東京 (16/12/20) 江戸城 (11) 外曲輪12門 / 外濠 (11) 大名屋敷 麻布
外曲輪12門
- 盛岡藩南部家麻布下屋敷 (有栖川宮記念公園)
- 一本松坂、麻布の一本松
- 暗闇坂、大黒坂、狸坂
- 賢崇寺
- 善福寺
- 仙台藩伊達家麻布下屋敷 (仙台坂、韓国大使館)
- 佐土原藩島津家芝三田綱上屋敷 (綱町三井倶楽部)
- 綱の手引坂
- 綱坂
今日は麻布周辺にあった大名屋敷跡を巡る。昨日は多くを廻りすぎて訪問記の編集が追いつかない。今日からは訪問記を現場で書きながら回る。
盛岡藩南部家麻布下屋敷 (有栖川宮記念公園)
当初の20万石の南部盛岡藩下屋敷は赤坂氷川神社付近にあり、屋敷に隣接した坂は南部坂として残っている。その後、1656年 (明暦2年) に、この地にあった播州赤穂藩浅野匠守麻布下屋敷と相対替 (等価交換) で浅野は赤坂へ、南部盛岡藩は麻布へ用地替えになった。
明治維新後の廃藩置県で盛岡藩はこの敷地を手放し、その後、1896年 (明治29年) に有栖川宮威仁親王 (幕末に東征大総督で江戸城入城した有栖川熾仁親王の子) が霞ヶ関の御殿から移動する際に代替地として御用地となり、威仁親王の生母の住居等が設けられた。1923年 (大正12年) に有栖川宮が廃絶した後は、同宮の祭祀を引き継いだ高松宮に継承され、1934年 (昭和9年) に高松宮より東京市に下賜され、公園として一般に開放された。屋敷内は、傾斜地を利用して渓流、せせらぎ、中州、池等を配した林泉修景式大名庭園の面影が残っている。
もう12月も半ばになったが、まだ紅葉は残っている。庭園内を暢んびりと散歩。気温は低いのだが、風もなく、日も照っており、寒さは感じない。
この南部藩の領地であった岩手県にある盛岡城と宿場町は東北の旅で訪れた。Tohoku Hokuriku 東北北陸の旅 34 奥州街道 (17/10/18) 志波城/盛岡城/盛岡宿
有栖川宮記念公園については港区が発行したザ・AZABUに記事が載っていた。わかりやすいものだったので、ここに掲載しておく。
[盛岡藩江戸屋敷: 外桜田上屋敷、鉄砲州中屋敷、麻布下屋敷、愛宕下屋敷]
一本松坂、麻布の一本松
一本松の坂を下り始めた所に一本松がある。現在は麻布の一本松と呼ばれているが、冠の松とも秋月邸の羽衣の松とも呼ばれていた。現代の松は 三代目か五代目と言われている。
この松に甘酒を竹筒に入れて収めると咳が治ると信じられていたそうだ。江戸初期には首吊塚とも呼ばれており、関が原の合戦で送られてきた首級を家康が検分し、埋めた所と伝わっている。他の伝承では平将門討伐の為に源経基が、将門の屋敷内を内偵しての帰り道、ここで装束をあらためた時に、脱いだ衣服をこの一本松に掛けたとも伝わっている。
暗闇坂、大黒坂、狸坂
この場所は四つの坂道が合流する場所で、江戸時代は樹々が生茂って暗かったと言う暗闇坂、途中に大黒を祀った大法寺がある大黒坂
それと人をばかすたぬきが出没したといわれる狸坂
賢崇寺
寛永12年(1635年)、鍋島藩初代藩主鍋島勝茂が疱瘡で亡くした息子の鍋島忠直を弔い建立し、以降、鍋島家の菩提寺となった。
鍋島家の墓には幕末の名君とされる10代藩主鍋島直正 (閑叟) の墓もあったのだが、1999年に春日山に移されている。
墓地には鍋島家関連の墓以外にも、二・二六事件で受難した「二十二士」も葬られている (十番だよりにこの説明があった)。
善福寺
大黒坂を下った所のある善福寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、東京都内では、浅草寺、深大寺に次ぐ古刹の一つ。824年 (天長元年)、 空海によって真言宗の寺院として開山され、鎌倉時代になって、親鸞がこの寺を訪れ、浄土真宗に改宗。その後、各時代の天皇や幕府などの保護を受けて発展を遂げた。
1859年 (安政5年) には日米修好通商条約で、ハリス一行の宿舎となり、初代アメリカ合衆国公使館として使われた。参堂入り口には碑が建てられている。1861年にはハリスの通訳ヒュースケンがここの公使館へ戻る際に攘夷派の浪士組に腹部を深く斬られ、善福寺内に運ばれ翌日亡くなった。また、福澤諭吉も出入りしていた。所属の薩摩藩士、伊牟田尚平・樋渡八兵衛らに、善福寺宿舎に運ばれたが翌日死去した。江戸時代の境内の全景と写真が残っている。
境内には親鸞のついた杖から生えてきたという伝説のある逆さイチョウが有名だそうだ。
弘法大師空海が柳の木の下で鹿島の神様に祈りを込めて錫杖を突き立てたところ、湧き出してきたという伝説がある柳の井戸が参道の途中にある。
墓地の開山堂の前に福沢諭吉の墓があった。
仙台藩伊達家麻布下屋敷 (仙台坂、韓国大使館)
南麻布に仙台坂と呼ばれる坂がある。この仙台坂の南側一帯は、江戸時代、仙台藩の麻布下屋敷が設けられていた。現在では、韓国大使館があり、大きな邸宅が立ち並ぶ閑静な住宅街になり、当時を偲ぶものは見当たらない。品川にはもう一つ仙台坂があり、それは同じように、仙台藩品川下屋敷があったことでつけられている。江戸初期の段階では4カ所だった仙台藩伊達家の江戸屋敷は、幕末には7カ所に増えている。
[仙台藩江戸屋敷: 外桜田上屋敷、愛宕下中屋敷、袖ヶ崎下屋敷、芝口上屋敷 (浜屋敷)、品川下屋敷、麻布下屋敷、深川蔵屋敷]
佐土原藩島津家芝三田綱上屋敷 (綱町三井倶楽部)
仙台藩伊達家麻布下屋敷から仙台坂を下り、そして日向坂を登りきったところに、三井倶楽部がある。この場所には江戸時代には日向国の佐土原藩島津家上屋敷があった。
日向佐土原藩島津家の始まりは1572年 (元亀3年)、木崎原の戦いで、日向一帯を治めていた伊東氏を、島津氏が破り、佐土原城には16代当主島津義久の弟の家久が入り、周辺一帯を治めはじめた。関ヶ原の戦いで一時的に幕府直轄地となるが、その後は、佐土原藩として1871年 (明治4年) の廃藩置県まで続く。江戸には三田二丁目に上屋敷、芝三丁目に中屋敷、白金四丁目に下屋敷を持っていた。現在、佐土原藩邸の敷地の大部分は、綱町三井倶楽部となっており、隣にはオーストラリア大使館がある。明治に入るとこの場所は蜂須賀侯爵家になり、後に大使公邸となった。町三井倶楽部敷地には長屋が残っていたのだが2009年頃に取り壊されてしまった。
綱の手引坂
佐土原藩島津家芝三田綱上屋敷があった綱町三井倶楽部から慶應義塾大学に通じる道は下り坂になっており、佐土原藩島津家の長屋があったところで、綱の手引坂と言われていた。これは、羅生門の鬼退治で有名な平安時代の勇士源頼光四天王の一人、渡辺綱が幼少の砌に姥に手を引かれて行き来したという伝説によるもの。
綱坂
綱の手引坂以外にも渡辺綱にかかわる坂がある。綱坂と呼ばれ、佐土原藩島津家芝三田綱上屋敷沿い東に通っている。三田綱坂、渡辺坂とも呼ばれる。渡辺綱がこの付近で生まれた、という伝説があり、それが坂の名の由来となっている。この地域の三田綱町も渡辺綱からきている。
あっと言う間に午後4時近くなった。もうすぐ日が暮れる。随分と日が短くなっているので、帰路につく。途中皇居越しに夕焼けが見えた。