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東京 (18/12/20) 江戸城 (13) 外曲輪12門 / 外濠 (13) 大名屋敷 品川

2020.12.19 10:49

外曲輪12門

今日は品川近辺の大名屋敷跡を巡る。


熊本藩細川家戸越下屋敷 (戸越公園、文庫の森)

この戸越公園は江戸時代初期 (1662年 寛文2年に拝領) の寛文年間の肥後国藩主細川家下屋敷の庭園跡を利用して昭和10年に造られた品川区立の公園。この下屋敷は、その後、他の大名などに幾たびか所有者が変わり明治維新後は三井邸となった。三井家から東京市に庭園部分が寄贈され、庭園は池を中心に渓谷や滝、築山などの配置している回遊式庭園と整備されている。池は大名屋敷の時代のものが一部残っている。玉川用水から水を引いた品川用水の名残も残っている。区が管理している公園だが、ゴミ一つ落ちておらず、庭園もきれいに維持されていた。

庭園の入り口には薬医門 (正門)、冠木門 (東門) 等が残っている。この場所はかつての屋敷の中心部に近いので、元々は別の場所にあったものを移設しているのだろう。

屋敷跡にはもう一つ公園がある。文庫の森で、国文学研究資料館跡地を整備し、2013年に開園。公園内には池があるが、これも江戸時代にあった庭園池の一部だ。

1890年に財閥三井家の所有となり、1918年に三井文庫が発足。現在は日本最古の壁式鉄筋コンクリート造建物として貴重な第二書庫が公園内に保存されている。

[熊本藩細川家江戸屋敷: 大名小路上屋敷、麻布白金村中屋敷、北八丁堀下屋敷、戸越下屋敷、目白台拝領屋敷、木挽町拝領屋敷]



戸越八幡神社

文庫の森公園の近くに神社があったので寄ってみた。戸越神社は1526年 (大永6年) が村内の藪清水池水源地に誉田別命 (応神天皇、八幡神) の神体が出現したのを見つけたので、草庵を作り、石清水八幡宮から分霊を勧請したのが始まりだそうだ。戸越は「江戸越え」の地ということで、エトゴエ がトゴエそしてトゴシとなったという。

この神社には庚申講中の狛犬 (写真右下) があり、そこそこ有名だそうだ。1746 (延享3年) に戸越村の村民がお金を出し合って奉納したものだそうだ。この神社はちょっと変わっている。拝殿の前の境内にはソファが置かれている。御祓の待合の為だそうだ。境内は庭の様になっており至る所にぬいぐるみが所狭しと置かれている。神社の建物も飾られて、少し面食らう。後で調べると有名なパワースポットで多くの人が訪れているそうだ。


薩摩藩島津家下高輪村抱屋敷 (関ケ原公園、作守稲荷神社)

大井川駅と立会川駅の間に島津家が1832年 (天保3年) に取得した抱屋敷があった場所がある。幕末の時期、藩主島津斉彬の父で前藩主の斉興が隠居後の住まいにしていた。抱屋敷ではあるが、約1万8千坪に及ぶ広大な敷地だった。敷地跡には、東京品川病院 (写真左下) が建ち、東海道本線、京浜東北線が通り、小さな関ヶ原公園 (写真左上) に案内板が立っていた。古地図を見ると屋敷内には川が横切っていたことがわかる。現在の地図では勝島運河となっているが、昔からこう呼ばれていたのかは分からない。ちゅど屋敷跡があった部分は立会道路という遊歩道 (写真右上) になっている。

線路を越えた反対側の敷地跡の端には、かつて屋敷内にあった作守稲荷神社が移設されてある。

[薩摩藩島津家江戸屋敷: 幸橋御門内上屋敷、芝新馬場中屋敷、下高輪下屋敷、中渋谷下屋敷、芝新堀下屋敷、裏町町並蔵屋敷、下高輪村抱屋敷]



仙台坂 (くらやみ坂) [2021年4月2日 訪問]

江戸時代に、この坂の中程から上にかけて仙台藩伊達陸奥守の下屋敷があったことから、東この坂は仙台坂と呼ばれてた。くらやみ坂の由来については掲載されているものは見当たらなかったが、そのような雰囲気の坂だったのだろう。

坂を登った所、かつての伊達家下屋敷の庭に樹齢300年のタブノキの巨樹がある。品川区の天然記念物に指定されている。



仙台藩伊達家大井村下屋敷 (大井公園) [2021年4月2日 訪問]

くらやみ坂と呼ばれた旧仙台坂の南側には陸奥仙台藩伊達家品川下屋敷があった。1658年 (万治元年)、二代藩主伊達忠宗の時代に麻布下屋敷を返上して、新たにここ大井村に拝領したのがこの下屋敷だ。次の三代綱宗は、不行跡を理由に1660年 (万治3年) 21歳の若さで隠居し、品川下屋敷に閉じこめられる処分となった。綱宗は生涯 (72歳死去) この下屋敷で過ごすことになる。四代藩主は2歳の息子 亀千代 (伊達綱村) に譲ったが、藩主が幼いことから有名な伊達騒動が起こる。1737年 (元文2年) 五代吉村のときに鯖江藩大崎屋敷と伊達家品川屋敷の大部分を交換し、間部家の下屋敷となり、残った屋敷は西国からの物資の集積所として使われた。その後、一部は再び伊達家の所有となり、第2次世界大戦後のしばらくまで、敷地一部は伊達伯爵邸として使われていた。下屋敷跡は大井公園となっている。

品川下屋敷には味噌醸造施設が造られ、江戸詰仙台藩士に供されていたが、江戸後期には、美味と評判になり、江戸市中にも売りに出されていた。この下屋敷は「仙台味噌屋敷」とも呼ばれていた。これを引き継ぎ、今でも味噌屋が仙台坂の坂上に残っている。

[仙台藩伊達家江戸屋敷: 外桜田上屋敷、愛宕下中屋敷、袖ヶ崎下屋敷、品川下屋敷大井村下屋敷麻布下屋敷、深川蔵屋敷]



土佐藩山内家大井村下屋敷、山内容堂 (豊信) の墓 [2021年4月2日 訪問]

大井公園内に土佐藩15代藩主 山内容堂 (豊信) の墓がある。脇には島津家から輿入れした13代豊熙の正室の墓、他に16代豊範夫人の墓、山内家合祀の墓がある。山内容堂は安政の大獄の時代、井伊直弼大老により隠居させれ、この地にあった大井村下屋敷に蟄居していた。この地が気に入ったのだろう、容堂の遺言によって大井村の下総山 (土佐山) と呼ばれていたこの地に葬られた。


東海寺

東海寺は臨済宗大徳寺派の寺院で、徳川幕府3代将軍家光により創建され初代住職は有名な沢庵和尚、元禄7年の全焼後には5代将軍綱吉によって再建されるなど、幕府による手厚い保護を受けていた。500石の朱印領と47,666坪に及ぶ広大な寺域を有していた。

近くにある寺の墓地には沢庵和尚や賀茂真淵、長州ファイブの一人で鉄道の父と言われた井上勝の墓がある。山口県萩市に一週間ぐらい滞在した際には、この井上勝の生家跡にも行ってみた。ここに彼の墓を見てそれを思い出した。

井上勝の墓 (写真左) の前には島倉千代子の墓もあった。


久留米藩有馬家中屋敷 (稼穡稲荷神社)

この辺りは東海道の品川宿があった場所で、旧目黒川の北側が北品川宿、南側が南品川宿で谷に戸で栄えていた。こちらは南品川宿に当たる。この地をいろいろと調べていると、六行会という団体に行きつく。この六行会は江戸時代1845年 (弘化2年) に創設されたもので、南品川宿の地主たちが災害に備えての互助基金だった。1855年 (安政2年) に積み立てた基金でこの付近の土地を購入したという。稼穡稲荷神社の案内板では薩摩屋敷から購入とあるが、Wikipediaでは佐土原藩抱屋敷から購入とある。残っている古地図ではここは久留米藩有馬家中屋敷となっている。現在も六行会は存在しており六行会ホールの運営している。穡稲荷神社の裏手にある品川図書館もこの六行会が運営していた荏川町文庫を寄贈したもの。江戸時代の庶民による基金で始まったものが現在でもこの地域に貢献していることは凄い。東京の史跡巡りをしていると江戸時代や江戸文化、江戸の町造りが現在の東京のベースになっていることがよくわかる。もっと言えば、江戸時代の江戸は現在の東京よりはるかに優れた町であったように思える。この稼穡稲荷神社はこの後に訪れる荏原神社の一部であったそうだ。その荏原神社の神主が六行会の創始者だ。


荏原神社

目黒川側にある荏原神社は709年の創建というから、かなりの歴史のある神社で、かつては南の天王社、貴布彌大明神とも呼ばれていた。1062年 (康平5年)、源頼義、義家の奥州安倍氏征伐に際しこの神社に参籠したと伝わる。(この前九年の役にかかわる史跡は関東にも多く残っている。最も戦の舞台は東北なので、関東にある史跡はその先勝祈願とお礼参りがほとんどなのだが....) 以降、源氏、上杉氏、徳川氏など多くの武家の信仰を受け、南品川の鎮守となった。


品川神社

1187年 (文治3年)、源頼朝が安房国の洲崎神社から、天比理乃咩命を勧請して祀り、品川大明神と称したのに始まる。鎌倉時代末期には宇賀之売命を、室町時代中期のには太田道灌が素戔嗚尊をそれぞれ祀った。1600年には徳川家康が関ヶ原の戦いへ出陣の祭にここに参拝して戦勝祈願、その後、祈願成就の御礼として天下一嘗の面と葵神輿などを奉納し、5石の社領の朱印を受けている。以後も、社紋を三つ葉葵を使うことを許される特別な神社とし徳川家の厚い庇護を受けた。

階段を上がった所には品川富士と呼ばれる都内最大の高さ約15mの富士塚があり、浅間神社も置かれている。

神社の下には北馬場参道があり、現在は賑やかな商店街になっている。


御殿山

太田道灌が御殿山城を構えていた場所とされ、徳川家康が江戸城に入ってからは品川御殿と呼ばれ、歴代将軍や幕府重臣が訪れていた。資料によれば御殿山城の正確な場所は不明で、この場所が推定値となっている。ただ、江戸時代の古地図では御殿山はこの場所ではなく、以前ソニー本社があった場所になっている。この御殿山は江戸時代初期から桜の移植がはじまり、江戸時代には桜の名所として知られたそうだ。

御殿山城推定跡地には御殿山庭園がある。江戸時代の古地図ではここは荒れ地だったようで、庭園などは存在していなかった。

東禅寺にあった英国領事館が襲撃のあと、横浜に移転後、この御殿山に新公使館の建設が始まったが、高杉晋作ら長州志士たちによって焼き討ちにあい、1866年 (慶応2年) にようやく新しい公使館が泉岳寺前に開設された。現在は御殿山庭園の他に御殿山トラストシティやマリオットホテルやなどがある。


薩摩藩島津家下高輪下屋敷 (ホテルパシフィックメリディアン)

薩摩藩下屋敷は幾つかあり、その一つが現在の品川駅の前にあるホテルパシフィックメリディアンや高輪プリンスホテルがある場所に広大な屋敷があったという。

江戸時代にこの近辺を描いた浮世絵がある。現在の品川駅は海だったことがわかる。現在よりずっと魅力的な場所だったのに、今はその面影などはなくなってしまった。

ホテルの庭園には自由に入れる。

庭園内には寺院建築が再現されている。奈良県生駒市の長弓寺にあった三重塔の初層部を購入しここに移設している。奈良市の念仏寺より移築された鐘楼、徳川将軍家の霊廟にあった山門なども移設されている。

[薩摩藩島津家江戸屋敷: 幸橋御門内上屋敷、芝新馬場中屋敷、下高輪下屋敷、中渋谷下屋敷、芝新堀下屋敷、裏町町並蔵屋敷、下高輪村抱屋敷]



柘榴坂

この下屋敷の南側には柘榴坂がある。浅田次郎の小説の柘榴坂の仇討ちの舞台となった所、小説自体はフィクションなのだが、彦根藩士が井伊直弼の下手人を藩の命で仇討ちのために探し、明治維新の廃藩置県後にこの柘榴坂で一騎打ちをするというストーリー。中井貴一と阿部寛の主演で見ごたえのある映画だった。


キリシタン殉教顕彰碑 (カトリック高輪教会)

徳川3代将軍家光は、キリシタン迫害政策を強化し、1623年 (元和9年)、宣教師を含む信者50名が小伝馬町の牢から江戸市中を引き回され、東海道沿いの札の辻付近で火刑に処せられた。柘榴坂を上がったところにあるカトリック高輪教会の聖堂前庭には「江戸の殉教者の顕彰碑」が建てられている。その後数年にわたり、女性や子供も含め、更にキリシタンをかくまった人々もまきこまれ、この地で100名近くの人々が処刑され、江戸全体では2000名近くの人が殉教したという。

殉教者の中には、中心的人物であった下総六万石の臼井城城主の長男で駿河城で家康に仕えていた原主水がいた。主水の部下であった岡本大八がキリシタンである事が発覚し処刑、そして上司であった原主水もキリシタンであったことから、両手の指を切られ、火印を額にあてられ追放、後に江戸送りとなり処刑された。その処刑地に向かう絵がある。囚人行列先頭の馬に乗せられているのが原主水だ。静岡の駿府城内の聖母幼稚園内に原主水の銅像が立っている。


仙台藩伊達家品川下屋敷 (清泉女子大学)

薩摩藩下屋敷の西、柘榴坂を上り、更に下った所には、仙台藩伊達家下屋敷跡があり、その跡地には清泉女子大学とその周りに住宅街が広がっている。清泉女子大学のある場所は島津山と呼ばれ島津公爵の敷地となった場所で、正門前には案内板が立っている。この下屋敷もかなり広い敷地だった。仙台藩はこの地以外にも麻布に下屋敷を持っていた。

[仙台藩江戸屋敷: 外桜田上屋敷、愛宕下中屋敷、袖ヶ崎下屋敷、品川下屋敷、麻布下屋敷、深川蔵屋敷]



今日は訪問記を書きながらじっくりと巡ったので、ここで時間切れとなる。ホテルへの帰り道で日没。銀座ではクリスマスのイルミネーションが輝き始めていた。今年は自粛の影響で、東京都内は例年のような派手な飾りは少なくなっている。