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仙台藩のこと

2020.12.03 10:09

https://mdonchan.web.fc2.com/kids/senndaihann2-7.htm 【仙台藩と儒教】 より

1636年に、かねて国策として幕府が推進してきた鎖国令の新法が発令されて以来、キリスト教はますます排除され、国内は神道、儒教の色が濃くなります。江戸前期には、主要な学問とされた儒学の思想によって神道が解釈され、神道思想の中核を占めるようになりました。

これが儒家神道で、明確な廃仏思想に立脚し、朱子学や陽明学の立場から神儒一致的な神道思想を展開しました。

なかでも、朱子学系の吉川惟足(これたり)による吉川神道と、それを学び、神道を儒教流に解釈した、山崎闇斎による垂加(すいか)神道が代表的です。上下の秩序を重んじ、礼節を尊ぶ朱子学(しゅしがく)の思想は為政者に歓迎されて、封建社会を維持するための教学とされ、なかでも藤原惺窩(ふじわらせいか)以来の京学の系統は篤く保護されました。

闇斎は、朱子学でいう「天人合一」の原理を神道にあてはめて「天人唯一之道」とし、人間には神霊が内在していると説き、朱子学が重視する「敬」が神道の根本道徳であるとしました。また、「君臣の道」をひじょうに重視して、日本人として皇室をまもりとおさなければならないと強調します。その説には深い宗教性と強烈な尊皇(そんのう)愛国の精神によって全国に多くの門人をもつようになり、幕末の討幕運動の一大拠点となった水戸学派にも思想的影響をあたえました。

道徳性が極めて強く、神の道と天皇の徳が一体であることを説くことから、闇斎一門の崎門学(きもんがく)は尊王論の根拠ともなりました。

 この山崎闇斎の教えは、『動乱の世が終わり安定期に入った幕府をまとめるにふさわしい思想』と評価され、いくつかの藩においては、儒学思想にもとづいて家臣や領民を教化する政策を行ったり、儒学者を顧問にして藩政の刷新をはかったりしました。保科正之(ほしなまさゆき)(会津)・池田光政(いけだみつまさ)(岡山)・徳川光圀(とくがわみつくに)(水戸)・前田綱紀(まえだつなのり)(加賀)など、幕府重臣をはじめ、多くの藩主がこれを採用し、瞬く間に全国に広まりました。

保科正之は山崎闇斎に朱子学を学び、多くの書物を著しました。

池田光政は熊沢蕃山(くまざわばんざん)をまねいて、藩学花畠教場(はなばたけきょうじょう)・郷学閑谷学校(しずたにがっこう)を設けます。

徳川光圀は江戸に彰考館(しょうこうかん)を設け「大日本史」(だいにほんし)の編纂をはじめ、前田綱紀は朱子学者の木下順庵(きのしたじゅんあん)らをまねいて学問の振興をはかりました。

 将軍の徳川綱吉も湯島に聖堂をつくったり、儒教を盛んにして自分で四書五経を教え、仏教も盛んにしました。


https://mdonchan.web.fc2.com/kids/senndaihann3.htm 【仙台藩のお殿様 伊達政宗】 より

仙台藩の開祖(開いた人)となった伊達政宗は、永禄十年(1567)8月3日、伊達氏十六世輝宗の長子として米沢城に生まれました。母は山形城主・最上義光(もがみよしあき)の妹、義姫(のちの保春院)で、政宗の幼名は梵天丸(ぼんてんまる)といいました。

幼い頃に疱瘡(ほうそう)にかかり、そのため右目を失明してしまいます。政宗はこのことを常に気にしていたらしく、自分の死後、木造をつくるなら両眼をそなえたものにするようにと、遺言を残しました。

特に優れた僧であった虎哉(こさい)の教育を受け、仏教はもとより広く和漢の学を身に着けました。虎哉との師弟関係は、虎哉が慶長16年、82歳で死ぬまで続きました。政宗の深い学問と教養、人格は虎哉によって養われたといても過言ではありません。

伊達政宗と虎哉和尚

虎哉和尚は美濃の人で、禅を快川(かいせん)和尚に学んだひとです。政宗の父輝宗は元亀(げんき3年(1572)に、この虎哉和尚を招きました。そして伊達家の菩提寺である資福寺の住職とします。政宗は6才の時からこの虎哉和尚の教えを受け、虎哉和尚もまた終生、政宗の側を離れませんでした。

政宗は、父輝宗の冥福を祈って、米沢の遠山に天正14年(1586)、覚範寺を建てます。後に政宗が仙台に移ると、仙台にも覚範寺を建てて虎哉和尚を住職としました。

虎哉は師である快川和尚の意志をついで、関東での布教活動も行います。そのなかで、江戸に圓通寺が建立されました。政宗は、松島に圓通寺と同じ臨済宗妙心寺派(りんざいしゅうみょうしんじは)のお寺である、瑞巌寺を建てて、その開山となることをすすめましたが、虎哉和尚は、自分の弟子の雲居禅師を推薦して、自分は従来通り北山の覚範寺にとどまり、政宗の側近くにいることを望みました。


https://mdonchan.web.fc2.com/kids/senndaihann3-2.htm 【伊達綱村】 より

仙台藩・四代藩主・伊達綱村の政権は、延宝3年(1675年)、17才の時から元禄16年(1703年)、45才までの28年間続きます。その間綱村は、藩主への権力の集中をはかり、儒教を奨励し、禅僧に帰って仏教をまた栄えさせ、伊達家の祖先の歴史を明らかにするため、伊達家の歴史の編纂する大仕事を起こすなど、様々な政策を積極的に推進しました。

けれども、積極的な政策の推進は財政難を招き、また、あまりの放漫経営で、とうとう赤字財政になってしまいます。

財政難の理由としては、神社やお寺の建立、幕府から命じられた日光東照宮の改修工事、江戸屋敷の建築、それに領内土木工事などがあげられます。綱村の時代の総計43万両という累積赤字は、次の五代藩主の伊達吉村の代まで、仙台藩最大の課題として残されました。

仙台藩の4代目藩主である伊達綱村は大変学問が好きなお殿さまで幼いころから儒学を学び、

また仏教の教えも大切にしていました。

ですから仙台藩では、学問はとてもよいことだからとすすめ、はげまし、政治にも積極的に学問をとりいれました。

こうして仙台藩には儒学をはじめとする学者が藩士となってかつやくしています。

この綱村公の時代は仙台藩の最も栄えた時期であり、

文化や産業も一段と発達した時代であります。

江戸では5代将軍の徳川綱吉が湯島に聖堂をつくったり自ら儒教を教えていた影響もあって、

綱村公も自ら儒教を教え、神社をりっぱに建て直したり、お寺をつくることに力をいれました。

しかし、あまりの放漫経営(ほうまんけいえい:やりっぱなしで、しまりがないこと)だっため

財政は赤字になってしまいました。

綱村は16歳のとき、将軍家の取りはからいで、すでに幕府老中稲葉美濃守正則(相州小田原城主、九万五千石)の息女仙姫と婚約、延宝五年正月一日名を綱基から綱村と改め、次いで四月、婚約中の仙姫と結婚しました。このとき綱村は19歳でした。

綱村は当時の幕府の治政にならって藩主権力の集中をはかり、藩主に忠実な官僚を育成しようとしました。

伊達綱村の治世

綱村の治世は、延宝三年(1675年)から元禄十六年(1703年)までの28年におよびますが、その政治は当時の幕府政治の影響を強く受けて、藩主権力集中をはかったものでした。

綱村の時代はまさに五代将軍綱吉の時代に相当し、将軍の綱吉が治世のはじめ、延宝八年に譜代門閥の大老酒井忠清をしりぞけて将軍の主体性を確立し、その権力の中心となるものとして官僚体制の育成に努力しましたが、綱村の政治もほぼこれにならったものでした。

治世のはじめには、妻の仙姫の父である幕府老中稲葉正則が、綱村を指導しました。

正則は、当時の仙台藩は家中の派閥主義人事が激しいことを指摘し、重役の任用に当たっては、親類縁者の多いものは、自分のひいきでこれらを役人に登用して藩政を独占し、藩主の思うままにならない事態を生ずるおそれがあるから、なるべく避けるべきであると注意しています。

藩主の権力を確立するためには、親類縁者の多い譜代大身の者を重職に任用すべきではないというのです。

この後、綱村がこの方針を固く守り、翌5年5月の役人任用について「役人ノ事、筋目ニカカハラス、タトイ少進タリトモ人柄ヲ以テ吟味スヘキ」方針をあきらかにしたことは、藩主権力の中心となるものとしての官僚体制の育成を図ったものであり、近世的政治体制への方向を打ち出したものであります。

綱村の「賞罰厳明」

将軍綱吉の当時の政治方針に「賞罰厳明」ということがあり、幕臣の勤務・家政その他を厳しく監視して、賞するものには破格の賞を与え、少しでも過失のあるものには、みのがすことなく処分しました。

そのねらいは、将軍に忠実な官僚を育成しようとするものでしたが、綱村の政治方針もこれにならったものでした。

儒教・仏教の奨励(しょうれい)

綱村は幼少から侍講大島良設より儒教教育を受け、その教養はかなり高かったようです。

延宝三年九月、記録所を設置して文教の中心機関とし、ついで十二月、祠堂(しどう:孔子をまつる堂)を建設して儒教尊重の方針を明らかにしました。

藩主綱村の儒教奨励に刺戟(しげき)されて、領内にも学問の風がおこり、岩出山領主・伊達村泰は、元禄4年に学問所として春学館を設立し、翌年有備館と改称、佐久間洞厳をまねいて学問を講義させました。

伊達綱村ははじめの頃、儒書を熱心に学び、儒学を尊信した藩主でした。

ところが、徳川幕府が外様大名に対する統制といえる公儀によって、儒学を尊んで、信頼・信仰することや実践を抑制されてしまいます。その結果、綱村は次第に禅宗に関心をもつようになります。

そうして綱村は禅宗へ転心することになり、一時は禅宗だけにのめり込みました。しかし、後にこれを改め、再び儒学や神道の研究を行っています。

結果として綱村は、仏教・儒教・神教の3つを均等に取り入れた政治思想を持ち、晩年、綱村はこの仏教・儒教・神教の3つを均等に取り入れた政治思想を遺言として残しました。

仏教・儒教・神教いずれに片寄ってもいけないと戒め、儒教に傾いて仏教を軽視したり、仏教にとられて儒教を敬遠する風を避け、名儒名僧を抱えておくことが肝要であることを教えています。

闇斎と仙台藩

藩主の政治思想は、禅宗や真言宗などの仏教思想をよりどころにするところが多く、また仙台藩の儒学者が公の場で儒学をよりどころとしながら、自己思想の正当性を主張し始めたのは、財政難に苦しむ藩政の再建策が試行された享保時代になってからになります。

綱村の晩年、仙台では闇斎学が普及し、さらに学派を形成するようになり、学問所の設立にあたっては、儒学指南として藩教育の中心的な位置を占めるようになりました。

山崎闇斎は朱子学をかたく信じ、大事にしながら神道を修め、垂加神道を立てました。朱子学と神代巻の教えが不思議なほど非常に近く一致するという神儒一致の思想は、闇斎の死後、弟子たちによる多様な思想展開を準備し、闇斎学派の思想を高める潤滑剤ともなりました。

闇斎の説く神儒兼学の意味は、単純に一巡りして神代へもどってきたのではなく、神代を語ることによって“現実社会をより理想的に”捉えたことでした。

闇斎の神儒兼学の態度は、仙台藩の闇斎学派である遊佐木斎・佐久間洞岩の思想に受け継がれ、そのまま具体化されていきました。

儒学・神学を学んだ人たち

仙台藩における最高位の儒学者、田辺希賢と遊佐木斎・桑名松雲・佐久間洞岩、そして田辺希文らは神儒兼学をしていました。

垂加神道の紹介者として松雲や木斎の名がしばしば挙げられますが、彼らに神道勉学の契機を与えたのは藩主綱村でした。

また享保期仙台藩における神道の勉学者が一門・一族・一家をはじめ、大老・奉行衆をふくめた上層身分の人々でした。

つまり仙台藩に上層身分の人々の間に神道関心が高まり、垂加神道が仙台へ普及する基盤が形成されていたのです。

綱村公に仕えた仙台藩の代表的な学者

田辺希賢(たなべまれかた): 延宝7年綱村公は、自分の幼い頃からの儒教の先生であった大島良設(おおしまりょうせつ)に当時の儒学者を何人か推薦させました。その中から田辺希賢がえらばれ、綱村公に仕えて儒学を教える役目になりました。

希賢は元禄期仙台藩を代表する儒学者で、元禄8年には5代藩主である吉村公にも仕えて学問をおしえました。

遊佐木斎(ゆさぼくさい): 天和2年(1682年)綱村公は遊佐木斎を儒官に登用しました。

木斎は仙台藩ではじめて山崎闇斎(やまざきあんさい)の垂加神道(すいかしんとう)を講義しました。

佐久間洞厳(さくまどうがん): 幼いころから書と画を学び、格調高い技法を示しました。遊佐木斎の弟子になって儒学を学んだ仙台藩中期の代表的学者で、綱村公から学識・人格をみとめられて木斎の藩史へんさんの仕事を手伝いました。

また、領内では綱村公の刺激を受けて学問の風がおこり、岩出山(いわでやま)領主の伊達村泰は元禄4年、学問所として春学館を設立し翌年有備館と名前を変え、佐久間洞厳をまねいて学問を講義させました。


https://mdonchan.web.fc2.com/kids/senndaihann3-6.htm 【伊達吉村 ・・中興の栄主(ちゅうこうのえいしゅ)】 より

仙台藩の5代目藩主である伊達吉村もまた、とても頭のよいお殿さまでした。

仙台藩の財政はこれまでの赤字をかかえて、とてもきびしくなっていましたが、

吉村公は財政難の克服につとめました。

綱村公は「儒教、仏教、神道のいずれにもかたよってはいけない」と吉村公に遺言をのこしました。

吉村公は綱村公の遺言をよくまもり、また、学問を奨励(しょうれい:よいことだからそれをするようにすすめはげますこと)しました。

吉村公のときにつくった学問所は、7代藩主伊達重村(だてしげむら)のときに養賢堂(ようけんどう)という藩校(はんこう)になりました。

吉村の出した「百姓条目」

1719年(享保4)吉村は農民たちの生活を制限した「百姓条目」がだされました。

・武士に無礼なことをしない。

・家は天井、長押(なげし)をつくらない。

・田畑を売買しない。

・衣類は木綿以外着ない。

・かご(乗り物)にのってはいけない。

・お祭り、葬式、結婚などはすべて百姓の身分にふさわしいものにする。

・ぜいたくをしない。

・うそをつかない。

吉村の政治思想

吉村藩政期には、綱村時代からの財政難の克服に精力が費やされ、吉村は新しい再建策を次々と打ち出します。その財政難の克服のため、失策と新政策の考究の繰り返しのなかで、儒学のもつ社会的有効性を主張する学校建設案が登場してきます。

ようやく財政難の克服に成功した元文元年(1736年)に仙台では、学問所が設立されます(後の養賢堂)。

仙台藩の仏教界の動向をみると、藩主吉村は仙台藩領内において、最優先的に尊重すべき対象が、一門や家臣らではなく寺院であることを定め、十七箇寺が仙台藩の最高家格である一門衆よりも上位に位置づけられました。

吉村の藩政末期、元文二年には仏教寺院の序列化が定められ、以後時代とともに序列は細分化していったようです。

吉村公に仕えた仙台藩の代表的な学者

芦東山(あしとうざん): 幼いころから学問好きで、9歳で経書(けいしょ:儒教の教えが書いてある中国のむかしの書物)を学び、医術、兵法をも修めました。藩もその優秀さをみとめて、藩の費用で田辺希賢に学ばせていました。享保6年に仙台藩の儒員になりました。

田辺希文: 希賢の子で、吉村公に呼び寄せられて儒臣になり、享保19年に吉村公の子の宗村(後、6代藩主)の師範役になりました。

高橋玉斎

(たかはしぎょくさい): 藩の儒員で、侍講(じこう:君主に仕えて学問を教える役目)も兼ねていました。享保20年には学問所の設立を申し述べました。48年という長い間、仙台藩の弟子たちの教育にあたりました