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道鏡について

2020.12.06 05:52

http://www.eonet.ne.jp/~doukyou/shiryou/d_nituite/sub03.html 【道鏡について】 より 
あまり聞きなれない人の名だけれど、正しくは「弓削道鏡」といって奈良時代の歴史に登場した人です。 2002年は、奈良の大仏さんが、建立されて1250年たちますが、そのころ東大寺のお坊さんだった人です。

生まれは、河内の国若江郡(大阪府八尾市)、亡くなったのは、下野の国(栃木県河内郡)です。

日本の歴史書「続日本紀」には、山岳修行をしサンスクリットも読めた。病気を治す看病禅師(当時のお医者)として、平城宮で皇室の人々に仕えた人とあります。

西暦752年の大仏開眼の時に天皇であった孝謙天皇(聖武天皇の娘)の病気を治療したことから、女帝の信頼、寵愛をうけて政治の世界へ入ったのです。奈良の西大寺はこの女帝が創建したお寺であり、父、聖武天皇の「東大寺」に対して「西大寺」としたのです。

道鏡は一介の僧から太政大臣禅師、やがて法王になって、天皇と同じ待遇を受けました。

また天皇は河内の国を西の京として都を造ろうとしました。しかし志なかばで天皇が薨去し、それとともに道鏡も失脚し下野の国で、一生を終えました(772年)。

戦前の歴史は「皇国史観」によって歪められた歴史観があり戦後、その史観は訂正されつつあり、研究も進んでいます。

 文化のまちづくり講座 「こんにちは ! 道鏡はん」

「道鏡ってどんな人?」         道鏡を知る会代表 幾島一恵

道鏡の生い立ち

道鏡がいつ生まれたか不明である。路真人豊永に儒教を学び、のち岡寺の義淵僧上の弟子となり、葛城山中で修行をし如意輪法や宿曜秘法を修めたとある(僧綱補任、七大寺年表)。

義淵僧正の最晩年の弟子だとすると、義淵の没年神亀五年(728)ころ、道鏡の年令は15才から20才くらいと推定される。年号でいうと、和銅(708~714)の時代に生まれたと考えられる。続日本紀の卒伝に「俗姓弓削連、河内の人也」とある。河内の国、若江郡は現在の八尾市東弓削(JR志紀駅の東側)付近。このあたりは物部氏の氏族のひとつで弓削部という、武器を作っていた部族であった。また一説には天智天皇の孫(志貴皇子の子)だという皇胤説もあるが(七大寺年表、本朝皇胤紹運録)現在では否定的な見方が大勢である。物部氏には天皇家の側近、80氏族あり、軍事を司る氏族、大和川流域の利権をもつ。

出家して僧になる理由

当時の社会では、地方豪族や庶民にとって出家して僧になることが出世の道であり、また僧侶になると納税の義務が免除されていた。

道鏡は修験の山、葛城山にこもり苦行の中で、呪術による修験を習得した。葛城山は、七世紀末に役の行者が修行して修験力を得た山であり、呪術的能力を身につける為の修行の地であった。のちに道鏡の腹心として活躍する円興は、葛城出身であるから道鏡の修行時代に知り合っていたと思われる。

 役の行者は「よく鬼神を使役して水を汲み、薪を採らしむ、もし命を用いざれば呪を以ってこれを縛す」円興、基真も呪術に長じていた。

八世紀の政治は国家鎮護としての仏教思想を採り入れた。その鎮護国家思想の中には、密教的呪法が活動の中心とする山岳修行の流れがある。純粋な修行は本来仏教が持っていた要素のひとつであり、これらの修験者は宗教家である他に学者、医師、薬剤師、霊能者でもあった。この系統は役の行者から良弁、道鏡に受け継がれ(雑密)、やがて最澄や空海の活動(純密)に引き継がれていくのである。

ほかに行基(749没)、玄昉、などがいる。一方鑑真は大僧都を断り受戒に専念、道慈は位につかなかった僧。

聖武天皇の子供たち

養老二年(718)に安倍内親王が誕生。父は聖武天皇、母は光明子。更に神亀四年(727)には弟の基王(某王か)が生まれ、すぐ皇太子に決まる。しかし一年たたぬうちに死亡した。これを長屋王の呪詛によるとして長屋王一家は粛清され皇位継承者が消された。その直後に光明子が、皇后に立后した。長屋王が光明子の立后に反対していたからである。長屋王は藤原不比等の四人の息子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)の覇権を意識して牽制したものと思われる。長屋王の妃で藤原不比等の娘長我子はゆるされている。皇后になると、天皇の代理を務めうる地位で皇族の内親王がなるもの。

長屋王は、後に名誉が回復される。

これを機に藤原四兄弟も政治の世界に進出しはじめる。聖武天皇の時代の政治は皇族と、公卿といわれる中央の貴族が議政官として政治に参画していた。昔からの豪族は、代表の一名だけが選ばれるのであるが、藤原氏は四兄弟すべてが高い地位につく。これで藤原氏の将来は磐石だと思われた政権だったが、天平九年(737)の天然痘の流行により相次いで死亡し藤原政権は終末を迎えた。

 新羅から戻った船から伝染して、大宰府から中央官庁に感染した。

思わぬ事態に藤原氏は危機感を感じた。聖武天皇には、光明皇后のほかに県犬養広刀自という妃がいて、基王の死亡した翌年(728)安積親王が生まれていた。この親王が皇太子になれば、藤原一族が今まで築いてきた、外戚による政治覇権が崩れてしまうことになる。そこで安倍内親王を皇太子に決めた(738)。女性の皇太子は歴史上初めてである。その安積親王も十七才で死去した(744)。

 一説には、恭仁京留守役の仲麻呂に殺された、という説あり。

天平勝宝一年(749)聖武天皇は譲位、安倍内親王が即位し孝謙天皇となる。いとこの仲麻呂は、大納言に進む。仲麻呂は官庁の名称を唐風に変え、皇后宮職を紫微中台と改称して紫微令(長官)になった。紫微中台の「紫微」とは、中国では天帝の座を表す言葉である。孝謙天皇を後見する官庁、というより光明皇后が天皇の代行をするという意図がうかがえる。

鎮護国家の思想

聖武天皇と光明皇后は仏教への篤い信仰心を持っていた。そのころ遣唐使として唐で勉強してきた留学僧が帰国し、バラモン僧、唐僧などが来朝し、当時の先進国である唐の仏教思想がもたらされた。

 玄肪、菩提遷那、道せん、

そして国家の政治を仏教の教えで治めようとうと考えた。鎮護国家の思想である。仏教のもつ精神性のほかに、飢饉や伝染病、災害が起これば天皇の政治がいけないのだと考えられた時代であり、天皇は自らの力不足を感じて、神仏に頼る心が強くなっていた。国家の安泰を呪法によって得たいという望みが下地となって、仏教が栄える背景となっていった。

聖武天皇は難波宮への行幸の途次、河内知識寺の盧舎那仏を拝して自分も大仏を建立しようと考え、天平十五年(743)、柴香楽宮で詔勅を出した。河内國の知識寺(柏原市太平寺)は、信仰心のある人々の自発的な拠出によって造られた寺で、それを「知識」といった。天皇はその考え方に共感し行基の全国勧進行脚の努力もあって造営が始まった。最初は柴香楽宮甲賀寺で柱立てに天皇も綱を持って参加した。しかしこのころ地震や火事が続き、天皇も都をどこにするのか決めかねていた。

 平城京~恭仁京~紫香楽~難波~平城京

天平十七年(745)聖武天皇の四年半の彷徨を終えて、平城遷都に落ち着き、大仏鋳造が金鐘寺境内で再開される。東大寺は、はじめ金鐘寺といい、更に金光明寺から東大寺になっていった。

 金鐘寺は基王の菩提を弔うための寺として建てられた、現在の三月堂、開山堂とも言う。

天平勝宝四年(752)大仏開眼を迎える。その盛儀は、日本に仏教が入ってきて以来の壮麗な大イベントであった。僧侶だけで1万人が参加した。東大寺の初代別当は良弁僧正である。

大仏とは毘盧舎那仏のこと、極楽浄土を遍く照らすの意味、開眼導師にインド僧菩提遷那、呪願師に道せん、華厳経講師隆尊律師になった。

大仏開眼から五年目に聖武太上天皇は薨去した。遺詔として道祖王が皇太子に選ばれたが、一年後に廃太子となり大炊王が皇太子に選ばれた(757)。

その翌年天平勝宝二年(758)孝謙天皇は譲位した。仲麻呂は大保(右大臣)となり恵美押勝の美称を賜る。仲麻呂は二年後大師(太政大臣)となり仲麻呂の専横が始まった。あまりの出世の早さに、同じ藤原一族からも反感をもたれるようになった。

国家の制度としての僧侶

奈良時代は、国家の経営する官寺が造営され(大安寺、薬師寺、東大寺、唐招提寺、西大寺など)、また地方でも国分寺、国分尼寺の造営が発願され(741)、鎮護国家のための法会を行うために多数の僧尼集団が必要であった。後継者養成のために唐から鑑真を招聘し本格的な受戒のための戒壇(東大寺、下野薬師寺、筑前観世音寺)を備えることにより、僧になるための具足戒が行われた。資格を得た僧侶の戸籍は国家が管理した。今でいう国家公務員となる。これにより国家仏教の宗教的権威が制度として確立した。

戒壇院とは、いまでいう国立大学である。

歴史にでる道鏡の初見

道鏡がはじめて歴史に現れるのは、正倉院文書である。天平十九年(747)東大寺の良弁僧正の下で働く使僧として「沙彌道鏡」の名が登場する。道鏡はサンスクリットにもよく通じていたといわれるが、道鏡の師義淵は唐に留学の経験があるし、東大寺にいた頃にはインド僧の菩提遷那にも学んでいた可能性がある。自筆の文書は天平勝宝六年(754)「法師道鏡」の名で文書が残されている(正倉院文書)。もうその頃には宮中の内道場に入り看病禅師として如意輪法をおこなっていた(水鏡)。

サンスクリットが読める、書けるという程度ではなく深く理解をする。内道場とは、宮中の仏間で、法会したり、病気を治療する場所、宮内庁病院。聖武天皇の看病禅師は126名いた。

孝謙上皇と道鏡の出会い

孝謙天皇の時代は天平勝宝一年(749)七月から天平宝字二年(758)八月の九年間であり、この間は光明皇后と仲麻呂の政治であった。天皇が代われば年号の改元があるはずなのに、淳仁天皇の場合は改元しなかった。「淳仁」の名も明治につけられた名称でそれまでは「淡路廃帝」と呼ばれた。淳仁天皇は仲麻呂の傀儡であり、光明皇后亡き後は(760)仲麻呂の政権であった。墾田永世私財法を発布し、貴族は田畑を開発して益々富を増やし、通貨の鋳造権をも私有した。

天平宝字六年(762)、宮殿の改修がおこなわれ孝謙上皇は「北京」と呼ばれる近江保良の宮に淳仁天皇とともに滞在していた時、上皇は病気になった。偶然石山寺にいた看病禅師道鏡が呼ばれた。

 石山寺の創建は747年聖武天皇の夢に近江の国にお寺を建てると金が産出されるとのお告げがあり、建てられた寺であり、東大寺の末寺であった。道鏡は東大寺の僧坊に住み、内道場に通っていた。

孝謙上皇はこのとき四十五才、譲位のあとは孤独であった。母光明皇后もいないし仲麻呂からも疎んじられて鬱々としていた。その時、病気を治療してくれた看病禅師から心に沁みる言葉をかけられ、学識深く、貴族にはない清々しさ、率直さ、たくましさを感じたに違いない。

正倉院に残された文書を見て、道鏡の書について、後世の書家は「雄渾で男らしい、のびのびとした闊達な、立派な書」などと、評している。「書は人格を表す」とするならば、道鏡は人格高潔であったと考える。きっと上皇の話し相手、相談相手になって心和む日々を作ってあげた、と思われる。

 孝謙天皇の書は光明皇后の娘らしく、勝気なりりしさがある、と評される。仲麻呂の書については、気の毒にも「いじけた、頑なさ」などと評されている。

孝謙上皇は急速に道鏡へ傾斜していった。仲麻呂にすれば、もう利用価値のない上皇ではあるが、ここで道鏡ごとき看病禅師に近づかれては困るわけで、快く思わなかった。そこで淳仁天皇に看病禅師との仲を諌めさせた。上皇は自らの心に芽生えた至上の愛が傷つけられたことに怒り、平城京に戻ると、法華寺に入りただちに出家して宣命した。「国の大事と賞罰は上皇が行う」と大権を取り戻した。

 宣命体「政は、常の祀りの小事は今の帝が行い賜え、国家の大事・賞罰の二つのもとは朕行わん」と宣言した。天皇が御璽をもっているから、詔勅は出せないので、口で述べている。

翌年、道鏡は少僧都に昇進した。上皇のかつての教育係であった吉備真備も政界に返り咲き、道鏡の弟浄人も昇進するに及んで、仲麻呂はますます危機感を募らせた。

 吉備真備など地方豪族の台頭して来た。

天平宝字八年(764)仲麻呂は謀反をおこすが、上皇軍が一歩早く、また同じ藤原一族も上皇軍に加わり、仲麻呂一族44名は近江の地で滅びた。「仲麻呂の乱」といわれているが、上皇の対応の速さからいって「上皇の乱」の気配がある。淳仁天皇は、宮中に置き去りにされ、廃帝となり淡路に流された。孝謙上皇は重祚して称徳天皇となる。天皇の名称は、続紀では「高野天皇」と呼ばれている。道鏡は大臣禅師に任ぜられた。また天皇は、国家鎮護を祈願して「西大寺」の建立を発願した(西大寺資材流記帳)。そして戦没者の慰霊のため「百万塔」という小塔を百万基作りその中に陀羅尼の経文を印刷して納めた。十万基づつ十大寺(大安寺、元興寺、薬師寺、興福寺、東大寺、西大寺、法隆寺、弘福寺、四天王寺、崇福寺)に寄進した。陀羅尼経は四種類あり銅板、木版の印刷物は世界最古である。西大寺、西隆寺創建の規模は東大寺を凌ぐほどの大事業で、現在の西大寺の、40倍の広さであった。

 西大寺は最初から空き地であったとは云い難い。国家が没収した地、恐らく藤原氏が持っていた一等地であったと思う。陀羅尼など密教的なものが多い、8世紀後半の仏教の傾向。

河内、弓削の里

天平神護一年(765)河内弓削に行宮が造られ、天皇の行幸があった。弓削寺に礼仏し、郷里に錦を飾った道鏡は、この弓削の行宮で太政大臣禅師に任命された。同時に弟の浄人も位を賜る。道鏡は翌年(766)法王の位を授かった。「法王」という位は日本の歴史の中で聖徳太子と道鏡だけである。その待遇は天皇と同じ。神護景雲三年(767)正月には大臣以下の拝賀を受け、道鏡は寿詞を告げた。こうして天皇の絶大な権力により否応なく昇進していった。

宇佐八幡神託事件

神護景雲三年(769)大宰の主神から「道鏡を皇位につけると天下は太平である」との宇佐八幡の神託があったと云って来た。称徳天皇は、側近の和気広虫(法均尼)の弟、和気清麻呂に神託確認のため宇佐へ送った。その返事は「天の日嗣は必ず皇緒を立てよ」との逆の奏上であった。

戦前の国定教科書はこのあと「無道の道鏡は面目を失ひ、尊いわが国體は光を放ちました」となっている。激怒したのは天皇であって、道鏡ではない。天皇は和気広虫と清麻呂を地位剥奪し流罪にした。

道鏡はお咎めもなく由義宮へ二回目の行幸をする。そして河内を西の京とする勅が下る。龍華寺(安中小学校付近)に参詣し、市をたて官人たちに買い物をさせて遊び、寺に綿2万屯、塩30石を寄進した。

1屯は320匁で6400貫になる。1升は今の4合であったので約12石

別宮八幡矢作神社の由緒にも勅使が参向し奉幣があった、とある。また弓削氏らに叙位した。弟の弓削御浄朝臣浄人には大納言正三位から従二位へ、ほかに広方、秋麻呂、塩麻呂、広津も授位した。

 弓削の御浄朝臣とついているので浄人の子供たちである。

西の京造営に際して大県、若江、高安郡の百姓の家が、由義の宮域に入る者の土地を買収した。

宝亀元年(770)二月から四月にかけて由義宮へ行幸があった。春の博多川で園遊し、曲水の宴を催した。また帰化人の男女230名の歌垣を催した(葛井、船、津、文、武生、蔵)。

男は青摺りの細布衣に女は赤帯をひらひらさせて進みながら歌う。「乙女らに男立ちそい踏みならす、西のみやこは萬世の宮」 「淵も瀬も清くさやけし博多川、千歳を待ちて澄める川かも」と歌う。官人や女孺も加わってはなやかなパレードをする。西の京造営が本格的になった矢先に、天皇は病気になった。西大寺の東塔の心礎を割った祟りであるとの卜占があったりした。太政官は大赦を行ない、善行を施し神仏にすがった。しかし病状は進んでいった。左右大臣が軍事権を掌握し始めた。道鏡、浄人は抵抗しなかった。

八月四日、天皇は薨去した。道鏡はひたすら「梓宮に奉じて陵下に留まり廬した」。白壁王の新朝廷は道鏡の処遇に考えあぐね、「法を致すに忍びず」として、下野国薬師寺別当に発遣したとある。

京都の高山寺所蔵の古文書に「宿曜占文抄」という星占いや天文のことを書いた古写本(文治年間の写本)があり、その中から道鏡の伝記が見つかった。道鏡が宿曜秘法、つまり占星術を使って女帝の病気を治したこと、女帝の死後、道鏡自らすすんで下野へ下向したとの記述があった。

道鏡の政治で国の費用は不足したか

続紀によれば「軽々しく力役を起こし努めて伽藍を繕えり、公私彫喪して国用足らず」とあり官民ともに疲弊して、財政は危機的であったと。財政の補給は地方豪族の献金、献物に対して位階官職を与えていた。造寺、遊楽、の他に蝦夷、新羅への防衛に軍事費の支出があり、道鏡の故とは云い難い。

正倉院の古文書で仲麻呂の時代の「上宣」といわれる議政官の文書5例があり、仲麻呂は橘諸兄など上席者を飛び越えて各種の法律を上奏している。その後孝謙天皇が即位し仲麻呂が紫微内相になると仲麻呂の独裁体制に入り、太政官符は左右大臣の署名なしに仲麻呂だけの官名で発給されている。

 政刑、日さかし、政治と刑罰は日々に厳しくなり、殺戮がみだりに行われた。仲麻呂に始まり淡路廃帝(暗殺か)不破内親王の呪詛事件など皇族、貴族の謀反まがいの事件や、奇瑞の献上と詐欺など。

道鏡が大臣、法王の時代の「上宣」は、左右大臣(藤原永手、吉備真備)が交互に上奏していて道鏡と腹心の円興、基真のものはない。道鏡の勅を奉じた「牒」の内容は、造東大寺司へ下達したもので、国政に関与したものではなかった。その当時に政治をとった貴族たちにこそ責任がある。道鏡にとって下野国の薬師寺への派遣は、むしろ相応しい仕事であった。一年八ケ月後その地で没した。

 弟浄人とその子、廣方、広津、広田は土佐に配流。政治的処分。11年後赦免になる。

 道鏡の没した下野国、薬師寺の別院「龍興寺」に道鏡塚がある。創建は鑑真といわれている。鑑真は唐にいたとき、住んでいた寺の名前も龍興寺であった。現在の住所は栃木県河内郡南河内町薬師寺。

  参考資料青木和夫著「日本の歴史3」中央公論社、和歌森太郎編「人物・日本の歴史2」読売新聞社、

渡辺晃宏著「平安京と木簡の世紀」講談社、「歴史読本・大仏建立」新人物往来社、丸山裕美子著「天平

の光と影」NHK、「八尾の歴史」八尾市、橋本哲二著「反論日本史道鏡の汚名をそそぐ」新潮。

直線上に配置

      ゆかりの地を歩いてみよう

弓削神社(西)八尾市弓削

 祭神は物部の祖、饒速日命、宇麻志麻治命、伝、千二百年前の創建とある。旧大和川の左岸は志紀郡となる。奈良時代の弓削一族が繁栄した頃は相当な規模であったと思われるが今は社地も森もない。

弓削神社(東)八尾市東弓削

 祭神は天日鷲命、美加布都神比古佐自布都神。延喜式の「弓削神社二座」若江郡とあるのはこの二柱の神と思われます。河内式内社の中で大社八座とは、枚岡神社四座、恩智神社二座、弓削神社二座のことであるとのことで、東西弓削神社二社ではない、との説がある。(山本昭氏説)

由義神社 八尾市八尾木北

 祭神はスサノオノミコト、古くは牛頭天皇といった。由義の宮が設けられたときに勧請された神社と伝えられている。近くに小字名が「風呂地」とあったところを掘削すると温泉がでたところがある。

由義の宮 八尾市都塚付近

 称徳天皇は道鏡の郷里に行宮を建てられ、のち由義の宮となり、やがて西の京という陪都となし、造由義宮司がおかれ、河内国は河内職とされた。「河内名所図会」に都塚の地名は由義の宮に因んだものとある。他にも「弁天塚」という小高い塚もあって女帝にゆかりの地、とも考えられる。

小田原市千代の台に、かつて弓削寺(現勝福寺)があった。この地は東弓削の地形とよく似ている。二本の川に挟まれ、東に三島神社と大磯丘陵、西に八幡社があり、その先に箱根の山が望見できる。