今様奥の細道
https://tabi.page/ikoi98/okunohosomichi/7-kurobane-ashino.htm 【今様奥の細道 6】
4月3日-20日(新暦5月21日-6月7日)沢-大田原-黒羽-高久-那須-芦野
資料8
那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行に、雨降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行。そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬには非ず。
「いかゞすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此馬のとゞまる所にて馬を返し給へ」と、かし侍ぬ。
ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名をかさねと云。聞なれぬ名のやさしかりければ、
かさねとは 八重撫子の 名成べし 曽良
頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て、馬を返しぬ。
沢
矢板から長峰公園の裏側を通る峠の山道を越え、県道52号に出る。ゆるやかな切通しを越えると眼前は田園風景がひろがり、遠くを新幹線が横切っている。このあたりは沢・土屋地域で、江戸時代に開拓された不整形の田圃を整備した記念碑が建っている。沢三叉路を直進して新幹線をくぐり、道なりに右にまがっていくと沢宿にはいる。道の両側に清らかな水が流れ、松が植え込まれた品のよい家並みがみられる。
宿場のおわりで県道52号は右に曲がって佐久山に向う。芭蕉は反対の路地にはいって箒川にでたのだが、県道をすこしあるいて、左手にみえている観音寺に寄って行くことにした。黄金の観音が冬の斜陽をうけてさらに輝いてみえる。本堂のある境内も手入れがゆきとどいていてきれいだった。庫裏の裏庭に曽良の句碑がある。
かさねとは八重撫子の名なるべし
ここから大田原に着くまで、「かさね」の名はくりかえし見ることになる。
芭蕉のあとをおいかけて、沢の集落を通り抜け箒川の土手にでた。日がかなり傾いていた。大田原までまだかなりある。川に架かる橋の名は「かさね橋」。親柱代わりの自然石に蕪村の絵の銅板リリーフがはめ込まれていて、「かさね」をビジュアルに認識することができる。
薄葉
この橋から先は大田原にいたるまで、広域農道が一直線につづいている。そしてその道が芭蕉が歩いたはるか前に開削されていた日光北街道なのである。芭蕉が「野越にかゝりて、直道をゆかんと」した真っ直ぐな道は今もそのままある。ただし当時は草深い上に多くの道が迷路のように分岐していた原野につけられた道であったから、今のように目をつぶっても歩けるわけには行かなかった。実情は途中で一泊でもしたいくらいの難路であったようだ。「かさね」のエピソードを挿入してそれを牧歌的に編曲した。
薄葉の集落を通り過ぎる。右手に広大な敷地に立派な四脚門をかまえ、白壁土蔵をいくつも配した屋敷がある。玉生を出た芭蕉が薄葉の旧家で昼食をとったといわれているが、その旧家かもしれない。高性寺の樹高20mもある大きなカヤが目に付く。700歳をこえる古木である。芭蕉も見たであろう。道ばたには開墾記念碑や馬頭観音にまじって、豚供養碑というめずらしいものを見た。いずれも那須野ヶ原の昔の情景を髣髴とさせる史料である。その情景の核に「かさね」がいるのはまちがいない。
大田原
薄葉から那須塩原市一区町に入る直前に、曽良の句碑がある。句はもちろん「かさね」。昭和51年建立の新しい碑である。
その先右手に「なんじゃもんじゃの木」が赤い鳥居の傍に立っている。その昔、水戸黄門がこの地を訪れて、この木の陰で休息をとった折、供の者に「この木はなんじゃ」とたずねたところ、誰もわからなかったことから「なんじゃもんじゃ」と名付けられたという。正解はハルニレ(春楡)の木だそうだが、葉をすっかり落とした裸木では、いわれてもわからない。黄門も冬にきたのではないか。芭蕉がここを通ったのは水戸黄門が死ぬ11年前のことであったから、そのとき「なんじゃもんじゃの木」としてしられていたかは微妙である。
道は再び大田原市にはいって沿道に家が建ちこみ、景色から那須野ヶ原の「かさね」が消えていった。町中を通りぬけ神明町交差点で、右からきた奥州街道の旧道と合流する。芭蕉は奥州街道に移って金燈籠の前をとおり、蛇尾橋を渡って奥州街道ともわかれ、右に折れて黒羽街道へと歩いていった。金灯篭と松の木の影に隠れるように、後ろの塀にもたれて遠慮がちな芭蕉の足跡があった。
すでに芭蕉の気持ちは雲巌寺にあり、曽良の心は黒羽での情報収集の仕事に移っていた。
黒羽
4月3日
元禄2年(1689年)4月3日(新暦5月21日)、芭蕉と曽良は、黒羽に到着した。黒羽には二人の門弟が待っていた。俳号を桃雪、翠桃と名乗る1年違いの兄弟で、芭蕉を接待したときは29歳、28歳という若さだった。本名は兄が鹿子畑高勝、弟が鹿子畑豊明、共に「桃青」の一字をとって桃雪(他に秋鴉)、翠桃と号した。兄高勝は黒羽藩城代、浄法寺茂明の家老で、家督を譲られ「浄法寺」の姓を継いだ。弟豊明は余瀬白旗城の城主大関氏(後黒羽城に移転)の家臣である。
芭蕉と曽良の二人は4月3日(新暦5月21日)から4月20日(新暦6月7日)の半月間もこの黒羽に滞在したわけだが、その間何をやっていたのか、曽良随行日記を参考にして芭蕉みずから語ってもらうことにしよう。一説によると、曽良が隠密の公務を帯びていて仙台藩の動向を探るためにここにキャンプを張ったといううわさがある。芭蕉には関係のないことなので深入りしない。
日光から来る途中、玉生で一泊した後、玉生-(9km)-鷹内-(4km)-矢板-(4km)-沢村-(9km)-大田原-(8km余り)-黒羽、とたどって35kmの道のりを歩いてきた。天気は快晴だったとはいえ、草深い山道に加え、道が縦横にわかれていて迷いやすい那須野の原をよく歩いてきたものだと思う。
曽良の日記には書いていないが、途中で馬を借りたときのこと。後を小さな子供が二人追ってきて、その一人に名を聞くと、「かさね」といった。あんまり名前がかわいかったので、思わず曽良が一句したためた。その句碑が翠桃邸のすぐ近くの西教寺にあるから見てやって欲しい。
かさねとは八重撫子の名成べし 曽良
西教寺の門前の道は東山道(関街道)といって源義経が通った日本で一番古い道。余瀬は粟野宿という東山道の宿場だったところ。その証拠になる「余瀬の昔」碑も道沿いにあるから写真に撮っておくとよいと思う。
曽良が自分で詠んだ句を日記に書いていないのはおかしいって?
時々二人の記憶に食い違いがあるの。旅の早々にも、私は草加に泊まったといってるのに、曽良は春日部だと言ってた。互いにいい年だし、その上ずいぶんと古い話だからそういうこともある。正直なところ、芸術的には私のほうが上だが、記憶は曽良のほうがよいと思います。
黒羽についたその足で黒羽城代家老・桃雪に挨拶に行った。そのときは立派な家だったが今は跡形もない。でも近くに直系の子孫がペンションを経営しているそうだ。今日は挨拶だけにして、2kmほど引き返したところにある余瀬の桃翠邸に泊ることにした。二人とも私を尊敬している弟子だから、歓待してくれると思う。近江でもそうだったが、私の旅は、各地にいる弟子廻りをしているみたいなもの。いろいろと助かる。
4月4日
あらためて桃雪邸に招かれていった。期待通り一日中もてなしてくれた。
資料9
黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信る。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに、日とひ郊外に逍遙して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて玉藻の前の古墳をとふ。それより八幡宮に詣。与一扇の的を射し時、「別しては我国氏神正八まん」とちかひしも此神社にて侍と聞ば、感應殊しきりに覚えらる。暮れば桃翠宅に帰る。
修験光明寺と云有。そこにまねかれて行者堂を拝す。
夏山に 足駄を拝む 首途哉
当国雲岸寺のおくに佛頂和尚山居跡あり。
竪横の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼梺に到る。山はおくあるけしきにて、谷道遥に、松杉黒く、苔したゞりて、卯月の天今猶寒し。十景尽る所、橋をわたつて山門に入。
さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。
木啄も 庵はやぶらず 夏木立
と、とりあへぬ一句を柱に残侍し。
4月5日
天気もよかったし、一同と雲巌寺まで日帰り遠足を楽しんできた。由緒ある山寺で、そこには仏頂和尚が住んでいた庵があるというので、それを見たかったのです。和尚とは深川での知り合い。和尚は歌1首を近くの岩に書き付けたといっていたが、今は境内に私の句碑と一緒になって刻まれている。
竪横の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし雨なかりせば
和尚の庵は裏山の岩窟に立てかけるようにして築かれていて、すごかった。 さすがのきつつきも、仏頂和尚の結んだ山居だけは遠慮してやぶらないだろう。一句できたので柱に書き残してきた。
木啄も庵はやぶらず夏木立
山居は書院の横の山道を登っていくのだが、今は残念ながら通行止めになっていて行けないから、書院のそばに句碑を建てておいた。
4月6日から8日まで
雨が続いて桃雪邸で休養した。新暦で云えば5月24日から26日。もう梅雨にはいったのかなあ。かなり退屈。
4月9日
外は雨だったが、光明寺の住職津田源光に招かれて行ってきた。住職は桃雪の妹の亭主。結局、昼から夜の8時頃迄いてしまった。光明寺は、文治2年(1186)に那須与一が建立したという古い由緒をもつ寺だったけど、その後廃絶して、永正年間(1504~1521)津田源弘により修験堂として再興された。行者堂には高足駄を履いた役行者(えんのぎょうじゃ)の像が祭られていたので、彼の健脚にあやかって旅の無事を祈願してきた。今はその時の一句の碑が立っているだけで、辺りは柿の木と畑だけ。寺跡を偲ぶものはありません。
夏山に足駄(あしだ)を拝むかどでかな
この句に決めるまで、実は他に試作品二つ詠んだのを、曽良が黙って書き留めておいた。舞台裏をみられて恥ずかしいけど、教えるね。
夏山や 首途(かどで)を拝む 高あしだ
汗の香に 衣ふるはん 行者堂
みなさん、どれがいいと思います?
4月10日
久しぶりに雨は止んだが、どこへも出かけず桃雪邸で終日すごした。
4月11日
桃雪のところが長くなって飽きてきたので、小雨の中を余瀬の翠桃邸ヘ移った。ここも桃雪の家跡よりもひどくなっていて田圃の真ん中に墓場だけが残っている。
4月12日
桃雪がやってきて、近くの篠原地域の史跡探訪に行こうと誘われた。篠原はさらに草深い原野で、いかにも狐が出そうな場所だった。
最初行ったところは犬追物(いぬおうもの)跡というところ。周囲を土手で囲った馬場で、狐狩りの稽古に犬を放して射るのだという。犬はたまったものじゃない。実際、次に出てくる伝説で、鳥羽院から九尾(きゅうび)の狐を退治するよう命じられた軍勢がここで猛訓練をしたのです。
次に行ったところが玉藻稲荷神社。玉藻とは九尾の狐が化けていた美女(玉藻の前)のこと。インドから渡ってきた九尾の狐が玉藻の前という名の美女に化けて、鳥羽院を暗殺しようと近づいた。正体がばれて、那須野に逃れた玉藻狐は犬追物跡で特訓した軍勢によって射殺された。その場所に神社が建ったというわけ。
話はまだ続きがあって、九尾の狐はその後巨大な毒石に姿を変え、那須温泉地帯へ飛んでいった。そこで毒気をまきちらして、人々から「殺生石」と呼ばれて恐れられたとさ。それを聞いて是非その石が見たくなったのです。詳しくは那須湯本にて。
4月13日
今日も天気良好。梅雨の中休みかな。門弟の1人、津久井氏(俳号翅輪)に誘われて、金丸八幡宮に詣でてきた。正式には那須総社金丸八幡宮那須神社という5世紀建立の古い神社だ。那須与一が源平・屋島の戦で、扇の的を射るとき「南無八幡大菩薩、…」と念じた八幡さまとはこの神社だそうだ。参道に高さ30mというサワラの大木があった。魚のサワラだったら知ってるけど、サワラという木の名前ははじめて。ヒノキに似ているようです。
那須の与一は弓の名人ですね。じっとしている男の子の頭に乗せたリンゴよりも波で揺れ動く扇の方が難しいと思いますね。
そんなことよりも隣にあった道の駅がきれいで大きくて素晴らしかった。そこでソバ食べた。
4月14日
外は雨。桃雪が手料理の重箱を持ってやってきた。この日、翠桃邸に7人あつまって、歌仙ゲームをやった。参加者は、私と、桃雪(「秋鴉」の号で参加)、翠桃、曽良、(津久井)翅輪、桃里、二寸。どんな句を詠んだって? 跡地に建ててある大看板を見て。
私もたくさん句を詠んだのだけど、その内、あまり大したことのない「朝日を拝む」句が明王寺の住職に気に入られて碑を作ってくれました。もう一つはまさに那須野の風景を詠んだ自信作ですが、碑はなぜか九尾の狐と一緒にいます。源実朝もいるからまあいいか。
秣おふ人を枝折の夏野哉 碑は篠原の玉藻稲荷神社に、
今日も又朝日を拝む石の上 碑は黒羽の明王寺にあります。
4月15日
雨も止み、昨日「行く」と約束した通り、昼から鹿助と一緒に、お別れの挨拶を兼ねて桃雪邸へ行った。曽良は持病がでて、ついてこなかった。仮病を使って、なにかこっそり内職でもしているのかな。
4月16日
半月も黒羽にいたのでそろそろ次のところへ行こうかと思う。桃雪が大名主・高久覚左衛門への紹介状を書いてくれた。翠桃邸で曽良を拾って、そのまま高久まで行くつもり。野間まで8kmも馬で送ってもらったので楽だった。曽良には又内緒だけど、この馬を引く男が「短冊に一句書いてくれませんか」とせがんだので次の句を書いてあげた。句碑が黒羽の常念寺にあります。馬の話は内緒が多いです。
野を横に馬牽むけよほとゝぎす
野間から高久まで、距離は10kmとわかっているが、道順をどういったのかよく覚えていない。なにしろ那須野はひろくてわかりにくいから。鍋掛・越堀の宿場を通った記憶はない。車でいくなら那須塩原まで一本道を西に行き、4号国道をすこし北上して旧道を黒磯市内を通って高久へいくのがよいみたい。とにかく、その夜は高久覚左衛門さん宅で泊めてもらった。
高久
4月17日
雨で出発する気がせず、今日は高久宅にひきこもっていた。ところで、野間は大田原より4km内で鍋掛より1km弱と曽良はいうが、野間と高久の関係はやっぱりよくわからない。野間のことなどもうどうでもいいと思うけどなぜか曽良は距離にこだわっている。
4月18日
朝地震があった。空は晴れ上がって気持ちよい。2泊もお世話になったお礼に、私と曽良の句を一句ずつ懐紙に書き記して主人に渡した。高久家の庭にはその句文碑が建ってあるし、同じ句碑が高久家の菩提寺である高福寺にもある。
落くるやたかくの宿の郭公 芭蕉
木の間をのぞく短夜の雨 曽良
正午頃高久覚左衛門宅を立って、松子村まで4kmほど馬で送ってもらった。今は赤松並木がきれいらしいが、当時はそんなものなかった。相変わらずの林と原野の連続。松子から湯本までは12km。いつの間にか沿道にいろんなものが建ったねー。高原のリゾート地帯に博物館や美術館が集まるのがよくわからない。「りんどう湖」というかわいい名につらされて貴重な時間を割いていってみたら、子ども向けの遊園地だった。別荘を売る不動産屋も多い。温泉付で安く売り出している広告をよく見かける。夏はいいけど冬が厳しいだろうな。永住するなら夏涼しくて冬あったかいところがいいのだけど。大ファンの高木美保さんはどこに住んでいるのかな。出会ったらサインもらおう。そんなことを考えながら歩くうち、午後2時半頃、湯本の温泉宿・和泉屋五左衛門方ヘ着いた。今日は坂道がきつかったので、温泉につかってゆっくりしよう。
那須
資料10
是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、短冊得させよと乞。やさしき事を望侍るものかなと、
野を横に 馬牽むけよ ほとゝぎす
殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどかさなり死す。
4月19日
この日も快晴。昼頃、温泉(ゆぜん)神社ヘ参詣した。大きな鹿が湯に浸かっている石像がおいてある。那須温泉は鹿と縁があるのだそうだ。それで、元湯の名が「鹿の湯」という。神社では神主の越中(宝井氏)が、那須与一が源平屋島の合戦で「扇の的」を射残した鏑矢などの宝物を見せてくれた。そこで一句。
湯をむすぶ誓も同じ石清水
めでたい句だというので、拝殿前の左側に大きな石の句碑を建ててくれた。これを横から見ると私が座ったように見えるらしくて、「翁石」とも呼ばれているみたい。翁にしては肌つやがいいでしょう。
その後、宿の主人、五左衛門の案内で殺生石やいろんな温泉六ヶ所をみてきた。殺生石はいまだ毒気があって硫黄臭かった。蜂や蝶が地面一杯に重なって死んでいた。「湯の花」というのも説明板を読んでどんなものか解かった。石や土の色が山吹色や灰緑色に変色していかにも毒々しい。昆虫だけでなく、人間もやられるのがわかる気がした。黒羽の篠原で殺された九尾の狐もここまで飛んできて、毒石に化けてここで悪さをし続けたのです。そんな印象を詠んで、近くの碑に残してきた。
石の香や夏草赤く露あつし
殺生石のある岸壁をどん詰まりとして、一帯は賽の河原とよばれる地獄の風景を作り出している。なかでも異様な景色が、河原の神社側に並ぶ数百とある石地蔵の群れだ。キャップや手ぬぐいをかぶり、みんな色とりどりの数珠を手にして空に向かって拝んでいる。よく似た構図の写真を思い出した。信楽の狸だ。
さて、ここから本格的な山道を登るとおよそ2000mの茶臼岳に行ける。私の目的は登山でないので、山へは登らない。今の人は車があるからうらやましい。ロープウェイを利用すれば頂上の1km下までいけるようになっている。それだったら私でもいけると思う。黒羽では紅葉がもう一息だったのに、ここではちょうど真っ盛りだ。幸いお天気も快晴だし、那須岳の山肌ははさぞかし多彩な色相を見せてくれることだろう。
4月20日
朝しばらく霧がでた。8時半頃、湯本を立った。一軒茶屋に追分がある。右がまつこ(松子)を経て高久に戻る那須街道。左はこや(小屋(現池田))を経て、漆塚(那須町寺子)に至る。漆塚から黒田原を通って芦野までは8km余り。湯本より昼間も暗い山道がつづく。
芦野
資料11
又、清水ながるゝの柳は蘆野の里にありて田の畔に残る。此所の郡守戸部某の此柳みせばやなど、折ゝにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。
田一枚 植て立去る 柳かな
野間から高久への足取りが判然としないと同様、二人の那須からの帰り道についても漆塚以降、芦野までの道順ははっきりしていない。芭蕉も曽良も口をつぐんでしまっているので、ここからは私が引き受ける。国道4号線の小島から黒田原までの道(28号線)は本当に山中を走っているようだった。実際、東北新幹線は28号線の手前から長い那須トンネルに入り、そのまま白河まで出てこない。地図に山の名前もなく、おそらく巨大な那須高原の下をくぐっているのだろう。
黒田原の町にはいって再びのどかな田園地帯に戻った。芦野町の直前で、黒羽からやってきた国道294号と出会う。遊行柳は町の北西にあり、294号を左におれてまもなく左手にみえるはずだ。芭蕉は芦野宿場街を散策したのか、どうか。それとも町に入らずに柳だけを見て白坂へ向かっていったのか。
芦野は古くから芦野氏の拠点として形成された村だが、江戸時代は奥州街道の宿場町として賑わった。特に関東最北の宿場として特別の意味を持った。栃木県までが関東で、福島県は東北地方になる。その境に白河の関があった。宿場としての芦野の紹介は「奥州街道」に譲るとして、ここでは奥の細道とのかかわりという点で遊行柳とその後ろにある大イチョウをみて、今年の奥の細道を終わることにしたい。
左に「遊行柳」、右に「上の宮のいちょう」の白標識が立った細道が田圃の真ん中にまっすぐ伸びている。中ほどに二本の木がこんもりとした茂みを形取っている。枝葉のようすからしてそれが大きな柳であることが遠くからでもわかる。微風にでさえも優雅になびく様はしなやかな女性のしぐさだ。芭蕉がその風情にこころを奪われている間に、隣の田に先ほどいたはずの田植え娘は仕事を終えて、姿を消していた。
田一枚植えて立ち去る柳かな 芭蕉
(2005.4.29)
芦野再訪。田植えの季節にやってきた。男ひとりと機械一台がみえるだけで、四方をみわたしても娘の気配すらしなかった。
そばに蕪村の句碑と西行の歌碑もある。室町後期、西行の歌を主題にして謡曲「遊行柳」が作られ、芦野の柳は「遊行柳」として知られることになった。
柳散清水涸石処々 (柳散り清水かれ石ところどころ) 蕪村
道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ 西行
謡曲「遊行柳」のことについては「謡曲史跡保存会」という団体が説明板にて説いている。私には、「ある、老人と遊行上人と柳の物語」以上の理解はできそうにない。
その後ろに見える丘陵は「鏡山」という。鏡餅のように扁平球状の山に付けられ、義経元服の池がある、近江中山道沿いにもある。麓に上の宮湯泉神社が鎮座し、そばにあるイチョウの大木は、高さ35mで目通りは6.1m――、依然として宇都宮新町ケヤキにはかなわない。
http://gree.jp/hibari_g/blog/entry/511807575 【松尾芭蕉は忍者!?】 より
今日は、真田信繁さんの質問に答えるブログです
『奥の細道』でお馴染みの江戸時代の俳人、松尾芭蕉は、忍者だったという説があります。
その根拠は、芭蕉が伊賀出身であること、無足人、つまり、農民でありながら、刀を持ち武士としての仕事も許され、名字も与えられていた家の出であることがあげられる。
しかも、41歳から51歳で他界するまでに何度も旅を繰り返した。
手段が徒歩の時代、しかも今より遥かに寿命の短い時代の晩年に、そんなことができるのは、忍者だからに違いない
という考えが起こっても不思議ではない。
一体どこから旅の費用が出て、どういう方法で関所を通ったのか?
バックに幕府からの各地の調査依頼があっての旅であろうと考えるのは、実に理にかなった解釈である。
ちなみに、TBSの『水戸黄門』の旅は、全くのフィクションで、光國自体は、人生の中で近場の旅を一度しただけだという。
しかし、芭蕉の旅は本物だ。
写真は私の流派、伊賀麻績服部流忍術(いがおみはっとりりゅうにんじゅつ)の発祥の地、長野県東筑摩郡麻績村の隣にある、あの有名な『姨捨山(おばすてやま)』で芭蕉が詠んだ一句である。
芭蕉が、伊賀流忍者が住んでいる地を訪れているのも、決して偶然ではなく、幕府からの監視業務の依頼があってのことだと、私は思っている。
だだ、芭蕉本人が忍の術を使えたかどうかは、私にも、わからない。
芭蕉の弟子、蕉門十哲の1人、河合曾良は忍術者だと、私は師匠から聞いている。
ちなみに、服部半蔵=松尾芭蕉というのは、ロマンのある話ではあるが、ない!!
服部は文字通り服部家。伊賀に住んでいたころの服部家は、千賀地家を名乗っていたのに対して、芭蕉の名は、伊賀藤堂藩の百地家の家系図にあるからだ。