壱岐の人 曽良翁を語る ②
http://mtv17.ninpou.jp/iki2/soro2/harada.htm 【 壱岐の人 曽良翁を語る】
(七)曽良の句碑
曽良の句碑「春にわれ乞食やめても筑紫かな」は、能満寺の裏山にある曽良の墓地から西側約二百米余にある、高さ九十米余の勝本城趾の南側に建立されている。
芦辺町出身(在東京)の松阪直美氏の語るところに依れば、大正の末、民俗学者本山桂川氏が松永安左エ門氏から壱岐行きをすすめられ、離島の風俗伝説等を調査された折、郷ノ浦の白藻会の俳人の呼子無花果氏などの案内で各所を廻られ、勝本北斗句会原田謙蔵氏や湯ノ本湯ノ華会長長谷川竹亭(升七)外俳句同好の人達との交わりの中で句碑建立の話が起こり、書を本山桂川氏の先輩の塩谷鵜平氏に依頼して頂く事になったとの事である。
句碑は城石を組み立てて建立し、額の高百三十二糎、横百糎、高さ二百二十五糎、である。
本山氏と塩谷氏は同じ河東碧悟桐の門下にあり、本山氏は明治二十一年長崎市江戸町に生まれ、商業学校から早稲田大学の商科、途中政治経済科に転じたが在学中は民族学も研究された。
大正元年(1912)大学を卒業後は、郷里の長崎商業会議所に勤務、戦後、金石文化研究所を起こし、金石碑に関しての研究では、造詣が深く三十数冊の著述があり、又全国の拓本が数千に及ぶという。
城山公園の句碑を染筆された塩谷鵜平氏は名を熊蔵といい、明治十年(1877)五月岐阜県稲葉郡鏡色の生まれ、明治三十年東京専門学校(早大)政治経済科卒業、素封家で後、鏡島銀行頭取となった。俳句は子規についで、碧悟桐の新傾向運動に参加し、「海紅」の同人であり、また能書家であった。(昭和15年12月没) 当時壱岐の俳諧は仲々盛んで次の俳句会があった。
勝本町北斗句会
原田謙蔵、 篠崎清泉(清吉)、殿川高雲(重吉)、原田大耕(元右衛門)、
池内達磨(一)、長島霞舟(俊光)、石橋一石(尚)、下条竹葉(徳衛)
郷ノ浦白藻会
呼子無花果(丈太郎)、滝川雨九(敏)、山口草平(麻太郎)、目良歌比古(亀久)
湯の華会(湯ノ本)
長谷川竹亭(竹七)、長谷川竿月(栄)、今西直来子(与一郎)、横山幽谷(蔦吉)、長山古城(国光)
芦辺町土会
宮津葦水(隆)、西谷黙笑(洞林)、岩谷鈍牛(静夫)、中原雅清(雅千代)
曽良の句碑除幕式
句碑は昭和九年三月勝本町の北斗会・湯ノ華会、白藻会(郷)、土会(芦)、等郡内の俳句同好会が全国の有名俳人から色紙短冊の寄贈を受けたり、また特志を受けて資金とし、勝本浦坂口町の石工、川上仲一(箱崎村江角)が工事一切を請負い、塩谷鵜平氏の書を城石に刻して、地元青年会の奉仕の下、城山公園の南側の地に建設された。
昭和九年五月二十二日、曽良二百二十五回忌に当たり、次の方々の出席を得て除幕式が行われた。
郷ノ浦白藻会
呼子無花果(丈太郎)、山口草平(麻太郎)、目良歌比古(亀久)、山川鳴風(胤美)、
芦辺町 土 会
宮津葦水(隆)、岩谷鈍牛(静夫)
石田町 筒
山川白萩(女)
湯之本湯ノ華会
長谷川竹亭(竹七)、長谷川竿月(栄)、白川白峰(観世音住職)、横山幽谷(蔦吉)、長山古城(国光)、今西直来子(与一郎)
勝本町 北斗会
篠崎清泉(清吉)、殿川高雲(重吉)、長島霞舟(俊光)、原田大耕(元右衛門)、
石橋一石(尚)、斉藤北汀(貞雄)、池内達磨(一・ハジメ)、下条竹葉(徳衛)、
田中雅眼(判屋寅松)
他の参席者
吉野弘祐(聖母神社宮司)、中上良一(黒瀬青年会)、勝本税関長、桑田能満寺住職、川上仲一(石工)
長嶋ツル女(二代俊光の令閨。中藤家三女)が除幕をして後、長谷川竹亭の挨拶があって一同乾杯をして式を終えて記念写真を撮り、能満寺本堂に会場をうつして追悼俳句会を催し盛会のうちに散会した。
昭和九年二月本山桂川氏から曽良の句碑建立の発起者であった湯ノ華会長の長谷川竹亭(竹七)氏へ次の書簡が送られた。この書簡は遺言により能満寺に保管されている。
月日は百代の過客にして行きかふ年も亦旅人なり。
行く春や鳥啼き魚の目は泪
前途三千里の思い胸に抱き、遙かなる奥の細道の旅程に上った芭蕉翁が、杖と頼む同行の伴侶は、深川の草庵より従える曽良その人であった。曽良は日頃、芭蕉庵近くすまいして独居の師翁を慰め、薪水の労を助けていた。
君火をたけ よき物見せん雪まるげ
或る雪の夜、曽良に与えられた翁の句である。後に鹿島の月に随行したのも亦彼であった。
此度の曽良は、師翁が羈旅の困難をいたはらんものと、旅立つ暁、髪を剃って、黒染にさまをかへ、俗名惣五郎を改め、宗悟とは名乗っていた。
或いは黒髪山の霞に雪を仰ぎ、或いは青葉の奥に日光廟をおろがみ、或いは松島象潟の勝を探り、やがて羽越の国境をも踏み越え、日本海の波濤を聞いたのである。辛い苦しい四ケ月の旅を金沢まで来ると、遂に病に侵され、後事を北枝に託して暇を乞うた。
ゆきゆきて倒れ伏すとも萩の原
彼は哀別の一吟を師翁に奉り、淋しく膝下を離れなければならなかった。
『行くものの悲しみ、残るもののうらみ、隻鳧のわかれて、雲にまよふが如し』
と其時翁は記された。一日を距てて大聖寺城外金昌寺に来て見れば、其処には、前夜同じ寺に泊まった曽良が、再び師翁に残し置いた一句があった。
よもすがら秋風聞くや裏の山
既に別れては、又一夜のへだたりも、千里のへだたりに均しかった。
後年、あこがれの筑紫に下り、玄界を航し、縁あって壱州の地に淹留するに至った事蹟は、尚未だ詳かならざるものがあるにしても、秋風春雨二百二十有五年、彼が俳魂は、辰の島、若宮、名烏の島影と、旧蹟城山の松籟に執着多き事であろう。
今日しも、見よ、記念の句碑茲に成る。水も石も、木も土も、彼と共に甦きて、とこしへなる浦安き悦びに、かがやかしさを放っている。文華此上にいや深え、繁り増さむことを希う次第である。
潮の香に五月は島の照り映えて
昭和九年五月二十二日
葛飾の眞間のほとり 本山桂川寄す
湯の本 長谷川竹亭 殿
また能満寺に次の漢詩がある。
台北大学教授久保天随氏詩
寺蔵
能満寺即日
浪 花 湾 口二 蔟ムラガル。
石 壁 接ス二 沙 汀ニ一
水シム二 映 山 輝ノ 裏ウチ
教 吾ガ 雙 眼ヲ 青カラ一
河合曽良墓
桐 帽 琮 鞋 了ス 風 縁ヲ
蕉 翁 門 下 一 才 賢
誰 知ル 絶 島ニ 理ムルヲ二 骨ヲ一
春 露 秋 霜 二 百 年。
(八)曽良翁二百五十年忌
昭和三十四年五月二十二日は曽良翁二百五十年忌に当たり追善供養が勤修された。
当日は豪雨沛然たる中、壱岐支庁長谷口伝、勝本町長斉藤政平、壱岐郷土館長西川福雄の各氏を始め郡内の俳人七十余名能満寺本堂に参席された。当時の模様を記念誌『浪の音』誌上に「雨日記」として次のように記載されている。
雨 日 記
前日の二十一日に、第二会場の勝本小学校の講堂に、勝本の北斗会同人全員を主体として、郷ノ浦から西川郷土館長及び勝本町教育委員会事務局員等の方々で、全国有名俳人士から寄せられた、色紙短冊等の追悼句及び献句を中心に、郡内俳句並びに川柳を掲示、参考品も数十点展示し、さしも広い講堂を飾り尽くすことを得た。
当日の二十二日は、未明より雷鳴を伴う文字通りの土砂降りで、遠方よりの参会者の有無を気遣ったが、島内各地よりぞくぞくと、風雨を冒して七十名からの参会者があり、婦人も十数名見えていた。
第一会場でもある、能満寺本堂の式場で、定刻十時、撃析の音により一同着座し、山口社会教育主事の司会進行のもとに、能満寺住職を主座とし、神岳山寺住職並東光寺住職の補佐により、いとも荘厳に、曽良翁二百五十年忌の法要の読経がなされた。
勤修の後、曽良顕彰会長殿川重吉氏の故人に捧ぐるの祭文に続き、壱岐支庁長谷口伝氏が、文学面其他に多大の功績貢献された故人を讃える長文の追悼の辞の後、勝本町長代理の豊坂文雄氏が是又故人を賞揚し、年忌に際し当時を偲び断腸の感ある旨、身に沁みる追悼文を霊前に読み上げられ、其の後に富安風生氏、星野立子氏等、全国的俳人有志二十数氏よりの追悼句の朗詠にひきつづき、東京都よりの真辺儀十氏、並びに上京中の勝本町長斉藤政平氏よりの丁重懇切な弔電を読み上げ披露を終えた。
電文読み上げの後、中藤家当主外親族並に各種団体長及び参列者の順で焼香がなされた。
次に祭主の曽良顕彰会長殿川重吉氏が経過報告を兼ねての謝辞があって、本堂での式を閉じた。尚降りしきる風雨をついて墓参がなされた。寺から五十米の所に墓があり、墓地は良く手入れが行届いていた。能満寺住職の読経の後参拝者がかわるがわる焼香し、心からの翁の冥福を祈った。
二百五十年の永い年月の雨露に曝された苔の墓石は、鮮やかに喜びの色をたたえていた。
法要の式と、墓参を済まして、参拝者は三々五々、第二会場の勝本小学校の新校舎で、来賓共々に、折詰弁当、外に「春にわれ」の染抜きのフキンと、菓子が配られ、昼食後は講堂に掲示された全国よりの真筆の玉吟を見覧、多大の感銘を与えていた。
又、郡内俳句兼題「卯浪」と「新樹」並に川柳兼題「電話帳」と、「雨蛙」の互選に入り、披講もなされた。
その後、曽良翁に造詣の深い、山口麻太郎氏と、山川胤美氏の講演がなされ、有益多彩な、且又意義深い曽良忌の祭典は、晴間を見せ始めた午後四時三十分に散会となった。
法要式次第
一、開式の辞
二、読 経
三、祭 文 曽良顕彰会長
四、追 悼 文
追悼のことば 壱岐支庁長
追悼文 勝本町長
五、追悼句披露
六、弔電披露
七、焼 香
八、祭主挨拶 曽良顕彰会長
九、閉 式
十、墓参―第二会場勝本小学校講堂
追悼玉詠並に献句
二百五十冊 展覧
祭 文
本日茲に、郡内多数来賓各位の列席を得て、曽良顕彰会員一堂に集い、蕉門、河合曽良翁の二百五十年忌、追善供養の祭典を挙ぐるに当たりまして、うやうやしく追悼の誠を捧げます。
翁は、宝永七年初夏巡国使の随員として、巡検の途上、当地中藤家の一室に於いて、五月二十二日病の為、無念にも六十二歳を一期として、永眠の途につかれました。星霜の流れ、いとも早く、ここに二百五十年忌を迎えるに到り、感慨無量なるものがあります。
顧みますれば、元禄二年三月芭蕉に随行して、七ケ月に亘る奥州行脚の旅に出て、道々その専門的である神道学と地誌学の知識をもって、師の芭蕉の参考のためにと提供して、遂に文学史上不朽の名作といわれる「奥の細道」を世に送った蔭の功労者として、其の名声は、古今東西に高く、又神道学乃至は地誌学者としての高い教養を買われて、幕命による巡国使の随員に選ばれ、特に神社行政面の監察に大きな功績を残されました。其の人となりと、学問的の業績は大きく後の世まで評価されなければならないと信じます。
春にわれ乞食やめても筑紫かな
苔むす粗石に刻まれた「賢翁宗臣居士」の墓石は、数多遊子の旅愁を慰め、在りし日の面影を偲ばせます。
ここに、ささやかながら、翁の二百五十年の忌の行事を修するに際し、心から翁の御冥福を祈り、香り高い、その業績を讃え、遺徳を顕彰せんとする次第です。
招典の霊、こい願わくば微意を享けられんことを。
昭和三十四年五月二十二日
曽良顕彰会会長 殿川重吉
曽良翁の忌日五月二十二日には、毎年顕彰会員と郡内俳句同好者相集い、能満寺の本堂にて、平畑裏千家宗幸の供茶法要を営み、墓参の後、追悼俳句会を西川左生氏指導の下に開催、盛会の後散会している。現在の曽良顕彰会長は高田義敬氏である。
(九)後 記
勝本町文化財調査委員長 原田元右衛門
芭蕉翁のお伴をして「奥の細道」紀行に随行した曽良翁については、終焉の地である勝本浦で亡くなられている筈なのに、色々の説があるため、人々は、事の真偽がいづれであるかに迷っていられる事と思われる。
そのため地元の勝本町としても、この儘放置することはできないので、文化財調査委員の立場上、人々の参考に供すべきと思い、関係の資料を集め、曽良の一生について伝記を作成した。
曽良翁が亡くなられてから約二百七十年、宿舎であった中藤家も其の間二度の火災に会われたりして家財を失われ、又朝鮮へ移住される等して、そのため曽良翁関係の資料が失われたと思われてならない。
お墓は勝本と諏訪との二ケ所にあるが、諏訪の方は、勝本のお墓をまねて建てられているのである。
私は後日又筆をあらためて、曽良翁外伝を書き、皆様方の関心に答えたいと思っている。この書が皆様方の参考になれば幸いである。
昭和五十八年十月一日