金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:下野編3
https://kachovisual.com/tabi_yukeba/2008/2008_0923_Konsei/2008_0923_01.html 【金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:下野編3 (その1)】
いよいよ金精峠に登りますヽ(・∀・)ノ
さて長らく続いたシリーズも今回で最終回となる。当初はこんなに長く続けるつもりではなかったのだけれど、調べだすと猛烈に奥が深いテーマで、結果的にレポートも長いものになってしまった(^^;)。
しかしまあ、そこはそれである。積み上げてきた史料も結構な分量になっているし、素人調査なりにひとつの結論を出してみたいと思う。そんなわけで美しいフィナーレ?を目指して、金精峠を目指してみよう。
出発したのは午前4:30。なんでこんな時間なんだよとツッコまないで頂きたい。一応ここは旅と写真のサイトなので、せっかく行くなら朝靄に煙る戦場ヶ原を見てみようか…という趣向のつもりである(^^;) まだ紅葉には少々早いのでいろは坂で混雑することはないだろうけれど、早めに上がってしまうのに越したことはない。
さて最終回は薀蓄(うんちく)も多くなりがちで話もややこしい。書き散らしてきた伏線も拾わなければならないし、そもそも小説を書いているわけではないのでストーリーを盛り上げてオチをつけるという訳にもいかない。でもなるべく破綻のないようにまとめてみよう。
まずここでは問題整理の意味をこめて、金精神社と道鏡にまつわる伝説について振り返ってみたい。もう忘れている方も多いかもしれないが、Wikipedia による金精神社の由来は以下のようなものであった(金精神社の項より)。
由来
金精神社の由来は、「生きた金精様」といわれていた道鏡の巨根にある。
奈良時代、女帝の孝謙天皇は巨陰であったため並の男根では満足できなかった。そのため、孝謙天皇は巨根の藤原仲麻呂(恵美押勝)を重用していたが、道鏡の修法により病気が治ると更に巨根である道鏡を寵愛するようになった。しかし、孝謙天皇の崩御後、道鏡は皇位を窺った罪で下野薬師寺別当に左遷されてしまう。大きく重い男根を持つ道鏡にとって、下野薬師寺までの旅は過酷なものであり、特に上野国(群馬県)より下野国(栃木県)への峠越えはとても厳しいものであった。道鏡はあまりにも自分の男根が大きく重かったため峠で自分の男根を切り落としてしまったとも、孝謙天皇に捧げるつもりで峠で自分の男根を切り落としてしまったともいわれている。その切り落とした道鏡の男根を「金精様」として峠に祀ったのが、金精神社の始まりとされる。
うーん…w 何度読み直しても凄まじい話だなぁ…(^^;) 思えばここから道鏡という奈良時代の僧に興味をもって調査を開始したのだけれど、案外日本史のメインストリームに絡む話で、どんどん調査のスケールが大きくなっていったのだった(爆)。しかし逆説的な物言いになるけれども、政権中枢に絡む話であったことが幸いして、歴史資料の少ない時代である割に潤沢な記録を参照することができたのは幸いだったといえる。
孝謙天皇が巨陰であったとか、道鏡が巨根であったというのが俗説であることは前回までの取材でほぼ結論が出ていると言っていいだろう。政争に敗れて下野国に下向した後、正史で悪役とされたことから主に説話集などで "女帝との色恋沙汰" が取り上げられ、次第に話に尾ヒレがついて、鎌倉時代初期の頃に俗説としての巨根伝説の原型が出来上がった。それが、どこかの時点で金精神と習合したのである。今回はそこを明らかにしていきたい。
ところで金精神社の由来にはもうひとつ重大なツッコミどころがある。それは道鏡が下野薬師寺に至るとき峠を越えたように書かれている部分が、史実として解釈するにはかなり無理がある点だ。
地図を↑再掲載して確認してみよう。当時の公道=東山道のルート上、上野国~下野国境は現在の太田市~足利市の境界付近にあたり峠は存在しない。もし日光経由で抜けるとすれば地形的に現在のR120に沿ったルートを通るのが最も自然なコースになるが、わざわざ峻険な山岳地を経由して遠回りする必然性はないだろう。
第一、道鏡の下向した770年当時は勝道上人による日光開山も道半ばで、男体山登頂は未完であるし中禅寺湖も発見されていない (もちろん街道など通っているはずが無い ^^;)。この状況下で上野国(群馬県)側から70歳近い道鏡がスタスタと山を越えてきたら、人生の全てを捧げて日光開山を目指している勝道上人(当時35歳)の立場がない(^^;)
つまり伝承内容の信憑性はきわめて低く、金精峠と道鏡は本来直接的な接点はないのである。
※伝承の内容が非現実的であることと、そのような伝承が存在することは別の話なので、Wikipediaの記述がただちに誤りとはいえない。
では日光と道鏡の接点はなにかというと、実は日光開山の祖=勝道上人の存在が重要になってくる。下野薬師寺の項でちょこっと出てきた彼は決して 「通行人A」 などではなく、重要な役割を担って登場している。
着目すべき点は、彼が興した山岳仏教の一大霊場=日光が下野薬師寺に比較的近かったということがひとつ。そしてもうひとつが日光開山の時期である。
ここで少し勝道の話をしたい。勝道は鑑真の開いた下野薬師寺戒壇の第一期生である。日光修験道事務局によれば戒壇設立の年=天平宝字5年(761)に27歳で下野薬師寺に入門し、鑑真大和上の高弟如宝僧都より沙弥十戒、七十二威儀を受け、更にその翌年戒壇に上り具足戒を受け大僧となったとされる(※)。下野薬師寺別院の龍興寺に在籍し4年間修行したのち765年頃から日光開山のための活動に入った。その功績を認められ789年には朝廷より上毛野国総講師に任命されている(※)。
道鏡の下野下向時には勝道は日光開山の最前線基地=四本龍寺(現・輪王寺、開山活動期は小庵に過ぎない)を建てて滞在しており、男体山の征服登頂を目指していた。二人が直接会ったかどうかは定かでない。
※日光修験道の見解では下野薬師寺の受戒が761年、762年に行われていることになり "三年に一度" の原則からは外れる。ここでは日光修験道HPの記述を尊重して内容をそのまま転記している。(沙弥十戒、具足戒などクラスが違うので矛盾しないのかも知れないが筆者はそこまでは突っ込んで調べていない)
※上毛野国総講師となった影響か、のちに勝道は赤城山の開山にも関わることになる。
さて勝道上人について語りだすとそれこそ本が一冊できてしまうので適当に端折って記すことにしたい(^^;)。押さえておきたいのは彼自身の伝記より、彼が興した山岳仏教の霊場=日光山の初期の姿である。彼の一派はのちに修験道(※)と呼ばれるようになった。いわゆる "山伏" である。
彼らを知るためには前提として本地垂迹説についての多少の予備知識が要る。日本に最初に仏教が伝わったとき、その教えは日本古来の神々を否定するものとして受け止められ、政権中枢でも深刻な対立を生んだ。蘇我馬子(仏教推進派)と物部守屋(仏教排斥派)の衝突が有名だが、武力でこれが蘇我馬子の勝利に終わったのち、どちらの立場にも軋轢を生まないような説明ロジックが登場した。それが本地垂迹説で、 "カミもホトケも本来は同一のもので、現れ方がちがうだけ" という解釈で双方の立場が説明された。これによって従来は精霊あるいは神として崇敬されてきた "山" などの自然物が "仏" としても信仰される下地が出来、やがて両者は並立、融合していくことになる。
※修験道の開祖は勝道より半世紀ほど早い役小角とされており、勝道のオリジナルではない。また神道、仏教のほか中国の道教や陰陽道などの影響もあり、かなり雑多な要素を含んでいる。
日光修験道では男体山、女峰山、太郎山が信仰上重要な位置を占めており日光三山などと呼ばれるが、それぞれが幾つもの顔を持っている。
仏としては男体山=千手観音、女峰山=阿弥陀如来、太郎山=馬頭観音であり、神(※)としては男体山=大巳貴命(おほなむちのみこと)、女峰山=田心姫命(たごりひめのみこと)、太郎山=味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)である。本地つまり仏が神の姿をして現れた(=権現)状態としては、それぞれが男体権現、女体権現、太郎大明神とも呼ばれる。現れ方は違うが本質は同じであり、従来の神道的な信仰文法に則っても仏を拝するのと変わらない。従来式で不足があれば、それを仏教から補充すればよい。
勝道の理解が実際にどのようなものだったかは筆者にはよくわからないが、結果として出来上がった修験道の状況をみると、こんなところだったのかもしれない。鑑真の目指した仏教のありかたとは幾分(随分? ^^;)違うものが出来上がっていった訳だけれど、正規に受戒した仏教僧とは言え勝道の思想のベースは山岳信仰にある。彼なりの理解を通して仏教を咀嚼した結果がのちの日光の姿に反映している訳で、それを変質と捉えるか発展と捉えるかは難しい。…が、ここで扱うのは金精神の周辺に限定したいので細かいことは置いておく。
※三神はいずれも古事記に登場し、神話でも夫婦と子の関係にある。
さてその日光修験道のテリトリーは、男体山、女峰山、太郎山を中心に現在の日光市街地~横根山~庚申山~白根山の一帯に広がっていた。山域は修験の地として女人禁制とされ、一般人の入山も制限されていた。奈良時代末期から明治維新までその期間は千年あまりにも及ぶ。
この間、幾多の修行者がやってきてはここで研鑽を積み、信仰の要素を下界へ持ち帰っていった。その中にはいつの頃からか金精神信仰が含まれており、金精峠には神社が建立されて周辺地域への伝播もみられるようになった。各地に祀られた金精神の事例は既に示したとおりである。
ここで肝心なのは、元々は人跡未踏の地であって、仏教勢力によって最初に開かれ、長い間他の勢力による支配を受けなかったという特異な歴史経緯だ。つまりこのテリトリーにある主要な山や川、湖などに名前をつけたのは修験者たちであって、そのネーミングセンスは山岳仏教の信仰や用語をベースにしている。たとえば中禅寺湖は勝道の築いた神宮寺(のちに中禅寺と改称)から採られているし、華厳の滝は華厳経からきている。金精山の名前も、この延長線上で考えるべき出自なのだろう。
さて風景の話がなおざりなのでちょっと寄り道してみる。とりあえずいろは坂を越えて↑中禅寺湖畔まで登ってきた。もうあと30分ほど早ければ一面の湖面の朝靄が見られた筈なのだが…ちょっと惜しかったな(^^;)
旅と写真のサイトでは釈迦に説法みたいな話だけれど、この付近は朝靄写真のメッカである。湖畔以上に人気が高いのは戦場ヶ原で、写真雑誌にも良く載るので御存知の方も多いと思う。特に日の出の直前、トワイライトの時間帯は非常に幻想的な風景をみることができる。
無理矢理こじつける訳ではないけれど、修験の山の時代には、こうした神々しい風景は修行者たちの信仰心を呼び覚ましたことだろう。勝道は方向感覚を少し間違えて(※)中禅寺湖を "南北に長い" と捉えていたようだが、男体山征服後に小船で歌ヶ浜から北(実際にはおそらく西)に向かい、現在の菖蒲ヶ浜の砂州をみて 「こんなに美しい場所なのに中国の仙人がやってきた気配もない」 などと言っている。
※沙門勝道歴山瑩玄珠碑(空海)にこのときの様子が描写されている
これがその菖蒲ヶ浜。戦場ヶ原から流れ下る地獄川の河口砂洲である。ここも靄がかかると非常にイイカンジの絵が撮れるのだけど、なにぶんシャッターチャンスとなる時間が短いのでほとんど一期一会のような撮影になってしまう。
それにしても、こんな見事な景色なのに "地獄川"というネーミングセンスはなんとかならなかったのかね…( ̄▽ ̄)
"地獄"の他にも湖畔には仏教用語から来たと思われる地名が散見される。千手ヶ浜、梵字岩、大日崎、阿世潟、観音薙、華厳滝等々…。これらはみな修験道全盛期の遺産だ。そして現在は登山道となっている人の踏跡も、実はその大部分はかつての修験の道の跡である。
さて戦場ヶ原についた頃にはすっかり靄が引いてしまっていた。先着のカメラマン氏が何人もいたが皆装備を畳んでいる最中のようで、ちょっとばかり口惜しいw ・・・4:30で不足なら、次は3:00くらいに出てこようかしらん( ̄▽ ̄)
コーヒー休憩の後、ふたたびマターリと西に進んでいく。
湯ノ湖付近にくるとナナカマドがすっかり赤くなっている。那須の紅葉はまだしばらく先の筈だけれど、ここではもうフライング気味に秋の足音が近づいているらしい。
湯ノ湖を過ぎると、いよいよ金精道路に入る。冬季には豪雪のため通行止めになる区域だ。
戦場ヶ原を中心とした奥日光盆地の最奥部であり、この先は白根山~金精山~温泉ヶ岳と連続する標 2000~2500m級の稜線が壁のように切り立って群馬県片品村と栃木県日光市を分断している。
さていよいよ金精山が見えてきた。
標高は2244m。古くから修験者の道のみが存在し、幕末まで一般街道は通っていない。ここに初めて一般人の通れる "道路" が開通したのは明治4年のことである。ただし道路といっても修験者道を多少改修した程度であって、実質的には登山道と変わらなかった。現在のようにクルマで通り抜けられる道路が開通したのは1965年になってからである。
ところで、どうしてここに "金精山" つまり マウント・オブ・チンコ ヽ(・∀・)ノ などというケッタイな名前が付いたのだろう?
もちろん山岳仏教の聖地として栄えた土地のことであるから、仏教の教義に関係がある。それも山岳仏教と深い関係にある密教の要素のなかに。…そろそろ本題の話だ。
密教とは仏教の歴史のなかでも後期に現れたもので、タントリズム(Tantrism/Tantra)の要素が強い。タントリズムを説明しだすとそれこそまた本が一冊出来上がってしまいそうなので詳細は専門家に譲るけれども、簡単に言うと肉体を離れた悟りは存在しないとして人のもつ欲望を是認する思想であり、曼荼羅や印など特定のシンボルを用いた儀式や呪術を重視する特徴をもつ。
その中には加持祈祷(願掛け、招福、厄除けの類から呪詛/呪殺まで含む) など初期仏教にはなかった要素や性的な儀式も含まれている。性的な儀式って何だよ、と思われる方は 「タントリズム」 とか 「後期仏教」 で検索すると筆者よりうまい説明に到達できると思う。誤解を恐れずに単純化して言えば、性交を通じて悟りに至り即身成仏を目指すという思想らしい。初期仏教の禁欲的教義からみればコペルニクス的なトンデモ転換に見えるかもしれないが、これも紛れもない仏教の要素のひとつなのである。
これらの思想は、インドで仏教がヒンドゥ教に飲み込まれていく過程で "ヒンドゥとの混交" のような形で現れたものらしい。唐の玄奘がナーランダ僧院で学んだ7世紀には既に密教的な要素がかなり仏教に融合しており、その一部は日本にも伝わった。そして日本で求められたのは、「仏陀の思想」 というより 「効果の目覚しいクスリ」 としての密教的要素だったことは周智の通りである。大仏も然り、国分寺も然り、道鏡の建立した西大寺も然りである。
ただし性交を通じて即身成仏を…という思想はその後の日本仏教界では結果的に受け入れられなかった。真言立川流などタントリズム色の強い宗派もたしかに出現したけれど、主流にはなっていない。しかしそうではあっても平安~鎌倉時代に次々と生まれた日本の 新仏教各派は、たとえば仏僧の妻帯を容認するなど、そのエッセンスは受け取っているのである。
※タントリズムの影響が最も強く伝わっているのがチベット仏教で、仏が妃と性交する仏画などが現存する。だたこの周辺の文献は素人が読んでも 「???」 なので、実は筆者も確固たる自信を持って理解できている訳ではない(汗 ^^;)
では山を性器に見立てるという信仰は、密教の要素に含まれるのだろうか。
もちろん含まれる。タントラの発祥の地インドやチベットでは現在でも男根/女陰崇拝が生きており、それぞれリンガ/ヨニと呼ばれている。リンガは山に、ヨニは泉や川に見立てられることが多いようだ。日本では陰陽道の要素も入って温泉が女陰の象徴と捉えられており、陰陽の和合を図るために金精神がセットで祀られることが多い。これも元をたどればインドのヒンドゥ教的な要素につながっている。
その代表を挙げるとすれば、チベット西部にある↑カイラース山が典型だろう。カイラース山はシヴァ神のリンガ(男根)とされて古くから信仰の対象になっている山である。標高は6656mあり、日光の金精山の3倍あまりあって極めてワールドワイドな金精様といえる(^^;)。
ヒンドゥ教のシヴァ神は仏教では大黒天と解釈される。大黒天というと日本では七福神を思い起こすことが多いかもしれないが、その実態は破壊神である。…その金精様がヒマラヤ山脈の奥地にどーんと立っている訳で、きっとその霊験も只事ではないだろうw
ちなみに日光修験道では男体山=大巳貴命(おおなむちのみこと)であるが、この別称は大国主命(おおくにぬしのみこと)であり、当て字は異なるが大黒天=シヴァ神である。シヴァ神ご本人の化身として男体山があれば、近くにそのリンガ(男根)の象徴があってもおかしくはない。
※写真はWikipediaのフリー素材を使用しています
勝道の受け継いだ仏教知識の "主要部分" がタントラ系の(特に性的な)呪術であったとは思わない。密教を本格的に日本に導入したのは最澄/空海など平安時代に入ってからの新仏教で、それまでは体系化されていない部分的知識があるのみである。日光の主要三山(男体山、女峰山、太郎山)もタントリズムと直接的に結びついている訳ではない。
しかし日光の山域の中にあって最奥部にある目立たない山がひとつ、当時日本に伝わった未整理の知識と信仰のひとつに基づいて名を冠せられた可能性は十分にあり、それが金精山の由来ではないかと筆者は推測している。
https://kachovisual.com/tabi_yukeba/2008/2008_0923_Konsei/2008_0923_02.html 【金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:下野編3 (その2)】 より
■旧道を登る
そうこうしているうちに、金精トンネルまでやってきた。ここをまっすぐ抜けると片品村だが、今回は旧道を歩いて登っていくのが目的なのでここでクルマを停めることにしよう。
トンネル脇の小さな駐車場には工事車両が数台停まっており、どうやらトンネルの補修工事と山小屋の改修工事を行っているようだった。
登山口にはこんな表示も。ここは非常に崩れやすい地質だと聞いてはいたけれど、どうやら本当らしいな…(^^;)
とはいえ金精山山頂に近づかなければ良い訳で、峠まで登るだけなら大丈夫だろう。距離的にも、垂直方向に200mくらいならたいしたことはない。
…すみません、前言撤回します orz
しかし…これはどえらいところだぞ…(´Д`)
入り口付近こそ石段などがあってそれなりに整備されているのだけれど、道はすぐに急峻なガレ場の連続に変わった。足場になるよう枕木も打ちつけてあるにはあるのだが・・・土台が崩れたり雨で流されたり…で、かなり歩きにくい。
…というか、これは果たして "道" と呼んでいいのだろうか。場所によってはほとんど垂直に近いハシゴを登っているような箇所がある。これは…本当に修験者のフィールドだなぁ…(^^;)
1965年の金精トンネル開通以前は、まさにここが片品村~日光をつなぐ "幹線道路" だった訳だけれど、本当にこんなところを日常的に通ったのかなぁ…。Wikipediaでは "自動車交通以前には「日光道」として交易路となっていた" などと書いてあるのだけれど、おいその記事書いた奴っ、おまえ自分で荷物背負ってここを通ってみろよ!…とツッコミのひとつも入れたくなる道路事情なのであったヽ(・∀・)ノ
途中通過する禿山部分。むきだしの岩肌がザラザラと崩れてくる。木の根の張っているところはかろうじて土を保持しているようだが、本当に脆い地質のようだ。
…あ。でもたしかに金精道路と書いてあるんだよなぁ(^0^;)
以前、那須山中で旧会津中街道を通って大峠に到達したとき、峠直前の4~500mくらいが 「こんなの物流に使う道じゃねーだろーw」 と思うようなアスレチックコースだったのを思い出す。しかしそれでも途中までは石畳だし、傾斜も45度よりは緩かった。
今回はその比ではない。物流と言っても荷車や駄馬の登場する余地はなく、強力(ごうりき)が荷を背負って運ぶようなイメージがわいてくる。
背後から声が聞こえたので振り返ると、筆者と同類らしい酔狂な人が登ってきていた。「すげーところだーw」 などと言っているのが聞こえる。うん、うん…そうでしょう…♪(笑)
まあ最初から登山道だと割り切ってくればいいのだろうけれど、曲がりなりにも昭和40年まで現役だった 「交易路」 だという先入観があるから落差が激しく感じられるのかなぁ…(^^;)。
その急峻な道も、峠の最高点が近づくにつれてなだらかになっていき、稜線に沿ってゆるやかに高度を上げる "普通の山道" の顔を見せ始めた。さて、そろそろのはずだ。
■金精神社
やがて峠が視界に入った。おお、あれが目指す金精神社…♪
到着ヽ(´∀`)ノ
ようやく到達した。ここが金精神社のオリジナルである。駐車場からの距離は地図上はたいしたことはないのだけれど、それにしても無茶な道筋だったなぁ…w
神社の社殿は鉄筋コンクリート+鉄扉で頑丈に作られている。かつての社殿は木造だったそうが、風雪の厳しい環境で損耗が激しかったため、昭和33年(1958)頃現在の社殿に建て替えられた。昭和33年といえば金精道路開通の7年前だから、まだここが日光道路として生きていた時代ということになる。…あの山道をセメントや鉄扉を抱えて運び上げたとするなら、氏子さんたちには拍手を送りたい(^^;)。
中を覗いてみると、おおまさしくこれがオリジナルの金精様っ…♪ ヽ(・∀・)ノ
それは神々しくも重々しく、凛とした存在感をもって、すっきり、にょっきり、元気に鎮座ましましているのであった。
いやー、貴方に会うために今まで旅をしてきたのですよ、センセイw
冬季の凍結によるものか表面が一部剥がれ落ちたりしているけれど、保存状態は良好である。材質は明るいグレー系の石材で、表面は黒くなっている (着色か自然変色かはわからない)。高さは50cmくらいだろうか。
表面には 「安永九」 の文字がみえる。安永九年といえば1780年、つまり江戸時代中期である。ざっと228年前か…。
もっと古いものを期待していたのだけれど、案外新しいんだな…(´・ω・`)
とはいえ現在の御神体が江戸中期の作だからといって、神社の起源も同じとは限らない。御神体とは神の依代であって要するに "器" である。立地と名称からみてこの神社に祀られているのはほぼ金精山の神霊と見て間違いないと思われるが、その依代として金精=男性器型の石像が用意されたのだろう。
こうした器としての御神体が代替わりしていくのは珍しいことではない。実際にここの古い御神体を降ろして別の金精社に祀ったものが片品村側に存在している。
本来ならその辺の事情を由緒書きとして神社の周辺に掲示しておいて欲しいのだけど…周囲を見渡しても登山者用の標識ばかりで、神社の解説のようなものはなかった。割と有名なスポットの筈なのにちょっと残念だな。
ところで現在のご神体が祀られた江戸中期には、下野国側からのアプローチが主流だったアクセスが、上野国側からも盛んに行われるようになってくる。片品村から白根山へのアプローチがそれで、現在の丸沼スキー場付近から登る主ルートの他、金精峠から金精山~五色沼を経由して登るルートがあった。それは現在の登山道ともほぼ重なっている。
この時期になると南側の庚申山、皇海山も庚申信仰の高まりから賑わいをみせており、日光周辺の山々はにわかに活気付いてくる。付近に来訪する人が増えたことで、金精山や金精神社の知名度もそれなりに上がったことだろう。
江戸時代は、金精神に限らず稲荷や七福神、庚申、馬頭観音など御利益のありそうな神様が雑多に信仰をあつめて盛んに祀られていく時期でもある。このシリーズでは金精神をテーマに調べているのでそこにばかり目が行ってしまいそうだが、信仰の広がりという点からみれば決して金精神だけが突出していた訳ではない。あくまでも雑多な信仰要素のワンオブゼムとして広がっていったものである。
さてそんなことを思いながら見上げる金精山は、実にシャープな外観ですっきり、にょっきりと立っていた。・・・なるほど、この角度からみると鋭角に切り立った砲弾型の山容になるのか。これはたしかに、シヴァのリンガだな…w
しばし、その山容を眺めてみた。"金精" の名を与えられ、日光修験道にあっては三峰五禅定の修行の場のひとつとされていた山である。しかし古代の行法は過酷で多くの死者を出したため、鎌倉時代には途絶え、以後は分割/簡略化された行法に改められて今日に至っている。現代の修行は男体山~古峰神社周辺を中心としたエリアで行われており、ここまで登ってくることはなくなった。
かつての古代の修験者たちに、この岩山はどんなインスピレーションを与えたのだろう。舗装された道路をクルマで通ってヒョイと到達してしまう現代の人間には、もうそんな想像すらできない。
https://kachovisual.com/tabi_yukeba/2008/2008_0923_Konsei/2008_0923_03.html 【金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:下野編3 (その3)】 より
■そして金精神が生まれた
さて、そろそろなにか結論めいたものを書くべき段階かと思う。これまで調べたこと、分かったことから、憶測も交えてひとつの仮説を導き出してみた。それは以下のような物語だ。
日本に仏教が伝わった初期の頃、宗教界には飛鳥~奈良時代を通じて輸入された雑多な仏教知識が混沌としている。その中には、ヒンドゥ教に飲み込まれつつ発展した後期仏教のエッセンス= "密教" の呪術的な要素が含まれており、タントラ系の性的な呪術やインドの "リンガ崇拝" に似た要素があった。勝道が日光を開山した時代はこのような時期にあたる。日光において、主峰:男体山は千手観音=大巳貴命=大国主(大黒天)=シヴァの化身とされ、時期は特定できないがシヴァのリンガ(男根)に見立てて日光の最奥地にある一山に "金精山" の名が冠された。
しかし平安時代も100年を過ぎる頃になると遣唐使も廃止されて大陸情報は遮断されてしまい、後期仏教が本格的に日本に広まることはなく、密教は最澄/空海の咀嚼(そしゃく)した内容を中心にその後の山岳信仰に影響を与えた。
やがて1000年の時を経るうちに、いつしか金精山を望む峠道に山の神霊を祀った金精神社が祀られるようになった。これが、主に修験者を通じて下界に伝えられていく…
一方、道鏡の登場と栄華、そして没落は、日光山の動きとは直接の関連をもたずに進行した。奈良時代の中央政界ではほぼ10年ごとの血の粛清劇を繰り返した果てに、女帝:孝謙天皇と仏教僧:道鏡が政権を握る。その政策は大仏教土木政策で、巨大建築や寺院保護などが優先され貴族たちには不評な内容であった。やがて女帝は後継者を決めないまま崩御、政権は皇統としては本来傍流であった光仁天皇+藤原氏の手に移ってしまう。政策は脱・仏教路線に変わり、道鏡は下野国分寺へと左遷され1年半後にそこで生涯を閉じる。
このとき政争に勝利した光仁天皇と藤原一族は、自らの後継者としての正当性を示すため、いかに前政権が統治者として不適格であったかを歴史書(続日本紀)に書き残した。悪役としての役回りは皇族である孝謙天皇ではなく腹心の道鏡に押し付けられ、以後この評価が定着していった。ただしこの時点では巨根説はまだ存在しない。
話に尾ヒレが付きだすのは道鏡の死後25年ほど経過してからで、 「独身女帝 vs 宗教者の禁断の関係」 という格好のネタ性から、やがて説話集などで色恋沙汰+巨根説が面白おかしく書き立てられていく。400年を経過した鎌倉時代の頃にはほぼ巨根説の原型が出来上がり、江戸時代には川柳のネタになるまで広く流布するようになった。
これら本来は別々に進行した事象が、やがて途中から習合していく。日光の金精山、および金精神社が男性器を祀っていることから、それが "巨根" の道鏡起源であるとみなされて同一視されていった。この組み合わせで習合が起こったのは、おそらく道鏡が晩年を過ごした下野薬師寺と日光山域が地理的に近かったことも要因のひとつになっただろう。
そしていつしか山を降りた金精神は、子孫繁栄/安産の神として道祖神の役目をも負うようになり、街道筋や温泉地、さらには既存の神社の境内に末社の形で潜り込んで広まっていった。その黄金期は江戸時代で、明治維新とともに淫祠廃止令で多くが撤去されて現代に至る。
…と、こんな物語だ。
筆者は、割と真面目に 「当たらずとも遠からじ…だろうなぁ」 と考えている。もちろん素人調査だから詰めの甘いところはあるだろうし、密教由来説も宗教史に詳しい人なら予測の範囲内で画期的な新説というほどのものではない。しかしWEBを探してみてもあまりこの神様について真面目に考察した研究には巡りあえなかったので、自分なりにそこそこ納得の得られる結論を導き出してみたかった…そのとりあえずの結果が、こんな仮説という次第である。
■旅の終わりに
さて、旅の終わりに訪れようと思ったのは、金精峠を越えて片品村側に抜けて約10km、釣堀+お食事処の白根魚苑である。ニジマス、ヤマメ、オショロコマなどの渓流魚を養殖している観光施設だ。・・・と言っても、もちろん単なる休憩で訪れた訳ではない。
ここの敷地の奥には、峠から下ろされた古い御神体が 「金精神社」 として祀られているのである。
これがその金精神社である。随分ゴージャスな建物だが、それもそのはず、これは武蔵国忍城城主、阿部忠秋が領内の五穀豊穣を祈願して建てたものである。阿部忠秋は徳川家光(三代将軍)、徳川家綱(四代将軍)に家老として仕えた江戸幕府の重鎮である。装飾の彫刻様式が日光東照宮に酷似しているのは、建立時期がほぼ同時期で、おなじく徳川家にゆかりのある建築物だからだろう。
よく見ればしっかり葵の御紋がある。
ここに祀られているのが、金精峠から下ろされた古い御神体なのである。ただし、タネあかしをするとこの建物は最初は忍にあったもの(元は多粕閣と称した)を移築したもので、阿部忠秋の存命中にこのような形で堂内に金精神が祀られていたかどうかは定かでない。
神社に併設された絵馬堂に並ぶのは、すっかり図案化された金精様の列、列、列々々々・・・ヽ(・∀・)ノ
芸術的なものから漫画チック、あるいは一発ネタ狙いなど、さまざまなものが並んでいる。
しかし一方では、子宝に恵まれない夫婦の 「子供が授かりますように」 …との願掛けもたくさん見られた。
サイズの大きな絵馬はいかにも絵心のある人が 「一筆啓上」 したような雰囲気があるけれど、↑写真のような無垢のコケシや小さめの絵馬には、素朴で切実な願いがたくさん書かれていた。
数奇な運命をたどった道鏡も、まさか1200年後に自分がこんな信仰の対象になっているとは思わなかっただろう。
律令制最盛期に孝謙天皇とコンビを組んで政権中枢を握り、強力に仏教政策を推進し、法王とまで呼ばれた男…。それが死後は歴史の表舞台からかき消され、説話集や川柳で笑いのネタにされ男性器をかたどった像に形を変えて、ついにはあきらかに二流以下の雑神として祀られて現代に至る。その落差はすさまじい。
しかしそんな神様にも、願を掛ける人たちがいる。ここに集積するそんな小さな "願い" を、筆者はバカにしたり笑ったりすることはできない。国家鎮護の呪術マシーンだった大仏や国分寺や百万塔では絶対に救えない種類の願いが、いまこの小社に向けられていると思うからだ。
こうやって金精神社がここにあることで、この人たちの魂が少しでも救われるのであれば、それはそれで良いことなんじゃないだろうか…。いろいろ調べた果てに此処に至って、そんなことを考えてみた。
さて、以下は独り言である。宗教史に関わるテーマだけに、心の声で終わるのが適当かと思う。所詮は小さき神のこと、必要な範囲にだけ届けばいい。
…本地垂迹という方便があるという。
仏はさまざまな姿形となって人々を救うのだそうだ。
そしていま、随分風変わりな姿となってそれを実践している古い魂がいるらしい。
本人が望んだとはとても思えない結末に至った訳だけれど、千年経ってそれでも願をかけにくる人がいる。地味ながらも必要とされている。
…そう、アナタがここにいるのはたぶん無駄じゃない、きっと意味のあることなんだよ。
・・・そうは思いませんかね、道鏡禅師 (´ー`)
【完】
■あとがき
いやー、今回の特集も長かった・・・!!ヽ(´∀`)ノ
もう、史料を追いかけだすと次から次へと枝葉が広がって収集がつかなくなります。でも、とりあえず素人調査なりに金精神の謎に挑戦してみました。如何だったでしょう。
後から思い起こせば、日光の歴史から出発したほうがスッキリした構成になったかも・・・という思いは残りました。あれだけ奈良編で調べた結果が、「道鏡は金精山とは直接つながらない」 ですからね~( ̄▽ ̄)。
さて日光山には鎌倉時代に一大転機があって、第24代座主:弁覚が熊野修験道の修法を取り入れています。これは高野山系、つまり空海の密教の要素が流れ込んだということで、それまでの日光修験道はここで一旦リセットされてしまうのです。それ以前の勝道の修験道というのがどういうものだったのか、ここでわからなくなる。筆者としては金精山の名が付いた時期と神社が成立した時期を特定して、道鏡の文献上の巨根伝説成立過程と比較したかったのですが、どうもそんな都合の良い史料には巡りあえませんでした。うーん。
ところで今回の特集は最後に日光山が出てきて 「じゃあ、他の地域はどうなの? 金精神は日光周辺だけの専売特許じゃないでしょ?」 …という疑問は当然出てくると思います。これについては、下野国にはたまたま道鏡という "そっち系の有名人" がいたために習合がおこったというだけで、密教系の山岳仏教の強い地域であれば、似たような文脈で金精神信仰が定着する余地は十分にあるのではないかと思うのです。まあ素人がそんなことを言ったところで権威も何もないのですが・・・(笑)
さて、あとがきに代えて、長野県松本市の面白い事例を御紹介しておきましょう。これは松本城で展示されていた道祖神で、係員氏に許可を頂いて撮影したものです(撮影は2003年)。山岳信仰の盛んだった長野県では、いまでもこうして男根型の道祖神が生きて伝わっています。後ろに貼ってある写真は正月の行事でこの道祖神を祀ったり、あるいは持ったまま家々を訪問したり…という記録です。男根型のものは特に 「オンマラさま」 と呼ばれたようです。
こちらは、道祖神の形態が男根型から次第に人型に変わっていく様子を展示したものです。長野県で道祖神というと二人像の石仏写真をよく見かけますが、木彫りのものでは男根型のものも結構あるようです。栃木県でこれほど系統だってまとまった資料というのは見たことがありません。さすがは松本市ヽ(・∀・)ノ
これは祭りの様子ですね。「道祖神の通せんぼ」 という正月の民俗行事だそうで、子供たちが 「○○町の道祖神はこちらでござる~」 と唱えては大人から賽銭(小遣い)をもらったものだそうです。
よくみると後ろに大聖歓喜天と書いた幟が立っていますが、これはまさにヒンドゥ起源のガネーシャ神 (頭部が象になっており非常に特徴的) が仏教のホトケとして伝わったもので、これはまさにタントラ系密教です。日本ではかなりマイルドに解釈されて "夫婦和合に霊験あり" などとされていますが、金精信仰のベースにはやはりヒンドゥからもたらされたエッセンスが含まれていることが伺えます。
それにしても、写真を見る限り昔は正月行事に金精神(道祖神)が自然に溶け込んでいたことが分かりますね。別にイヤラシイものでも教育上不適切なシロモノでもありません。普通の民俗行事のひとつだったのです。
これを戦後になって潰してまわった連中(※)がいます。主に左翼教師とPTAのオバさんたちで、…昔はたしかウーマンリブなどといった運動があったと思いますが、その延長線上で "前近代的な因習" を叩きまくったようなのです。
伝統や文化を破壊することにかけてはこれら自称 "進歩的" な人々は天才的な才能を発揮しますが、長野でもこうやって素朴な民間信仰がひとつ、またひとつ…と息の根を止められていったわけです。
※ただし行事そのものは戦前から徐々に衰退の傾向にあり、すべてを戦後左翼のせいにするのは公平さの観点からはふさわしくない、ということは申し添えておきますw
展示写真の日付には昭和42年とありました…もう40年も前のことです。さて今はどうなっているのでしょうね・・・
筆者のご近所では少なくともこういう形で道祖神信仰が残っているのを見たことはありません。古社にひっそりと残る下野国の金精様群は、まさにひっそり、ゆっくりと消えていく過程にあるかもしれません。