『君の名は。』を震災後映画の文脈で語るに際して【ネタバレ】
『君の名は。』は、
「物理的距離」「時間的距離」「生死の距離」といったあらゆる理不尽な距離を、「互いの名前を求める」という純粋でエモーショナルな想いが乗り越えてゆく物語である。
予め天によって定まっているという意味の「運命」を徹底的に否定し、自分たちの「想い」によって能動的に定めるという意味での「運命」を徹底的に肯定する物語である。
非運命から、運命が生まれる希望を描く物語である。
前回の感想記事で、私は以上のようなことを述べました。
つまり、我々の生きる世界は、何が起こるかわからない、非運命的なものであるということです。それは、無限の可能性を意味すると同時に、免れ得ない理不尽を表しています。
タイムスリップと隕石落下、可能性と理不尽、運命と非運命。そのすべての複合が「糸」であり、「ムスビ」だったのでした。希望と絶望を、どちらも否定することなく描いているのがこの作品なのです。
では、本題に入ります。
改めて、『君の名は。』が言っていることを一言でまとめると、こうなります。
我々は、「想い」の力によって、世界のあらゆる理不尽を乗り越えられる
今回の記事では、このメッセージを、この作品のもっとも根底にあるものと仮定します。その上で、この映画を震災後映画の文脈で語ろうとすると、よくよく注意しなければならないことがあるということについて考えていきたいと思います。新海作品の受け取り方としてまったく的外れで野暮なことを言っているだけの記事かもしれませんが、この作品を震災後映画として受け取ってらっしゃる方が多く見受けられたので、一つくらいブレーキ役的な感想があってしかるべきだと思い、この記事を書いた次第です。
(2016.10.30追記)
この記事は、あくまでも「震災後映画として語るとまずいのでは?」ということを言っています。決して「震災後映画として欠陥があるのでダメな作品だ」と言っているわけではありません。
最後まで読んで頂くとわかるかと思いますが、そもそもこの作品において震災要素はあくまでも時代の流れから次第に採用されたモチーフでしかなく、伝えたいことはもっと大きくて普遍的なことだろうというのが私の立場です。その上で、震災後映画の文脈で語るとしたときに注意すべきことについて書いています。
■そもそもなぜ、震災後映画として語るのか
この作品を、なぜ震災後映画の文脈で語るのか。それは、この映画が震災後に制作されたものであり、なおかつその文脈で語れるだけの要素を有しているからです。
なんでもかんでも3.11に結びつけるのはどうかと思います。しかし、作品をどう解釈するかは、まったく受け手の自由です。従って、ある作品に「震災」を感じるか、そうでないかは、完全に観た人ひとりひとりの自由なのです。
私はこの作品を観たとき、作品の熱量が男女二人のラブストーリーに集中して注がれているように見えたのもあって、糸守町を救うイベントは副産物的なものに感じてしまい、正直、リアルタイムでこの作品に「震災」を感じたわけではありませんでした。しかしながら、家で唸りながら考えてみると、この作品が「震災」を感じることができるだけの要素を有していると考えることができたのです。だから、私はその文脈でこの作品を語ることにしてみます。(ちょっとズルいですが、新海監督も3.11を受けての映画であると明言しています(出典元)。)
その要素というのは、言うまでもなく、糸守町への隕石落下です。三葉を死なせたいなら交通事故とかでもよかったわけで、そうでなく町ひとつ滅ぼしたということは、絵的なインパクト以上になにか求めるものがあったということだと思います。そして、瀧が図書館で読んでいたあの被災者名簿。リアルタイムでは、「瀧が三葉に会いにゆく」というストーリーにとらわれていてスルーしてしまったのですが、改めて考えてみるとあれはかなり露骨な描写に感じたのです。
繰り返し注意しますが、作品をどう解釈するかは、まったく受け手の自由です。申し上げておきたいのは、これから述べる見解はすべて私の「好み」や「思想」といったものに染まったものであるということです。
■どうしようもない美しさ
この作品のうまいところは、災厄をもたらすものとしての彗星を「美しい」と表現しているところです。
例えば、3.11のときと同じようにして、地震や津波を災害として描くのでは、平凡な追体験映画になってしまいます。『シン・ゴジラ』は、その手法を用いたのにもかかわらず、平凡な追体験映画にしていない点において絶賛されているのですが、『君の名は。』はその全く逆を行くわけです。
彗星が空を流れていく様について、主役2人に「美しい眺めだった」と言わせる。糸守町壊滅の原因となる彗星分裂についても、ニュースキャスターに「大変な幸運」と評させ、そしてまさに隕石が落下するクライマックスの絶望的なシーンでも、まるでハッピーエンドのときに流すような音楽を流すのです。
しかし、音楽が鳴り止むと、糸守町が隕石によって滅ぼされる様が初めて映し出されます。その映像はまさに絶望的で惨憺たるもので、観客は先程まで「美しい」と思って見ていたものが、突如豹変するその落差に衝撃を受けるのです。
この効果が絶大なのは、皆さんが体験なさった通りです。つまり、観客はあの彗星に完全無欠の理不尽を感じるわけです。
これがもし地震や津波だったら、「何でこんなときにこんなことが起こるんだよ!」という怒りが沸いてくると思います。そこで感じるのは、どうしようもない理不尽というよりも、「ふざけんな! やめろ!」という怒りなのです。
しかし、これが美しい彗星の予想不可能な分裂によって引き起こされた災害となると、話は変わってきます。観客は、あくまでその彗星を、さらにはその分裂すらも、直前まで「美しい」と感じてしまっていたのであって、その感情は否定しようもないものだからです。しかし、彗星に見惚れた次の瞬間、突如糸守町は破壊されます。ここに、どうしようもない理不尽を感じるわけです。そこで観客が感じるのは怒りではなく、なにか途方に暮れたときのあの脱力感であり、あのやるせなさなのです。
これらが示すものは、自然の二面性であるとも評せましょう。しかし、この作品のメッセージも踏まえ、もっと普遍化した解釈をしますと、あの彗星が表すものは、「この世界のどうしようもない理不尽」「どうしようもない非運命」であると言えると思います。
■描かれた「希望」
このようにして、震災後映画としての舞台を整えたら、次にどうするか。震災に対する「希望」を描かなければなりません。完全無欠の理不尽に対する希望を描写することで、どんな現実に生きようと希望を持って生きてゆけるようになるのが、この作品の意義であるはずなのです。
この作品は、冒頭で述べたとおり、震災のような「理不尽」「非運命」に対するカウンターとして、明らかに「想いの力」というものを持ってきています。理不尽や非運命に立ち向かうためには、何かを想うエネルギーによって、能動的な運命をこちらから定めてやる他ない、というわけです。
「理不尽」の描写は素晴らしい。希望として「想いの力」を持ってくるのも悪くない。さて、問題なのは、「想いの力」によってどんな希望が生まれたのかということです。
なんとこの作品は、「想いの力」によって、被災者そのものを救ってしまいました。そして瀧は、救われた被災者の一人である三葉と「会えて」しまったのです。この作品は、ここに希望を見出せと言っているわけです。(ここからは、完全に好みの問題です。)
一連の流れをざっと書いてみます。タイムスリップによって彗星の分裂により自分たちが死んでしまうと知る。一度は諦めかけるも、瀧に会いたいという「想い」に再起する。そして、彼女は父親を説得することに成功し、結果被災者は救われる......。
これについてのもっともシンプルな解釈は、「せめてフィクションでは被災者を救いたかった」という「祈り」を描いているというものです。
一番の問題は、そもそも彗星分裂は、避難勧告すら出ない「完全無欠の理不尽」として描いていたはずだということです。「希望」を描くのなら、少なくとも状況設定はあのときと同じにしなければならなかったでしょう。そうでなければ、震災で亡くなった人に、「タイムスリップでもできれば君たちを救えたよ」と言っているだけの、何の救いにもならない作品と解釈されかねません。なんだか、『20世紀少年』で、バーチャルアトラクションを使って過去の失敗をやり直したケンヂと同じことをやっている気がします。被災者のそのような救われ方を見て「祈り」だと言うのは、むしろ自己満足ではないのかと思ってしまうのです。
これについては、フィクションに求めるものが何であるかによって、意見が違ってきます。私は、『シン・ゴジラ』の記事でも述べましたが、「虚構は現実を信じられるようになるための薬」であると考えています。
つまり、フィクションを用いるならば、それによって現実を信じれるようになるようなやり方でなければならないと思うのです。
もちろん、自己満足的な「祈り」が描けるのをフィクションの価値とするならば、それを否定するつもりは全くありません。3.11でみんな救われて欲しかった。そんな、決して叶わぬ願いをパッケージした作品なのかもしれません。しかしそれは、完全に過去に閉ざされた作品であって、現在の我々が消費するだけの作品です。私は、せっかくなら未来に向けられた希望を描いて欲しかったと思うのです。
■八方塞がり
では、何らかの方法で、状況設定を3.11のときと同じようにしたとしましょう。つまり、理想的な避難をする(させる)ことができれば、全員は助からなかったにしろ、もっと多くの人の命が救われたかもしれない、という状況を設定するのです。その理想的避難が行われたケースを描き、それを可能にするのは人の「想い」であると結論付け、これを「希望」として提示するわけです。
なんだか良さそうですが、これにもまた問題があります。
第一に、いずれにせよ、このイベントが瀧と三葉のラブストーリーの補強と見られかねないという問題があります。例えば、「糸守町を救ったのは、瀧と三葉の互いを想い合う気持ちが引き起こした奇跡だ!」というような感想は、依然として多く抱かれると思うのです。なぜなら、糸守町を救う直接的な要因となったのは、三葉が父親を説得したからであり、それをさらに遡ると、結局彼女の瀧に対する想いに行き着くからです。前に、「この作品は、熱量が彼ら二人のラブストーリーに集中して注がれているように見える」と書いたのは、こういう理由です。
では、例えば町の人々が互いを想い合う「想い」によって、団結して危機を乗り越えた、などとすれば良かったのでしょうか。確かに、これならこの作品を「瀧と三葉の奇跡の物語」で終わらせない深みが出たかもしれません。しかし、これもよくよく考えてみると十分な「希望」ではありません。なぜなら、理想的避難を行える状況を設定するということは、つまり、彗星の美しさを利用したあれだけ秀逸な「理不尽」の描写を無駄にすることになるからです。「完全無欠の理不尽に対する希望を描写する」という本来の目標を達成できなくなります。
まさに八方塞がりですが、このようになる理由は簡単です。すなわち、完全無欠の理不尽を災害に設定した時点で、糸守町の人々の命が救われる道はないからなのです。
例えば、タイムスリップ(入れ替わり)は、誰かへの「想い」がトリガーである、と設定したらどうでしょう。三葉への「想い」により瀧は過去へタイムスリップ、彼女の名をそこで初めて聞く。彼女を救うことはできないにしろ、結果として瀧は被災者名簿に載っているような「死の名」ではなく、彼女への明確な想いと生の体験を含んだ「生の名」として、彼女の名をいつまでも忘れない。
こうすると、少なくとも震災の明確な希望になる気はします。人は死んでも、想う者の存在によってその名は生き続けるわけです。まさに、「『想い』の力によって、世界のあらゆる理不尽を乗り越えられる」というメッセージにつながります。
■ハッピーエンドを望むことの怖さ
しかし、この案を気に入ってくれる人はいないと思います。私も気に入っていません。というか、そんなオチは見たくありません。そう、ここが厄介なところなのです。
つまり、我々はどうしてもあのオチを求めてしまうのです。俗にいう「ハッピーエンド」を求めてしまう。それは、テーマやメッセージなど関係なく、ただ単に純粋な願望として、それを望んでしまうのです。
これはわりと怖いことです。新海作品を悪く言うつもりはありませんが、しかしあの美しい映像と唸る演出に彩られたエンタメ性をバンバン見せられると、最後のあのオチをみて、「終わりよければすべてよし」的な着地をする傾向がどうしても高くなります。
「完全無欠の理不尽の乗り越え」と「2人が出会えるオチ」を両立させるうまい方法はあったのでしょうか(あったら教えて下さい)。少なくとも作品ではそれがなされていない(と私は感じる)以上、我々受け手はあの手この手で自分の都合のいいように解釈するしかありません。
前回の記事での私の解釈は、「非運命的な我々の世界では、どんな不幸(=隕石落下)が訪れるかわからないのと同時に、どんな幸運(=タイムスリップ)が待ち受けているかもわからない」というものでしたが、これは結構苦しい。わりと観念的な解釈だからです。
では、被災者のことをいつまでも忘れないことの重要さについての話だと解釈したらどうでしょう。「忘れたくない人、忘れちゃダメな人」というのは、まさに被災者のことを言っていると捉えるわけです。「人は死んでも、想う者の存在によってその名は生き続ける」というアレですね。しかしこの作品の場合、被災者のことを忘れないどころか、むしろその結果糸守町の人々はほぼ全員生き返ってしまうので、なんだかちぐはぐでイマイチです。
以上のように考えると、この話は(少なくとも震災後映画としては)原理的に成り立たない構造になっていることがわかります。
もどかしいのは、「人は死んでも、想う者の存在によってその名は生き続ける」という方向の話にできるような要素がいくつもあることです。次第に相手を忘れてしまうが、それに抗おうとする主人公。今はもう無い街の風景に心を締め付けられること。「東京もいつ消えてしまうかわからないから、記憶の中で人を暖める風景を設計したい」という瀧の言葉......。種をバラ撒いてはいるんですが、いかんせん話の流れとマッチしていません。
(2016.9.25追記)
入れ替わりという警告システムがあり、未然に防ぐことができたという指摘に対しては、以下のツイート参照です。
■呪いのごとく疑う
『君の名は。』は、あらゆる面で『シン・ゴジラ』と対比できます。それは、震災後映画であることや、理不尽を全く逆の手法で描いていること。そして何より、トレードオフの要素を有しているということです。
『シン・ゴジラ』では、エンタメ的な面白さとテーマ追求とのトレードオフの問題が指摘できました(下の記事です)。
『君の名は。』に関しても全く同じです。つまり、あのオチにすることで、エンタメ的な完成度や楽しさを確保できるが、一方でメッセージは自己満足的なものになるし、逆もまた然りです。『シン・ゴジラ』と違って、そもそも話の構造に無理があるというのもありますし、何度も言うように熱量配分がおかしいというのもあります。美しい風景と、美しい演出によって、観客にそういったことを考える隙を与えずに話を進めているため、このトレードオフの問題に気づきにくい作品になっているという印象も受けます。
この記事自体が示す通り、『君の名は。』は、考えれば考えるほどわからなくなってきます。ドツボにはまるのです。それはつまり、そうした作品の受け取り方自体が間違っているということでしょう。「完全無欠の理不尽の乗り越え」と「2人が出会えるオチ」の両立なんて、はなから目指していない。ストーリー構造に致命的なものがあろうが構わない。おかしいと思われた熱量配分も、ひたすらに主人公2人の関係性に着目させて酔わせるためのはからいなのでしょう。ロジックを超越したところにある、脳の霊的で観念的な部分で感じ取るのが正しい作品なんだと思います。絵や演出の美しさや、ガンガン鳴る劇中歌は、そうした視聴体験を後押しするための要素なのでしょう。結果として、観客は一種の酩酊状態のようなものになり、そこに何か「願い」や「祈り」といったものを感じるようになる。逆に言えば、観客をそのような酩酊状態にさせるだけの巧妙さを秘めた作品ではあると思います。
しかし、結局『シン・ゴジラ』のときと同じ結論になってしまいますが、作品の巧妙さに酔いしれているだけではいけないと思うのです。確かに、視聴後の多幸感にひたるのも良いのかもしれないし、作品の美しさに陶酔するのも素晴らしい映画体験なのかもしれない。しかし、少なくとも震災後映画の文脈で語るならば、この作品を「多幸感」や「美しさ」だけのための作品とするのは、まずいと思います。自分がこの作品に感じた多幸感や美しさ、それらすらも疑ってかかること。その姿勢は大事なのではないかと思うのです。
特に、この作品を一生忘れたくないと思う人にとっては。
↓こちらもどうぞ