製鉄とキリシタン
https://mdonchan.web.fc2.com/kids/senndaihann2-5.htm 【仙台藩と宗教】より
製鉄とキリシタンのひろがり
仙台藩では製鉄地とキリシタンの関係が深く、製鉄の技術が受けつがれると同時に、キリスト教信者もふえていきました。
本吉郡、気仙郡、登米郡、東磐井軍などのあたりは、古くから鉄の産地として知られていました。日本では砂鉄を含んだ山や、海岸地方でとった鉄を運ぶのに便利なところに”とうや:鉄の精錬所)”が集まりました。砂鉄をとる方法は、鉄穴流し(かんなながし)といわれる方法で、傾斜のある山の南面に水を引き、山の立木を切り、表土をとりのぞいてその下にある鉄を含んだ土を掘りくずして流し、砂鉄を沈殿させてよりわけていました。たたら(鉱石をとかすための大きなふいご。昔の溶解炉)を築き、鉄山をやっていくためには、砂鉄は7里(約28キロ)以内から、木炭は3里(約12キロ)以内から運べるところに限られてくるのでした。
永録年間(1558~69年)の間に、備中国(岡山県)から千松大八郎(せんまつだいはちろう)と、小八郎(こはちろう)兄弟が、製鉄の指導のために訪れています。二人の”天秤流(てんびんりゅう)”という西洋流の製鉄技術はすばらしく、この地で以前の十倍もの鉄の生産量をあげたほどでした。この兄弟は熱心なキリスト教信者でもありました。
ルイス・ソテロとキリシタンのひろがり
ルイス・ソテロは、イスパニア(スペイン)の出身で、慶長8年(1603年)にキリスト教の布教の目的で来日しました。
慶長15年(1610)に伊達政宗の側室の病気の治療をきっかけに出会います。ソテロの紹介でブルギオという医者に病気を見てもらい全快したことから、政宗は厚くもてなし、ソテロは政宗の保護の下、布教活動を行いました。政宗はキリシタンに好意的で、洗礼は受けなかったものの仙台城の城門と本丸大広間には「キリシタン布教及び信教勝手たるべき」という張り紙をするほどでした。
元和三年(1617年)の記録では、仙台藩に教会7箇所、信徒750人余がいたと、残されています。
ビスカイノとサン・ファン・バプチスタ号
徳川家康はキリスト教を禁じても、貿易は奨励していました。とくにルソン(フィリピン)やノビスパニア(メキシコ)との貿易には熱心でした。ノビスパニアは世界でも指折りの金の産出国であり、家康はその技術をぜひとも取り入れたいと考えていたようです。ところが、当時ルソンはノビスパニアの支配下にあり、またノビスパニアはイスパニア(スペイン)の支配下にあったのです。イスパニアと交渉するためにはキリシタン宣教師も受け入れなければなりません。このようなことから家康は慶長18年(1613年)まで、キリシタン宣教師を追放しませんでした。
その頃フィリピンからメキシコに向かっていたスペイン船が房総半島沖で座礁し、フィリピンの臨時総督だったドン・ロドリコが助け出されました。家康がノビスパニアとの貿易の交渉を行うため、ロドリゴにあった時に通訳を務めたのがソテロでした。
ロドリゴはまず自分を本国に送り返してほしいといってきます。ロドリゴはイスパニアに帰り、その時の礼にと答礼使としてセバスチャン・ビスカイノが日本にやってきました。
慶長16年(1611年)ビスカイノが仙台にやってきます。目的は日本の東に金銀島という金や銀のたくさん出る島があると信じていたため、それを探し当てようとしていたのです。そのため、この目的は黙っていましたが、家康や政宗から日本東海岸の測量や探検の許可をもらいます。
ビスカイノは仙台、松島、瑞巌寺(ずいがんじ)を見て船で石巻を調べ、月の浦をサン・フェリペ、女川をサン・アントン、雄勝をレムス、気仙沼をサン・カタリナと名づけています。
幕府はノビスパニアに使節を派遣して貿易のことを相談させるために大きな船を作りました。この船にはソテロや支倉常長も乗りましたが、浦賀沖で座礁してしまいます。しかしこのころ幕府は、オランダとの付き合いを深めており、イスパニアにこだわる気持ちはうすれていました。
そこで、政宗は仙台藩で船を作り、伊達家のものを正使としてイスパニアに送ろうとします。幕府の許可を得て、慶長18年(1613年)3月のはじめ、桃生郡十五浜村呉壺(雄勝町)で造船が始められました。
この造船工事には幕府からの船出頭の向井忠勝が来て指導にあたり、船大工800人、金具職人700人、下働き3千人が動員され、5ヶ月かって横幅5間半(約10m)長さ十八間(約33m)500トンの日本で初めての洋式帆船が出来上がりました。この船の名前は「サン・ファン・バプチスタ号」といいます。
慶長18年(1613年)10月28日、正使、支倉常長をはじめ、伊達氏の家臣12人、向井忠勝の家臣10人、イスパニア答礼使のビスカイノ、宣教師ソテロら40人の外国人など総勢180人が乗り込み、牡鹿郡の月の浦(石巻)からバプチスタ号は出航しました。
そして慶長19年(1614年)1月25日バプチスタ号は90日の航海の末、アカプルコ湾につきました。
支倉常長と使節一行の行程
慶長18年10月28日
(1613年) 月の浦 出発
1614年1月25日 ノビスパニア
(メキ)シコ) 到着
1615年1月30日 イスパニア
(スペイン) イスパニア国王と謁見
8月22日出発
1615年11月3日 ローマ 法王に謁見
1616年1月7日出発
元和4年6月20日
(1618年) ルソン 到着
元和6年9月23日
(1620年) 長崎 到着
キリシタン弾圧
三代将軍家光のときに鎖国政策が取られ、キリシタン弾圧が厳しくなってくると、政宗も幕府の命令には背くわけにはいかず、領内のキリシタンの取締りをしなければならなくなりました。
信仰を捨てないものは厳しい処罰にあいます。迫害を逃れるために、信者たちは鉱山地帯ににげました。
伊達政宗に仕えた後藤寿庵(ごとうじゅあん)は、水沢市福原付近、千二百石の領主で、熱心なキリシタン信者でした。この寿庵にも、幕府の追及の手が迫ってきました。寿庵は仙台から追放され、寿庵とともに布教活動をしていたポルトガル人カルバリヨも13人の信者たちと秋田領へ逃げようとしましたが、厳しい取調べののちに、息を引き取りました。
仙台藩のキリシタン弾圧はその後、明暦(1655~57年)のころまで続きました。
現在、広瀬川大橋の下にこのときのキリシタン殉教碑が建てられています。
http://hibinokizuki0126.livedoor.blog/archives/7622694.html 【たたら製鉄と隠れキリシタンが松果体摂取で結ばれた大籠キリシタン殉教公園の歴史】 より
大籠(おおかご)キリシタン殉教公園は、岩手県一関市藤沢町におけるキリスト教布教と殉教の歴史を後世に伝えるために作られた公園です。ウィキペディアによると、江戸時代、大籠の一帯は仙台藩の領内であり、たたら製鉄を行う地として栄えていました。
たたら製鉄を行う製鉄所は「炯屋(どうや)」と呼ばれており、この炯屋を経営していた千葉土佐が、製鉄の技術指導のために備中国(岡山県)から千松大八郎・小八郎という兄弟を大籠に招きました。この千松大八郎・小八郎兄弟がキリシタンであり、この地で布教を始めました。
また、カトリック修道会のフランシスコ会のフランシスコ・バラヤス神父がこの地を訪れ布教にあたり、大籠のキリシタンはさらに増加しました。しかし、キリシタンの迫害はこの地にも迫り、キリシタン改めを行う台転場がもうけられ、そこで踏み絵などが行われました。
キリシタンであることが判明すると、打ち首や磔などにより処刑されました。寛永16年(1639年)から数年間で300人以上の信者が処刑されたと言われています。大籠キリシタン殉教公園の歴史は、「キリスト教」と「たたら製鉄」が結びついていました。
これまでのワークでは、「キリスト教」と「たたら製鉄」は、松果体摂取と関係していたと分かっています。秘密裏に人間を殺めて松果体摂取を行った後、遺体を処理するために、火を使う「たたら製鉄」は、非常に都合が良かったのだと思います。
次に、エネルギーワークに移りました。まず、大籠キリシタン殉教公園の全体に光を降ろすと「いいです」と伴侶が伝えて来ました。たたら製鉄とキリスト教を伝えた千松大八郎の墓は《千松大八郎の墓》に画像がありました。千松兄弟の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「いいです。松取り」と伝えられました。
千松兄弟は「松」の字を使っており、「松果体」を示唆しています。これまで松果体摂取に縁のある人物の名前や地名には「松」が付いていることがあります。「祭」「政(まつりごと)」「祀る」は、いずれも「松利(まつり)」「松利事(まつりごと)」から来ており、松果体利権を暗示していると感じます。
最高の闇の秘密を解明できるように「松」「まつ」がヒントとして残されたと思います。《その67.みちのくのパライソに行ってきました》に、大籠キリシタン殉教公園の史料館にあるフランシスコ・バラヤス神父の人形の画像が掲載されていました。フランシスコ・バラヤス神父の御魂が上がるよう光を降ろしました。
「裏のキリスト教の教義。いかに松を取るかが神への奉仕」と伴侶が伝えて来ました。隠されたキリスト教の教えは、「密かに多くの松果体を収穫することが最も大切」ということです。神への奉仕になる裏の教義があるからこそ、隠れキリシタンが実働したのだと思います。
1613年、仙台藩主・伊達政宗は、支倉常長らを慶長遣欧使節としてスペイン王国国王・フェリペ3世、及びローマ教皇・パウロ5世のもとへ派遣しましたが、失敗しました。使節の目的は、仙台領内でのキリスト教布教容認と引き換えにノビスパニア(メキシコ)との直接貿易の実施だったとされます。
メキシコの地は、ピラミッドがある場所であり、松果体利権を含めた利権の交渉だったと感じます。伊達政宗と支倉常長にも魂が上がるよう光を降ろしています。いずれにしても、岩手の地は、大事なシリウスの光がある場所なので、松果体摂取が集中的に行われ闇で封じてきたと感じます。
学校で習う歴史や世の中で常識となっている歴史は、その多くに真実が隠されています。現在のアドレノクロムに繋がる松果体摂取の闇を探求していくことで隠蔽された真実が明らかになっていくと感じます。一関市の地が開かれて光が広がっていくことを願っています。(おわり)
http://hibinokizuki0126.livedoor.blog/archives/5892368.html 【金山と繋がっていた隠れキリシタン】 より
岩手県の宮沢賢治に関係するエネルギーワークを終えた後、何か物足りない感じがしていました。ネットで「金山」をワードにして岩手県を調べて行きました。
過去のワークで、東北地方には「金山」があり、エゴの闇の要因の1つだと分かっていました。例えば、中尊寺金色堂を作った奥州藤原氏は、金山を抱えていたから出来たのです。
《佐比内・朴木金山(隠れ切支丹)を探す》(2013年5月9日time stop)の記事を見つけました。私にとっては、かなり衝撃的でした。金山と隠れキリシタンが繋がっていました。
「丹波弥十郎が引き連れてきた労働者には多くの切支丹(キリシタン)が含まれていたが、1度鉱山に入ると親殺し、主殺し以外が刑事訴追を拒否することが出来たのだ」。
「丹波弥十郎は京都生まれの佐渡金山の開発にも関係したキリシタン」「佐比内・佐比内金山を大判6500枚(6万5千両)の巨額で採掘権を落札した山師。南部藩の米穀収入の2.6倍の巨額」。
江戸幕府はキリスト教禁止令を出し、キリシタンに対して強硬な弾圧を行なっていました。丹波弥十郎が引き連れてきた労働者には多くのキリシタンが含まれていました。
地下でマリアを奉って祈り、捜査情報が入るとマリアを地蔵の頭と差し替えたようです。キリシタンは、純粋な信仰を続けるために金山採掘者の道を選んだのです。
2013年9月、佐渡巡礼の旅で、佐渡金山とキリシタン塚を訪れていました。その時は、何故、金山の近くにキリシタン塚があるのか不思議でしたが、分かりました。
また、2015年8月に、遠隔ワークで北海道道南の大千軒岳を解除しました。その際、松前藩による隠れキリシタン処刑の慰霊のために金山番所跡に十字架が建てられていたのを記憶しています。
山師・丹波弥十郎と金山と隠れキリシタンの関係から、純粋な闇がエゴの闇に封じられて来たことが暗示されます。続いて、光を降ろすワークに移って行きました。