。

暑き日を海にいれたり最上川

すると、高校時代に覚えたランボーの「地獄の季節」という詩の一節が浮かんできた。フランス語の分からない私が翻訳ソフトとフィーリングで、七七五調の都々逸にしたパロディがこれである。

「あった!なにがじゃ?変わらぬものが!海にいれたる熱き陽じゃ。       (Elle est retrouvée. Quoi? - L'Éternité. C'est la mer allée Avec le soleil.)」

ランボーが永遠(L'Éternité)と見たものが、地中海に沈む夕日なら、芭蕉は最上川の冷たい水が日本海に入り、そこに真夏の太陽がジュっと音をたてて沈んでいくように感じた。そしてそこに「不易(変わらぬもの)」と「流行」の融合をみたのだろう。洋の東西は異なれども、沈む夕日に永遠を感じたのが興味深い。

 日本海の海の幸と出羽山脈の山の幸、そして芭蕉も旅先でほぼ毎日飲んだだろう酒をいただき、眠りについた。(続)


https://ameblo.jp/guideshiken/entry-12622018944.html 【鳥海山と象潟と満洲ー「おくのほそ道」とつかず離れずで行く東北⑥】 より

秋田県に芭蕉の木

翌朝、白砂青松の庄内砂丘を北上した。ここは芭蕉が訪れたころは一面の不毛の地だったが、本間家をはじめ砂防林として松の木などを植林したものだ。正面には出羽富士の異名をとる鳥海山が人間界を見下ろしているはずだが、曇っていてよく見えない。芭蕉らは雨に降られながら、とぼとぼと北を目指したはずだから、やはり鳥海山は見えなかったろう。

鳥海山を過ぎると、秋田県に入る。お目当ては芭蕉の旅で訪れた最北端、にかほ市象潟きさかたである。今は何の変哲もない町だが、芭蕉が訪れたころは、奥羽において「東の松島」に対して「西の象潟」と言われるほどの景勝地だったという。

芭蕉が訪れた蚶満寺かんまんじを参拝すると、境内には、亜熱帯植物の芭蕉の木が植えられていた。ここは秋田県だ。日本海の荒波と降雪に耐えてきたのが健気である。聞くと冬には毛布やビニールでくるんでやるとのこと。芭蕉の木を通して三百数十年前に一日だけ訪れた俳聖を想う気持ちが伝わってくる。

ところで彼がここを訪ねた理由は、ここは平安時代に能因法師が、鎌倉時代に西行法師が訪れたという歌枕だったからである。それに加えて松島を西湖や洞庭湖などにたとえたのと同じく、ここも「中国の古典の世界」のフィルターで見られていただろう。

傾城の美女、西施と象潟

境内から見る風景は一面の田んぼにこんもりとした丘があちこち点在するだけだが、実は1804年の大地震までこの丘は小島で、田畑は海だった。自然の力で変わってしまった目の前の光景に、芭蕉が見た風景を重ね合わせようとしたが、やはり無理があるほど変わりはてている。

芭蕉は「松島は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし」と、この奥羽の東西の絶景を比較している。そして詠んだ句が

象潟や雨に西施がねぶの花

である。西施とは中国の四大美女であるが、その美しさのために王への献上品として贈られた。やがて王は彼女におぼれ、国政をおろそかにして滅ぼされ、さらに「用無し」になれば殺されるという、まさに「佳人薄命」の数奇な運命をたどったのである。雨に濡れる象潟の光景で、合歓ねむの花の美しさに彼女を連想し、美しさがゆえに薄幸の人生を送った傾城けいせいの美女の思いを「うらむがごとし」とするあたりは、やはり漢詩の世界に生きる彼らしい。なかなか中国風に見えない風景を後にし、南に戻った。

鳥海山のふもとと満洲

鳥海山のふもとの遊佐ゆざ町で、国道沿いにある細道を登っていくと、丸い土饅頭のような儒教式の墓があった。カーナビには何の表示もないが、一般人の墓ではない。庄内が生んだ昭和の「有名人」、満洲国成立の中心的役割を果たした石原莞かん爾じの墓である。

山形県は長野県についで満洲に開拓団や開拓青少年義勇軍を送り出していた。その数合計17000人以上、実に全人口の1,6%にあたる。江戸時代の酒田の繁栄とは裏腹に、昭和のこの地の農村は疲弊しつくしていたのだ。

そして敗戦後も彼は鳥海山のふもとにアジアの諸民族がともに生活する理想郷として「西山農場」を開いた。国道から一本入ったところに、ひっそりと眠る彼の墓の周りには、「都市解体」「農工一体」「簡素生活」という彼のスローガンを彫りつけた石碑が立つ。ただ、東京裁判では戦犯にはならなかったといえ、「郷土の偉人」として顕彰するにはあまりに論争を呼ぶ人物である。大々的な観光名所にならないのもうなずける。

巨大な墓標、鳥海山

改めて霧に覆われた鳥海山を見上げた。そして針葉樹におおわれた山中のつづら折りを、車で登っていった。中腹の展望台から日本海を見た。やはり霧に覆われていて所々見えない。ただ、芭蕉はこの海に浮かんでいた島々に風光明媚な中国的世界を見出し、西施を夢見た。一方石原はこの海の向こうの中国・満州に、郷土の人々の活路を見出し、「五族協和」の「王道楽土」建設を夢見、そして夢破れてこの地で亡くなった。そのベクトルは真逆である。

象潟を最北端にして、芭蕉はこの日本海に面した北陸道をひたすら南下し続けた。上方に近づこうとしているからか、それまでのように話に抑揚は少なくなり、興奮すると漢文調になるあの癖も薄れてしまうのが興味深い。毎日海を見ながら歩くと、心境が変わっていったのだろうか。一方、海は対岸への想像力をかきたてるが、それが現実のものとなると大きな悲劇となることを、石原は身をもって示した。

下山後しばらくして振り返ると、雲の中にうっすらと鳥海山が顔を出していた。この一帯では死者の魂はまず鳥海山に行き、折に触れて人間界に戻ってくるという。いわば、地域の共同墓地の巨大な墓標ともいえる霊峰なのだ。そしてその墓標には海の向こうで亡くなった出羽の人々の名も刻んであるのだろうか、などと思いながら、南に向かってハンドルを握った。


https://ameblo.jp/guideshiken/entry-12622019595.html  【芭蕉の「かるみ」は時に薄情? ー「おくのほそ道」とつかず離れずでいく東北⑦】 より

芭蕉は薄情か

「おくのほそ道」は、越後から北陸道にはいると、何人かの人々との別れを除いては、クライマックスシーンが少なくなる。中高の国語の教科書にも、東北で詠んだ句はのっていても北陸は掲載されにくい。その中でも有名なのが越後の港町にして宿場町、出雲崎で詠まれたものである。

荒波や 佐渡によこたふ 天あまの河かわ

この句のもとになったといわれる出雲崎には、ふもとに芭蕉らの来訪を記念する芭蕉園があり、また丘の上から天気が良ければ佐渡島も見られるという。私は二度訪れたが、二度とも佐渡は島影らしきものが確認できる程度だった。

ところで、これは七夕の頃に詠んだことになっている。七夕と言えば織姫と彦星が年に一度会える日であるが、しかしその日のうちに別れが来てしまう。芭蕉にとっての北陸道の道は別れの連続だが、その先、国境くにざかいの市振いちぶりの関で、彼らは伊勢参りに行く新潟の遊女たちと一つ屋根の下に泊り、翌朝、連れて行ってほしいと泣きながら懇願する薄幸の彼女らに

「我々はあちこち回るところが多いので、同じ方角に行く人についていきなさい。神々がきっと守ってくださるから。(我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙なかるべし)」

と言って、去ってしまった。

「当分の間気の毒でならなかった(哀さしばらくやまざりけらし)」とはいうものの、これはあまりに薄情ではないか。とはいえ、これはフィクションではあるのだが。

遊女とは庇護者のない日本の庶民そのもの

ところで満洲に開拓団・義勇軍として送られた人々の都道府県別人口の一位は長野、二位は山形だが、三位争いをしていたのが12600人台の福島、熊本、そして新潟だった。今だからこそ米どころの新潟だが、戦前は新潟港から朝鮮経由で満洲に定期航路があり、食い扶持に困った人々は海を渡った。昔から「棄民」を政策として行わねばならない土地柄だったのだ。

すがるような思いで芭蕉に懇願し、「神仏のご加護」などと言われた新潟の遊女が、昔から今に至るまで誰からも守られない庶民のシンボルとして見えてならない。

女の二人旅で、この先どんなに心細いかしれない二人を置いておきながら「一家ひとつやに 遊女もねたり 萩と月」などと俳句を推敲している場合か?と思えてくる。芭蕉の来訪から一世紀後に活躍した出雲崎の僧侶、良寛さんだったら、遊女を助けていたのではなかろうか。

俳諧の解説者たちは、ここでおくのほそ道の後半で生まれたコンセプト「かるみ」について語る。「人生、辛いことの連続である。しかしそれで悲嘆にくれるよりも、一歩ひいて情けない自分をくすっと笑って受け流し、新たな一歩を踏み出そう、という人生哲学が『かるみ』である。」

ただ、自分の不幸に対して「かるみ」でやりすごすならともかく、人様の人生を「かるみ」で片づけられるのか?釈然としない思いで北陸道を南西に向かった。


https://ameblo.jp/guideshiken/entry-12622020330.html  【星野源のドラえもんと俳聖殿-「おくのほそ道」とつかず離れずでいく東北 最終回】 より

大垣で開花した遊び心「かるみ」

長かった芭蕉の旅も、いよいよ終盤にさしかかる。金沢では初めて会う地元の若き俳人に会いたいと思ったが、到着の前年にはすでに亡くなっていた。加賀の山中温泉では江戸からずっと一緒に歩いてきた曾良が病のため別行動になってしまった。別離の連続だ。

ゴールにして門人たちの多い美濃の大垣は、芭蕉関連では日本一立派な「奥の細道むすびの地記念館」がある。大垣の町は空襲で焼かれてしまった工業地帯で、昔ながらの面影を見つけるのは苦労するが、記念館内はシアターや各種資料、そして芭蕉の大きな葉がお辞儀をする庭園などで芭蕉の世界を体現している。

そしてこの町で旅の結びに詠んだ句が

蛤はまぐりのふたみにわかれ行秋ぞ

である。「おくのほそ道」の旅は終わっても、これから伊勢に向けて新たな旅が始まる。ハマグリが二つに分かれるというのは生木を裂くような痛みを感じさせる。一方で二身ふたみは夫婦めおと岩で知られる伊勢の二見ふたみが浦うらに通ずるしゃれである。また、ハマグリというと「その手は桑名の焼き蛤(その手は食わない)」というしゃれを想起させる。大垣から桑名までは十里(39㎞)たらず。身を引き裂かれるようなつらい別れのなかに、遊び心を取り入れたのだ。

新潟の遊女たちとの別れは、まだ遊び心あふれる「かるみ」ではない。しゃれでは済まされないのだ。涙をかみしめながらしたたかに憂き世を生きていく知恵としての「かるみ」が、試行錯誤の末開花したのが大垣だった。だからこの句で旅を締めくくったのだろう。

伊賀上野の俳聖殿と星野源のドラえもん

私のおくのほそ道の旅も、終盤を迎えた。これまでの旅は、2011年から2019年にかけ、6回に分けて初秋に行脚したものだ。芭蕉は大垣から伊勢に行き、その年の年末には故郷の伊賀上野に戻った。そこで私のとりあえずの結びとして伊賀上野を訪れた。締めくくりとして訪れたのが伊賀上野城公園にある俳聖殿である。ここは笠をかぶって蓑を身につけた芭蕉翁の旅姿を建築であらわすという、遊び心満点の建物である。そしてこれが完成したのが1942年、すなわち太平洋戦争中というのが驚きだ。軍事色一色になりつつあった当時、俳諧という軍事的には「何の役にも立たない」ことをした数百年前の男を、このように顕彰したことの意味は大きい。

芭蕉を巡る旅について回想しつつ原稿をかきながら、星野源さんの「ドラえもん」のテーマ曲を聴いていると、あるフレーズが気になった。

「少しだけ不思議な普段のお話 指先と机の間二次元 (中略)そこに四次元」

俳句というのは机の上の紙に筆で書いた二次元のもの。それはごく普段の生活の瞬間を切り取ったにすぎないのに、別世界のように見えてくる。そしてそれが読む人には時空を超えた四次元のものに思えてくる。芭蕉が平泉で紙に書きつけた「兵どもが夢の跡」は、12世紀末の奥州藤原氏を想って詠んだものだが、それは時空を超えて21世紀の私たちの心を揺さぶるではないか。

さらに「君が残したもの探し続けること 浮かぶ空想からまた未来が生まれる」というフレーズもあるが、これは能因法師や西行法師の跡をたどって奥州をまわった芭蕉が、単なる「聖地巡礼」ではなく、「不易と流行」「かるみ」といった新しいコンセプトを生み出したことを連想させ、そしてそんな芭蕉の跡をたどって同じ道を行脚しつつ、新しい何かを見つけようとする近現代の我々のことを指しているようにも思える。

私は四十代で断続的に芭蕉の跡を歩き、彼が見ることのできなかった近現代の事件―戊辰戦争や満洲開拓団、東日本大震災などの跡を見るにつけ、芭蕉の句や文を絶対視せず、つかず離れず接してきた。世に芭蕉の跡をたどった本は山ほどあるが、私はあえて不即不離を貫き、芭蕉というフィルターにこだわらず「今みえるもの」を大切にしたつもりだ。なぜなら芭蕉が見た世界も、漢詩や新古今集の時代ではなく、江戸時代という当時なりの「今」だったからだ。そんなことを考えていたら、ずんぐりむっくりの俳聖殿が巨大なドラえもんに思えてきた。

取手の家でこの文章を書きながら9年間の芭蕉の旅の断片が去来する。そして旅にとりつかれた私は、また最初から戻って「道祖神のまねきにあひ、とるものもとりあえず」旅に出るのだろう。私の芭蕉の旅は第二段階に入ったようだ。(了)