劇場版『鬼滅の刃』泣けなかった理由。
初見で涙が止まらなかったと昨日友人が言っていたので、さっそく『鬼滅の刃』鑑賞しにいきました。1日はTOHOシネマズ1000円の日ですからね。
結論から言いますと、泣けませんでした。その理由を考えたいと思います。ネタばれしますので、これから御覧になる方はご注意ください。
◎私がハロウィンで着た衣装は丹次郎だったのか!(笑)
①初見だから、背景を理解するのに時間がかかる。
キャラクターのバックグラウンドを何も知りません。見ていくうちにわかっていくものだと思いますが、2時間では足りない。炭治郎の背負っていた箱の中に入っていた女の子は誰? 途中でわかっても、なんで竹を加えてるの? と、知らなすぎですね。
②闘いのシーンが苦手。
私は、闘いのシーンは苦手で、目を細めるため眠くなってしまいます。(自己都合)
③無意識の領域の「核」の話は?
実は最初ほうから、「この映画は子供の映画なのに深いな~」と感心しました。それは、「夢を見させて、無意識の領域を操作する」というコンセプトがあったからです。「インセプションだ!」とうれしくなりました。それぞれのキャラクターの無意識の領域が表現されるのですが、主人公の炭治郎の無意識領域は、晴れの日の「ウユニ塩湖」のように透明感があって、美しかったのが印象的でした。
そして、無意識の領域の「核」の部分を破壊すると、廃人になってしまうという説明でしたが、無意識の領域の話はいつの間にか「核」のことではなく、過去の記憶が映し出されるものになっていきました。それで、初見の私はキャラクターの背景をようやく理解することができました。炭治郎の家族が鬼に襲われて、それで鬼成敗のために無限列車に乗ったのかと。(遅)
夢から覚めるためにどうしたらいいのか? と考えた丹次郎が、「自分の首を夢の中で切る」という発想に至ったのは、なるほど!と思いました。そういえは、映画『インサイドヘッド』の中でも、夢の中から目覚めさせるためにホラー映画を上映するというのがあったことを思い出しました。夢って、びっくりすると目が覚めますからね。
④初見の人にとっては展開が早い
煉獄さんの物語だったのかと、最後のほうでようやく気付くのですが、そこに気づかないままであった理由があります。煉獄さんと炭治郎が電車の中で出会ったシーンで、煉獄さんは人の話を聴いているんだか、いないんだか、アイコンタクトを取らない人物で、面白キャラクターになってたからです。ラストの闘いシーンは、有終の美を飾る素晴らしいシーンなのですが、突然シリアスなムードはちょっと伏線として弱かったのかもしれません。
⑤悪者である鬼が、敵である人間たちを褒めている。
しかも、褒めすぎなのです。一方では、敵であっても相手を認めることの大切さを表現しているのかもしれません。子供たちに大切なことを教えているのでしょうか。
⑥煉獄さんのことを知らないため、感情移入ができない。
最後の戦いのシーンはアニメファンなら大号泣のところだと思いますが、煉獄さんのことを知らないため、感情移入まで至れず。しかし、人間として後世に自分の生き様や遺言を伝えていくことが、生きた証になるということの大切さを物語っていました。丹次郎は子供のため、泣き叫ぶことで精いっぱいで、自分の無力さにも泣いていました。そのまま映画は終わっていき、『炎』が流れ始めます。あれ、終わっちゃったの? となりました。
ということで、泣けた方のレビューも、泣けなかった方のレビューも、YouTubeの解説も、鑑賞後に一気に観たりして、一通り理解をしたところです。いろいろな価値観があることを理解したことが、映画を見てよかったことですね。「俺と君とでは物事の価値観が違うようだ」と煉獄さんも映画の中でおっしゃっていましたし。(笑)
あなたは泣けるでしょうか?