Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

琉大事件を考える(仮称)

此花区高見*ラサ*『けーし風』第30号(2001年3月.特集:大阪のなかの沖縄)

2020.12.03 20:08

■座談会 三世代のユンタク 屋良朝光・金城馨・大城康代 司会・仲間恵子
「屋良 父、朝栄は此花区(当時は西成郡稗島)のラサ島工業で働いていた。北大東村のラサ島(現沖大東島)から燐鉱石を採掘してきて精製し、化学薬品や肥料などを製造している化学工場で、一九二〇年ごろにできた会社。労働者の八〇パーセントは奄美、沖縄の出身だった。先輩、知人、友人を頼って集団で生活圏を形成していた。ラサ工業のなかに県人会もあった。活動は親睦とともに労働者の権利を守る目的があったと聞いている。此花区ではラサに勤めているウチナーンチュは、借【ママ】家を借りるときに保証人が必要だったが、住友系に勤めている人は保証人はいらなかったらしい。[…]戦前、此花区の県人会には三〇〇人ぐらいおったようだ。会社ごとに県人会があった。戦後は帰還業務に協力をするために、県人会が強化される必要があった。終戦後の混乱期に県人会が海外から引き揚げたウチナーンチュの帰還に協力したことは評価されてもいいと思う。」(16)
●戦前、企業内県人会の存在。親睦団体であるとともに、労働運動も展開していた?

「金城 おじぃは蔑称だった「リキジン」と言われて、飲んだ勢いでガァーッとよう喧嘩していた。沖縄というのは差別される対象なんだと知って、マイナスイメージが自分のなかにつくられていった。[…]小学五年生のときに自己紹介したときに「沖縄出身」と言った瞬間に、教室に「あいつ沖縄やで」というざわめきが広がって、怖くなった。」(18)

「金城 高校では、自分たちで部落問題ゼミという選択制で単位制のゼミをつくってたりしていた。」(19)

「金城 自分の育った沖縄人集落は尼崎の武庫川の土手のそばにあった。隣には朝鮮人の集落もあった。よう朝鮮人と喧嘩したり、また、自分らが差別されてんのに、被差別部落の人のとこには行くなとか言っとった。貧しい者同士で、こっちがまし、あっちがましと比べ合ってた。喧嘩はやったけどよう負けた。朝鮮人にやられて、勝った思い出がない。」(19-20)

●沖縄人、朝鮮人、被差別部落民の集住の重なり

「仲間 一九七四年に起きた、ある沖縄青年の事件と彼の自殺がきっかけとなって、関西沖縄青少年の集い「がじゅまるの会」が結成されます。」(22)

●Y君事件 → 1974年がじゅまるの会結成

・集団就職者たちの姿

「屋良 ほんまに単純な連中ばかりやったな。そして根がいいから、引き受けるのも怖くなかったし、そう苦労でもなかったんよ。

金城 ようは怠け者。[…]当時、青年の世話をしてくれる先輩は屋良さんしかおらんかった。だいたいの先輩は、だらしのない奴と言って切り捨てた。」(22)

「屋良 […]ある時は、此花署からドラム缶で寝ている沖縄の青年がいるからと連絡を受けて引き取りに行ったこともある。」(23)

■私のなかの沖縄 諸見里芳美

「私は二二歳の時、集団就職で大阪に出てきたコザ出身の夫と知り合います。彼は大阪のなかで、沖縄に関する無知に怒って大阪中を走り回っていた人です。同世代の沖縄出身の人たちと「沖縄青年友の会」をつくり、紡績工場や病院などに就職した同じような沖縄出身者の問題や、復帰反対闘争、青年の事件など・・・、一つ間違えば自分自身に起こって当然のこととして取り組んでいたようです。」(26)

●集団就職者と「沖縄青年友の会」

●集団就職者が抱える問題を共有し、解決していく場が少しずつ作られていく。沖縄県人会はその場になりえていたのかどうか。

■沖縄からの集団就職――関西沖縄青少年の集い「がじゅまるの会」の結成 玉城敏則

「沖縄返還合意が発表されたあたりから七〇年にかけて、沖縄からの集団就職者の数は急増し、高卒者の数が中卒者の数を逆転して増加傾向を示していく。職種は、スーパーなどのサービス業、電気製品の製造・組立部門などの採用が増えている。

 高卒者について、沖縄の職安がまとめた数字によると、一九七〇年度の内訳は、就職組七、一一六人中三、九七六人、割合にして五六%と半数以上が本土への就職となっている。」(32)

●職安資料の確認必要。

「「がじゅまるの会」発足の準備は、集団就職先の確認と就職者名簿づくりからはじまった。沖縄県大阪事務所の協力を得て、山と積まれた資料を数人が分担して一枚一枚書き写した。[…]うち七割近くが返送されて戻ってきた。[…]不参加の理由はいろいろあったが、就職者の大半が六カ月以内でやめて、その会社や住所にいない、会社が理由のいかんを問わず受領を拒否したので本人に配布されなかった、などの理由が多かった。

 送付した葉書は、一九七三年一〇月一三日(日)のハイキングへの誘いだった。当日の朝、京阪電鉄京橋駅前広場に朝早く出かけた私たちは、沖縄民謡を流し、三線を弾き、カチャーシーパフォーマンスをやって呼びかけた。最終的に一四〇人が集まり成功した。このハイキングの反省会で「交流の広場」を作ろうとの提案が多数あり、一九七四年一月、約三〇〇人が集まり、関西沖縄青少年の集い「がじゅまるの会」として正式に発会した。当面は、ハイキング、新規就職者の激励会、エイサー祭り、成人式などの活動を方針として決めた。スローガンとして、

 一、沖縄の青年は団結しよう

 一、集団、単身就職者の生活と権利を守ろう

 一、沖縄の自然を守り、文化を発展させよう

 の三本をあげ、「沖縄青年として誇りをもとう」を合い言葉とした。そして、拘留中の身であった宮古出身のY君が第一審判決後の一九七四年六月、控訴審を前に「破滅を招いた世情を怒りつつ」大阪拘置所内で自殺した。この事件の根底に流れる沖縄差別への怒りと、第二、第三のY君を出してはならないとの思いを強めた私たちは、交流の場づくりに奔走し、一九七五年夏、「第一回沖縄青年の祭り」を開催した。」(32-33)

●経緯

1973年10月13日 ハイキング→「交流の広場」を作ろうとの提案多数

1974年1月 がじゅまるの会結成

1974年6月 Y君自殺

1975年夏 第1回 沖縄青年の祭り

「「祭り」とは団結の場であり、きょうだい同士のきずなをたしかめ合うところです。私たちは「祭り」を通して、同じ島兄弟(チョウデー)の中にある、宮古や奄美に対する偏見を乗り越え、沖縄そのものを発揮することによって、ヤマトの友人、さらには世界の人々とも、相互の理解と親しみを深めたいのです。(『がじまるニュース』第一九号、一九七八年一〇月一日発行)」(33)

■「祖国・日本」からの訣別と「沖縄人」としての「自立」が問われている! 崎浜盛喜

「このようなあまりにも耐え難い「ヤマトゥにおける沖縄人」の「現実」にこそ「沖縄問題の本質」があり、「沖縄返還」によっては「沖縄問題」が何一つ「解決していない」事を「沖縄の同胞・仲間」と話し合い、七三年一〇月に「関西沖縄解放同盟(準)」を、七五年には「関西沖縄青少年の集い・がじゅまるの会」を結成して一つ一つの「問題」に取り組んでいった。」

●経緯

1973年10月 関西沖縄解放同盟(準)結成

1974年 クブングアー(北恩加島・小林地区)の立ち退き問題を考える会 結成

1975年 北恩加島・小林町くらしを守る会 結成

■対談 二世の見てきた恩加島(オカジマ) 伊差川寛・金城良明 聞き手・金城宗和・仲間恵子

「金城(良) ウチナーンチュの仕事の中にね、「仲間出し」というのがあった。Uさんなんかはな、人を集めて、海軍省とか、そんなところの仕事を請け負うわけや。いわゆる「人夫出し」というのかなあ。うちの通りは、そういう人たちが集まってくるわけやから、それで行くわけや。そういう仕事をしているウチナーンチュもいたし、商売をする人もいたし、「かつぎ」も多かった。」(41)

「伊差川 俺の印象ではね、戦前の北恩加島というのはやねえ、アメリカの「西部の町」のようなものやねえ。とにかくいろんな所からやって来て、それこそ混沌として、喧嘩も多かった。親父は喧嘩をふっかけられて、勝ったわけやが、その後をつけられて、下宿へ入り込むと、家を間違えて、隣でウチナーンチュが宴会をやっているところへ、そのやくざがなぐり込みをかけてきて、隣で大ゲンカになって、よくあるアメリカ映画のような状態になった。[…]「賭けオオイ」というのもあった。賭けて喧嘩をするんや。この町は島のようなものだった。貯木場などがあって、掘ったり埋めたりの土木工事があったわけだから、いろんな業者、つまりやくざも入ってきただろうし、沖縄の人間も来るし、いろんな人間が混沌としていた状態だった。そういう意味では、「西部の町」のようなものだった。」(44)

「伊差川 いやあ、同級生なんかに琉球人て言われて、何のことを言っているのかなあ、ウチナーンチュと言われたらわかるけど、琉球人と言われても、そんな言葉を知らなかった。使わなかった。」(44)

「伊差川 戦後の恩加島はおもしろかった。馬力屋の馬力大会をやったり、相撲大会をやったり、運動会なんて、北恩加島小学校はすごかった。四階まで鈴なりで。

 それに、製剤所の台板を利用して、沖縄芝居をしょっちゅうやっていた。泉尾劇場でも大宜見小太郎がおった。玉川劇場やら、市岡キネマやら、わしの家は下宿人が多いから、しょっちゅう連れて行ってもらった。玉川劇場にも行った。」(45)








明治生まれの私の祖父母は

戦前、奄美から大阪へ移民。

私の祖父は、ここで働いていたそうだ。

私の祖父は、昭和18年に亡くなっている。

働き手を失い、奄美へ戻ることに