黄金のトランペットに導かれて──オペラ歌手・小林由樹さん
ヒューマンインタビュー第8回は、オペラ歌手・小林由樹さん。
小林由樹(こばやし よしき)バリトン
国立音楽大学卒業。
日本音楽コンクール3年連続入選。イタリア声楽コンコルソ金賞受賞。
オペレッタの端役で歌役者としての基礎を学び、オペラには『フィガロの結婚』アルマヴィーヴァ伯爵、『ラ・ボエーム』マルチェッロ、『椿姫』ジェルモン、『カプリッチョ』伯爵、『ロメオとジュリエット』メルクシオ、などのレパートリーで出演。2004年からは新国立劇場に活躍の場を広げ、『カルメン』エスカミーリォ、『カヴァレリア・ルスティカーナ』アルフィオ、『ばらの騎士』ファーニナルなど主要な役で出演を重ねた。その間イギリス「ギルバート&サリヴァン・フェスティヴァル」に参加し『ミカド』ピシュ・タシュ、『コックス&ボックス』バウンサー軍曹役にて、コメディーの本場で大喝采を浴びた。
2014年からは二期会に所属し、ヴィリー・デッカー演出『トリスタンとイゾルデ』『サロメ 』、宮本亞門演出『金閣寺』『蝶々夫人』などの話題作に出演を重ねている。
コンサートでは『第九』『メサイア』『カルミナ・ブラーナ』などのバリトンソリストを務める。
また、合唱指揮者、ヴォイス・トレーナーとしても高評を得ている。
これまでに松本美和子、ジャンフランコ・パスティネ、アッリーゴ・ポーラ、渡辺誠、田口興輔、藤巻信夫の各氏に師事。
新国立劇場《椿姫》、ドゥフォール男爵。ヴィオレッタは、パトリツィア・チョーフィ。
新国立劇場をはじめとして国内外の主要劇場で、長年に渡り数多くの舞台を務められておいでの小林さん。文化庁巡回公演・三木稔作曲《うたよみざる》では主役の山一を、長年に渡り演じ続けられました。筆者は2021年1月に東京二期会主催サロンコンサートをご一緒する機会に恵まれ、今回のインタビューをお願いする運びとなりました。
小林さんは、どのように音楽の道、そして舞台の道に導かれていったのでしょうか。
トランペットとの出会い──グレン・ミラーから、マリオ・デル・モナコへ
──「トランペット少年時代。上段左から2番目が小生」
「実は僕、最初はトランペットをやりたかったんです。小学校4年生の時にトランペットと出会って、中学でもその流れで吹奏楽部に入りました。
で、高校に入ってからは、音大に進むかどうかで悩んだんですが、音楽の道に対しては父親が猛反対したんです。当時の僕は反発心も強かったものだから、『じゃあ、音楽をやるよ!』と言い切って。そこからは、新聞配達のアルバイトで稼いだ貯金もあったので、そのお金で音大進学に向けてのレッスンに通うようになりました」
「けれど、最初の年の受験はうまくいかなかったんです。ただ、自分でもなんとなくは分かっていました。N響首席奏者でらした北村源三先生のもとで学んでいたのですが、一緒に学んでいるお弟子さんの演奏を聴いていると、『ああ、自分はまだまだかもしれない』っていうのも分かったりするんです。
それで浪人することになったのですが、当時の僕にコールユーブンゲンを教えてくれていた高校の音楽の先生で、恩師でもある藤巻信夫先生が『小林くんは、声楽をやるといい』と仰ってくださったんです。藤巻先生は、それ以前からも声楽を薦めてくださってはいたのですが、トランペットをやりたかった僕は、先生のその言葉を聞かないようにしていました。
でも、浪人中のある日、ラジオで世界的なテノールのマリオ・デル・モナコの特集を流していたのに巡り合って。マントヴァーニ・オーケストラっていうポップスを中心に演奏するオーケストラがあって、そのマントヴァーニ・オーケストラと一緒にナポリ民謡や、映画音楽を歌っていたのですが、その声……いや、〈声〉というよりも〈音〉に、やられてしまって。すっかり虜になりました」
マリオ・デル・モナコが、マントヴァーニ・オーケストラと共に歌った「カタリ・カタリ(つれない心)」を聴くと、その場にいる全員が音楽を奏でられる喜びに満ちあふれているのが分かります。
ラジオから流れてきた、マリオ・デル・モナコの声に衝撃を受けた小林さん。この体験が、小林さんを衝き動かす原動力となります。
──「自宅で断捨離を免れたグレン・ミラーのレコード」
「当時、僕の住んでいたのは山梨県甲斐市、昔で言うと中巨摩郡だったんですが、高校の通学途中、甲府駅の近くに〈サンリン〉っていうレコードショップがあったんです。いつの間にか、〈サンリン〉に通うのが日課になっていました。そして、グレン・ミラーにすっかり夢中になっていました。
でも、その日は違った。〈サンリン〉に向かうやいなや、『マリオ・デル・モナコのレコードありますか?』って訊ねて。『えっ、小林さん、グレン・ミラーじゃなくて? マリオ・デル・モナコって、クラシックの、オペラの人ですよ!』って言われたけど、『いえ、いいんです! お願いします!』って頼み込んで、教えてもらいました。そしたら、レコードを見ると〈黄金のトランペット〉って書いてあるじゃないですか……。これには、運命を感じました」
──「僕の運命を変えたマリオ・デル・モナコのレコード」
「それから、歌の可能性を考えてみようということになって、国立音楽大学の夏の講習会に声楽で申し込んでみました。後の師匠となる田口興輔先生が見てくださったのですが、聴いてくださった後に、『君、去年はどうして落ちたの? 調子でも悪かった?』と訊ねられて。『いえ、去年はトランペットで受けて』と言うと、『トランペットだなんて! 君は素晴らしいダイヤモンドを持っているんだよ!!』とおっしゃってくださったんです」
──「田口興輔先生と。
向かって右側から、カワイ・アメリカのトップ調律師でテノール・村上達哉さん。新国立劇場合唱団テノール・渡辺文智さん。小生。田口興輔師匠。テノール・大間知覚さん。テノール・小林祐太郎さん。」
「その後、田口先生ご出演の演奏会に行く機会がありました。ぐるーぷなーべの本番で、新宿文化会館の大ホールで、オーケストラの伴奏で皆さん歌われるという、とても豪華な演奏会だったのですが、そこで田口先生が《トゥーランドット》の〈誰も寝てはならぬ〉を歌ってくださったんです。そしたら、デル・モナコと同じ声……いや、同じ〈音〉だったんです。そう感じました。
僕も、あの〈音〉を追い求めたい──。そう思い始めました。そして次の年の受験では、国立音楽大学の声楽科を受けることに決めました。でも、実はトランペットも諦めきれなくて、東京芸大の別科に出願していたんです。そしたら、別科の受験の前日に、山梨に大雪が降ってしまい、全く身動きが取れなくなってしまったんです。降り止まない雪を眺めながら、『ああ、これは運命だ。トランペットじゃなく、歌でいけってことだ』と、腹を括ったのを覚えています」
マリオ・デル・モナコの黄金のトランペットの音色に導かれ、本来ご自身が進まれる道と出会った小林さん。こうして雪の降り積もる中、最初の大きな決断の瞬間を迎えられました。
テノールからバリトンへ──アッリーゴ・ポーラ先生のひとこと
そして、晴れて国立音楽大学声楽科に合格なさった小林さん。そのスタートは「テノール」としてのものでした。
「今でこそバリトンとして活動していますが、最初はテノールだと信じていたんです。小中学校とずっと声は高かったし、自習の時間に声が通り過ぎて、先生に呼び出されて注意を受けるぐらいだったので、自分はテノールだということに、何の疑いも持っていませんでした。
けれど、大学生活が進むにつれて、どんどん声が苦しくなってきました。大学4年生の頃は《椿姫》のアルフレードのアリアを歌ったのですが、高いラのフラットでも精一杯。なんとか乗り越えましたが、テノール歌手としての自分に疑問を感じたんです。
大学を卒業してからは、とある男子校で非常勤講師として授業を受け持つことになりました。ちなみにこの時も、父は音楽を続けることに反対で、ある報道機関に僕を入れたかったみたいなんです。でも、僕は反発して、自分で道を切り拓きたかった。だから、いろんな仕事をしながら模索を続けていました。
今にして思うと、『音楽の道を断たなきゃ』って思いながら動いていたように感じます。歌っているのが、辛かったんです。でも、そんな僕の歌でも、求めてくれる人たちがいる。コンサートを開くと、喜んでくださる人たちがいる。板挟みの日々でした」
「だから、歌をやめるきっかけを作ろうと思って、同郷の友人でもあり、オペラ歌手でテノールの渡辺文智くんとふたりで、イタリアに行ったんです。細いつながりをたどって、アッリーゴ・ポーラ先生のレッスンを受けに、モデナまで向かいました。
それが、僕にとっては運命の出会いとなりました。レッスンが始まって、発声練習をして、ものの5分も経たないうちに『あなたはバリトンですね。しかも、とても輝かしく、伸びやかな声のバリトンだ。《セビリャの理髪師》はもちろん、マスネの《マノン》、それにモーツァルトは全部合っています……。でもヴェルディはちょっと違いますね。《椿姫》のジェルモンならいいでしょう、けれど50歳を越してからにしなさい』……と、僕の本来歌うべきレパートリーをずらずらずらっと並べてくれました」
──「アッリーゴ・ポーラ先生と。これは、来日された折にご一緒した時のもの。モデナのご自宅での写真は、イタリア珍道中の間に盗難に遭い、カメラごと紛失」
「歌をやめるつもりでイタリアに行ったのに、『ちゃんと続けなさい』と背中を押してもらえて日本に帰ってきたことは、僕にとって大きな転機でした。やっと見つけられた……という安堵感が、ものすごく大きかったですね。ポーラ先生がおっしゃってくださったアドバイスは、今でも守っています」
──「オペラ・デビューとなった《フィガロの結婚》アルマヴィーヴァ伯爵。(右下)」
「その後も高校の先生を続けながら、小さなコンサートを続けていって。そして、27歳の時に地元・山梨でおこなわれた《フィガロの結婚》で、アルマヴィーヴァ伯爵役としてバリトンデビューを飾りました。日生劇場のプロダクションがそのまま移ってきた《フィガロ》でしたね。懐かしいです。オペラをやっていきたいな、という気持ちが芽生えたのも、その舞台がきっかけでした」
──「松本美和子先生と。対決しているのは、指揮者の海老原光さん」
「その後、母の同級生でもあった松本美和子先生に、ご縁あってご指導を受けるようになって。美和子先生には、歌手としての〈品位〉を学びました。日本音楽コンクールの本選に3年続けて出場したのも、その頃のことでした」
時間をかけて、ゆっくりと選択を繰り返しながら、本来の道への歩みを深められる小林さん。その歩みは、次のステージへと向かっていきます。
転機、そして新たなステージへ
着実にバリトンとしての階段を登られる小林さん。その途中、試練の時もありました。
「35歳の時に、13年間勤めていた男子校の非常勤講師の職を解かれることになったんです。学校を共学にする方針が決まって、校舎の大規模工事が始まり、それと共に3年以上勤務した非常勤講師は皆、職を解かれるということが、上の方針で決まったとのことでした。その年には離婚も経験し、いろんな意味で再スタートの年となりました。
そこから30代後半は、日本オペレッタ協会やオペラシアター歌座、東京オペラプロデュースなどで舞台経験を重ねながら、実地の叩き上げでオペラの基礎を学んできました。
特に印象に残っているのが、日本オペレッタ協会でデビューした時の《メリー・ウィドー》。僕はカスカーダ子爵を演じたのですが、『ハンナ・グラヴァリ夫人のご到着!』という台詞が、稽古場でどうしてもうまくいかなくて、1時間ぐらいそこだけを繰り返したことがありました。かなり冷や汗ものだったのですが、周りの重鎮の先輩歌手のみなさんが暖かく守ってくださって。その優しさ、懐の深さは忘れることが出来ません」
日本オペレッタ協会公演で
その後も、ひとつひとつのステージに誠実に取り組み続ける小林さん。そんな中、大きな転機が訪れます。
「39歳の時に、舞台で僕を見た新国立劇場のプロデューサーでらした竹中史子先生が、僕のことをとても気に入ってくださったんです。当時は〈小劇場シリーズ〉といって、若手の登竜門としての性格も持った、実験的なステージがあったのですが、そこの《友人フリッツ》のダヴィッド役として出演してほしいので、劇場の試聴会を受けないか……という打診をいただきました。何も後ろ盾もなく、フリーでやっていたところに、自分とは縁遠いと思っていた新国立劇場の扉が開かれたんです。びっくりしました。
そして、オペラパレスで開催された、当時のオペラ芸術監督のノヴォラツスキーの試聴会を通過しました。この時には、《アンドレア・シェニエ》の〈祖国の敵〉と、《ファルスタッフ》の〈夢かうつつか〉を歌ったのですが、ノヴォラツスキーがとても感激してくれたことをよく覚えています。そして、ダヴィッド役での小劇場デビューと共に、オペラパレスでもカヴァーキャストとしての仕事を始めることになりました」
──「オペラパレス・デビューとなった《カルメン》エスカミーリォ」
「オペラパレスでの初仕事は、《カルメン》のエスカミーリォ。初めて稽古に参加した時のことは、今でも忘れられません。周りをずらりと取り囲むのは、指揮者、スター歌手の先輩たち、そして百戦錬磨の新国合唱団の方々。『どんなもんか』と全身くまなく見られているようで、内心、身がすくむ思いでした。
それでも、立ちの説明を受けて、それからすぐに立って動いて。無心で臨みました。歌い終わったら、大きな拍手が湧き上がりました。みんな笑顔で、『新国に、ようこそ!』って迎えてくれました。合唱の仲間たちも『ようやく、エスカミーリォが来てくれたね!』って喜んでくれて。みんなが暖かく、ふわっと受け入れてくれたのを感じられて、新国立劇場での仕事が始まったんだな…という実感が湧くのを感じました」
新国立劇場オペラパレスでの、華々しい初仕事。こうして、小林さんの人生の新たなステージが始まりました。
──「新国立劇場小劇場シリーズ《友人フリッツ》。ダヴィッドの小生とベッペの山下牧子」
「現在の妻と出会ったのも新国立劇場なんです。一緒に仕事もすることも多くありました。いつか、《カヴァレリア・ルスティカーナ》で僕がアルフィオをやって、妻がローラをやった時には、周りの連中にかなり冷やかされましたね。
それから、二期会にも所属するようになって。《蝶々夫人》、《金閣寺》、《トリスタンとイゾルデ》など、思い出深い作品を数多く演じる機会をいただきました。僕はずっと、イタリア・オペラへの憧れが強く、学生時代から学んできたのもイタリア・オペラが中心だったのですが、不思議と相性がいいのはドイツ・オペラのようです。現場で会うドイツ人の方にも、強いシンパシーを感じますね。これからもご縁のある作品と出会えるといいと願います」
そして、小林さんは静かな微笑みを浮かべられました。
伝えたいこと、歌っていきたい歌
──「夫婦共演の極めつけは、《カヴァレリア・ルスティカーナ》のアルフィオとローラ。トゥリッドゥは、アルベルト・クピード。」
今も劇場の最前線に立ち続ける小林さん。後進の若い歌手の方にはどんなことを伝えていきたいか、そしてこれからどんな作品に取り組んでいきたいかをお伺いしました。
「今の若い歌手の方々って、本当にレベルが上がりましたよね。知識も技術も、昔とは大きく変わりました。だから、一足飛びに大きな舞台に抜擢されるケースも増えましたよね。それはそれで、とても喜ばしいことだと思います。
ただ、若い方々には、そこに至るまでの道筋の中で、たとえ充分な実力があったとしても、機運が熟さなかったため、大きな舞台に乗ることが出来なかったという世代があったということも、頭の片隅に置いていただければ……と思います。舞台に乗ることが出来るなら、どんなことでもすると決めて、そうして実践を重ねても、その願いに届かない世代があったんです。それは時代のせいなのかもしれません。今では思いもよらないでしょうが、そんな人たちの歴史の積み重ねの上に、今の時代があるってこと、少しでも知ってもらえたら嬉しいです」
──「《魔笛》パパゲーノ。演出の栗山正良先生と、本番前に…」
「僕が新国立劇場をはじめとして、仕事を通じて学んだことのひとつは、細部こそを大事にしていくこと。たとえば、照明の当たる角度の重要性などです。同じ位置に立っていても、ほんの少しの角度の違いでまったく表情が変わってしまうんですよね。また劇場の中でも、舞台ではどの位置が声が飛ぶポイントかということを、先輩の歌い手さんから教えていただきました。こうした細かなことは全て、小さなことの積み重ねの中で身につけてきたことです」
──「合唱指揮者として、アマチュア・コーラス指導は大きなライフワーク」
「また、もうひとつ伝えたいのは、どんな小さなステージであっても全力投球してもらいたいということ。ある人にとっては、そのステージがオペラとの最初の出会いになって、新しい扉が開かれていくかもしれない。そんな一期一会の出会いを大事にしてもらいたいんです。僕自身も、ひとつひとつのステージを大事に積み重ねていく中で、様々な扉が開かれていきました。
オペラは敷居を下げなきゃいけない、って思われる人も多いかもしれないけれど、僕はそう思っていないんです。やはり品位や、特別な非日常感というのは、欠いてはいけないものだと思います。今はオンラインでの配信も多くなっていますが、それでも僕は〈生で感じる響き〉にこだわっていきたい。劇場でしか味わえない、体感できない響き、そして声の震えがあるんです。そんな〈生の感動〉を、若い歌い手の方々も、多くの人に伝えていってほしいです」
──「一番多く演じているのは、《椿姫》のドゥフォール男爵。ヴィオレッタは、エレーナ・モシュク」
「これから取り組んでいきたい作品ですか? そうですね、等身大の役をやっていきたいですね。来年には日生劇場での《ラ・ボエーム》でアルチンドロをやりますが、今の年齢になってくると、彼にすごく共感するところも多いんですよね……(笑) それと、ご縁があるといいなと願っているのは、《蝶々夫人》のシャープレス。ヤマドリはよくお話をいただくのですが、シャープレスはいつか演じられたらと思っている憧れの役ですね。
あと、これから積極的に取り組んでいきたいのはサロンコンサート。若い頃によく取り組んでいたのもサロンコンサートでしたが、これからはこういうコンサートを大事に育てていきたいです。また、ナポリ民謡やカンツォーネも積極的に歌っていきたいです。やっぱり、自分の原点がマリオ・デル・モナコの歌ったナポリ民謡だったので、もう一度その原点に立ち返りたいという気持ちが大きいですね。バリトンでどこまで出来るかわかりませんが」
そして、小林さんは晴れやかに笑いました。黄金のトランペットに導かれた青年期を経て、円熟の境地に至った今。そしてこれからの未来、小林さんがどのような豊穣の季節を迎えていかれるかが楽しみです。
小林さんの、今後のますますのご活躍を心よりお祈りしております!