紅茶とマドレーヌとブラームスと -言葉にならない心の音-
ヴァイオリンソナタ第1番、雨の歌—
ものすごくブラームスのこのソナタに心を救われていた時期がありました。
"これほどまでに心の奥にある感情に触れるような、ハーモニーの移り変わっていく様がほかにあるのだろうか...."
最初の4小節を耳にしただけでタイムスリップして
別の世界に連れて行ってくれるこの旋律のもつ秘密の力のようなもの。
まるでプルースト のマドレーヌ—失われた時を求めてにて、主人公が紅茶に浸したマドレーヌの香りでタイムスリップしたように思い出にふける有名なシーンがあるのですが—
のようなこの雨の歌の冒頭。
心にスーッと入ってきて寄り添ってくれる、
こんな音楽を残してくれたブラームスやこの曲が受け継がれてきた数百年の中でさまざまな人の想いが積み重なって、今の時代にひとりのちっぽけな日本人のヴァイオリン弾きがこうしてこの曲に救われている、と思うと途端に感慨深くなり言葉にできない感情を抱くのでした。
自分の心の中に閉じ込めていた行き場のない想い、辛さも苦しみなどに寄り添ってくれ心を露わにできる唯一の居どころ—そしてその想いを一つ一つ外に連れだしてくれるような連なるここに書かれた音符たち。
そんな風に私のそばにいてくれたこの雨の歌。
このような曲に出会うとヴァイオリンを嗜むことのできる喜びとありがたみ、そして音楽家としての生き甲斐を感じるのです。
音に乗せてヴァイオリンで私の声として表現できる、というかけがえのないものが自分にある幸せをひしひしと感じていたあの頃....
そんな時に録ったものを久しぶりに聴いてみたので抜粋して載せてみます。
私の愛好する
プルースト の失われた時を求めての中には
ヴァントゥイユソナタに関する記述がたくさん出てくるのですが、
その一文に、これはまさにブラームスの1番の3楽章に重なるインスピレーションではないか、という文章があります。
小楽節はふたたびあらわれた。
だが今度はじっととまっているように宙吊りになってほんの一瞬たわむれるだけで、そこから消えていくためだった。
だからスワンはそれが続いているごく短い時間を少しも無駄にしたいとした。
小楽節はまだそこにいる。
虹色のシャボン玉が消えずに浮かんでいるように、虹の輝きが弱まり、低くなり、それから再び高まりそして消えてしまう前に一瞬これまでになく鮮やかに輝く、あの虹のように。
小楽節は、それまで2つの色しか見せてこなかったのだが、そこに色とりどりのほかの絃を、プリズムのすべての絃を加えそれらの絃を歌わせはじめた。
そこから消えるために、最後の輝きを見せる。
シャボン玉が虹の色を反射させたようにさまざまな彩りを見せながら、最後の最後に高みをみせて消えていく、という表現。
もう静まっていき終わりに差し掛かるというときに、感情が溢れたかのように高音で歌いあげ、でも消えていくブラームスのこのパッセージを思い浮かべざるにはいれません。
なんて儚い.......
シャボン玉、や色とりどりの絃を加えるという表現もこのあたりのパッセージのピアノとヴァイオリンの対話でシャボン玉が戯れているような様子を連想させてくれます。
プルースト がブラームスのソナタをヴァントゥイユのソナタ構想のために参考にしたのかというと、その可能性はあまりないと思われますが、
プルースト とブラームスの中にある内面的な心情描写、感受性に何か共通するものを感じ、
そしてそれに強く惹かれ時折彼らの作品感を重ね合わせてしまうのです。
人生のさまざまな瞬間を味わっていきながら、
一つ一つの音を大切に、
心のうちを音にしていきたいな
.....と、久しぶりにブラームスの雨の歌を聴いて
少しその時の気持ちをふと思い起こし切なくもなぜだかほっこりした感覚をおぼえる12月のパリのアパートから。
私のひとりごとにお付き合いいただきありがとうございます。
みなさんにとってのプルースト のマドレーヌ的な音楽はなんでしょうか?
岡村亜衣子