『奥の細道』の謎と芭蕉の素性
https://ameblo.jp/atobeban/entry-12013285841.html 【『奥の細道』の謎と芭蕉の素性①[服部半蔵と松尾家]】 より
月日は百代はくたいの過くわ客かく(旅人)にして、行きかふ年もまた旅人なり
この名言を残して江戸を旅立った天才俳諧師。ご存知、松尾芭蕉です。
しかし、『奥の細道』として知られる陸奥・北陸への旅は、東北や北陸諸藩、とくに仙台伊達藩の内情を探るための隠密行だったという説があります。
さらにはそこから派生して芭蕉は忍者だったともいわれます。本当に芭蕉は幕府の隠密だったのでしょうか。
彼は江戸・深川の芭蕉庵に居を構え、俳諧師として多くの門人をもったことで知られていますが、芭蕉が宗匠そうしょう(文芸の師匠)となるまでの前半生もまた、謎につつまれています。
今回は、『奥の細道』の謎と知られざる芭蕉の実像に迫ってみたいと思います。
芭蕉を寛永二一年(1644)の生まれとする説が一般的です。伊賀上野赤坂町(現三重県伊賀市)で土豪の家の次男に生まれました。生家の身分は農民ながら、名字帯刀が許され、士分待遇が与えられています。伊賀の土豪といえば、戦国時代、伊賀忍者として名を馳せた存在でした。そして、伊賀の忍者といえば服部半蔵。その服部家と芭蕉の松尾家とは親戚関係にあったとされます。そのことが芭蕉を忍者とする理由の一つとなっています。
https://ameblo.jp/atobeban/entry-12014113070.html 【『奥の細道』の謎と芭蕉の素性②[蝉吟と宗房]】より
芭蕉は本名を甚七郎(諸説あり)といい、元服後、宗房という諱いみなをもらいます。
そして、この名乗りを音読みした「ソウボウ」が芭蕉の初期のころの俳号はいごうとなりました。その松尾宗房は藤堂良よし精きよに仕えました。
当時伊賀は津藩藤堂家の領地で、良精は伊賀在住の津藩侍大将。芭蕉は良精の子息・良忠の近習となります。主君の良忠は俳諧を好み、蝉吟せんぎんという俳号をもっていました。
芭蕉はこの主君の影響で俳諧の世界にのめりこむようになったのでしょう。
芭蕉が「松尾宗房」の名で俳諧選集(当時の俳諧雑誌)に初めて投稿したのが二一歳の時。
このときの句に「旅の宿」という文字がみえ、すでに多くの紀行文を世に残した芭蕉の片鱗が窺われます。
しかし、二三歳の時に主君の蝉吟が死去し、二九歳になった芭蕉は故郷の伊賀をあとに、江戸へ向かいます。
芭蕉はこのころ処女俳諧集となる『貝おほひ』を完成させ、その後、この処女俳諧集は江戸で出版されています。
芭蕉は小脇にこの処女作をかかえ、俳諧師で食っていく夢を抱いて江戸をめざしたのでしょう。しかし、現実はそう甘くはありませんでした。
https://ameblo.jp/atobeban/entry-12014923536.html 【『奥の細道』の謎と芭蕉の素性③[神田上水のメンテナンス]】 より
芭蕉は小脇に処女作の『貝おほひ』をかかえ、俳諧師で食っていく夢を抱いて江戸をめざしたのでしょう。しかし、現実はそう甘くはありません。
地方から上京した現代の若者がアルバイトで日銭を稼ぎつつ、夢に向けて一歩ずつ近づこうとするように、芭蕉もこのころ、さまざまな職に就いていた事実が窺えます。
たとえば、芭蕉に医師の免許証が伝授されていることを示す史料もあります。
江戸出府後、食えなくなった際の備えとして、医師の資格を取るために励んでいた芭蕉の姿が想像できるでしょう。
また、延宝八年(1680)のことですから、芭蕉が三七歳の時。
そのころ彼は俳号を「桃とう青せい」と号していましたが、六月十一日と二二日付の町触れ(町奉行から町人に出された文書)に桃青の名がみえます。
町触れには、神田上水の総払い(いまでいう修理補修)をおこなうため、「相対いたし候町々は、桃青(芭蕉)方へ、きっと申し渡すべく候」と書かれています。
芭蕉は幕府の末端の役人として、上水設備の管理にあたっていたのではないでしょうか。
したがって、町奉行所は、神田上水沿いの町々に、芭蕉の管理下に入るよう触れ渡しているのです。しかし、このころ芭蕉は江戸の文壇である程度まで名をあげ、宗匠の地位にあったと考えられます。
同じ年の暮れ、彼は深川に草庵をむすび、本格的に俳諧師として活動しはじめるのです。
ちなみに、草庵は芭蕉庵と呼ばれますが、その名は草庵に植えられた芭蕉(バナナに似た多年草)に因み、そのころより芭蕉は「芭蕉庵桃青」と号すようになります。
やがて、生活にゆとりが生まれたのか、芭蕉は門人を連れ、幾度となく漂泊の旅へと出るようになりました。
かくして、日本文学史上名高い紀行文の名作『奥の細道』が誕生します。
元禄二年(1689)三月末、芭蕉四六歳の時、門人曾そ良らをともない、北関東・東北・北陸を巡りました。江戸の千住から美濃の大垣まで半年近い旅程でした。
ここで「芭蕉隠密説」の謎に迫ってみることにしましょう。
https://ameblo.jp/atobeban/entry-12016158222.html 【『奥の細道』の謎と芭蕉の素性④[神田上水と水戸屋敷]】 より
ここからは「芭蕉隠密説」の謎に迫ってみます。
そもそも、半年間、日本を半周する贅沢な旅の費用はどこから出たのでしょうか。
行く先々で曾良が托鉢して回り、当時一流の文化人だった芭蕉がやはり行く先々で揮毫きごうし、旅費を稼いでいた面はあったでしょう。また、いくばくかの貯えがあったのかもしれません。しかし、芭蕉はしばし旅にでています。それでも貯えはあったのでしょうか。
やはり、疑問は残ります。一方、前述したとおり、芭蕉は幕府の末端の役人として神田上水の管理にあたっていました。神田上水は小石川上水を基もとに発展したとされ、その小石川には水戸徳川家の上屋敷があります。
そこから隠密説は次のような推理を働かせるのです……
https://ameblo.jp/atobeban/entry-12016945426.html 【『奥の細道』の謎と芭蕉の素性(最終回)[水戸藩への手紙]】 より
そのころはまだ水戸黄門こと徳川光圀が健在でした。
そこで光圀は、俳諧の宗匠として売り出し中だった幕府の役人・芭蕉を小石川の藩邸へ招き、以来、光圀と芭蕉は交誼をむすびます。
その水戸藩の役目のひとつは、幕府にとって危険な“独眼竜伊達政宗”の子孫、つまり仙台伊達家の監視でした。
しかも、芭蕉が『奥の細道』を思い立ったころ、幕府は地震によって損壊した日光東照宮の改修を伊達家に求めていました。
ところが、仙台藩の藩士らはこれに反対し、藩内には不穏な動きがありました。
水戸藩としてはその内情を探らせたいものの、時期が時期だけに人選が難しいわけです。
その点、芭蕉が旅好きなことは周知の事実。文化人の彼が領内をうろついても怪しまれません。そこで、芭蕉の旅行のスポンサーに水戸藩が名乗りを上げる――以上が、芭蕉隠密説の概要です。その芭蕉は、江戸を発ってまず日光へ向かい、水戸藩ゆかりの寺・養源院ようげんいんへ入ります。
たしかに曾良の旅日記にも、芭蕉が江戸で預かった手紙を養源院へ届けた記述があります。
ここから先は読者の判断にゆだねたいと思いますが、その手紙には何が書かれていたのでしょうか。
はたまた、養源院で芭蕉は水戸藩側とどのような話し合いをもったのでしょうか。
そのあたりに真相が隠されているといえるでしょう。
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498746339.html 【「おくのほそ道」を考える~日光編⑤ 大楽院、養源院のこと】 より
引き続き、曽良の『随行日記』から考えたい。旧暦4月1日、つまり「立夏」の日である。
午前8時に栃木県鹿沼を立った芭蕉と曽良はお昼に日光東照宮に着いた。
清水寺ノ書、養源院ヘ届、大楽院へ使僧ヲ被添(そえらる)。折節大楽院客有之。未ノ下剋迄待テ御宮拝見。と、曽良は『随行日記』に記している。
芭蕉は浅草の清水寺から預かって来た手紙を「養源院」へ届け、そこからお使いの僧に案内されて「大楽院」へ行った。
あいにく先客がいて、午後2時まで待って、それから東照宮を拝見した、と書いてある。
大楽院は「別当寺」である。「別当」とは簡単に言えば一番偉い人だ。その人がいる寺を別当寺という。芭蕉は、その別当寺へ案内されている。かなりな好待遇、賓客扱いである。
ここの別当は皇族や貴族など高貴な身分出身の人が成るものだから、その人と面会出来るだけでも大したものだ。
養源院は東照宮の中にある水戸藩の寺である。
この水戸藩の寺に手紙を届け、わざわざ案内をつけられて別当と面会した…ということから、いろいろな憶測、…例えば「芭蕉スパイ説」などが起こっている。
ただ…、私はこう推理したい。
ここの東照宮の別当は代々、比叡山延暦寺東叡山寛永寺日光山輪王寺(「神仏習合」で江戸時代まで東照宮と輪王寺は一つだった。)この三つの「別当」を兼ねていたそうである。
(輪王寺の案内板に書いてあった。)
日光東照宮の別当と会ったと考えると、なにやら不思議な、きなくさい感じもするが、上野寛永寺の別当と会った、と考えるなら、日本橋や深川に住んでいた芭蕉であるから、さほど不思議なことではない。
江戸で、芭蕉と別当はすでに知り合いだった…という可能性だってある。
芭蕉は江戸で高名な俳諧師であったから、そういうことも十分にあっただろう。
別当などは優雅なものだから、夏は避暑を兼ねて、日光にいることが多かったのではないか。浅草清水寺は「天台宗」であり、延暦寺、寛永寺、輪王寺と同じ宗派である。
だとしたら清水寺は、今でいえば「グループ企業」のようなものである。
であるから、その手紙は浅草支店長から社長への手紙、報告書のようなもの…と考えてもいい。したがってこんな風に考える。
芭蕉「これから東北に旅に出る予定で、その時、日光にも寄ろうと思っているんです。」
清水寺の僧「それなら今、寛永寺の別当が、日光にいるんですよ。すいませんが、この手紙を別当にお渡しいただけませんか?」
芭蕉「お安い御用です。」
そしてなにがしかの餞別でももらい、芭蕉は手紙を受け取った。
日光に着いた芭蕉は、別当への取次、面会を頼みに養源院へ向かった。
なぜ水戸藩の寺、養源院へ向かったかも考えてみよう。
芭蕉は江戸に来て、宗匠になる前、つまり下積み時代、神田川の分水工事に携わった。
それは水戸藩の防火用水工事のための分水工事だったのである。
芭蕉と水戸藩と以前から知己があったのは間違いない。手紙の取次を以前から親しくしている水戸藩に頼んでみようと思ったのではないか。
芭蕉「別当様へ浅草の清水寺から手紙を預かってきたのですが、取り次いでくださいませんか?」
養源院「わかりました。使いの僧をつけて別当寺へご案内いたしましょう。」
そして使いの僧は手紙を持って、芭蕉たちを案内し、手紙を大楽院へ渡し、面会のお願いをした。
大楽院「わかりました。今、来客中なので、ちょっとお待ちいただけますか。」
その後、別当と面会した。
別当とはすでに知己を得ていたかもしれないし、江戸の高名な俳諧師がわざわざ江戸から手紙を持ってきてくれた、となれば一言、その労をねぎらおうと思ったかもしれない。
そんな風に考えてみたらどうだろう。
私は実際、日光を歩いてそう考えた。なかなかの推理だと思うがどうだろう。