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金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:下野編1

2020.12.05 04:56

https://kachovisual.com/tabi_yukeba/2008/2008_0518/2008_0518_01.html 【金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:下野編1 (その1)】  より

いよいよ下野国編ですヽ(´ー`)ノ

さてしばらく間が開いてしまったが、今回は本来なら奈良に取材に行く前に片付けておきたかった案件…下野国=栃木県に現存する金精神の実例を収集してみたい。

金精信仰は現代に至るまで脈々と続いている生きた信仰である。ただし明治維新のときの神仏分離や一村一社令による神社(特に小社)の整理統合の中で、それまで道端や神社の一角に祀られていたものの多くが "淫祠" として廃止されてしまった。現在では個人宅の敷地内や、山間部で明治政府の政策が及ばなかった末端の祠、および温泉地などに祀られていることが多い。今回たどったルートは栃木県北部の山間地が主である。

■田代

さてまずは那須町の田代にある道祖神からはじめてみよう。平地で見られる数少ない事例で、場所は那須街道沿い田代小学校から少し東に入ったところである。…が、厳密にこれを道祖神といってよいかについては多少のツッコミどころがある。

というのもSLランドの施設内の一角に作られた開運なんたらとかいうコーナー内に鎮座しており、多分に観光客向けの見世物として作られた感があるためだ。

もともとこの一角は那須街道からりんどう湖~池田方面に向かう街道の分かれ目にあたり、古くから馬頭観音などが祀られてきたようである。そこにレストラン(蒸気機関車)、およびその併設館としてSLランドが作られ、これらの石仏も敷地内に取り込まれてしまったらしい。

なにやら妙な骨董趣味?の発露なのか、SLランドと銘打っている割にこんな展示が並び・・・

その中に、金精神が祀られている。

こんな冗談のような扱いを受けながらも、ちゃんと賽銭を置いていく人がいるのが不思議といえば不思議である。

…まあ、ここについては深く考察することもなさそうなので、次に行ってみよう。

■百村

那須街道から脇道にそれて板室を経由して南下していくと、百村に到達する。

道端には野生の猿がうろちょろしていたりして、実に山間部的な情緒?を醸し出していてよろしい。

百村の旧集落ではなく板室温泉にほどちかい位置に、奈良編の冒頭で紹介した幸の湯温泉がある。ここの金精神(道祖神)は立派なので改めてここで紹介しておこう。

明るいときに見る金精神様は実に霊験あらたか?な風体であるw

ここの御神体は金精神としては比較的新しく、昭和の終わり頃の建立である。位置的には百村から板室/三斗小屋方面に分岐する古街道の三叉部分にあたり、道祖神が建立されてもおかしくない。…が、先代の道祖神が実際にあったかどうかはよくわからない。

ところで温泉に金精神が祀られるのには実はそれなりの理由がある。神道の基本思想として陰陽思想というのがあるのだが、そこでは温泉は女陰に相当する陰の象徴とされている。宇宙の根源=太極において陰陽は常に一対であるから、ここに陽の象徴である男根=金精神を祀ることで、いつまでも湯が枯れずに湧き続けることを祈願するという意味があるらしい。

温泉によってはこれが天狗の鼻(しばしば男根の象徴として描かれる)で代用されていたりするのだけれど、背後に流れる基本思想は同じといえるだろう。天狗は道祖神の性格をもつ猿田彦(後述)にも通じるのでこちら側からもつながりがある。興味本位で "珍スポット" 的に扱われがちなこれら金精神にも、背景にはそれなりの思想や文化の蓄積があったりするのである。

■福渡

次に目指したのは塩原温泉郷を構成する11の温泉のひとつ、福渡温泉である。R400に乗って関谷から塩原渓谷をさかのぼっていくと、ちょうどツツジが見ごろを迎えていた。

福渡(ふくわた)は、かつて難所と言われた左靫(ひだりうつぼ)の上流に開けた、ささやかな平地に展開する温泉地である。下流側から見ると峻険な断崖絶壁の連続を上り切った先に現れる "ようやく一息つける場所" であり、ゆえに福渡と称したという。

さてここには塩原渓谷歩道が通っており、川沿いを散策することができる。この付近は川の流れも比較的ゆったりしていてフライフィッシングに向いていたりするのだが、岩乃湯と称する野趣溢れる露天風呂があることでも有名だ。

これが渓谷歩道からみた岩乃湯である。衝立(ついたて)は申し訳程度に脱衣所の部分だけにあり、岩をくりぬいた湯船は対岸からは丸見えだ。しかし皆平気で入浴しているし、周囲の観光客もべつに気に止めてはいない。ちなみにここは混浴で取材時には女性も入浴していた。…さすがに湯船のアップは掲載しないでおこう(^^;)

男湯/女湯の明確に分かれた近代然としたホテルや旅館に泊まっていると実感が湧きにくいかもしれないが、日本古来の温泉の姿というのは本来はこんな感じで、男女の区別もなかったし、きわめて大らかなものだった。混浴といっても雰囲気としては家族単位での入浴で、戦前の温泉の写真などをみると子連れで入浴している夫婦の姿をよくみかける。金精神も元はといえばそのような感覚の中で受け入れられていた神様であった。

それを明治政府が "淫祠" として潰して回ったのは、多分に外国人の目を意識してのことであった。欧米の技術や習慣などを輸入して近代化を進め国家として精一杯の背伸びをしている中で、キリスト教的な道徳観からは不思議に見えるであろうこれらの神様は、"外国人に見せたくない後進的な習俗のシンボル" の筆頭として槍玉に上がったらしい。

しかしここ塩原では明治政府の指令も不徹底だったようで、岩乃湯には古い時代の金精神が "子宝明神" として今も祀られている。

これがその子宝明神である。すっかり落ち葉に埋もれてしまっているが、男根は3基祀られているようだ。

かつては他の温泉にもたくさんあったであろう金精神は、いまではこうした古い露天風呂に併設さ

れた小規模なものを除いては随分少なくなってしまった。近代化された温泉街では、これらの痕跡が残っていたとしてもいわゆる秘法館(アダルト施設の類)に姿を変えたり、庭先の置石代わりになってしまったり…と、本来の信仰の対象からは外れた位置づけに置かれているものが多い。

その点、この岩乃湯はどこか特定の旅館の敷地に取り込まれることもなく、最低限の管理しかさ

れていない河原の温泉であったがゆえに、古い金精神のあり方が残された貴重な事例といえるだろう。

お湯は滔々と湧きつづけている。実にいい湯加減なのだけれど、先があるので入浴はとりやめて先に進もう(^^;)


https://kachovisual.com/tabi_yukeba/2008/2008_0518/2008_0518_02.html 【金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:下野編1 (その2)】 より

■古町

福渡から3kmほど遡り、塩原温泉街のもっとも賑やかな一角が門前~古町の町並みである。塩原の町並みの中心が元湯にあった鎌倉時代前夜の頃、ここには妙雲禅尼の草庵(後の妙雲時)のみがあった。町としての発展が始まるのは江戸初期の頃、会津地震/日光地震で旧塩原市街(元湯)が壊滅して以降のことである。

さてここにある道祖神を語るには、江戸吉原で人気のあった芸妓:高尾太夫(二代目)について触れる必要がある。芸妓の世界にも代々名前を継いでいく名門とか名人のようなブランドがあり、その中でも高尾太夫はトップクラスの人気を誇った。特に二代目(活躍期が万治年間なので万治高尾とも呼ばれる)の評価が高い。

高尾(二代目)は塩原出身の娘で、幼くして江戸吉原三浦屋の養女としてもらわれていった。しかし三浦屋は有名な振袖火事(1657年)で家屋消失…高尾はお家再興のためにと芸妓となり、その教養の高さから人気を博したという。しかしこの2代目高尾は歴代の中でもっとも才色兼備と歌われながら19歳(一説では22歳)の若さで没してしまう。この高尾を祀る塚は妙雲寺境内にある。そしてのちに高尾観世音菩薩と称する道祖神もつくられた。

それが古町のホテル:グリーンバレーの敷地内にあるのだが・・・どうも典型的な温泉街の秘法館だな( ̄▽ ̄)

聞くところによれば外見はそのまんまの金精神だそうで、なにゆえ名称が "観音様" なのかは不明である。

しかしそのホテルは現在は倒産しており、秘法館に取り込まれた金精神を目にすることは出来ないようだ。

うーん…残念w

…まあ、ここは由緒書だけ確認して先に進んだほうが得策かな(^^;)

■上三依

塩原温泉街を後にして尾頭トンネルを抜け、会津西街道に合流すると、まもなく上三依植物園に差し掛かる。ここは会津西街道と今尾頭道(塩原に抜ける峠道)の分岐点にあたり、ちょっと変わった道祖神が見られる。

駐車場から橋を渡って植物園に至るまでのこの砂利道が、かつての会津西街道の痕跡である。季節柄、木漏れ日が非常にイイカンジで超絶爽やかだったヽ(´ー`)ノ。あたりにはまだ5月だというのにもうセミの声が聞こえており、すっかり気分は高原の避暑地といったところだ。

これは植物園の門前にある七滝。ここから上流側が尾頭峠に向かう道になっている。かつて川に沿って降りてきていた峠道(現R400)は、現在では自動車の通りやすいように大きく北側に迂回して500mほど北側でR121(新・会津西街道)に接続している。

滝の脇に、旧尾頭道の痕跡(左側の小道)が残されている。現代の道路規格から見れば狭くみえるが、江戸期以前はこれで充分幹線道路として通用した。当時の交通手段といえば馬か徒歩であって、自動車の通れるような道幅は必要とされなかった。「せめて馬車の通れる道幅を確保しよう」 と幅4mの規格で街道が整備されたのは明治維新以後のことである。※新道は北側に迂回しているためここには抜けてきていない。

旧道に入って100mほどで渡河ポイントに遭遇。一枚岩の川床は平坦で、水深は20cm程度しかないため徒歩でも渡河は可能だ。川向こうまで轍(わだち)が続いているところをみると、今でも山仕事の軽トラなどが入っているらしい。

そんな渡河点脇の崖の上に、目標の道祖神が鎮座している。なんと娘が男根を抱えているという珍しい形式の像である。道祖神は男根型から徐々に人型に移り変わっていったとする説が有力なようだが、これはその中間的な姿といえるだろうか。

建立の意図としては設置の位置からみて渡河点の安全祈願、もしくは上三依集落を外部の悪霊/疫病から守る遮りの神としての役割が祈願されたように思われ、温泉の金精神とは若干性格が異なるようだ。

道祖神には文政六年(1823)の文字が見える。時代としてはペリー来航の30年前に相当し、江戸時代も後期となって物流や人の往来も盛んだった頃である。

この頃は会津~江戸を結ぶ街道として会津西街道の五十里ルート、塩原ルート、さらに三斗小屋経由の会津中街道が物流路としての生き残りをかけて競争していた。サービス合戦の果てには、高原宿まで上らず谷底の川治を経由してショートカットするルートも開削された。この影響でついに高原宿が立ち行かなくなって消滅したのは幕末の文久3年のことと伝えられる。

教育委員会の解説文によると、この形式の道祖神は長野、群馬など道祖神の多い地域と比較し

ても貴重なものらしい。那須塩原市も、これに倣って岩乃湯の道祖神(金精神)に保護の手を差し伸べてくれないものかなぁ。

道を引き返して、会津西街道との合流点まで戻った。今は植物園の敷地になってしまっているが、ここには熊野堂が祀られていて、事実上の道祖神のような役目をしていたらしい。

現在では御神体は木札になってしまっているが、左側に見える錆びた刀が昔の御神体である。なぜ刀?…というところまではちょっとわからない。

■川治

上三依を過ぎて、R121=会津街道を南下する。五十里湖に水没した木々が浮島のようで面白い。

この時期、平地より3週間ほども遅れて藤の花が満開になっている。山に自生する株で、会津西街道沿いを走るとしばらくはこの藤とヤマツツジが交互に現れて美しい。

さて五十里ダムを過ぎるとまもなく川治温泉に入る。かつて高原宿を通っていた街道が谷底を通るようになったのは、ここに温泉が発見され人の往来が始まったことに端を発する。

温泉の発見は第一次五十里湖が台風による増水で決壊 (享保8年=1723年) した後のことである。龍王峡の渓谷もこのときの濁流で相当河床が削り込まれたと言われ、偶然の産物とはいえちょうど湯脈が露出した。川治温泉の誕生はそんな自然災害の副産物だったといえる。

さてここでは金精神は旧い集落(飲食店街になっている)の奥まったところに鎮座している。…が、ここでは金精神よりも女陰をかたどった 「おなで石」 の方が有名になってしまった感がある。観光案内にも載っているので場所は誰でも容易に知ることができる。

これが金精神の祠である。白蛇の絵馬が見られるあたり、水神と習合しているようにも思えるがその性格はよくわからない。

金精神をネームバリューで凌駕している 「おなで石」 はこちら。金精神の祠の前に置かれている。昭和も戦後になってから洪水の後に河原で発見された陰石で、これを撫でながら祈願すると子宝、縁結びに霊験ありとされている。まさに現代に生きる性神である。

本家の金精神はもっと起源は古いが、どこまで遡れるかは資料がない。といっても川治温泉は江戸時代の享保年間の開湯なので、それ以降の建立と考えるのが妥当だろう。

それにしてもまあ、御神体の数の多いこと…(^^;


https://kachovisual.com/tabi_yukeba/2008/2008_0518/2008_0518_03.html 【金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:下野編1 (その3)】 っより

■鶏頂山神社(子安神社)

さて川治温泉の旧集落(金精神のある付近)から川をはさんで南側の一帯は "高原" と呼ばれている。現在ではむしろこちらが温泉街としては賑わっているような感があるが、ここは山を降りた高原宿の住民が移り住んだ一角である。彼らは集落の裏山に、かつての村社であった鶏頂山神社(里宮)を建立した。ここにも金精神の痕跡を見ることができる。

それにしてもクルマで入っていくには非常に勇気の要る道幅だな…(^^;) ひとまず中腹にある公民館のあたりでクルマを降りて、後は歩いて上っていくことにした。

この付近は川治平方山園地と称するらしい。

しばらく登っていくと、鶏頂山神社の鳥居が見えてくる。かなり無理な斜面に頑張って立てた感があるな…( ̄▽ ̄)

これが鶏頂山神社の本殿である。急斜面に造られているせいか拝殿はない。

鶏頂山神社は由緒書きによれば神亀三年(726年)の創建とある。鶏頂山そのものの開山は1700年前とされており、額面どおりなら弥生時代であって、大和朝廷の勢力がまだ及んでいない頃ということになる。日光開山=782年と比べてもこちらのほうがざっと500年ほども古い。なるほどこれは霊峰だな。

鶏頂山の頂上には記紀神話に登場する猿田彦が道祖神として祀られている。天孫降臨の折、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を日向の高千穂まで道案内したのが国津神である猿田彦であった。このことから猿田彦には道を司る神=道祖神の性格が与えられている。その風貌は日本書紀によると "鼻長八咫背長七尺" とされ、鼻の長い天狗の姿の原型ともいわれている。温泉地で金精神の代わりに天狗像が置いてあったりするのは、こんな繋がりがあってのことかもしれない。

さて本稿のテーマである金精神はというと、同じ敷地内に鎮座する子安神社(こやすじんじゃ)にその痕跡が見られる。子安神社は子宝祈願/安産/子育ての神社として全国に見られる神社である。 興味深いのは、道祖神というカテゴリでみるとオーバーラップしてもよさそうな金精神と猿田彦が、ここでは習合しきらずに二社並立となっていることだろう。力関係からみれば山そのものが御神体である鶏頂山神社の神威が強すぎて、路傍の道祖神=金精神が従となり、互いにアイデンティティを壊さない範疇で共存した…といったところだろうか。

しかしそのアイデンティティもここでは微妙に変革しつつあるようで、子安神社側では静かな革命が進行していた。なんと本来の御神体が、本殿の脇に追いやられていたのである。

代わりに現在、御神体の地位にあるのは幼い子供を抱いた木彫りの人型像なのであった。顔が隠れてしまって見えないが、おそらくは子安観音と思われる。

…ここに見えるのは、男根型から人型へと変貌していく途上の道祖神の姿なのだろう。"淫祠廃止" の嵐をかいくぐって平成の世まで生き残った金精神がまたひとつ姿を消していくその過程を、いま我々は見ているのかもしれない。

・・・と、感傷に浸りながら周囲をみてみると、おお、そこには社殿にこそ収まっていないが、にょっきりと独立した金精神の雄姿があるではないかヽ(@▽@)ノ ひとつだけでは無かったんだなぁ。

もうひとつ、さらに立派な金精様が・・・ヽ(@▽@)ノ うっかりしていると気がつかないのだけれど、探せばあるものなんだなぁ…w

とりあえず、世代交代の波にさらされてはいるものの…ここの金精神はまだしばらくは生き続けてくれるのではないかと前向きに考えてみることにした。がんばれ金精様!

■日向

さてここから南=鬼怒川温泉と西=川俣温泉のどちらを目指すか少々考えて、西=川俣方面に向かうことにした。鬼怒川温泉にはかなり妖しい系の "秘法館" があるのだけれど、今回の一連のシリーズは割と真面目に金精神を追いかけているつもりなので、ショーアップされた見世物はカットしておこう。

川治からr23を西行すると、山また山の景色のなかに日向(ひなた)と日蔭(ひかげ)という集落が現れる。日当たりの加減がそのまま地名になったような素朴な山村である。

おそらく唯一の小学校だったであろう日向小学校は、廃校になっていた。…これも少子化という時代の流れなのかな。

その向かい側にあるのが、子安地蔵尊である。名称からみて、ここもかつては金精神を祀っていたように思われるが…現在ではどうなっているのだろう。

失礼して中を覗いてみると、さきほど見た子安神社の行く末を案じさせるような光景だった。かつて金精神だったであろう御神体は、すっかり地蔵尊に置き換わっている。民間信仰では往々にしてこういうことが起こる。金精神を追いかけている身としては残念だが、まあこれも地元の人の決めたことなのでとやかく言う筋合いのものではない。

一体だけ、右から2番目の石仏が少々趣が異なるが、これは地蔵菩薩ではなく如意輪観音のようだ。十九夜講といって月例19の月の夜に女性が集まって深夜まで語らう風習(庚申講の女性版)があるが、如意輪観音はその守り本尊だ。安産祈願の対象でもあったそうだから、多少の拡大解釈が許されるなら、この如意輪観音がかつての金精神の性格を受け継いでいるともいえるだろう。

■川俣

さてここでいよいよ川俣湖にアプローチする…のだが、残念ながらこの日は所用があって時間切れとなり、目指す川俣温泉:ホテル清和園の露天風呂には届かなかった。ここにはかなり立派な金精神が祀られていると聞いていたのだけれど…まあ仕方がないか _| ̄|○ 休憩して一息ついたら引き返そう。

しかし、神は筆者を見捨てなかった模様である。湖畔のドライブインに、それはあった。

もう日没も間近の川俣湖。

よくみると湖畔にはツツジが咲いていたりして超望遠で狙えば面白い写真が撮れそうだ。

そんな湖畔のドライブイン(…といっても自販機しか無い)の一角に、なにやら雑多なものが祀られている。一言でいうと、物凄く妖しい。しかし堪能している時間は無いので、とりあえず缶コーヒーでも飲んで…

…と、思った瞬間に目が合ってしまった。

本日最強のインパクトで登場した金精神。まさか顔が彫ってあるとは…_| ̄|○

由緒などは一切記されていないので、ここになぜ金精神があるのはよくわからない。漢音様とセットというのも意味不明である。…たぶん意味を見出そうという試みそのものが無意味な気がする(^^;)

真面目な探訪の筈なのに、シュールなオチがついたところで今回はおしまい( ̄▽ ̄)

…次回はちゃんと道鏡のその後を取り上げる予定です。

<完>

■あとがき

本来ならこの取材をしてから挑みたかった "奈良編" とは前後してのレポートになりました。それにしても、普段は気にも留めないシロモノではありますが、金精神の痕跡というのは意外と残っているものだな…というのが正直な感想です。今回紹介したのは誰でも見られる比較的パブリックなものを中心に探ってみましたが、これ以外に個人宅で祀ってあるもの (感覚としては庭先の稲荷社みたいなもの?) もあり、全体数がどのくらいあるのかは筆者にもわかりません。

山岳部ではなく平地にあるものとしては宇都宮市街~鹿沼付近に比較的多く見られると言われますが、あまり実例収集に深入りしすぎてサイトの方向性を見失ってもいけませんので、ほどほどに切り上げて旅と写真のサイトのスタンスに戻りたいと思います(^^;)