おくのほそ道 芭蕉と曽良
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12531986880.html 【おくのほそ道、曽良のこと】
行き行きて倒れ伏すとも萩の原 河合曽良
今日は東京杉並区荻窪の「じっくりと読む『おくのほそ道』」講座の最終回。
私自身とても楽しめた。
1回2時間を4回、計8時間しゃべったわけだが、まだまだ話したりないのである。
よく俳句講座の人に、芭蕉の話をしている時、本当に楽しそうですね。
とか、「おくのほそ道」を話をしている時、本当に生き生きしていますね~。とか言われる。私も出来れば、ず~っとしゃべっていたかった(笑)。
最終回は「越後出雲崎」から「美濃大垣」まで。
「出雲崎」「市振」「敦賀」「種が浜」を集中的に話し、さびしさこそ詩歌の源泉であることを訴えた。
掲句は、「おくのほそ道」の同行者・河合曽良の山中温泉(石川県加賀市)での一句。
ここで芭蕉も曽良も体調を崩した。
特に曽良は体調悪化がひどく、ここで二人は別れ、曽良は伊勢長島へ戻ることとなった。
その時に詠んだのがこの句。
実はこの句、もとは、いづくにか倒れ伏すとも萩の原だった。
「曽良俳諧書留」「猿蓑」にはこのように書かれている。
おそらく、行き行きては芭蕉の添削であろう。
正直、曽良はあまり俳諧の才能があったとは思えない。
「おくのほそ道」でも、なぜ芭蕉は曽良のこんな句を載せるんだろう??と思うような句が多い。
また、芭蕉よりも体調が悪いのに、なぜ、芭蕉より先に出発したのだろう、という疑問もある。
しばらく山中温泉で療養すればいいではないか、と思う。
曽良は幕府の隠密であった、と言われているから、隠密報告の為、伊勢長島へ一足先に向かったのではないか、という説もある。
私も以前まで、その説を信じていたが、「曽良随行日記」を丹念に読んで考えが変わった。
曽良はなにより「実直」な人だった。
体調が悪いにも関わらず、芭蕉が訪れる地に先回りし、宿を押さえたり、お金を置いて行ったりしている。
芭蕉は、その「実直さ」を愛したからこそ、数ある弟子の中から、この旅の同行者に曽良を選んだのだ。そう思えるようになった。
曽良の元句、
いづくにか倒れ伏すとも萩の原 より、芭蕉が添削した、行き行きて倒れ伏すとも萩の原
のほうが格段にいい。
そういう意味では、曽良は決して優れた俳人(俳諧師)ではない。
しかし、曽良がいたからこそ、名作「おくのほそ道」が生まれたし、そのことを芭蕉も十分理解していた、と考えるのである。
http://okubasora.jugem.jp/?page=1 【おくのほそ道 芭蕉と曽良】 より
「おくのほそ道」本文(松島)
『そもそも、ことふりにたれど、松嶋は扶桑(ふそう)第一の好風にして、およそ洞庭・西湖を恥ぢず東南より海を入れて、江の中(うち)三里、浙江の湖(うしお)をたゝふ。嶋嶋の数を尽して、欹(そばだつ)ものは天を指し、ふすものは波に葡蔔(はらば)ふ。あるは二重にかさなり三重に畳みて、左にわかれ右につらなる負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉(しよう)汐風に吹たはめて、屈曲おのづからためたるがごとし。その気色えう然として美人の顔(かんばせ)を粧(よそお)ふ。
ちはやぶる神のむかし、大山(おおやま)ずみのなせるわざにや。
造化(ぞうけ)の天工、いづれの人か筆をふるひ詞(ことば)を尽さむ。』
http://okubasora.jugem.jp/ 【おくのほそ道」笠島の謎】
「おくのほそ道」の虚構
「おくのほそ道」は虚構に満ちた紀行文だ。元禄15年刊行されて以来文学作品としても、最高位に君臨し続けているが、その「虚構」は、文学的に必要な為という解釈が一般的と成っている。甚だ数の多い「虚構」の一つ一つを紐解く事は、私の能力では出来ない。
様々な「能力」を必要とすると思うが「土地勘」が無いと「トンチンカン」な解釈になってしまう。
「芭蕉は道を間違えた」の内容
私は平成11年に「芭蕉は道を間違えた」というホームページを立ち上げたが、最初は順次、私の地元である「宮城県」の「奥の細道」
を追記していく予定だったが、なかなか前に進まない状態で今日まで来てしまった。
最近又いくらかやる気が出てきて、資料集めをしている。
話を前に戻すと私の「サイト」は、「おくのほそ道」の道順違いについて書いてある。「奥の細道・笠島」の章段を取り上げたものだ。
「曽良の日記」が公表されそれが「本」として刊行されると、多くの人が「奥の細道」と「曽良随行日記」の食違いに注目するようになったと思うが、「名取の笠島」と「岩沼・二木の松」の位置関係を把握してない方には全く興味を持てない事柄だと思う。
道順違いは「笠島」の他二ヶ所あるが「土地勘」が無い為か、更に掘り下げてという考えが全く出てこない。「芭蕉の文学的表現」という言葉で終わらせたい。(これが誤りかも、土地勘のある方がやってくれる事を期待)
芭蕉の「虚構」はまず、「曽良旅日記」の存在を知らなかった時代「奥の細道」が刊行された直後から「曽良日記」が出てくる迄の間に人々は「奥の細道」をどの様に読んだか、つまり、「虚構」見つけて貰えるだろうか、との事が「芭蕉」の一番気にした可能性はあると思う。私達も「曾良随行日記」がなければどう解釈するかと考えながら読むことも重要と思う。
「奥の細道」後約75年経って優れた「解説書」が刊行された。数多くの資料を参考にして、長い年月を要して下記綴られた物で後の解説本はこの本を参考にしない物は一つもな無いとまで言われた。「蓑笠庵 梨一」の「奥細道菅菰抄」という本だ。
只、残念な事に梨一は「曾良随行日記」の存在を知らない。それでも、「奥の細道」についての虚構、疑問や記述の引用文、俳句についての解説、その他多くの研究点等現在でも通用する事柄は多くある。「曽良日記」公表以前に多くの人が「「おくのほそ道」をどう理解して読んでいたかが一番分かる本だと思う。
そして「昭和期」になって「曽良日記」の存在が人々の知るところ立なり「奥の細道」との食違いが数多く見つけ出された。
詳細はこのサイト記述しない。(数が多すぎる)
最初に殆どの人が冒頭の記述で頭を抱えた筈だと思う。
芭蕉の「おくのほそ道」旅立ちの日付と「曽良日記」の日付が違う。
芭蕉は3月27日、曽良は3月20日・・・・曽良の記述「ミス」が定説とされている。(曽良だけが千住に先行という説もある。)
私は曽良の「ミス」で済ませてしまうのはカナリ疑問が残る。曽良が書いたのは「日記」である。どう考えても「日記」の記述の最初の最初といえる「日付」を間違えて書く事は通常あり得ないと思う。又、曽良の先行説も少し不自然。
これについては何かあると思う。
それより重大な「謎」が「曾良日記」にある事に気づいた。
曾良は「奥の細道行脚」の同行者で「おくのほそ道」発刊後「芭蕉」程では無いにしろ、かなり「有名」に成っていた筈だ。
曽良は「奥の細道」刊行後1710年壱岐で客死するま迄の8年間何をしていたのだろう。
世間の人が「曾良本人」と知ったならば、必ず「奥の細道」の旅について色々聞いた筈だ。しかし、何も話さなかったと思われる。
「曽良日記」の存在も秘したようだ。
1.「曾良日記」が何故隠されてしまったか
2.「芭蕉」「曾良」の冒頭の日付
3.「名取の笠島」と「岩沼・武隈の松」の道順違い
4.「笠島の郡」 笠島が「右」と「おくのほそ道」だけに記述されている
以上「芭蕉は道を間違えた」で取り上げている主な内容を箇条書きにしてみました。
詳しくは下のサイトをよんで頂ければ幸いに思います。