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道鏡、実は「悪人」の事績乏しく 名誉回復願い坐像

2020.12.06 02:57

https://bushoojapan.com/jphistory/kodai/2020/12/03/83587 【日本三悪人筆頭の道鏡!称徳天皇に愛されたマグナム僧侶は何をした?】より

道鏡、平将門、足利尊氏――と言えば日本三悪人として知られております。

とりわけ道鏡は『天皇になろうとした』とされたことから3人の中で最も悪い人物として伝わっておりますが、実際、彼のしでかしたこと自体は特段血なまぐさいものでもござーせん。

果たして、どんな人物だったのでしょう?

河内国生まれの道鏡は、若い頃より高僧の下で禅や梵語を学び、禅師(徳の高い僧)となって宮中への出入りが許されるようになりました。

そこで孝謙上皇の病を治し絶大な信頼を寄せられるようになります。

その縁から道鏡が出世し、後の悪行が語られるワケですが、今回はその前にパトロンであった「孝謙上皇(後に称徳天皇・後述)」について少し確認しておきたいと思います。

まず大きなポイントは、孝謙上皇が女性であったことです。

父は聖武天皇、母は光明皇后の大仏カップル(東大寺の大仏建立)。

彼女が天皇になった当時、光明皇后の甥、つまり自分の従兄弟にあたる有力貴族「藤原仲麻呂」と仲良しだったのですが、天平宝字2年(758年)、仲麻呂の推す淳仁天皇に譲位してから2人の関係は微妙になっていきました。

そして天平宝字4年(760年)に光明皇后が亡くなると、悲しみのあまり床に伏せってしまった孝謙上皇の看病をしたのが「道鏡」だったのです。

このとき孝謙上皇は精神的な病に悩まされていたなんて話もありますが、ありがたい祈祷で病が癒えた上皇は道鏡を信頼し、彼をどんどん出世させます。

これに危機感を抱いたのが仲麻呂。

淳仁天皇を介して「ちょっと道鏡を寵愛しすぎでないですか?」と釘を刺そうとしますが、これに対し上皇は怒り「は?だったら私は尼になるわ。あと政治の大事なことは天皇にやらせず私が決めるから!」とか言い出しちゃうのでした。

道鏡に与えられた【法王】は天皇へのステップだった!?

孝謙天皇の動きに焦りを感じた仲麻呂はここで蜂起。

しかし、失敗して一族郎党は殺され、淳仁天皇は廃位(764年藤原仲麻呂の乱)となり、上皇が天皇に返り咲いて称徳天皇となります。

彼女は道鏡を太政大臣禅師に任命し、さらには彼のためだけに『法王』なる位まで与えてしまうのです。

完璧にフラグです。

この法王とは「天皇に準ずるポジション」としての意味合いを持ち、後の世で誰も就任していないことから詳細は不明ながら、つまりはその上「天皇になる」狙いまで含んでいたとされています。

そして、このような権力を握った道鏡が行った政治が……結構地味でした(´・ω・`)

・仏教万歳な政治をした

鷹狩りは殺生だからやめよう、寺にいっぱい寄付しよう、貴族は開墾しちゃダメ! あ、寺は良いよ、寺は。

あと百姓がちょいと開墾するのもOKにしておきましょう。

というように、貴族にとっては悪政ですが残酷とかそういった類ではありません。

まぁ、元々はお坊さんですしね。

そして・弟や弟子なども大出世した

これもまぁよくある話ですね。

しかし、ここで道鏡一番の悪行とされる【宇佐八幡宮神託事件】が起こります。

宇佐八幡宮に「道鏡を天皇にすると平和になるよ」という神託が降りたと奏上された事件です。

常々彼を天皇にしたいと考えていた称徳天皇は喜びますが、コトがコトだけに「和気清麻呂」が神託の真否を確認。

結果「天皇は、天皇家以外がなっちゃダメ!」というごくごく当たり前の判断がくだされ、結局、道鏡は天皇にはなれずじまい――という事件でした。

この一連の出来事を道鏡の陰謀とし「皇位を狙うなんて大大大大大悪人」ということになっておりますが、「宇佐八幡宮が空気読みすぎで称徳天皇が喜びそうな神託を持ってきた」という説もあり、彼の企みじゃない可能性もあるんですよね。


http://www.okuraken.or.jp/kouenkai/getsurei_naiyou/ 【-心に刻む〈ことば〉-】より抜粋  天の日嗣は必ず皇緒を立てよ-宇佐八幡神託-    三橋正(研究員)

道鏡による政治が進められていた奈良時代末、女帝称徳天皇の嗣を道鏡にという託宣が宇佐神宮でありました。その真偽を調査するために宇佐に赴いた和気清麻呂は「天の日嗣は必ず皇緒を立てよ」という託宣を受け、帰京して報告します。そのために野望を打ち砕かれた道鏡により、清麻呂は一時、因幡員外介に左遷され、別部穢麻呂と改名させられて大隅国に流されます。この話は、戦前、天皇制最大の危機を救った清麻呂を讃える形で語られてきました。その反動により、戦後は大きく取り上げられなくなりました。しかし、清麻呂のとった態度は、天皇への忠誠という問題を別にしても、現代社会に生きる私たちにも見習うべきところがあるのではないでしょうか。今回は、当時の社会状勢や宗教事情を考慮しながら、この事件を歴史学的に検証し、清麻呂の行動の意義を考えてみたいと思います。


https://readyfor.jp/projects/doukyou 【85歳の挑戦。奈良仏教の礎を築いた一人である道鏡禅師像を造立へ】 より

85歳の挑戦。奈良仏教の礎を築いた一人である道鏡禅師像を造立へ

支援総額 1,041,000円  目標金額 1,000,000円  支援者 20人 募集終了日 2020年2月14日 プロジェクトは成立しました!

プロジェクト本文

道鏡禅師像の真のお姿を後世に伝えるために木像造立したい!

はじめまして、幾島一惠と申します。 私の生まれ育った八尾市にご縁のある道鏡禅師のことを多くの方に知っていただき、正しく評価されることを願い、「道鏡を知る会」を運営しています。

道鏡とは

河内国弓削氏出身の道鏡は、義淵増正に師事し、看病禅師として孝謙上皇の病を治し、女帝の信頼を得て、称徳天皇(重祚)勅願の西大寺の創建にも協力をしました。仏教理念による施政を総攬(そうらん)し、法王の位を受け、奈良仏教の礎を築いた一人。

道鏡ってどんな人?

弓削道鏡は、今の大阪府八尾市東弓削で和銅年間(708~714)に生まれたと考えられますが生年不明です。弓削氏は物部氏の弓削部として軍事用の弓を製作し、軍事部門を担当する名門で河内の本拠地以外にも広大な勢力圏を有していました。

当時の社会では、地方の豪族や有力農民にとって立身の道は、出家して僧になることでした。僧侶は授戒によって国家資格を持ち、納税も免除されました。

道鏡は、岡寺の義淵僧正に弟子入りし、葛木山で山岳修行して験力を身につけ、医学にも詳しく、奈良の大寺に止宿してサンスクリット語を読み梵語の研究を究めたのです。

八世紀の政治は、国家鎮護として仏教思想を採り入れた政治をしていました。仏教には密教的呪法が活動の中心とする山岳修行の流れがあり、これらの修験者は、宗教者である他に医師、薬剤師、霊能者として活躍しました。道鏡も霊能者看病禅師として宮殿に奉仕していました。

奈良の大仏を発願された天皇は、聖武天皇ですが皇太子は阿倍内親王でした。大仏造営の途中で、天皇は譲位して娘の孝謙天皇が皇位につきます。政治を補佐するのは、母の光明皇后と、いとこの藤原仲麻呂が主なブレーンです。この孝謙天皇はやがて母の看病を理由に皇位を仲麻呂の娘婿に譲位して淳仁天皇となります。

天平宝字六年(762)、平城宮の改修のため、孝謙上皇と淳仁天皇は、今の滋賀県の琵琶湖のほとりにある「北の京」という保良の宮に行幸していました。その時、孝謙上皇は病気になり、石山寺に滞在する看病禅師の派遣を要請しました。その僧侶が道鏡禅師だったのです。道鏡の看病により、快復した天皇は、道鏡禅師を深く信頼し、相談相手として重用しました。今までの補佐役は藤原仲麻呂でしたが皇位を離れると上皇の周囲には、誰もいません。看病禅師の介護はうれしかったに違いありません。

あまりの親しさに仲麻呂はふと、自分の立場に不安を感じ、淳仁天皇を通じて禅師への傾倒に文句を云ったのです。そしてすぐに平城京に戻り、法華寺に入り出家しました。怒りは収まらず、淳仁天皇の大権まで取り戻しました。そして翌年には道鏡を小僧都に昇進され、吉備真備を中央政界に呼び戻したのです。

今まで政治に携わっていた仲麻呂は面白くありません。とうとう謀反を起こすことになりました。天平宝字八年(764)仲麻呂の乱です。仲麻呂の一族は近江の国で滅びたのです。淳仁天皇は廃位して淡路に配流となりました。そしてこの戦いで亡くなった人の慰霊と国家鎮護を祈念して西大寺を創建し、百万塔を制作してその中に陀羅尼経をおさめ、十のお寺に十万基ずつ納めました。

翌年道鏡の故郷である河内の国に天皇の行幸があり、そのふるさとで太政大臣禅師の位を道鏡に授けました。また孝謙上皇は再び天皇となり、称徳天皇となられました。

神護景雲三年(769)、九州の宇佐八幡から『道鏡を天皇にすれば天下泰平』とのお告げがあったと知らせてきました。称徳天皇は和気清麻呂を大宰府へ遣わし、お告げの真偽を確かめさせると、清麿は天皇の位は皇族の子孫がつぐもの、とのお告げでした。天皇は激怒して和気清麻呂の地位剥奪し流罪にしました。

その後二回目の行幸があり河内の国を「西の京」という副都にする勅が下ります。弓削の地名が由義という好字に代わり宮殿の南には由義寺が建てられました。平成二十八年にこの寺の塔の基壇が発掘されました。

天皇は、仏教に深く帰依し、自らも出家して国家鎮護の理想の精神として施政に反映させるべく、新しい仏教の都をつくろうとしていたのではないでしょうか。

ところが称徳天皇が病気になられ、平城宮に還られ約半年後に崩御されました。道鏡は、後ろ盾を失って下野の国薬師寺別当に左遷され、一年八か月後に没した、とされています。没年は六十歳前後と思われます。

引用:山野としえ著「真実不虚」より(京田信太良 画)

残念ながら、道鏡禅師は歴史上、悪人と評されていることが多いのですが、実際には、優れた僧であったことがわかっています。そこで「道鏡を知る会」では、八尾市が生んだ高僧道鏡の真の姿を再発見することをめざして、古代史の史跡を年間4~5回散策したり、毎年、奈良西大寺にて道鏡忌を行っています。

そして今回、目に見える形のあるものを奉納し、道鏡の真の姿を多くの人に知ってもらうため、木像を制作し、西大寺に奉納するプロジェクトを立ち上げました。

この道鏡禅師の木像を奉納することは私にとって長年の夢でした。私自身は85歳になり、身体の調子がすぐれないこともありますが、この夢だけはなんとか実現したいと思っています。

ぜひ多くの皆様に制作費用をご支援いただき、道鏡禅師を地元の皆様をはじめ、多くの皆様に正しく認識していただける機会にしていければと思っています。ご支援をよろしくお願いいたします!

道鏡禅師の歩いた道をたどる会や展示会を開催。

八尾市、植松の郷土史家 山野としえさんが、郷土文化誌の『河内どんこう』(昭和50年[1975年])に『植松風土記』を連載されていた昭和55年(1980年)。「続日本紀」の弓削道鏡(ゆげのどうきょう)と称徳女帝の竜華寺参拝のくだりと今の植松の歴史を紹介しました。その中で、悪僧と呼ばれていた道鏡は、実は立派な学識を持った人物であることを紹介しました。

その後、山野としえ氏が1989年に「高僧弓削の道鏡」という副題のついた小説『真実不虚(しんじつふこ)』を出版し、道鏡を知らない人たちが小説とともに「道鏡を歩こう」と集まり、「道鏡を知る会」がスタートしました。

当時、植松労働会館で道鏡の業績を調べ、勉強する集いを開催したり、2ヶ月に1回、道鏡の歩かれた道をたどる「道鏡を歩こう」を開催しました。

昭和61年(1986年)、市民サービスコーナーで「高僧弓削道鏡展」が開催された頃から本格的な活動が始まりました。平成6年(1994年)9月、称徳女帝死後、道鏡が流されたかの地で善政をひいたと伝えられる「下野の地」栃木県で活動されている「道鏡を守る会」(田村豊幸会長)との共催で、東京吉祥寺近鉄百貨店で「道鏡禅師資料展」を開催し、2,000人近い入場者がありました。この展示会はNHKテレビなどでも取り上げられるなど、道鏡の役割を再評価する好機となりました。

今でも毎年4~5回「道鏡を歩こう」と銘打って、道鏡にかかわる史跡や古代史遺跡などの見学会を開催しています。昨年10月の例会で62回目を数えました。当初会員は、山野さんを中心に植松の人たちから始まりましたが、行事を重ねるごとに大阪市や京都府など他都市の会員も増え、最高時は100名を超える会員がいました。現在は幾島一恵新会長を先頭に30名ほどで活動を続けています。

神護景雲3年(769年)10月、称徳女帝は道鏡を伴って、道鏡の故郷である河内国由義宮に来られ、大和川沿いの龍華寺に河内の商人たちを呼び集めて市を開かせ、官人たちの買い物風景を楽しんだといわれます。また、天皇は龍華寺に綿二万屯(とん)、塩三十石を寄進しました。翌宝亀元年(770年)3月には、男女230人が歌垣には百済から河内の地に渡来した王仁(わに)の末孫たちが奉仕したとの記録が残されています(続日本紀)。

植松渋川神社の前の観音が当時の龍華寺であることや、渋川神社の前一帯の地域が「市の町」と今も呼ばれていることなど、私たちの身近なところに道鏡が活躍した名残が存在しています。

八尾市が生んだ偉大な人物、道鏡の真の姿を再発見し、称徳女帝と道鏡の清らかな恋に思いをはせて、道鏡を知る会は今年も活動を続けています。また、関東地方をはじめ、全国の「道鏡の会」との交流も行っています。会員は2か月に1回程度、奈良時代、特に道鏡ゆかりの地に出かけて拝観・見学をしています。

<主な活動記録>

第1回 道鏡を偲ぶ会 於:栃木県薬師寺町 龍興寺(1990.4.7/主催 道鏡を守る会)

第2回 道鏡を偲ぶ会 於:愛媛県弓削町 弓削島(1991.9.17-18/主催 弓削町)

第3回 道鏡を偲ぶ会 於:奈良市東大寺本坊(1992.10.24/主催 道鏡を知る会)

○展示会

道鏡展 近鉄百貨店 東京店(当時)(1993.9.1-5)

道鏡展 大阪府立中河内府民センター(1994.1.5-21)

○舞台

舞台でバレエ

「保良の宮の出会い・ほらのみや」「河内の里の歌垣」「天平の恋」

八尾市民会館 1994~8 八尾市文化芸術祭に参加

舞台でオペラ

「若き日の道鏡」1998.10 八尾市民会館 八尾市文化芸術祭に参加

○メディア掲載

道鏡を知る会がテレビ・活字に出たのは1980年。その後、朝日新聞「天声人語」で東大寺での道鏡法要が記事になりました。(1992.11.2)他紙でもとりあげられています。

「東弓削遺跡」の発掘・発見。今こそ道鏡禅師を知っていただく時。

 

弓削の道鏡は、歴史上、悪人として評価されています。しかし、当時の僧は、山岳修行によって特殊な能力を身につけ、その能力で多くの人達の病気や災いをしりぞけ、国家の安泰の寄与していました。中でも、道鏡はさまざまな評価はありますが、医師、薬剤師、霊能者としてすぐれた僧であったと考えられます。

また、平成28年に「東弓削遺跡(大阪府八尾市)」の発掘・発見があり、奈良時代に活躍した郷土の偉人として弓削道鏡がクローズアップされました。これを機に「奈良時代の歴史を学ぶシリーズ」などの講演会がいくつも企画され、毎週講演が各所で開かれました。そこで、私たち「道鏡を知る会」が「何かさせていただきます!」と手を上げて、道鏡禅師像を制作し、西大寺へ奉納プロジェクトを立ち上げました。

制作中の道鏡禅師像

制作は日本を代表する彫刻家、籔内佐斗司先生に依頼。

道鏡禅師像を制作していただくのは、奈良マスコット「せんとくん」をデザインした日本を代表する彫刻家であり、東京芸大大学院教授の籔内佐斗司先生です。先生は大阪出身で道鏡への思い入れも強く、打診したところ、「ぜひ協力したい」と言ってくださいました。

道鏡禅師像が、仏教の礎となった僧、道鏡を地元の人たちが正しく認知し、再評価する機会になればと願っています。

坐像制作で必要な金額は総額1500万円です。その内の必要な金額を募金にて500万円を集めようと活動しています。クラウドファンディングでご支援いただいた100万円は、制作費用の一部に充てさせていただきます。

< 制作から西大寺奉納までのスケジュール >

2020年1月〜3月:完成(現在彩色中)

2020年4月〜5月:八尾市と共催で八尾市歴史民俗資料館にて展示公開予定

2020年10月:奈良県・西大寺に奉納予定

藪内先生と制作中の道鏡禅師像

正しい道鏡像を後世に残す。夢を叶えるために。

本像造立の発願は、日本歴史史上の人物、道鏡禅師を現代社会において多くの人々に認知していただき、永く正しく評価されることを願うものであります。この機にさらなる研究が進展、深化することを期待します。

道鏡は、一部の歴史書や小説、そして皇国史観によって事実が曲げて伝えらえていると思います。道鏡の世評はあんまり芳しくないのですが、並みいる僧侶の中では傑出した才能を持っておられました。

この度、八尾市の「東弓削遺跡」が発掘されて、官寺(国立)がこの地にあったことが実証され、副都として西の都の存在が証明されました。出身地に残した記念碑ともいうべき塔跡が見つかったのを機に、冷静に彼の業績を再評価し、名誉回復をはかることが必要です。そこで、私たち道鏡を知る会の集大成として道鏡禅師のお姿を残そう、と考えました。そして、これが今の私の夢なのです。

そこで今回、クラウドファンディングに挑戦し、全国から道鏡の顕彰を同じように願っていただける方のご協力をお願いすることといたしました。

ぜひ道鏡禅師の正しい認識を後世に残していくために、木像造立のために一口ご支援をよろしくお願いいたします。


https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65273930R21C20A0AA1P00 【道鏡、実は「悪人」の事績乏しく 名誉回復願い坐像】 2020年10月22日 2:01  より

西大寺に奉納される道鏡禅師坐像(奈良市)

女帝に取り立てられ、皇位さえうかがった奈良時代の僧侶、道鏡(?~772年)。長く悪名が根付いていたが、出身地・大阪府八尾市の有志団体により、木彫の坐像(ざぞう)が作られた。ゆかりの西大寺(奈良市)に奉納される。新たな像は歴史的評価塗り替えのきっかけになるか。

有志が像を奉納

くっきりとした目鼻立ちと、屈強そうな体つき。「道鏡禅師坐像」は像高84センチと等身大だ。威儀を示す如意(にょい)という棒を右手に持ち、正面を見据えている。

「道鏡を知る会」(幾島一恵代表)が発願した。きっかけは、2016~17年の発掘調査で明らかになった巨大な塔の基壇だ。天皇も訪れた由義寺(八尾市)のものとみられ、1辺20メートル。想定を超える規模に、道鏡の威信の一端を重ね、坐像造立に名誉回復の期待を込めた。

制作したのは籔内佐斗司・東京芸大大学院教授。籔内氏は奈良県のマスコットキャラクター「せんとくん」も考案した彫刻家だ。

参考イメージにできそうな道鏡の肖像や絵巻物などを探したが「必要以上におとしめられた芝居の敵役のような悪相のものしかなかった」(佐伯俊源・西大寺教学部長)という。

悪名ばかり先行するが、道鏡に野心家らしい臭みはむしろ薄い。「強権的な専制を敷くといった悪人ならではの事績にも乏しければ、大経典を筆写奉納するといった、宗教指導者らしい目立った功績もない。どちらかといえば時代の奔流に踊らされたシンデレラボーイだった」。こうみるのは古代史が専門の瀧浪貞子・京都女子大名誉教授だ。

その理由ともいえるのが道鏡のスピード出世だ。退位していた孝謙上皇の病気を治した功績により、763年に「少僧都(しょうそうづ)」になる。翌年「大臣禅師」、翌々年に「太政大臣禅師」、その次の年には「法王」にまで上り詰める。大臣禅師以降はいずれも当時の制度にない僧位・僧階で、道鏡のために用意された。

境内に残る東塔の跡と本堂(奈良市)

この間、孝謙上皇は譲位先の淳仁天皇を廃して、出家したまま764年に再び即位する。重祚(ちょうそ)後は称徳天皇となり、西大寺創建に着手するなど仏教に重点を置いた政治を進める。理想政治の補佐役に登用されたのが道鏡だった。天皇に準ずる待遇が約束された。

栄華極め失脚

道鏡の前歴は、はっきりしない。葛城山で苦行を重ね、呪験力を身につけたという。その後仏門に入り、法相宗の高僧・義淵に学び、東大寺初代別当・良弁の使いをしたという記録もある。サンスクリット(梵語(ぼんご))を独学で修めるなど、努力家でもあったようだ。

ただ、称徳天皇の寵愛(ちょうあい)を一身に集め、高位高官の廷臣らの拝賀も受けるほどになると、道鏡を見る視線は日に日に厳しくなった。頂点に達したのが、宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の神託事件だった。

「道鏡を皇位につかせれば天下太平になるだろう」との託宣がもたらされた。この真偽をたしかめに、和気清麻呂が派遣されたが、清麻呂が持ち帰ったのは「天皇の跡継ぎには必ず皇族を立てよ」という託宣だった。これを受けて道鏡はあえなく失脚。770年に称徳天皇が亡くなると、下野国(栃木県)に配流され、2年後に生涯を終える。

「皇位に臣下がつくことはない」「天皇が即位したら日を置かず皇太子を決める」という大原則は、この事件を起点に根を下ろしていく。「皇位継承を巡って1世紀近く相次いだ内紛や粛清に終止符が打たれ、次の時代を地ならしした。そこに道鏡の意義があるのでは」(瀧浪氏)

「道鏡像を奉納していただくのは、敵も味方も分け隔てなく処遇する仏教の理念『怨親(おんしん)平等』にもかなう。悪評を拭うきっかけになれば」(佐伯氏)。新坐像は孝謙上皇が発願した西大寺の聚宝館で25日から11月15日まで公開される。

(編集委員 岡松卓也)