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道鏡、称徳天皇と由義宮(ゆげのみや)・西京について

2020.12.06 05:37

https://www.city.yao.osaka.jp/0000039111.html  【道鏡(どうきょう)、称徳天皇と由義宮(ゆげのみや)・西京について】 より

道鏡と称徳天皇について

道鏡は、河内国若江郡(現在の八尾市の一部)出身の僧で、葛城山などで厳しい修業を積み、修験道や呪術にも優れていて、孝謙上皇(東大寺を建てた聖武天皇と光明皇后の娘)の病気を治したことから重用されるようになりました。

孝謙上皇は、764年に称徳天皇として再び即位し、西大寺や西隆寺を建てたり、百万塔(100万個の木製三重塔)を製作し諸寺に置くなど、仏教を中心とした政治を推し進めました。そして、道鏡は、称徳天皇の引立てにより、766年には、宗教界の最高の位である「法王」となりました。

また、769年に起こった、道鏡を皇位につけようとした宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)神託(しんたく)事件が有名ですが、称徳天皇の道鏡に対する信頼は揺らぐことがありませんでした。なお、この事件の首謀者が誰なのかは諸説あります。

道鏡と称徳天皇が’やお’に来た

道鏡を信頼する称徳天皇は、765年に初めて、弓削行宮(ゆげのあんぐう)(道鏡の故郷である弓削の地に設けられた仮御所)に5日間滞在して、その間に道鏡を太政大臣禅師に任命し、また、2度にわたり弓削寺に行って仏像を拝み、その庭で唐・高麗楽(とう・こまがく)(唐・高句麗由来の音楽)の演奏なども行わせています。

また、769年に称徳天皇は「由義宮」として整備が進められていた当地に赴き23日間滞在しました。このとき、「由義宮」は平城京の副都として「西京」と位置づけられました。

この滞在中には、龍華寺(りゅうげじ)の近くにある川のほとりに市(いち)を設けて、つき従ってきた役人たちが好みのものを売り買いしている様子を、称徳天皇は見物しています。なお、龍華寺については、その所在地ははっきりとはわかっていませんが、安中小学校の南西角に「龍華寺跡」の石碑があります。

そして、称徳天皇が最後に「由義宮」を訪れた770年の滞在は39日間にも及び、その間に西京を讃えて河内に住む6つの氏族の男女230人による華麗な歌垣(うたかき)(男女が歌を歌い合う遊び)が催されました。また、この滞在中に称徳天皇は由義寺の塔の造営に携わった人々に位階を与えました。

道鏡と称徳天皇の別れ

称徳天皇は、770年の由義宮への訪問から平城京に戻ったその同じ年の8月に亡くなり、道鏡は下野薬師寺(栃木県下野市)の別当(長官)となり、2年後の772年に下野でこの世を去りました。

 「西京」も造営から10ヶ月あまりで中止となり、称徳天皇が滞在した「由義宮」も現在その姿をみることはできませんが、今後の発掘調査でその姿の一端が明らかになるかもしれません。


https://www.city.yao.osaka.jp/0000039112.html  【由義寺跡の発見と調査成果について】より

由義寺跡発見に至るまで

平成28年9月に東弓削遺跡(八尾市東弓削3丁目)の発掘調査において、奈良時代後期の興福寺と東大寺と同じ文様の瓦が見つかりました。

その後、平成28年11月から寺院の跡が見つからないか周りを調査した結果、多くの瓦が集中している場所や一辺約20mの正方形の塔の基壇(きだん)(建物の基礎となる土盛り)が見つかりました。

また、瓦のほかにも、寺院を建てるときに、地鎮(じちん)のために埋められた「鎮壇具(ちんだんぐ)」の一部である和同開珎(わどうかいちん)(初鋳708年)、萬年通寳(まんねんつうほう)(初鋳760年)、神功開寳(じんぐうかいほう)(初鋳765年)などの銭貨(お金)や佐波理碗(さはりわん)(銅合金の碗)の破片や、塔の頂部に立てられた「相輪(そうりん)」の一部である「伏鉢(ふくばち)」か「請花(うけばな)」とみられる直径約90cmに復元できる銅製品も見つかりました。

なぜ由義寺とわかったのか

見つかった基壇の大きさ(一辺約20m)は、平城京にある東大寺東塔の24mまではいきませんが、大安寺の約21mや諸国の国分寺と同じくらいの大きさで、国家事業として建てたものと考えられます。

この地で見つかる可能性のある国家事業の寺院は、『続日本紀』に記載のある「由義寺」ということになります。

また、東大寺や大安寺は、いずれも七重塔と推定されているので、由義寺も同様に七重塔であった可能性が高いと考えられます。

調査してわかったこと

見つかった基壇には、心礎石(しんそせき)(塔の中心柱を支える石)や柱礎石、そして外装(がいそう)施設である羽目石(はめいし)(基壇の周囲を覆った石)や地覆石(ぢふくいし)(基壇の下部に横に据えた石)などは、失われていましたが、粘質土と砂質土の薄い層を交互に突き固めた「版築(ばんちく)」が確認でき、基壇の築造方法がわかりました。

その他、基壇周辺から見つかった瓦や凝灰岩の切石、壁土などは、火を受けた痕跡がみられます。また、塔の頂部に立てられた「相輪(そうりん)」の一部である「伏鉢(ふくばち)」か「請花(うけばな)」とみられる直径約90cmに復元できる銅製品も焼けて割れています。これらのことから、時期はわかりませんが、塔が火災で焼け落ちたことがわかります。

今回の発見により、日本の正史である『続日本紀』に登場するも”幻の寺”とされてきた由義寺の場所が明らかになりました。このことは、八尾に副都としての整備が進められた「西京」を考えるうえでも日本史上の重要な発見となりました。