#原始キリスト教研究会 女性に優しいジーザス
「 原始キリスト教研究会 Primitive Christianity Student Association 」
様より
シェア、掲載。
ありがとうございます。
感謝です。
女性に優しいイエス①② まとめ
まず
女性に優しいイエス①
2016年01月15日(金)
イエスの復活の最初の証人は、
マグダラのマリアでした。
ペテロでもヤコブでもヨハネでもなかった。
なんか、痛快。
男たちよ、威張るな。
(以前のブログ「お花畑より愛を込めて」より)
イエス・キリストが、
普通の人間のように、
「時代」に縛られた思考
の持ち主
ではなかった証拠は
たくさんあります。
その一つがいわゆる
「女性観」です。
人間が罪を背負うようになって以来、女性はたいてい虐げられる側に回ってきました。
「創世記」にはこんな記述があります。
(創世記 3:16) …女に対してはこう言われた。「わたしはあなたの妊娠の苦痛を大いに増す。あなたは産みの苦しみをもって子を産む。あなたが慕い求めるのはあなたの夫であり,彼はあなたを支配するであろう」。
罪の結果として「不完全」になってしまった肉体は、いやおうなく病気などの機能不全を持つようになりました。
「産みの苦しみ」の増大は、残念ながら女性にとっての不可避な結果となったようです。
たいへんだなぁ~、とドラマなどで出産シーンを見ると思います。
でも、ここで注目したいのは聖句の後半です。
この時、男性が女性を「支配する」という構図が始まってしまったのです。
…ということはですよ。
本来はそんな関係ではなかったはずだということですよね。
神さまは女性を創造するにあたってこのように述べておられます。
(創世記 2:18)
…「人が独りのままでいるのは良くない。
わたしは彼のために,
彼を補うものとなる助け手を造ろう」。
そう、本来は互いを補完することになる、大切なパートナーだったのです。
愛と敬意をもって結ばれる「誉ある結婚」だったのですね。
初めて女性と見合ったとき、アダムは感動して韻を踏む詩を口にしています。
(創世記 2:23) …「これこそついにわたしの骨の骨, わたしの肉の肉。 これは“女”と呼ばれよう。 男から取られたのだから」…
男はヘブライ語で「イーシュ」、女は「イーシャー」というふうに発音するようですから、
自分と同じ「種」として大歓迎したのでしょう。
初めてジェーンを見たターザンの気持ちも同じだったのかしら?
さて、
イエス・キリストは
西暦1世紀当時の、
女性を低いもの劣ったもの
とみなす風潮の影響を
少しも受けていませんでした。
見下げられていた「娼婦」にさえ敬意を持って話しかけ、慰めと癒しの言葉をかけておられます。
(ルカ 7:37, 38)
…すると,見よ,その都市で罪人として知られる女であったが,[イエス]がそのパリサイ人の家で食事の席について横になっておられることを知り,雪花石こうの容器に入った香油を携えてやって来た。
そして,後ろに行ってその足もとに身を置き,泣いて,自分の涙で彼の足をぬらし始め,自分の髪の毛でそれをふき取るのであった。また,彼の足に優しく口づけし,その香油を塗ったのである。
娼婦の行動とそれを許しているイエスに対して、心の中で不満を持ったパリサイ人にイエスはこのように言われます。
(ルカ 7:44‐49) …そうして,女のほうに向きながら,シモンにこう言われた。
「あなたはこの女を見ていますか。わたしはあなたの家の中に入りましたが,あなたはわたしの足のための水をくれませんでした。しかし,この女は自分の涙でわたしの足をぬらし,自分の髪の毛でそれをふき取りました。あなたはわたしに口づけしたりはしませんでしたが,この女は,わたしが入って来た時から,わたしの足に優しく口づけしてやめませんでした。あなたはわたしの頭に油を塗りませんでしたが,この女はわたしの足に香油を塗ったのです。あなたに言いますが,このことによって,彼女の罪は,多いとはいえ,許されたのです。彼女は多く愛したからです。ところが,わずかしか許されていない者は,わずかしか愛さないのです」。
それから彼女に言われた,「あなたの罪は許されています」。
…「あなたの信仰があなたを救ったのです。平安のうちに行きなさい」。
う~ん、いいな~。
イエス、男らしい!
カッコいい!
この記述だけでもボクはイエスの大ファンになりますね。
女性に優しいイエス。このテーマで何回か書きましょう。
続いて
女性に優しいイエス②
2016年01月22日(金)
イエス・キリストが女性に優しい人であったことは、とても嬉しいことですね。
なんてったって
「神の子」であり、天の父によく似た息子だったのですから。
み父の優しさを反映した、素晴らしい最高の証人なのですから。
さて、
今回取り上げる女性はラザロの二人の姉妹たち、
マリアとマルタです。
(ヨハネ 11:5) …イエスはマルタとその姉妹およびラザロを愛しておられた。
イエスはラザロを「友」と呼んでいます。
死後四日だったラザロをイエスが復活させた奇跡は有名ですね。
ここでいきなりの脱線ですが、イエスはどのようにラザロと知り合ったのでしょうか?
聖書に詳しい説明はありません。
そこで、いつものように想像をたくましくして豆太郎の物語が始まります。
ラザロと姉妹たちが住んでいる町はベタニアというところで、エルサレムからほど近い、2マイルほどの距離にありました。
年に3回行われる祭り(過ぎ越し・ペンテコステ・仮小屋)の際にエルサレムはごった返し、近隣の町々では「宿屋」あるいは「民泊」を提供していました。
ラザロの両親がそうした商売をしていたとしても不思議はないでしょうね。
一方、イエスは少年時代から両親に連れられて、毎年の祭りに参加していましたから、当然どこかに宿をとったことでしょう。
比較的暖かい季節の「仮小屋の祭り」は、キャンプのように即製の「仮小屋」で寝泊まりすることもあったでしょうが、「過ぎ越しの祭り」のときはそうもいかなかったでしょう。
そこで、イエスと、同年代と思われるラザロの出会いの場があります。
そう、イエスの家族は毎年の「過ぎ越し」の際に、ラザロの両親が営む宿屋を常宿としていたのではないか。
むむむ、豆太郎の好きな「大胆な仮説」です。
イエスの家族は貧しかったので、たぶん大部屋を安く提供する「民泊」のようなところだったのでしょう。
少年時代のイエスと親しくなった宿屋の兄妹であるラザロとマリアとマルタの、楽しい情景が浮かんできませんか?
ボクにはドドッと浮かんできちゃうのであります。
現在連載中の「ファースト・ルーク」にそのうち描かれると思います。
ふふふ、自己満足ブログの本領発揮していますね。
さて、本線に戻りましょう。
マリアとマルタと言えば、あの場面が良く知られていますね。
やはりラザロの家での出来事です。
イエスをもてなそうとくるくると忙しく立ち回っていたマルタと、その手伝いをせずにイエスの話にじっと聞き耳を立てていたマリア。
(ルカ 10:38‐42) さて,彼らが進んで行くと,[イエス]はある村に入られた。ここで,マルタという名の女が彼を客として家に迎え入れた。この女にはまた,マリアという姉妹がいたが,彼女のほうは主の足もとに座って,ずっと彼の言葉を聴いていた。一方マルタはいろいろな用事に気を遣って取り乱していた。それで,彼女は近くに来て,こう言った。「主よ,わたしの姉妹がわたしひとりに用事をさせておりますことを何とも思われないのですか。ですから,一緒になってわたしを助けるよう彼女におっしゃってください」。主は答えて彼女に言われた,「マルタ,マルタ,あなたは多くのことを思い煩って気を乱しています。ですが,必要なのはわずかなもの,というより一つだけです。マリアは良いものを選んだのであり,それが彼女から取り去られることはありません」。
この出来事の背景として覚えておきたいのは、
イエスにとってマルタとマリアは旧知の仲であり、お互いに愛情を持っていましたから、物事を遠慮なく言える関係にあったということです。
ですからマルタは妹が料理を少しも手伝わないことに憤慨して、イエスに直接向かい合って苦情を述べることができたのです。
親しさの証拠として、イエスは「マルタ、マルタ」と名前を呼んでいます。
そこには厳しくたしなめるという様な雰囲気はありません。
そして、どのような状況でも、弟子たちに対しての教訓を残そうとするイエスの言葉が優しく語られます。
『マルタ、大切なのは「聞く」ことなのですよ』と。
マルタがどのような反応をしたかについての記述はありません。
でも、
イエスの弟子になっていた彼女はすぐに意味を悟り、物質的なことばかりに気をとられていた自分を反省したことでしょう。
…えっと、ここからはボクの反省なのですが、「姉妹たち」にたいして性急な言葉を出してしまって、感情を傷つけてしまったのではないかと思う経験が二、三あります。
「そんなつもりで言ったのではないんだけど」と後悔しても遅きに失しました。
ああ、すみません…
えっと、そんな未熟なボクとは違い、
イエスは「女ごころ」をよく分かっていました。
マルタに対して優しい笑顔を浮かべていたに違いありませんね。
『マルタ、賢いあなたならきっとわかるでしょう?』
という信頼の表情を作っていたことでしょう。
そう、イエスは表情豊かな人でした(とボクは断定します)。
「目は口ほどに物を言う」という諺もありますが、イエスのまなざしを見たマルタには優しい愛情が直接伝わったことでしょう。
いいなあ。
ボクも言葉を出す前に、笑顔と信頼のまなざしを3秒間向けるようにしましょうか。
さてさて、マルタとマリアがイエスに親近感を持っていた証拠は、ラザロが死んで四日たった後にやっと到着したイエスを迎えた時の二人の行動に良く表れています。
(以下、ヨハネ 11章より抜粋) …それでマルタは,イエスが来られることを聞くと,彼を出迎えに行ったが,マリアのほうはずっと家に座っていた。
そこでマルタはイエスに言った,「主よ,もしここにいてくださったなら,わたしの兄弟は死ななかったことでしょう。でも,わたしは今,あなたが神にお求めになることは,神がみなお与えになることを知っております」。
ああ、イエスが共にいてくれさえしたら、と苦情とも取れる言葉が語られていますね。でもすぐに本来のマルタに戻って、イエスに希望を置いていることを付け加えます。そして、イエスの言葉に答えて力強い信仰の言葉を述べます。
「はい,主よ。わたしは,あなたが神の子キリスト,世においでになるはずの方であることを信じてまいりました」
その後、イエスの到着をマルタから知らされたマリアもイエスのところにやってきます。
マリアは,イエスのおられる所に着いて彼のすがたを見ると,その足もとにひれ伏して,こう言った。
「主よ,もしここにいてくださったなら,わたしの兄弟は死ななかったことでしょう」。
それでイエスは,彼女が泣き悲しみ,また彼女と一緒に来たユダヤ人たちも泣き悲しんでいるのをご覧になると,霊においてうめき,また苦しみを覚えられた。
そして,こう言われた。「あなた方は彼をどこに横たえたのですか」。
彼らは言った,「主よ,おいでになって,ご覧ください」。
イエスは涙を流された。
マリアもマルタと同じような苦情を述べていますね。
その時、感情豊かな人であったイエスはマリアや他の人々の悲嘆に心を動かされて涙を流します。
こうした記述の中にイエス・キリストのひととなりをボクらは十分に読み取ることができます。
それにしても、
二人の女性は何と気安くイエスに接していることでしょう。
深い敬意を持ちつつも、近づきがたい「恐れ多い方」とみなしている様な所は少しもありません。
「女性に優しいイエス」
というタイトルは本当でしょう?
はい、異議なし!
…でも、女ごころは、難しいなぁ~