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『蕉門諸生全伝』(遠藤曰人稿)

2020.11.30 02:51

http://urawa0328.babymilk.jp/haijin/syoumonsyosei.html  【『蕉門諸生全伝』(遠藤曰人稿)】 より

文政年中(1818~1830)、『蕉門諸生全伝』(遠藤曰人稿)。

去來 向井平二郎亦向井次郎太夫藤原兼時、肥前産、父益壽軒玄勝老人未子、筑紫ニテ長トナル。元舛トモ云へり。向震軒元端ノ弟ナリ。兄玄仲、長崎聖堂祭酒也。魯町ノ兄、千子女ノ兄、洛陽聖護院ニツカウ。嵯峨のゝ宮の邊に大家ヲ借、落柿舎柿木四十本ト号ス。寶永元甲申九月十日、五十三歿、猿蓑 有磯海 砥浪山 渡リ鳥 花摘集選。湖東問答 四十七條導歌等選。

      落柿舎ノ制札

一 且我家の俳諧に遊ぶべし、世の理屈をいふべからず。

一 雑魚寐には心得有べし、大鼾をかくべからず。

一 朝夕かたく精進を思ふべし、魚鳥を忌には非。

一 速に灰吹を捨べし、煙草を嫌にはあらず。

一 隣の据膳を待べし、火の用心にはあらず。

   右條々

俳諧奉行 向去來

支考曰、去來きせるそうぢのくせ也。屋敷守與平朝夕食を送る也。

妾ノ名在命尼末ニ出ス、五條坂遊女ナリ。鎧ヲ賣リテウケ出ス丈草ガ状アリ、士朗随筆ニ出。去來存生中ニ落柿舎こぼつ句あり。今ハサガ山本村弘源寺の跡ニ、安永年中ニ重厚庵ヲ建テ舊跡ヲノコス也。

其角 幼名源助、榎本氏、榎下ハ母方ノ姓ナリト云。寶井氏、竹下東順嫡子、醫業、寶晋齊・狂而堂・寶晋子・善哉庵・文合庵・六病庵・螺舎・雷柱子・渉川、畫名ハ薯子ト云、武州人、江戸産、茅場丁ニ住ス。貞享年中照隆町ヘ移住ス。嵐雪ト同居セルモ此頃也。元禄ノ頃、芝神明町ヘ移住ス。本町甚左衛門丁にも居れり人別帳庚申ノ夜家守ト口論其所ヲ立ノク、諸道具自ラ負テ嘲リ呼ビ去ル、雪中庵ヘ宅替ス。日本橋鞘丁後ハ石町二丁目ナリ徂徠翁ノ隣ヘ移ス。其時朗吟、梅咲や隣は荻生惣右衛門ト云句、好文木ノ故事也。文ヲ會セヌ春ハ花不足ナリシトゾ。花文ニ徂徠ガ隣ユヘ我モ句者嘸梅喜ラント云心也半面美人、冠里公ヨリ給ハル点印也。門人此印ヲ盗ミ取テ其角ガ來ル時、胡麻和(アへ)物ノ中ニ入テ与ヘシム。其角腹アシク思ヒ、日蓮自作佛ヲ持佛堂ヨリ盗出シ、佛ノ首ニ繩クゝリツケ、厠二ツルシ歸リケルトゾ。其角寺ハ二本榎木日蓮宗上行寺也。曰人、三度行丸橋忠彌ガ石柱アリ、此寺泉岳寺ノ上山手也寶永四丁亥年二月二十九日卒曰人見ル石碑ニハ三十日トアリ四十七歳没。深川長慶寺ハ門人共建處也。儒ヲ寛齊先生二學、醫ハ草刈先生二、詩ハ佐玄龍、畫、英一蝶、仰見銀河底冠里公會中ノ會二有二金柑一無二銀柑一イカン答如下有二金國一無二銀國上其角選集、誰家、新山家、虚栗、同續栗、句兄弟、蠹集、いつを昔、焦尾琴、若葉合、三上吟、類柑子、枯尾花、うら若ば。

翁ニ句ノ風調惡シキトテ勘當受、不和トナル。明星やの句を吐て翁ゆるしゐふ。雑談集曰、翁切字を入てまぎらかし、案ぜぬ句をして世にはいかいと云、切字なくとも案じて工夫すれば句也ト也。

嵐雪 服部氏、幼名久馬助 久米助 井上相州公ニ仕頃ハ服部彦兵衛ト云。幼年ノ頃新庄駿河守殿ニ仕、後、井上河内守相州公ノ事カ殿ニ仕ウ。子有リ、梅松ト云、早世、俳名治助、今の名、嵐の庭の雪ならでの心也と。改名せんとすれど終始けり。雪中庵、不白軒、黄落庵、寒蓼堂、玄峯堂。妻ノ名を烈と云、嵐雪ノ反(カへシ)也トゾ。嵐雪ノ名ヲ愚サトテ改メタガリシガツヰナヲザリニ止シト世説曰淡州小榎並村村ニ出生ス。幼名久馬助、服部久米助トハ違ウナルベシ、湯島天神鳥井ニ彫リシトチガフ異名也江戸湯島ニ産トモ云ヘリ。妻、唐猫ヲ愛スアマリニ過タリ。妻ノ留守ニ盗ミ出シ、侘家猫ヲクレタル處ニ女房歸リ泣サケンデ呼、夫婦イサカヒ猫ノ爲ニ度々、隣家大笑トナリ、猫の妻いかなる君のうばひ行 嵐雪妻いさかひ笑れてよろこびを見よや初音の玉箒 嵐雪。嵐雪禪學二入喝多シ。雪片山山埋、什麼孤峯白、濟雲方丈ノ門下、關西行脚歸リニヨレリトゾ云云。略文ス。師云參眼イカン、答觀音境裏古松樹ト答。師曰、松無古今色作麼生ト無二古今色一的ノ一句、雪進テ云、春色無二高下一、花枝自短長、師云領之休去レ、雲拜シ參堂ヲ退去。四十六歳卒、寶永丁亥四年十月十三日駒込常檢寺ニ墓有リ。其角家ニ居候ニナリテ死スト云ヘリ、柳隣庵國甫ガ言シ。是大風流のなす處ナリ。夫でこそ嵐雪ナルベシ。今ハ雪中庵嵐雪が爲に富めるもの多し、大徳タリ。

沼津ニスミ六花庵ト云

東順 竹下氏、尾州之産也。元禄六癸酉年八月廿九日、七十二没、其角の父ナリ。東順妻妙務尼、貞享四年丁卯五十七才没、其角母也。始甚右衛門丁ニ居シ、人別帳今存ス、本町ニ在リ。今ハ新材木丁ガシ寶井五郎右衛門吉五郎ト云テソノ子孫アリ、道具商買ス。

丈草 内藤氏幼名林之助林右衛門、万治三庚子年誕生、兄弟八人、實母ハ丈草産ト死タリ。外ハ後妻の子七人也。九歳ノ秋犬山西谷ニテ出生儀右衛門トモ云トカヤ發句して笑はれにけりけふの月 熊野山先聖寺玉堂和尚ニ學ブ、黄檗宗也、無懐民一風ト名ク、又太忘軒ト別号アリ。蕉翁ノ深川ノ草庵エ初而文音ノ句 招けども届かぬ空や天津雁 廿五歳ノ秋八月五月、自ラ指ヲキツテ武門ヲ辭ス。甲子仲秋五烏訛自指截斷指頭截斷二指頭一大阿ノ劍。倶ニ低端的勢イ還テ瞞。血ハ流テ染出ス秋林ノ色。咲做空拳紅葉ノ看。身をかくす浮世の外はなけれどものがれしものは心なりけり。此眞蹟犬山杉下九郎兵衛所持○粟津野ゝ人□書ケリ。義仲寺ノ後龍が岡レウガヲカト大津ニテトナへタリニ庵室ヲ結ビ、佛幻庵、懶窩道人ト号ス。蕉翁遷化ノ後三年禁足、法華經ヲ石ニ書寫シ、寶永元年甲申二月廿四日没、年四十五、當主内藤官八郎弟ノ家ナリ代々知行百石、今文政五壬午迄百十九年。

右は成瀬侯臣尾州犬山、酒井佐四郎南窓(※「王」+「民」)古ニ、曰人直ニ聞ク。外ニ八人、荷兮・野水・杜國・越人鶯笠ニモキク、重五・露川・知足・史邦

荷兮 山本武右衛門、昌達ト号ス、法橋ニナル。橿木堂、こがらしの荷兮ト云ハルゝナリ。和歌にも物かの藏人、日頃の正廣、あくかれの兼與、白炭の忠知、さまざまあり。名古屋桑名町ニ住ス當代山本太市、なごや中丁ニ今ハ住ス。成瀬侯ヨリ松平冠山公ヘノ來書也。

野水 岡田佐治右衛門、高津翁ト号ナス、尾州ナゴヤ大和町備前佐次右衛門、野水彦孫岡田尚興ト云、今ニ存ス。

重五 同上材木丁、後ハ宮宿ニ閑居ス。川方屋嘉右衛門、加藤善右衛門、隱居シテ彌兵衛ト号ス。其子簔笠ハ越人ノ弟子トナル。

露川 同本町ナゴヤ傳馬丁下ル所藤原市郎右衛門、商家ニ生ル伊賀國伊賀郡鷹山村ノ産、法名月窓居士ト号ス。國府氏來書、成瀬氏來書

知足 平氏、尾張鳴海宿、千代倉、下郷金三郎、幼名金三郎、勘左衛門寂照軒ト号ス、叔皿庵、蝸亭、寶永元甲申年四月十三日卒、知足菴寂照湛然居士、五十回忌集ヲいらこ雲集ト云フ。松が根に千代をあやかるのぎく哉 知足母 ちどりがけ集、知足子蝶羅出ス、成瀬來書嫡子蝶羽、次郎太夫、習習軒順宗風和居士、寛保百石トナル。嵐竹下□部仝□郎ト云、嵐蘭ハ松崎文右衛門、井上侯ノ家長(イエヲサ)家老ナリ龍田天民翁の云也。嵐雪同家ヨリ出也 天民ハ俗名平馬ト云元禄六癸八月廿七日卒、四十六歳。翁悼桑の杖短命トアリ可考

史邦 尾張寺尾土佐守、醫中村春庵。

杜國 壷屋庄兵衛、名古屋伊勢丁、萬菊丸岩菊丸トモ云、貞亨五年の春、よしの山ニ翁と行時の名也。名主役をする時上より下ル金有を遣ひ込、知らぬ顔に子ニ譲、勘定立ず、罪死に極る。餝屋(墨消シ)なればそこばくの金銀也。律處評定ノ事にて評定あるに、汝が句なるよし、

   蓬莱や御國のかざり檜の木山

かゝる名句吐たる者死罪ならず、流罪被二仰付一と也。尾州篠島ニ流罪、三河渥美郡保見の里と云に來る。いらこ崎の邊也。

   梅椿早咲牡丹保見の里      翁

   眞筆ニハ早咲つぼむトアリ。

 中山ノ松原ニ墓アリ、一向宗、法名寂照居士ト号ス。

(曰人逢ヘリ子孫ノ詩也)

   窓聽春風心鴨時。  折來梅帶月光枝。

   草堂爲掃迎君處。  無恙年々對舊知。

         文化丁卯春日詠梅 天遊靜書ス。

桃隣 天野藤太夫。太白堂・呉竹軒、後ハ桃翁ト云。本土伊賀上野、翁古朋友也。神田ニ居ス。享保四己亥十二月九日八十二歿。浅草光明寺葬。

許六 森川五助、百仲、羽官、五老井、菊阿佛、近州亀城、井伊掃部侯武士也家老黄栴即心即佛、馬祖非心非佛、孟那觀李由・ブン(※「ブン」は、サンズイに「文」)村・木導ヲ友トス。正徳五年乙未八月二十五日六十歳卒。寶永ノ末風俗文選ヲ撰了。篇突・木團・うた法師・滑稽傳・祕蘊□傳著、一草字藤程已記アリ。二楊揮豆毛(※「ガン」=「糸」+「丸」)賦アリ。三雲花園ブン村銘アリ。四紫芝岡自讃、翁滅後遺愛の櫻樹モ伐テ肖像を彫刻、智月ニ送る文、十月十三日におくる。江戸赤坂勤番ノ長屋井伊侯ニ、許六が部屋ニシタル處、翁モ行通ヒ給ふ。芭蕉柱ト云有、秋の暮の句翁書付給ふ處あり、其柱今寶藏ニ秘しおくと也。此人の古事世の知處略ス。今ハ跡絶タルガ如クニシテ親類ニアヅカリ、扶持方ヲ被下莟ミヲチルトカヤ。

支考 野盤子・瑟々庵、ヨビニクキニテ獅子庵ト云、見龍・東花坊・西花坊・蓮二坊、美濃産也、中頃伊勢山田ニ住ス。橘ノ庶流也。是佛房ハ先師ノ閨号也。寶永辛卯八月十六日自終焉記ヲ作、四十六イニ七トモアリ。卒。雲鈴一人外門人無トナリ。長崎ニテ俳人共唐音ヲ用ルヲ囀リ、ちやうちんヲ給るべしと云しにより、各唐音ヲ止しと也。葛松原集曰、唐崎の松は花より朧にて 此句此坊主解せぬニより、花の字なからましかばと書けり。大たわけもの也。支考如きの下手の處ニ遊、幽艶自在妙所ニ遊、かれが如きの下手の膽ニ入べきや。花の字なくば、句ニ非、大ばかもの也。ゆへに支考が書たる俳書一冊も用ニ立ず、正風のはいかい、かれが如きの短才にて出るものならず、可笑可笑可笑。かれが集何レも愚痴にて大毒也。再び手ニとるべからず、後世翁の妙所世に傳はらず、志やすき下々段の俗俳のみ傳ふもかれが爲也。

利牛 池田氏、利兵衛此名しからず。江戸の人、炭俵。三井家支配人、二十四万石松平土佐守殿足經ト云ヘリ。

尚白 江左氏、名ハ三益、木翁、江州大津人、始不卜ノ門人也。享保七年七月十九日歿。七十三歳。奇絶作者、輕ミヲよくす。

野坡 志太氏、俗名彌助、淺生庵・樗木舎、儒学ニ達ス。越前商家ニ生レ江戸ニ居ス、三井番頭也ト云、老後西海日向ニテ死ス。箱崎ニテ野坡が塚ヲツクト云野翁ト云、老後先師ノ無名庵ヲ高津野二移ス。高津の翁ト号ス。元文五庚正月三日七十八歳。野坡句集アリ。翁ノ碑銘野坡文ナリ、出藍名人、はせを翁の連句第一ニテ此叟ノ上ニ立モノナシ。國甫云、淺生庵玄孫ハ、大坂うつぼ住百屋久兵衛、俳名八丘。

越人 佐分利勘左衛門、肥後熊本馬廻リ廣間番、佐分利流之槍術家也、別家也。細川越中守殿近習也。好色人ニテ吉原遊女ヲ請出シ、屋敷ニ置がたく改易せらる。羨し思切時の句あり。尾州從弟ノ知行所知多ト云處ニユカリヲモトメ行カクレ住ム。鳰のうき巣の句あり。尾張野水之輩不便也トテ、紺屋ノ株ヲ世話ヤキニテ、名古屋伊勢町杉ノ丁クワナ丁ナリト云處ニ菱屋重藏ト名ヲ改メ、染物ヲ以身過トス。サシタル咎ナラネバ槍ノ家ナレバ召かへされタリ。三年御暇ヲ延被下ト願、染物借貸ヲ片付歸國ス。越中ノ守ノ越ノ字ヲハゞカリ、越人ヲ改メ蕗碩ト改ム。三年ト云時ニ死ス。流長院ニ墓アリ、不猫蛇(※「虫」+「也」)集ヲアラハス。ナゴヤ入江丁本通西へ入寺ニハカアリ。成瀬來書、三家ノウチ、五百石・三百石・二百五十石越人ナリ。鶯笠談也。(晋風曰、此説大ニ誤レリ、越人は越智氏、佐分利氏ニ非ズ、又熊本ノ士ニ非ズ、北越ノ人、名古屋ニ於テ享保ノ末年歿セルナリ。鶯笠即チ鳳朗ノ誤リ傳ヘタルモノゝ如シ。)

涼兔 伊勢ノ山田神職ナリ、始、團友齋ト号ス。辭世 合點じや其曉の時鳥末期目を開き 一句カク(※「病ダレ」+「鬲」)ノ症を患テ死す。今迄ハ人の病ぞと思しにわが身の上にかくの仕合。姫路の寒鴻と云モノ所持ナリ。

乙州 江州大津の人、智月尼ノ子。弟後子トナル。父佐右衛門病死ノ後問屋役ヲうけつぐ也。孤峯來書。

凡兆 始ハ加生ト云、妻とめ女尼、後ニ羽紅ト云、いつを昔、次郎を夫の迎にやるとて我子ならともにはやらじ夜の雪 加州の産也醫師也。大やましものニ而、相手をもとめわるい事をしてあらはれ、米倉にてクビクゝリ、又洛ニ居、一事ニ罪セられテ終所ヲ不レ知、賀州罪アル人ニ親ミ其連累ヲウク。獄中ニ年を明して 猪の首のつよさよ梅の春 陽炎の身にもゆるさぬ虱かな。無レ咎事上天に通じ、ゆるされて獄中を出たり。世を淺ましと思、亡名し、行方知レズナリヌ。末ニハ大坂ニ住ス、越野阿圭ト改名ス。又すべてケ様ノ人翁禁じ給へり。伊藤信徳曰、翁曰、孝悌忠信より出たる風流、本旨本情のはいかい也トカヤ。曰人云、誠心動二鬼神一、天感じて枯田に雨を降らし給ふ。悪事を心にふくみ、はいかい斗よくしたりとも甚天にくみ給ふ。万人にくむ、後世猶にくむ、恐るべし恐るべし。杜國が罪ハかろし。罪ハバハン蘭名ぬけ船和名ト云ヘリ、士朗が方より申こしたり。

土芳 伊賀上野人、服部半左衛門保英、始ハ芦馬ト云、蓑虫庵ト号ス。後ニ些中庵ト改ム、享保十五年庚戌年正月十八日卒、長田庄西蓮寺ニ葬。國府來書

智月 智月尼ハ江州大津驛乙州が母也。佐左衛門妻ナリ、傳馬役也。生國山城宇佐の産、若年ノ頃何レノ御所ニカ御局ニ宮仕ス。歌路ト云ヘリ。哥治也。

曾良 河合氏、惣五郎ト云リ、宗悟トナル。信州諏訪ノ産、商家ナリ、今ニ家アリ、東武翁ト隣ル、薪水ヲ助ク。一人ノ老母在リ、劒術指南ス。門人方老母ヲ扶持して奥行脚ヲ頼と也。曰人云、此事ウタガハシキ事ナリ、信州ニ家今ニアリ。曾良ハ壹岐松本ニテ死ス、元禄寅年五月廿二日卒、又巳十月廿二日トモアリ。信州素檗より五月ナリト云ヲコセリ。曾良日記、若人スワ家來久保島久左衛門也持傳フ素檗が妻ハ曾良ノ家ヨリ來ル、素檗ヨリ翁の眞跡ヲ曰人ニ贈レリ。深川庵より二見形文臺、二見形硯箱、色紙廿枚曾良持來、方々へクレ、四枚ノコル、曾良碑松島へ曰人書テタテタル禮ニ一枚送ル、一枚近江ノ和翠ニ与フ。(晋風曰、曾良歿年誤レリ。寶永七年五月二十二日壹岐ニテ客死ス、享年六十二ナリ。)

沾圃 寶生太夫、京亂舞能ノ家也。馬(※草冠に下に「見」)ハ二男カ。嫡、俳名里圃、立圃ノ近親甥カ、孫ナリト云ヘリ。

卓袋 いが國いせや与兵衛、ゼゝノ町人。

正秀 伊勢屋孫右衛門 刀さす供も連レたし今朝の春 藏燒てさはる物なしけふの月

路通 始乞食、翁ノ爲ニ俳人トナリ、終大坂高さふ後家トナリ諸門人ニ絶交ス。翁、俳諧捨ズバ交ルベシトナリ。

北枝 翠臺、加州金澤之人也、新町源四郎、磨工(トギシ)ヲ業トス。畫ヲ能ス、牧童ガ弟也。酒肆如柳ト軒ヲナラブ。平生旦夕行通ヒテ酒呑、餘リニ酒呑、加賀ノ町家木綿ノレン一軒モナシ、莚ノレンノ地ナレバ其費ヲハブキ、女子婦人酒ヲ与事ヲ禁ジ、北枝來リテモ酒ヲ与ヘズ。北枝下女に向テ云、此家ニぬか味噌やある、我に与へよと云、下女曰、ぬかみそなしと云、なくば一盃飲べしと云り、家内おかしさにいふばかりなく、如柳モ感じて酒ヲ澤山夫より北枝に振舞しと也。火災池魚の變アリ、皆人知處也、略ス。二度めの火災に、氣性はいかんといはれて、もろともに硯も筆もすみとなる烟の中に一句いかん 牧童 もろともに硯も筆も炭となり其言の葉をかくものもなし 北枝 と答たり。さい槌の祝儀にならす水鶏哉 仝 鶯も笠きてあがれ小屋の中 仝 梅が香や先一番に燒見舞 牧童 發句ひらいにありく 髭白きからふ人得たり梅の花 塚ハ卯辰連舎寺中ニ立、北枝塚ト稱ス。

烏巣 三州吉田、加藤玄順、醫名也、鎌倉實記作者、良香散ノ店ノ人ナリ。

曲翠 始曲水、俗稱菅沼外記範義、江州膳所本田家臣、馬指堂、其妻破鏡尼、三千五百石側用人、享保四年巳九月廿日歿。曾我治右衛門ト云奸侫ノモノ、國家虐政ス、曲翠數條書立ヲ認、治右衛門ヲ己ガ家ニ呼ヨセ、ツメ腹ヲ切ラセ己モ自害ス、兩家斷絶ス、今ニ至テ至忠アラハレ、家ヲ取立起サント本田家探ニ跡ナシトゾ。(原文、此ノ一項ヲ、「コレハいせや孫右衛門正秀が事ナリ」、トアレド曰人ノ誤記ナラン。)

之道 大坂人、後諷竹ト号ス、道修町ドウシヨ伏見や久左衛門ト云、今ハさ藤や忠左衛門、跡カスカナリ。

如行 美濃産、近藤、武士ナリ。

不玉 伊藤氏、醫を業とす、潜淵庵、羽州酒田の人、葛松原を選ブ。

荊口 宮崎氏、濃州大垣ノ人、武士、此筋・千川・文鳥三子之父也、東宇ト改ム。

魯町 去來弟ナリ。

木因 美濃大垣、谷九兵衛。

白雪 不知 三州新城。太田氏金左衛門、三河小町集出ス。

原松 猩々庵ト号、其角高弟也、加藤氏、江戸ノ人、狂名烏鵲坊、又虎翼居士、京ニ住ス。

句空 加賀金城卯辰山住、柳陰軒ト云。

秋之坊 加賀金城名高大隱者也、我暦作れり聞べしト、正月四日万此世を去によしト口づさみ、うつむき死ス。驚云 いねつむと見せて失けり秋之坊 東李

一笑 加州金澤片町、茶屋新七、翁行脚三年先二死ス。塚も動け我泣聲は秋の風 翁

任口 城州伏見西岸寺三代住僧、寶譽ト号ス、任口ハ俳名ナリ。

猿雖 伊賀上野ノ人。意専ト号、延寶三年(イツハリカ)ヨリ東武ニカへルヲ惜、此所ニ集二大連一、内神屋惣七郎、六太夫、入道シテ意専、氏ハ窪田屋、西麓菴ト号ス、寶永元甲申十一月十日、卒、正宗寺ニ葬ル。國府來書

宇古 原田氏、俳名宇古、和州郡山ノ重臣也。少小ヨリ頴悟人ニ超タリ、常ニ城東觀音寺ヘ物學ニ通フ。畧ス杜國ト三吟有、火事ニ失たり。天明年中

梢風 伊賀國上野、梢風尼、小川風麥が娘也、同藩友田氏ヘ嫁ス。夫死シテ薙髪シテ此道ヲタシム、友田良品ガ妻也、萬福寺ニ葬ル。國府來書

如風 鳴海の人

安言 同所

風國 洛去來甥也、泊船集芭蕉クセンアラハス。

乙由 伊勢川崎生レ、家富、寶ヲ集メ、利ヲ見ニ事ヲ不レ知、慶徳圖書、伊勢山田ノ社司、性名ヲ變ジテ中川梅我ト云、乙由ト改ム。麥畑ニ庵ヲ卜テ麥林舎ト云、元文四己未八月十八日卒、世の知る所故事略ス。

園女 本土勢州山田、度會氏ノ女ナリ、依二法体ノ忌一韃風ニカミヲノコス。深川ニ住ス。菊の塵をあむ。靈岩寺念佛堂に墳アリ、風流ノ鉄肝石心ナリ、男女ノ情ヲ忘レ切タリ。大イナル籠ヲ作リテ是ヲかぶりて男子ニ見ゆ、邪淫フツトウケザラシムタシナミ也。伊勢ノ松坂ノ人、もと和歌ヲヨム、美津女ヲ師トス。岡西惟中浪花ニ移ル頃、行テ其妻ニナル。夫死シテ後、東武ニ下ル、眼料ヲ以テ身過トナス、世ノナリワイニ至テウトク、着タル袖ノ下ヲ切テ下駄ノ緒トナシ、張文庫ノフタヲ取、水ながしに用ゆ、世事に疎、天窓丸メ髪眞中に廿本ホド立のこしたり。十筋斗トアリ、唯一の恐たるべし。智鏡と改、冠里公安藤大和守殿也ノ母君ヘ仕ヘ、享保丙午十一年四月廿日、六十三歳死ス。林香院遊譽稱詠妙園信女 辭世 秋の月春の曙見し空は夢か現かなむあみだ佛 惟中ハ備前ノ人、始望一ニ學ビ一有ト云、後梅翁ニ從、元禄五年ニ歿、道祐、一時随筆ヲ叙ス、惟中ハ因州鳥取産トアリ、園女ハ繼室たるべし。身の捨られぬをくやみたるは後妻故也。(晋風曰、此ノ説誤レリ、誹諧家譜ニ辨ジ置きタリ。)

雲鈴 摩詰庵、佐渡國へ渡、入日記二巻出ス。四年正月十一日大坂出、北国行脚五月廿日餘り。

祇空 稲津氏、青流洞祇空居士ナリ、石霜庵、初敬雨ト云、信徳門人高弟ナリ。一日深川八幡に詣、末社末社順禮し侍る中ニ新敷一社有、祇敬靈神トアリ、稲妻宮トアリ、雷ヲ驚キタルニテ敬雨トツキタルナリ。

風麥 イガ上の 小川次郎太夫 國府

佛頂和尚 此和尚在世ハ天和・貞享頃也、奈須野雲岩寺、翁參釋の師也、播州盤渓禪師ト云、江戸ニ佛頂和尚ト云、天下竜虎ノ名知識也、何レモ風雅ヲ稱玉ヘリ。武城深川ニ禪刹アリテ、芭蕉菴モソコニ近シ、十論爲辨抄ニ出。

幻呼(吁) 鎌倉圓覺寺大巓和尚、俳名ヲ幻呼ト云、其角師トスル事新山家集に見エタリ。貞亨元年甲子正月死、翁卯月ノ頃尾張ノ國ニテ是ヲ聞テ卯の花拜ムの吟有リ。

露沾公 内藤對馬守ナリ。門人沾山・沾徳。

素堂 甲斐酒折産也、神職ノ人也。葛飾隱士、信章齊來雪、號山素堂、性巧俳句及詩歌而名品甚矣。享保元年八月十五日没。壽七十有五、法号廣山院秋巌素堂居士、碑面本所中ノ郷原町東聖寺松浦ヒゼン守隣ナリ