損傷人体愛好家の末路
人の数だけ性癖がある。
それはそうだろう、これだけ多種多様な人間がいるのだから根幹を成す嗜好が同一であるはずがない。
アルバートにだってウィリアムにだって、性癖という下品な表現はせずともある一定の好みは存在するのだろう。
美しい容姿と気高い魂と優しい精神に引けを取らない、さぞ崇高な好みを二人は持っているはずだ。
今ここで欲望を露わにしながらルイスの肌に触れようとしている男とは訳が違う。
「綺麗な肌だな、ルイス」
近くで感じる荒い息遣いは吐き気がするほど気持ち悪いけれど表情には一切乗せず、ルイスは余裕めいて艶やかに微笑んだ。
目の前にいるこの男は、ルイスが持つ右頬の火傷跡に大層御執心の侯爵様である。
損傷人体愛好家という忌むべき裏の顔を持つ貴族がいるという噂は、夜会に参加していれば嫌でもモリアーティ家の耳に届いた。
醜いものを嫌い、美しいものを好むはずの優雅な上流階級の人間。
けれどそれが全てではなく、一部に限り表には出せない歪んだ嗜好を持つ人間がいた。
命を持たない姿に唆られる人間もいれば欠損した四肢に高揚感を覚える人間もいて、白い肌に浮かぶ赤黒い痣や生々しい傷跡に興奮する人間もいる。
内に秘めているだけならば、到底理解し得ないその嗜好を否定するつもりはない。
だが己の欲望に周囲を巻き込んでいるとなれば話は別だ。
とある町では身体に障がいを持った人間ばかりが行方不明となり、突然の事故に巻き込まれて四肢を失くした人間が数ヶ月後に姿を消すという現象が、ここ数年のうちに十七件も報告が上がっていた。
そのいずれも原因不明、ヤードによる調査は何らかの圧力ゆえか途中で打ち切られている。
とある依頼人の話を機に、年に二件以上のペースで生じる怪事件を噂に聞いたウィリアム達が独自で調査を進めていたところ、一人の貴族に行き渡ったのだ。
特権階級の中でも上位の爵位を持つ、マイルズベリー侯爵たるチャーリィ・グランシス。
彼が管理している領地である町の一つが、件の町であった。
「ここ八年もの間で年に二件、男女の区別なく体の一部が欠損した人間が行方不明になっている。これは明らかに異常事態だろう」
「それなのにろくな調査もされずに打ち切りとは怪しさしかねぇな」
「同感だな。明らかにヤードの権力が及ばない人物による圧を感じる」
数名分しか印刷されていない報告書をひと目見て全てを記憶したモリアーティ家の同志は、懐疑と嫌悪を滲ませた表情で屋敷の地下に集合していた。
アルバートから回された書類を目にしたモランとジャックははっきりした確信を抱きながら、それでも確信を突いた言葉を口にすることはない。
そんな中でアルバートだけが、その美貌にはっきりした苛立ちを乗せていた。
「行方不明になった人間はそれぞれ腕、足、眼球、耳介…はっきりと見て取れる部位の欠損があったようです」
「視認上は身体に問題のない人間でも行方不明の報告はあがっていますが、対象を調べてみると内臓の一部に機能不全があり、手術により摘出した過去を持っています」
「つまり、衣服からは見えない部分に傷があったってことだね」
ルイスから渡された書類を目にしたボンドはフレッドの言葉に的確な解釈を返す。
この情報を調べ上げたのは間違いなくフレッドで、文書としてまとめ上げたのはルイスの手腕なのだろう。
二人は用意されたそれに目を通すことはせず、静かにその場へ存在していた。
「そして、その手術費を全て工面した人間こそが町を管理しているマイルズベリー侯爵、という訳か」
書類を手にしたウィリアムは紅い瞳を怪しく光らせて文字を追う。
その言葉に返事をした者はいなかったが、誰もが同意を返していた。
「黒だろうな。ワシがロックウェル卿の屋敷で働いていたときも、侯爵には黒い噂が絶えなかった」
「どんな噂だ?」
「滴る血に興味はないかと、主人に問うていた」
「真っ黒じゃねぇか」
吐き捨てるようにモランが返事をすれば、ジャックはそれを咎めることもせず静かに頷いた。
幸いロックウェル伯爵はそのような罪深い行為に興味はなく、けれども自らより爵位が上である人間に歯向かうこともせず上手く受け流していた。
全くあの人間性に関しては恐れ入る。
アルバートでさえ手玉に取ってしまうような人間なのだから、それも当然のことではあるのだが。
「一番最近の行方不明者であるジル・フロストの両親が今回の依頼人です。彼女は半年前に不慮の事故で右肘から下を失くし自宅で療養していたのですが、先週から原因不明で姿を消しています」
「好奇の目で見られることを嫌い、滅多に家から出ないはずの娘が自主的にいなくなるはずがないと、彼女の母親は言っていました」
内容を全て暗記しているフレッドとルイスが報告をあげ、現時点での意識を共有する。
フレッドが出会ったときの依頼人はただでさえ大きな不幸に憔悴仕切っていたというのに、追い討ちをかけるように愛娘が行方不明となった現実に膝から崩れ落ちてしまった。
犯人について思い当たる節はない、というわけではなかった。
町では数年前から身体を損傷した人間ばかりが行方不明になっているのだから、不慮の事故や長く患っていた体を治すための手術費を全て工面してくれるという侯爵に疑惑を抱く町民も多かったのだ。
けれど一労働者階級の家庭が膨大な手術費を用意出来るはずもなく、タイミング良く現れた侯爵の使いが申し出た甘言に乗らないという選択肢は存在しなかった。
警戒に警戒を重ねていたというのに、ある日突然娘がいなくなってしまったのだと泣き崩れる父と母を見たフレッドは怒りで拳を握りしめる。
そうして綿密に調査を進めた結果が、今報告にあげている内容だった。
「状況証拠は申し分ない。けれど、侯爵という身分だけあって屋敷の警備が厳重で決定的証拠はない、という訳だね」
「…力及ばず、申し訳ありません」
フレッドは己の不甲斐なさを嘆いているが、この場にいる誰もが彼の力量を認めている。
彼が成し得なかったということは、他の誰がやっても難しい案件ということだ。
ウィリアムはフレッドを労うように微笑みかけ、次の瞬間にはまたも瞳を鋭くさせて目の前の同志達を見た。
穏やかでありながらはっきりした意思を感じさせる強い緋色だ。
「ここは一つ、侯爵自らボロを出してもらうとしようか」
「と、すると…?」
「危ない橋も一度は渡らないとね」
ルイスの言葉に美しい笑みを見せ、ウィリアムはアルバートに視線をやる。
このフレッドが調査に難航するのであれば、敵の要塞は広大な屋敷内に存在していることと同義だ。
常に人の目があり、常に十分な警備があり、常に潤沢な武器を備えておくことが出来る場所。
つまり侯爵の住まう邸宅こそが証拠の塊なのだろう。
その証拠をこの目に焼き付け、依頼人の娘を解放し、悪魔に粛清を下すことが今回の計画の概要である。
そのためにはまず警戒心の強い侯爵の油断を誘うため、貴族としての階級を利用する必要があった。
ウィリアムは事前にアルバートへ依頼していた案件について確認しようとしたが、当の彼は会議が始まってからずっと苛立ちを滲ませ隠そうともしていない。
いつも余裕めいて不敵な笑みを浮かべる彼らしくないと、ウィリアム含め他の全員がそう感じている最中にアルバートは重々しく口を開く。
「…以前招待されていた夜会を断ってしまったときの謝罪をしたいと申し出たところ、快く屋敷の招待を受けた。日時は週末の午後六時、侯爵邸で晩餐がてら数名の貴族を招いて会談をしようという誘いだ」
「都合が良いじゃねぇか。行方不明のジルって娘の安否も気になるしな」
「あぁ、我々にとって好都合であることは間違いない。ただ、招待状に記載された文面に気になる箇所がある」
「招待状の文面に?」
苛立つアルバートの言葉に臆することなく、ルイスはその懐から差し出された一通の封書をウィリアムへと届ける。
けれど戸惑わずにはいられないようで、アルバートの様子を伺いながらウィリアムの元に足を運んでいた。
どうしたのだろうかと弟二人の気持ちが一致したの束の間、ウィリアムは目を通したその招待状の文字を理解した途端に整った眉をすぐさま上げた。
「…ウィリアム兄さん?どうされましたか?」
「…あぁ、いや……なるほど。これは確かに不自然なまでに怪しいですね」
「だろう?どうしようか、ウィル」
「そうですね…」
アルバート同様に苛立ちを滲ませたウィリアムに、ルイスは思わず目を見開いた。
あのアルバートを苛立たせる文面は、あのウィリアムすらも苛立たせている。
この二人の冷静さを同時に欠くなど滅多な内容では有り得ないだろう。
一体何が書かれているのだろうかと興味本位でルイスはその文書に視線を落とそうとするが、ウィリアムによってそれは拒否されてしまった。
顔を上げて彼を見れば、ウィリアムは複雑な表情でルイスを見ている。
「何が書かれているのですか?」
「…"来る週末の午後六時、我が邸内でお待ちしております。つきましては当主たるアルバート様だけでなく、御兄弟たるルイス様もお連れくださいますよう、重ね重ねお願い申し上げます"…だそうだよ」
ウィリアムの声で読み上げられたその文面に、ルイス以外の人間が総じて目を見開いてはルイスを見ている。
その視線の先には滑らかな白い肌に存在する生々しいまでの火傷の跡。
健常者では決して持ち得ない醜い傷跡、損傷した皮膚だった。
「…なーるほどね。四肢欠損かつ損傷痕に興味があるんなら、ルイス君の火傷の跡に興味を持たないわけがないってことか」
「ましてルイスは若く美しい。この書類を見るに性差はなくとも、最低限の容姿を持ち得た人間が狙われているのは間違いないだろうな」
「つまり、侯爵様はルイスを次のターゲットにしているってことか?」
ボンドにジャック、モランの言葉でようやく理解が追い付いたのか、ルイスは彼ら三人に目を向ける。
忌み嫌われるはずのこの火傷の跡に興味を持つ貴族は今までにも確かにいた。
けれどそれは醜いルイスを嘲笑う人間ばかりで、少なくともこの傷を好意的もしくは性的倒錯の象徴として見る人間に出会ったことはない。
損傷人体愛好家とはまた理解に容易い表現である。
世の中には色々な嗜好を持つ人間がいるものだと、ルイスは他人事のように現状及び顔も知らぬ侯爵からの興味を受け入れていた。
「次のターゲットにしているかどうかは分からない。だが以前社交会で侯爵と話したとき、ルイスが過去に心臓を患っていたのは事実かどうかを確認されたことがある」
「それは本当ですか?アルバート兄さん」
「あぁ。何故そんなことを聞くのか疑問に思っていたからよく覚えている。思えば、侯爵はあの頃からルイスに目を付けていたのだろうな」
「なるほど…」
ルイスは交わされる兄達の会話を表情なく聞いている。
なるほど、損傷した人体を愛するのであれば、目立つ顔の傷に加えて胸の中央に位置する手術痕を持つルイスに興味を抱くのは当然だろう。
ならばとても都合が良いと、ルイスはそう考えた。
二人が苛立つ理由は彼らが心優しい兄であるからこそ、狙われているらしい己の身を案じているからだということは想像が付く。
最愛の兄が自分を思う気持ちはとても嬉しい。
ウィリアムもアルバートも、ルイスがルイスだからこそ慈しんで愛してくれているのだとよく伝わってくる。
侯爵はきっと、醜いこの傷跡がなければルイスに興味も抱かないのだろう。
己の欲を満たすために他の誰かを蹂躙するその思考には反吐が出るほど穢らわしい。
ウィリアムはきっと彼を許さないし、依頼人の女性を救うためにも全力を尽くすはずだ。
そうであるならば自分という存在はきっと使えると、ルイスは次に出るであろう話題に予想を付けた。
「では、その会談にルイスさんが行ってしまっては危ないのではないでしょうか?」
「そうだね。万一のことを考えて、ルイスには屋敷で待機してもらおうか」
「だがルイスの代わりはどうする?目当ての人間がいないとなれば、侯爵もボロを出すとは思えないが」
「僕がルイスに変装していきます。フレッド、ボンド、協力を頼むよ。ルイスもそれで良いね?」
「お断りします」
兄の間で進められる会話に対し、ルイスは毅然として拒否を言い放った。
予想通りのその言葉、ルイスが知るウィリアムらしい言葉だと思ったけれど、だからこそ受け入れる訳にはいかないのだ。
ブレることのない芯の通ったルイスの声はウィリアムとアルバートを圧倒しては驚かせる。
「侯爵の狙いが僕であるのならば都合が良い。ウィリアム兄さんの手を煩わせるまでもありません」
「ルイス。相手は数年にも渡って何人もの人間を弄んできたような輩だ。何があるか分からないし、万一のことがあっては困るだろう?」
「では尚更僕の代わりを兄さんに任せるわけにはいきません」
「ルイス、ウィリアムでなければ良いというわけではないことは分かっているね?」
「兄様、僕だってお二人同様に先生から教えを頂いた身です。そこらの人間にみっともなくやられるような鍛え方はしていません」
「だが…」
「僕の実力が心配であるならば今ここで、先生と一戦交えてみせましょうか」
「ほう」
ルイスは腕に隠し持っていた小型ナイフを手に取り、一直線上に急所を隠した姿勢でそばに立つジャックへと切先を向けた。
ここでアルバートを相手にするのではなく師を相手に選ぶところがルイスたる所以だろうが、そこに疑問を持つ人間は誰もいない。
ウィリアムとアルバートに反論するルイスという図はとても珍しく、ましてルイスとジャックの戦闘などこの先も滅多に見る機会はないだろう。
モラン達は愉快そうに表情を変え、ジャックは好戦的な教え子を前に口元へ深く皺を刻み顎を引いてルイスを見た。
アルバートとウィリアムには一歩及ばないが、それでもそのポテンシャルと底知れない気迫は二人に引けを取らない。
元より有能で優れた人材なのだから、出会った頃よりも修練を重ねたであろう今のルイスはさぞ手応えがあるのだろう。
ジャックは不敵な笑みを浮かべては一回りも二回りも年若いモリアーティ家の末弟を見定めた。
暗く赤い瞳に見える気品はウィリアムとよく似ていて、崩さない余裕の姿勢はアルバートとよく似ている。
「面白い。久々に稽古を付けてやろうか、ルイス坊ちゃんや」
「稽古で済ませるつもりはありません」
「は…言うな、ルイスめ」
肌を刺すようなオーラは衰えることを知らないらしい。
けれど経験の差がルイスを萎縮させることはないようで、かざしたナイフ越しに見えるジャックから視線を外すことはしなかった。
「ルイス、ナイフをしまって」
「はい、兄さん」
「…ふ。またの機会じゃな、ルイス」
ウィリアムは師と弟の緊迫感あるやりとりに言葉一つで水を差す。
ジャックはいささか残念そうに、ルイスは気にすることもなくナイフを衣服の下に隠してからウィリアムを見た。
「…ルイス。君は僕に、君を囮に使うプランを立てろと言いたいのかい?」
「兄さんなら問題なく出来るでしょう?」
「そうだね、僕の感情を抜きにすれば支障なく出来てしまうだろう」
「では話は早いですね」
ルイスは大きな瞳を兄のように鋭く光らせ、己の責務を全うするため凛としてウィリアムと対峙する。
その表情に固まった意思を感じてしまい、ウィリアムは堪えきれない息を吐いては思考を巡らせた。
今までに行方不明になった人間が一人も発見出来ていないとなると、攫われた人達は皆例外なく死んでいるのだろう。
先週行方不明になったという娘の生死も安心は出来ないし、そうであるならば一刻も早く侯爵邸へと乗り込み彼女を探し出さなければならない。
そのためには今週末に侯爵邸で催される晩餐への参加が不可欠だ。
招待された立場なら怪しまれることなく屋敷の中を探ることが出来る。
しかも侯爵の目当てがルイスであるならば、ルイス自身を囮にして確固たる証拠を掴むことも容易だろう。
ただ一つ、ルイス一人の身に危険が迫るということを除けば、実にスマートな計画を用意することも可能である。
理解したくもない嗜好だが、傷に特別な性癖を持つ人間が欲の対象を目にしたときの反応など容易に想像が付く。
ゆえに心配なのはルイスの身の安全一択だった。
怪我一つでも許せはしないし、その心に亀裂を入れることも有り得ない。
ましてや性欲の対象にされるなど以ての外だ。
ルイスはウィリアムのためにも、いついかなるときでも無垢なままでいなければならないのだから。
ウィリアムは閉じていた瞳を開き、あらゆるパターンを想定して出した結果を淡々と告げた。
「ルイス一人に対する危険が大きい。誰かの犠牲の上に成り立つ計画は、僕が得意とすることではないね」
「…っ兄さん!僕では力不足ということですか?」
「そうは言っていないよ。ルイスの実力はこの僕が一番よく知っている」
「では…!」
「現状では行方不明になった人達がどんな目に遭っているのか、それに関する情報があまりにも少ない。君だけに任せるには不確定要素が大きいんだよ」
「ですが、今まさに行方が分からない女性をいつまでもこのままにはしておけないでしょう。下手を打つ真似はしません。何があろうと必ず兄さんのお役に立ってみせます」
「……」
「ルイス、自分の身を犠牲にするような真似は私も好ましく思えないな」
「…ちゃんと、自分の身を優先します」
ウィリアムの計画のためならば自分の身などどうなっても構わない。
そんな気持ちを全面に出すルイスを咎めるようにアルバートは口を出した。
口では否定しているけれど、ルイスの性分を変えることは不可能だろう。
どこまでいってもルイスはウィリアムのためならば自分の身など二の次以下で、その危うさこそがウィリアムが懸念する不安材料の一つだった。
アルバートとて最愛の弟の身に危険があるとなれば安心出来ない。
ただの傷であればまだ良いが、損傷した人体に興味を持つ人間の前にルイスを出すなどあらゆる意味で不安しかないのだから。
だが現状はルイスの存在を活用し、侯爵の気を引いて証拠を掴むことが最善のようにも思える。
さてウィリアムはどう出るだろうかと、アルバートのみならず他の人間もウィリアムの姿を注視していた。
「…アルバート兄さんとルイスは侯爵邸での晩餐に参加。先生は二人の付き添いとして、フレッドとボンドは事前に屋敷の使用人として潜入を頼む。僕とモランは屋敷近くで待機しています」
「兄さん」
「ルイス、君は絶対に一人で行動することのないように。常にアルバート兄さん、もしくは先生の目の届く範囲にいるんだ」
「分かりました!」
ルイスの熱意に押し切られたのは明らかで、けれどウィリアムがルイスの代わりを担うよりもスムーズな計画であることも明らかだった。
弟を危険にさらしたくないというのは所詮ウィリアムのエゴに過ぎなくて、同様の感情を持つアルバートでさえもそれは理解している。
だがルイスを連れていけば侯爵の興味と油断を誘えることは事実なのだから、今はエゴを捨ててルイスの力量を信じる他に方法はなかった。
ウィリアムはアルバートと静かにコンタクトを交わし、ルイスの身に一切の危険がないよう願いを一つにする。
そうしてジャックを見て、彼に教えをもらった自分達の実力を過信せずとも信じることにした。
来る週末、午後三時。
計画の要にもなるルイスはいかに侯爵の興味を引けるか考えた結果、色香を振り撒く夜会でのアルバートを参考にしたらしい。
アルバートが愛用するヘアワックスを借りて髪をまとめ、普段は隠されている右頬を露わにするよう前髪の大半を耳にかけている。
細く垂れた髪束の隙間から透明感ある赤い瞳と爛れた皮膚が見えていて、普段のルイスであれば絶対に見せないその姿はウィリアムとアルバートの心から落ち着きを失わせた。
日頃どれだけウィリアムが懇願しようと髪を上げることはせず、一貫してその整った顔を隠しているというのに、今日この日に限ってはルイス自らその顔を見せつけているのだ。
侯爵を釣るための計らいだということは理解しているが、全く持って納得いかないというのがウィリアム及びアルバートの言い分である。
一方のルイスは何か言いたげな圧を感じる二人に疑問を覚えつつも支度を整え、眼鏡はどうしようかと僅かに思案した結果、今日ばかりは置いていくことに決めた。
今日の晩餐にウィリアムはいないし、それならば他の貴族に顔を晒しても支障はないだろう。
どうせ養子であることは知れているのだし、特別な理由がない限りはルイスに興味を持つ貴族などいないはずだ。
ならば標的である侯爵の興味をより引くためにも顔、特に右頬は晒した方が良い。
彼の裏の名前が正しいのなら、アルバートのような笑みを浮かべて誘えばきっと釣られてくれるに違いない。
ルイスはウィリアムの期待に応えるため静かに深呼吸をして、先に用意を終えていたジャックの元へと足を運んだ。
「お待たせしました、先生。皆さんは応接室ですか?」
「あぁ、もう皆用意は出来ている」
「分かりました。行きましょう」
「あぁ。ルイス、お前いつもと雰囲気が違うな。それも計画のうちか?」
「はい。確実に侯爵を釣るため、損傷に興味があるのならば存分に見てもらおうと思いまして」
「なるほどな。…それで、アルバートとウィリアムは不機嫌になっているというわけか」
「不機嫌?兄様と兄さんがですか?」
確かに朝からよく分からない圧を感じてはいたが、不機嫌だっただろうかとルイスは考える。
物言いたげな視線はあれど実際に何かを言われてはいないし、様子はおかしかったけれどいつもの二人だったように思う。
そもそも不機嫌なウィリアムとアルバートを、ルイスはあまり見た覚えがないのだ。
非道かつ残虐な悪魔の存在を知ったときの二人の機嫌は良くないけれど、精々がその程度しか見覚えがない。
ルイスはジャックを見上げて怪訝な顔をしつつ応接室へと急ぐ。
そこには確かに全員が支度を済ませてルイスを待っていた。
待たせてしまった無礼を詫びながらルイスが彼らへと近寄れば、先程ジャックが言っていたように兄達の機嫌はあまり宜しくないことが分かる。
どうしたのだろうかと首を傾げるルイスの顔にかかる細い髪束と、その向こうに見える綺麗な顔にウィリアムは物言いたげに唇を動かしたけれど、何を言うこともない。
それはアルバートも同様で、モランだけが普段と変わらず煙草を燻らせていた。
「…お待たせして、すみません」
とりあえずもう一度謝ることにして、ルイスはウィリアムとアルバートを見た。
不機嫌というよりも拗ねているような、そんな印象を受けるのは気のせいだろうか。
二人らしくない印象を抱く自分に違和感を覚えたルイスは手持ち無沙汰な様子で己の髪に触れた。
いつもより開けた視界には慣れないけれど、その分彼らの顔がよく見えるのが違和感の原因かも知れない。
普段は隠しているはずの傷跡を晒しているこの髪型が気に入らないのだろうか。
侯爵を誘うためにはこれが最も効果的だとルイスは考えているが、それが二人の機嫌を損ねているのであれば、せめて今からでも眼鏡をかけた方が良いのかもしれない。
そう考えたルイスが行動を起こすよりもウィリアムが動き出す方が早かった。
「ルイス、こちらを向いて」
「はい?…兄さん?」
「兄さんからヘアワックスを借りたんだろう?よく似合っているよ」
ルイスは何にも遮られることのない視界でウィリアムの顔を見て、優しく微笑む表情を目に収める。
同様にウィリアムも、最近は滅多に見ることの出来なくなった何にも遮られることのない弟の顔を目に焼き付ける。
本当なら今も昔も、最愛の弟の顔をそのまま見られるはずだった。
けれどルイスが顔を焼いたことも髪を伸ばして眼鏡をかけるという判断も、間違いなくウィリアムにとって必要なものだ。
嘆きたい気持ちはあるけれど、ルイスの考えは痛いほどに理解しているのだからどうすることも出来ないことを知っている。
だから渋々我慢していたというのに、異常な嗜好を持つ悪魔のおかげでまた以前のルイスに近い姿が見られるとは皮肉なことだ。
どれだけ願っても叶わなかったのに、ウィリアムの計画のためであるならばルイスはいとも簡単にその素顔を晒してしまう。
嬉しいような悔しいような、どこか納得いかない気持ちはあるけれど、いつまでも嘆いていても仕方がない。
ウィリアムはルイスが持つふわりとした髪に指を通し、そのまま歪な感触がする右頬を撫でて笑みを深めた。
「…ありがとう、ございます」
ウィリアムの手で頬にかかる髪を耳に上げられ、ルイスはようやくどこか心許ないこの髪型に自信が持てた。
少なくとも今のウィリアムからは偽りの感情は見えてこないし、機嫌が悪い理由は傷跡を見せていることとは別にあることが分かったのだからそれで十分だ。
ルイスは最愛たるこの人のため、しかと覚悟を決めている。
アルバートに忠告されたようにちゃんと自分の身を守るつもりもある。
絶対に兄の計画に泥を塗るまいと、ルイスはウィリアムに似たその美貌にアルバート譲りの艶やかな笑みを浮かべてみせた。
そうして約束の時間に侯爵邸へと足を踏み入れたアルバートとルイス、そしてジャックは絢爛豪華なパーティ会場へごく自然に溶け込んでいた。
外ではウィリアムとモランが愛用の武器を片手に馬車で待機しており、ふと気配を探れば使用人に扮したフレッドとボンドがいる。
煌びやかな装飾品と高級感あふれる衣服で着飾ったたくさんの貴族。
さて目当てのマイルズベリー侯爵とは一体どの人物なのだろうかとルイスが静かに神経を研ぎ澄ませていると、迷うことなく三人に近寄る足音が聞こえてきた。
だがルイスもアルバートもそちらに顔を向けることなくフレッドからグラスを受け取り、乾杯用のシャンパンを注がれる。
次のタイミングではジャックが二人の後ろに下がり、恭しく腰を曲げたかと思えば歓喜に満ちた声がアルバートとルイスの耳に届いた。
「これはこれはモリアーティ伯爵!ようこそおいでくださった!」
「お久しぶりです、マイルズベリー侯爵。先日はせっかくのお誘いを申し訳ありませんでした」
「いや気にしなくて良い、今宵会えたことで全ては帳消しだ。最近どうかね?景気のいい話はあるかい?」
「おかげさまで公私ともに順調ですよ、侯爵」
「それは何より!」
大きく破顔して笑う豪胆な姿はイメージ出来る侯爵らしくないのかもしれないが、ルイスはそれを気にしない。
アルバートの一歩後ろに控えて視線を合わせることもせず、ただひたすらに標的の顔から体の隅々までを記憶した。
白髪混じりの髪は豊かで、背は高いが恰幅が良いせいで体型はさほど良くないようだ。
深く刻まれた皺は好々爺を思わせるけれどその瞳は澱んで見えて、あの濁った色にアルバートが映っているのかと思うとルイスの気分は悪くなる。
けれど彼がアルバートに興味を持っていたのも一瞬のことで、すぐさまその瞳にはルイスの姿が映し出されていた。
髪の毛から靴の先に至るまで、まるでルイスを品定めをするかのように熱心に視線が動いたかと思えば、上下していた瞳はある一点で動きを止める。
変わらず視線が合うことはない。
けれども己の右頬だけを見られていることに気付いたルイスは、あの噂が噂ではなく事実なのだとこの瞬間に確信した。
「モリアーティ伯爵、彼が弟君ですかな?」
「えぇ。紹介しましょう、我が弟のルイスです。私に代わり、屋敷に関しては彼に一任しております」
「初めまして、マイルズベリー侯爵。ルイス・ジェームズ・モリアーティです。今宵はこのような素敵な場に招待いただき、誠にありがとうございます」
「いやいや、とんでもない。実にお会いしたかったですぞ、ルイス殿」
前のめりになってルイスの手を取る侯爵の視線は決してルイスと合うことはなく、ただひたすらに露わになった傷跡へと向かっている。
気持ちが悪いけれどそれを表に出すことはせず、ルイスはにこやかに侯爵と会話を交わしていた。
当たり障りなく、けれども侯爵の意に反することのないよう計算された話術はアルバートとウィリアムを見て覚えたものなのだろう。
対人関係がさほど得意でないはずのルイスの成長ぶりにジャックは感嘆するが、アルバートはそうではなかったらしい。
「アルバート様、それから手を離しては如何かな」
「あぁ、すまない。つい」
小さく忠告されたその言葉に、アルバートはようやく自分が隠し持っていたナイフに手をやっていることに気が付いた。
ほとんど無意識だったらしい。
想像していた以上に露骨かつ馴れ馴れしい侯爵を見て、無意識に殺意が湧いてしまっていたようだ。
事前調査から既に真っ黒い存在だったけれど、ルイスに対するこの様子から見ても間違いなく彼が事件の犯人だろう。
もはや白である部分がどこにも感じられないほどである。
手を握りながらジロジロと舐め回すようにルイスを見る侯爵の顔は常軌を逸していて、今にもルイスに無体を強いる気配を感じ取れてしまう。
衆人環視の空間であり彼が侯爵という立場である以上、今この場でルイスに無礼を働くような真似はしないはずだ。
けれど何かあった場合には躊躇なく始末してやろうかと、アルバートは隠しているナイフにまたも指をかける。
そんな当主を見たジャックは静かにフレッドへと目配せをし、それを合図に彼はボンドとともに馬車で待機しているウィリアムとモランに現況を報告するため会場を離れていった。
「それではルイス殿、また後ほどゆっくり話しましょう。他への挨拶回りを終えたらまた来ますゆえ」
「いえ侯爵、わざわざ足を運んでいただくまでもありません。頃合いを見計らって私の方からお声をかけます」
「それは助かります。お待ちしておりますぞ、ルイス殿」
「えぇ、是非」
首を傾げて艶やかな笑みを浮かべるルイスの頬には計算されたように淡い金髪がかかっており、赤黒く変色した皮膚と合わせて魅惑的に美しい。
その姿に生唾を飲んだ侯爵は名残惜しげにルイスの手を離し、招待客への挨拶に向かっていった。
ルイスはその姿が人混みに紛れて見えなくなるまでしかと見送り、見えなくなった途端に笑んでいた瞳に光を無くして表情を消す。
あれは間違いなく、欠陥品たる人体を好んでいる。
そうでなければこれほどまでに傷跡にだけ執着するはずもなく、衣服に隠れているはずの胸元を注視するはずもない。
自分が慰み者のような役割を担うとは思わなかったけれど、それで誰かを救えるのであれば十分だ。
ルイスは喉に燻る嫌悪をシャンパンとともに飲み下してからアルバートを振り返った。
「兄様、間違いないかと思います」
「あぁ、見ているだけでもよく伝わった。ルイス、これを」
「ありがとうございます」
二人はジャックのように小声で話すのではなく、あくまでもごく普通の声量で抽象的な言葉を交わす。
そうして手渡されたアルバートのチーフを受け取り、ルイスは侯爵に触れられた手の穢れを払うように拭っていった。
アルバートの私物をあんな男のもので汚すのは気が引けるけれど、自分のものよりアルバートの気配が残るチーフを用いる方がルイスの気分は幾らか楽だ。
厚意に甘え私物で手を拭う弟を見て、アルバートは少しだけ気分が晴れる心地がした。
「フレッドが会場を出て行ったから、ウィリアム達も直に来るだろう。ルイス、お前は…」
「分かっています、兄様」
「油断はしませぬように、ルイス様」
「はい」
侯爵が黒であれば間違いなくルイス個人に接触してくるはずだ。
パーティ会場を抜け出して彼個人の私室、すぐにルイスに手を出すのであれば行方不明事件の核になるだろう場所へ連れ出すに違いない。
ゆえにルイスは侯爵の油断を誘うため、自ら彼に声をかけるつもりだった。
勿論その背後にはアルバートもしくはジャックが控えた状態である。
そうした上で物的証拠を抑えられれば万歳、可能であれば今夜中に彼本人を裁くまでに至りたいところだ。
自分の働き次第で全ての動向が決まるのだと、ルイスは身を引き締める思いで静かに呼吸しては緊張を和らげる意味でアルバートを見上げていた。
油断はしていなかったはずだ。
ルイスはウィリアムの指示もあったからこそアルバートかジャックと共に行動しており、晩餐で出されるものは給仕に扮したフレッドかボンドから渡されたもの以外は口にしないつもりだった。
けれどタイミングを見て侯爵に声をかけたルイスには、彼から上質なワインだと勧められたグラスを当たり障りなく断る理由が思い浮かばなかったのだ。
澱んだ瞳を見ればこのグラスに何らかの薬物が混入されていることは明白だった。
けれどそれを伯爵家に拾われた養子の末弟が断るのは不自然である。
飲んだふりをしてやり過ごそうにも侯爵は出会ったばかりのルイスに大層御執心のようで、しかとその唇に赤が通り過ぎるのを待ち望んでいた。
「お味はどうですかな?」
「これはとても美味ですね、侯爵。当家にも置いておきたい逸品です」
「お口にあったのなら幸い」
危ない橋も一度は渡らなければならないと、ウィリアムは言っていた。
ならばその橋はウィリアムではなく自分が渡ってみせようと、ルイスは自ら侯爵の罠に飛び込んでしまった。
すぐ近くにいるアルバートとジャックの気配に雑念が混ざったが一瞬のことで、二人はすぐに平静を装いルイスを見ている。
さほど味に違和感がなく、飲んだ直後にも異変がないということは毒の類ではないのだろう。
損傷した人体に興味があるのならば毒で殺されることはないというウィリアムの読みは当たっていたらしい。
だが麻痺や感覚を奪う薬品である可能性は否定出来ないから絶対にフレッドかボンド以外から手渡されたもの以外は飲み食いしないように、という言いつけは守れなかったなと、ルイスがそう考えた瞬間から記憶は途切れてしまった。
「お目覚めかな、ルイス殿」
「…侯爵。これは一体、どういうことでしょうか」
ワインを飲んだ直後、ルイスは間違いなく意識を保っていた。
アルバートとジャックの気配も感じていたし、二人がすぐ近くにいたことも間違いない。
けれどそうしてしばらく侯爵と会話を交わしてからの記憶がなかった。
落ちていた意識を浮上させて周りを見渡せば薄暗い中で妙に刺激の強い薬品臭が漂っており、更に目を凝らせば狙っていた標的たる侯爵がルイスを見下ろしている。
侯爵との身長差は大してなかったはずだが、ルイスが床に転がされているのであれば話は別だ。
今のルイスは床に寝そべったまま両手首は背後で拘束されていて、片足は壁近くにある一本の柱に繋がれていた。
ろくな灯りもなく薄暗い倉庫らしき空間。
景観に見合ったこの場所にそのポールが何のためにあるのかなど、今繋がれている足を見れば容易に分かることだった。
「…損傷した人体に興味があるというのは、事実だったんですか?」
「おや、お前のような養子にまで私の崇高なる趣味は知れ渡っていたのかな?モリアーティ伯爵に漏らした覚えはないんだが…全く、口の軽い貴族が多くて困ったものだね」
足を動かせば直接素肌に金属が触れる感覚がして、暗がりの中であろうと靴もソックスも剥ぎ取られて冷たい足枷が直に巻き付いていることがよく分かる。
大方、今まで攫ってきた人間は皆ここで彼から責苦を受けていたのだろう。
逃げようと足を動かせば錆びついた鎖で足が傷付き、それを見てはまた悦んでいたに違いない。
両腕を繋いでいるのは手錠ではなくただの縄のようだが、粗い編み込みで作られた太いそれは、もがけばもがくほどに擦れて薄い皮膚が裂けていく造りのはずだ。
悪趣味なことだとルイスが堪えきれずに舌を打てば、侯爵は気にすることなくルイスの右頬に触れては恍惚とした息を吐き付けた。
「風の噂で聞いていた…君はその昔、大きな火事で右頬に消えない火傷をその顔に負っているとね。一度お目にかかりたかったのだが、君は夜会にも中々現れることがなかったからな…今宵こうして君と相見えたこと、伯爵に感謝せねばならないね」
「では私の方から兄様にお伝え申しておきましょう。開放してくださいますか?」
「はっはっはっ」
何を馬鹿なことを言っているんだ。
そう言って馬鹿みたいに高笑いする侯爵を見上げ、ルイスは呆れたように息を吐き捨てて視線を逸らす。
何とか姿勢を立て直して座位を保ち、ようやく夜目が効いてきたと自覚する頃には部屋の様子も粗方把握することが出来た。
薄暗い石造りのこの空間、窓がないのだから恐らく会場近くに存在する地下なのだろう。
扉は侯爵の背後、小さなランプ一つしかないこの空間に明かりすら漏れていないことを考えれば通路すらも薄暗いままだ。
悪趣味なこいつに似合いの場所だとルイスが思った瞬間、扉のすぐ近くに大きな塊があることに気が付いた。
口の閉じられていない袋からは人の腕、らしきものが見えている。
それだけではない、左右の壁を覆うように存在している棚にある保存瓶の中身。
ここに充満する異臭の正体だとようやく気付いたが、あれはホルムアルデヒドの水溶液で間違いないだろう。
遺体の防腐処理を施す際に使われる人体に有害な化学薬品だ。
ルイスは目の前の光景からとある可能性に行きついて、忌々しげに目の前の男を睨みつけた。
「…向こうにいるのは誰ですか?周りにあるホルマリンは、一体何に使うおつもりですか?」
「あぁすまない、つい昨日まで愉しんでいたからまだ処理を終えていなかったんだ。痛む前に処理しなければならないな…お前で楽しんだ後、ゆっくりまとめて処理してあげるとしようか」
「愉しむ…?」
「あぁ。それにしても、孤児だったはずのお前がこの薬品について知っているとは随分博識だな?伯爵、もしくは数学教授として名を馳せている次男坊のおかげかい?」
侯爵は聞いておきながらさして興味もなさそうに扉近くに置いていた袋から二本の棒を取り出した。
片方は人の左腕、もう片方はそれよりも短いけれど、おそらくは人の腕。
愛おしげにそれらへ頬擦りした侯爵は猟奇的な瞳でルイスを見据え、歪な皮膚で再生されているその右頬に視線を固定する。
その瞳があまりにも気持ちが悪く、ルイスは今この瞬間初めて彼に恐怖を感じてしまった。
「…な、にを…」
「学のない養子にも分かりやすく教えてやろうか。私はな、お前のような美しく醜い人間を愛している。美しい肉体に在る醜い傷にこそ堪らない愛おしさを感じている。だからこそ、美しく醜いまま手元に置いておきたいのだよ」
「て、もと…?」
「そのためのホルマリンだ。右肘のない美しい娘は、バラしてホルマリンに付けることで美しく醜いその腕だけを私のそばに置いておける」
侯爵は己が気に入った部分だけを手元に置いておくことに快楽を見出しているのだ。
何が彼をそこまで歪ませてしまったのかは分からないが、その猟奇的な趣味を実現させてしまうに至る階級を持ち合わせていることが被害者にとって最大の不幸だった。
侯爵はルイスの傷を気に入っている。
その言葉が事実ならば、ルイスは顔だけを侯爵のそばに置かれるということなのだろう。
彼が持つその腕は救出しようとしていたジル・フロストのものだと判明したこと、彼の狙いが自分の傷だけであることを実感したルイスは思わず腕を捩らせるが、太い縄が手首に傷を作るだけだった。
染みる痛みに目元を歪ませるが、それすらも侯爵には快感だったらしい。
ジルの腕を袋に戻してからルイスの元に足を進め、美しい顔に残る醜い傷に恍惚とした表情を浮かべた。
「会いたかったよ、ルイス」
「……」
同じ人間がする行為とは思えない悪魔の所業に怖気が立つほどの恐怖を抱くが、だからこそルイスが今この場にいるのだ。
依頼人の娘は助けられなかったけれど、今後また他の誰かが犠牲になることをウィリアムはきっと望まない。
ウィリアムが悲しむことを、ルイスは絶対に許せない。
彼のため、そして彼が立てた計画に泥を塗らないためにも、ルイスはこの場をどうにかして切り抜けなければならないのだ。
想像していたよりもおぞましい趣味ではあったが、それでも想定の範囲内である。
ルイスは一呼吸置いてから最愛の兄を二人思い浮かべ、彼らのためにも自分が今ここで侯爵を仕留めるのだと改めて覚悟を決めて美しく微笑んだ。
「侯爵」
暗がりでも分かるほど美しく微笑んだルイスは艶やかな声で彼を呼ぶ。
頬を見せつけるように首を傾げ、誘うように甘く唇を震わせれば侯爵の息は興奮したように荒くなる。
下手に抵抗するのは得策ではない。
だが、あまり調子に乗らせても彼の別名を思わせる所業で傷が増えるだけだろう。
まずはその首、人体の急所における最も無防備なその首筋を狙える位置まで近寄らせることが先決だ。
幸いにも袖の裾に隠し持っていた小型ナイフは回収されていなかった。
侯爵という立場ゆえの厳重な警備体制にあぐらをかいていた分だけ詰めが甘い人間に、ルイスはそう簡単に嬲られるわけにはいかないのだ。
無防備な様子で自分を見つめるルイスを、侯爵は生唾を飲んで見つめながら自らのタイを緩めていった。
「…綺麗な肌だな、ルイス」
「あまり、褒められたことはないのですが…」
「とても綺麗だよ、とてもね」
もう少し、もう少しだけ近付いて来い。
今までのやり取りの最中に素早く手首を拘束する縄を切ったルイスは、右手にナイフを仕込みながら侯爵との距離を測る。
恥じらいを意識してわざと視線を逸らし、気配だけでその様子を探っていると思いがけず足音が止まった。
確実に仕留めるためにはもう少し近くに来てほしいのだが、一体どうしたというのだろうか。
ルイスは赤い瞳に侯爵を映すために視線を動かすと、彼は距離を保ったままルイスが着ていたシャツを左右に引きちぎった。
「え、」
「あぁこれが過去に手術をしたという痕か。心臓の手術痕か」
「な、にを…!」
「なるほど、古い傷ではあるがとても美しいな。なぁルイス」
飛んだボタンが遠くで音を立てて落ちる音を聞いてから、ルイスはようやく自分が侯爵が好むであろう損傷を二つ持っていたことを思い出した。
だから自分が狙われているのだと理解していたし、会場までは覚えていたはずだが、元よりもう完治した心臓なのだから鏡で見ない限りは思い出すこともしない。
それが仇になっていたようで、侯爵はルイスの真っ白い肌に浮かぶ手術痕を愉悦に満ちた表情で見つめていた。
「っ、ちぃ!」
「なっ、!」
何故片足だけが柱に繋がれているのか、今唐突に理解した。
足を開けなければこの男が満足出来ないからなのだ。
大層下卑た悪趣味だと、もう何度考えたか分からない感想を思い描きながら、ルイスは隠し持っていた小型ナイフを振りかざして頬から顎下までを切りつけた。
始めは首を真横から抉ってやろうと考えていたけれど距離が足りず、かといって更に近付くまでを待つ余裕はなかった。
露わになった胸元にひやりとした空気が触れ、薄い腹が冷気で震える心地がする。
「そんなものを持っていたのかお前!た、ただの養子の分際で、侯爵たる私に傷を付けて良いと思っているのか!?」
「失礼。損傷した部位を好むのであれば、あなた自身がそうなれば良いかと思い行動しました。お気に召しませんでしたか?」
「…舐めやがって、この下民が!どうせお前の兄も私と同じだろうに!」
「…どういう意味です?」
「お前を拾ったまま置いている二人の兄も、私と同じ傷物が好きなんだろう!だから養子のお前をそばに置いている、違うか!?ははっ、お前もさぞ幸せだろうな!それしか生きる価値がないのだから!」
侯爵は切り裂かれた顔に手を当て、今しがた自分に傷を付けたルイスの足が鎖で繋がれているのを良いことに後ずさっては嘲笑する。
腰を抜かして尚尊大に言い放つ姿は滑稽極まりなかったけれど、それを笑う余裕はルイスにもなかった。
自由になった腕を伸ばして立ち上がり、破かれたシャツを合わせて侯爵を見る。
嫌なことを言う。
何も知らない貴族が見れば、孤児であったルイスを弟と認めるアルバートとウィリアムの評価はそうなってしまうのだろうか。
事実は違うのだと理解しているけれど、だからといってアルバートとウィリアムに妙な噂が付いて回るのを否定することも出来ない。
心から敬愛する兄達が悪く思われることを、ルイスは受け入れることが出来ないのだ。
無礼なことを言ってのけるこの男、今すぐ始末してしまおうかとルイスが彼を見た瞬間、これ以上は近付けまいというだけの距離を取った侯爵は棚に置かれていた瓶の中で最も小さな物を手に取った。
「よくも私に傷を付けたな…その美しくも醜い傷、私の手で更に増やしてくれる!」
そう言って劇薬が入った瓶をルイスに投げつけようとした侯爵の手を止めたのは、この場にいないはずの存在だった。
「こんばんは、マイルズベリー侯爵」
よく通る声は落ち着いていて、穏やかさ以外を感じさせないのに恐怖を覚える音だった。
「なっ…なんだお前は!どうしてここにいる!?」
「私はウィリアムと申します。あなたが御執心であるルイスの兄ですよ」
「兄…!?貴様、モリアーティ家の次男か!?」
「おやご存知でしたか。それは光栄なことですね」
「に、兄さん」
後ろに控えている誰かが十分な明かりを持っているようで、離れた位置にいるルイスからもウィリアムの表情がよく見えた。
とても綺麗でとても憤怒に満ちているそれは、ルイスでさえもぞくりと背筋が震えてしまうのだから、向けられた侯爵の恐怖はよほどのものだろう。
「ところで、私の弟が侯爵に何か致しましたか…?随分な姿であちらにいるようですが…」
「こっ、これは…!」
「おや、この怪我はどうされました?とても痛そうだ」
「っ、あやつに付けられたのだ!それより、ここへはどうやって来た!?警備の者は何をしている!?」
「失礼ながら眠らせてきました。あと数時間は目が覚めないでしょう」
ふふ、よくお似合いですね。
そう言って侯爵の傷を見るウィリアムの瞳は怒りに満ちていて、彼の腕を握る手に力を込めた。
骨が軋んだような音を立てるそこからも怒りが感じ取れるようで、ルイスは思わず手に持っていたナイフを握りしめて合わせていたシャツへ縋るように指を動かす。
ウィリアムはこの状況をとても怒っている。
その理由が自分にあることなど、もはや考えるまでもないとルイスは僅かに後悔していた。
あれだけ自信に満ちたことを言ってのけたのにこんな醜態を晒しているのだ。
もう少しだけ時間があればどうにか出来たかもしれないが、攫われたルイスをそんなにも長い時間ウィリアムが放置するはずもなかった。
「それよりも侯爵。先程の言葉、訂正していただけますか?」
「は…?な、何をだ。それより手を離せ、私に触れるな無礼者!」
「私の弟を傷物と言ったこと、傷物だから私達がルイスをそばに置いていると言ったこと。どちらも訂正願いたい」
「モリアーティ伯爵…!」
「ルイスはあなたと違いとても精細で傷付きやすいので、他人が言った心ない言葉に胸を痛めてしまっては困るんですよ」
靴音を響かせてウィリアムの近くに来たアルバートは嫌悪を隠さず口を開く。
笑みの裏に憤怒を隠すウィリアムと、嫌悪に満ちた表情で怒りを露わにするアルバート。
二人の姿を目にした瞬間、己の不甲斐なさに自己嫌悪しそうになっていたルイスの胸は場にそぐわず高鳴っていた。
「侯爵、訂正と謝罪を」
「…はっ、何を訂正する必要がある?今この場で偽る必要はないだろう!伯爵、貴様もどうせルイスの傷目当てだろう?私と同じく高貴な趣味を持っていることは誉めてやる。あの火傷も手術の痕も、どちらも醜く美しいな」
「……随分と、侯爵は下衆であられるようだ」
「本当に、救いようのない下衆ですね」
ウィリアムとアルバートはどちらもルイスのために怒っている。
ルイスが無様に侯爵の罠に落ちたことではなく、ルイスの名誉が著しく損なわれたことを怒っている。
か弱かった昔と違い、今のルイスは二人以外の誰に何を言われようと傷付くことはない。
けれど二人の中ではいつまで経ってもルイスは守るべき対象で、傷付けてはならない対象で、それを自覚すればするほどルイスの気持ちはもどかしくなる。
だが今は、それだけ二人が自分を想ってくれているのだと実感出来ることがルイスは嬉しかった。
「兄さん…兄様…」
破かれたシャツを合わせたまま、ルイスは素足で石造りの床に立ち尽くす。
駆け寄ろうにも柱で繋がれているために叶わない。
不甲斐ないこの状況で最愛の兄達による自分への愛情を感じるなんて滑稽だが、それでもルイスが嬉しく感じたことは事実だった。
「もう良いです。ルイスだけでなく依頼のあった女性も無惨な姿のようですし、これ以上証拠を探る必要はないでしょう」
「そうだな。どうする?私の手で仕留めておきたいところだが…」
「…そうですね…」
浮かべていた笑みを消したウィリアムは侯爵の手を離し、突き飛ばすようにその肩を押した。
彼が持っていた瓶は落として割れてしまい、特有の刺激臭が鼻を付いて床に広がっていく。
有害であるそれがルイスの方に行き渡るよりも前に、ウィリアムは靴で踏みつけながら弟の元へと足を進めた。
異臭が立ち込める寒々しい空間で、乱れた着衣で素足のままここにいた可愛い弟。
怪我はないようだが、それでもウィリアムの心は乱れたまま落ち着かなかった。
「ルイス、大丈夫かい?」
「は、はい…怪我はありません」
「大分冷えてしまっているね…これを」
「ありがとう、ございます」
「ルイス…」
ウィリアムは着ていたコートをルイスに羽織わせ、冷えた体を温めるように抱きしめる。
ただでさえ体温が低いというのに今はまるで氷のようだ。
会場からルイスと侯爵が消えたという報告を受けたときは血の気が引くようだった。
アルバートからの報告を考えるに、ルイスが敢えて侯爵の誘いに乗ったことはすぐに分かった。
危険を承知で薬品入りのワインを飲んだのだろう。
今は意識にも感覚にも問題はないようだから、恐らく盛られたのは軽い睡眠薬の類だと考えられる。
元の計画にはないルイス独自の行動だったけれど、最悪の事態として頭の片隅には置いていたから、現況を聞いたときにはやはりという気持ちで一杯だった。
だからフレッドとボンドの助けを借りて屋敷の中で最も怪しい場所に当たりをつけ、早々にルイスを助け出すためのプランに切り替えたのだ。
馬鹿な高笑いと共に聞こえてきた声と現場の状況から何があったのか、察するのは雑作もない。
ウィリアムは無事に間に合ったことを喜ぶように、ルイスの体を強く強く抱きしめては安心したように息を吐いた。
「良かった…無事で良かった、ルイス」
「…すみません、僕の…不手際でご迷惑をおかけして」
「良いよ、大丈夫」
「……すみません」
視界の隅にはアルバートが侯爵を逃さないよう抑えつけている様子が目に入る。
その背後にはジャックとモラン、そしてボンドがいた。
フレッドがいないのは会場内で待機しているからなのだろうか。
三人はすぐ近くにある袋の中身を確認し、静かに目を伏せていた。
「…あの、兄さん…」
「ルイス」
「は、はい」
「もう大丈夫だよ、ルイス」
「は…」
アルバートの視線を感じながらウィリアムに体温を分けられていると、言葉とともにようやく実感が沸いてきた。
恐怖を誤魔化してこの場に立っていたことを思い出してしまったのだ。
そういう目で自分が見られていることが初めてだとは言わない。
アルバートもウィリアムも、彼らを一番近くで見てきたルイスですらそういう目で見られているのだと気付いてしまうほどに周囲を魅了している。
そのついでだろうが、ルイス自身もそういう目で見られていることは知っていた。
けれどこうして触れられることは初めてで、しかもその興味が自分ではなく醜い傷跡だけなのだという事実は、今までに経験したことのない感情をルイスに与えてしまったのだ。
例えるならば恐怖が一番近いだろう。
ウィリアムはそれに気付いていた。
ルイスはきっとそう感じた自分をないものとして扱うだろうと知っていたからこそ、ちゃんと癒してあげたかったのだ。
「よく頑張ったね。ありがとう、ルイス」
「え…」
「…彼女は助けてあげられなかったけれど、これでご両親の元に帰してあげられる」
「ぁ…はい…」
「ルイスが危険を承知で侯爵の誘いに乗ってくれたおかげだ」
ありがとう、とウィリアムが囁けば、ルイスは緊張の糸が切れたのか全身の力を抜いて彼に凭れかかった。
労われたこと、褒められたこと、助けに来てくれたこと。
そして何より、心からルイスの無事を喜んでくれたことが一番嬉しかった。
ルイスが勝手に行動を起こして失敗したようなものなのに、颯爽と現れてはこうしてルイスのことを気遣ってくれるウィリアムの優しさがとても嬉しい。
それと同時に、忘れようとしていた恐怖を思い出してしまった。
「にい、さ…」
「もう大丈夫だよ、僕が一緒にいるから」
「…は、はぃ…」
温かいコートに顔を埋め、ルイスは湧き出る恐怖を全て吐き出そうと呼吸した。
侯爵から向けられた澱んだ瞳、穢らわしい指、吐き捨てられた言葉。
全部が全部、気持ち悪くて嫌だった。
だがそれを承知で自分を使ってほしいとウィリアムに望んだのだから、抱いてはいけない感情だと思っていたけれど、そうではなかったらしい。
ウィリアムはルイスが抱いた感情を否定することはないと暗に言っているのだ。
それが分からないほどルイスはウィリアムと距離があるわけではない。
甘やかされているなと思う。
けれど、隠して押し殺そうとした感情は剥き出しにして良いのだという指示は素直に有難いと思った。
「…怖かった、です」
「そう…頑張ったね、ルイス。ありがとう」
「…兄さん…」
ずっと昔から、自分の感情をどうにも出来ず立ち竦んでいたときに優しく背中を撫でてくれる手がだいすきだった。
ルイスは縋るようにウィリアムの背中に腕を伸ばしてしがみつき、冷えた頬を兄の頬へと押し付ける。
掠れた声で小さく呟くルイスを支えるように抱き直し、ぽん、と優しく背中を叩く。
ウィリアムはルイスが何かを失くしてしまうことを良しとしない。
それが負の感情であってもルイスを構成するものであるならば、絶対に落としてほしくはないのだ。
今までにたくさんのものを捨ててきてしまった弟だからこそ、この先は少しでもたくさんのものを抱いたまま生きていってほしいと思う。
正であろうと負であろうと関係ない。
ルイスがルイスとして抱いたものは全て失くさず抱えていってほしい。
ウィリアムはそんなルイスを大事にしたいと心から願っているのだ。
「兄さん、どうぞ」
「あぁ」
ウィリアムはしばらくルイスを抱きしめ、その体に寒さと恐怖ゆえの震えがなくなったことを確認してからアルバートへと声をかける。
アルバートにとって見目麗しい弟達の抱擁は極上の悦びだ。
けれど、下衆の代表たる侯爵には響かなかったらしい。
ひたすらうるさく喚いていて、もう口を開くなとばかりにチーフ越しに鼻から下を押さえていたのだが、それももう必要ないようだ。
アルバートは手を突き放して侯爵を床に倒した後、ジャックから手渡された短剣を使ってその喉元を潰してみせた。
「下衆であるあなたの目に映るウィルとルイスのやりとりは、それこそ高貴な姿だったかな」
跳ねる血を物ともせず、アルバートは淡々と呟いた。
それに返事をするかのように反射的に侯爵の腕が動いており、生き汚い姿にほとほと嫌気が指すようだ。
こんなにも醜い悪魔が幾人もの人間を嬲り殺した上、あまつさえルイスに手を出そうとしたのかと思うと怒りが無限に湧いてきそうだった。
もう死の間際であるのにまだ生きている姿を見て、アルバートはふと弟達の方へと意識を向けた。
そこには並んで立つ二人がいて、ウィリアムは冷ややかな目で侯爵を見下ろしている。
ルイスは侯爵ではなくアルバートを見て青褪めたように表情を変えていた。
乱れた衣服をコートで覆ってはいるが、裾からは怪我をした素足が覗いている。
その姿を見て新しく苛立ちを覚えたアルバートは、血濡れた短剣で今度こそ息の根を止めるためにその左胸を突き刺した。
「兄様、血が…!」
「構わない。洗えば落ちるだろう」
「ですが」
ウィリアムから離れてアルバートへと駆け寄ろうとするルイスの表情はやはり青白かったけれど、寒さからでも恐怖からでもない。
ただ単純に、アルバートの体が穢らわしい生き物の血で汚されてしまうことを懸念していただけのようだった。
アルバートという美しい存在があんなにも醜い存在で汚されることを、ルイスは我慢出来ないらしい。
ルイスは繋がれた足でも近寄れる距離まで歩みを進め、ジャケットの胸ポケットにしまっていたチーフを取り出した。
そうしてアルバートの顔と首、手首に飛んでいる汚い血液を丁寧に拭っていった。
小さな布切れだけでは衣服と手袋までは綺麗に出来ないことがもどかしい。
「完全に拭えませんが、少しでも綺麗にしませんと」
「ありがとう。…すまなかった、私が目を離してしまった隙に連れられてしまって」
「そんな!兄様のせいじゃありません。僕の不注意でこうなってしまっただけなので…助けに来てくださり、ありがとうございます」
「無事で良かった」
髪を上げているせいで、いつもよりもその顔がよく見える。
大きな瞳は昔と変わらず、どこか幼いようにも見えるけれど何故だか憂いを感じて美しい。
アルバートは整えられたその髪を混ぜるように撫でてから右頬へと指をやり、ざらついた感触を愛おしげに堪能した。
「お疲れ様、ルイス」
「…もっと僕が上手くやれていれば良かったのですが」
「そんなことはないよ、精一杯やっただろう」
「でも」
これがアルバートかウィリアムならば、もっとスマートに行動出来たのだろう。
ルイスだったからこうなってしまっただけで、他に方法はいくらでもあったはずだ。
まだまだ自分は未熟なのだと思い知らされる。
けれどアルバートもウィリアムもそれを指摘することはせず、今はただ疲労しているルイスを労うばかりだ。
そうしてルイスが言い訳がましく唇を震わせようとした瞬間、静寂な空間を切り裂くように大きな銃声が響き渡る。
見ればモランの銃によりルイスと柱を繋いでいた鎖は断ち切られていた。
「お前ら、反省会は後にしろ。とっととここを出るぞ」
「モランさん、ありがとうございます」
侯爵亡き今、足枷の鍵を探すには時間が足りない。
乱暴ではあるが銃で断ち切ってくれたのは助かったと、ルイスは自由になった足を軽く動かして礼を言った。
枷の部分は屋敷に帰ればどうにでも出来るだろうし、確かにいつまでもこの場にいるわけにもいかない。
「彼女はもう保護したよ。…ちゃんとご両親の元へ送り届けてあげよう」
「フレッドも状況が気になっているだろうしな。ウィリアム、ここはどうする?」
「火を放つには人の気配が多すぎます。幸い近くを警備していた人間はこの場所について詳しく知らなかったようですし、このまま放っておきましょう」
「良いのか?いずれ家族に見つかるぞ」
「むしろ見つかってくれた方が都合が良い。ヤードに圧力をかけて失踪事件の調査を潰していたのだから、今度こそしっかりと調査が出来るチャンスになる」
「あぁ、なるほどね」
「侯爵の死は世間に知れ渡り、犯人を探そうと躍起になるだろう。だが調査を進めていくにつれ、世間には知らせることの出来ない所業が露わになる。そうなれば身内が糾弾される。その方が都合が良いでしょう。真っ黒い侯爵の身内が真っ白いはずもないですし、ね」
「はっ…全て計算通りってことかよ。さすがだな、ウィリアム」
ウィリアムは隅に放られていたルイスの革靴を取り、異臭漂う空間から出ようと皆を促した。
ホルムアルデヒド水溶液が醸す匂いを長時間吸っているのは危険だ。
室内にさほど足を踏み入れていない人間はまだしも、ルイスは長い時間ここにいたのだから早くこの場を去らなければならない。
先程から深く呼吸をしては肺を広げようとしているルイスの肩を抱き、ウィリアムは最愛の弟に無礼を働いた死体に一瞥した。
「ルイス、気分は大丈夫かい?」
「え?あ、はい…大丈夫です。…少し、頭が痛いだけで」
「そう…早く出ようか。行きましょう、みんな」
「あぁ」
今にも消えそうなランプをそのままに、薄暗い石造りの空間の扉は閉ざされた。
(ルイス、体調はどうだい?)
(頭痛はおそらくホルマリンの匂いによるものだと思うけど、残ってはいないかな?)
(もう大丈夫です、随分と楽になりました。ご心配ありがとうございます、アルバート兄様、ウィリアム兄さん)
(それは良かった。…ところで、ルイス)
(…はい)
(あれほど侯爵から渡されたものを口にしてはいけないと言ったよね?聞いていなかったのかな?)
(…侯爵の信頼を得て油断を誘うためには、あそこで一歩踏み込むべきだと判断しました)
(私と先生の目を掻い潜ってルイスを攫える侯爵の執念もさることながら、そもそもルイスが彼の誘いに乗ったのは今考えても褒められたことではない)
(兄さんの言う通りだ。何のために僕が事前に細かく指示を出していたと思っているんだい?)
(で、ですが、あの場所を早くに突き止められたのだから、悪いことばかりではなかったかと思うのですが)
(本当にそう思っているの?)
(本心であるなら、さすがに私も穏やかではいられないが)
(…すみませんでした。以後、注意します)