金精峠は死と再生の峠??
何故金精峠に道鏡の巨根伝説が生まれたのでしょうか?
私の仮説です。① 道鏡は密教修行者 ② 山岳信仰→ 死と再生
https://lifeskills.amebaownd.com/posts/11787189 【冬雲に身をかる龍や筑波山】
https://true-buddhism.com/shuha/tibet/ 【チベット仏教『死者の書』とダライ・ラマ】
チベット仏教は、1927年に『死者の書』の英訳がイギリスで出版されると、心理学者のユングが読み、1930年代のヨーロッパ思想界に大きな影響を与えます。
やがて1960年代アメリカのカウンターカルチャーで、若者たちが幻覚薬LSDを服用した時の幻覚が、『死者の書』に記されている体験と極めてよく似ている事実に気づき、『チベット死者の書』がブームになったことは、NHKスペシャルでも放送されました。
チベット仏教の法王であるダライ・ラマは、チベットの政治上の君主でもあり、ダライ・ラマ14世はノーベル賞も受賞しています。
一体チベット仏教とはどんな教えなのでしょうか?
チベット仏教とは、チベットを中心として、ネパールやモンゴルに広まっている仏教の宗派です。
チベット仏教のことをラマ教とも言われますが、まったくチベット仏教と同じです。
ラマとは、インドの言葉でいえば、グルのことです。
師匠の僧侶のことで、先生とか上人という意味です。
チベット仏教では、仏・法・僧の三宝に加えて、ラマに帰依することを重視しますので、外国人がチベット仏教のことをラマ教と呼んだのですが、チベットの人たちはラマ教といわれることを好みません。
ラマ教は俗称で、正式にはチベット仏教です。
日本では、チベット仏教のトップであるダライ・ラマ14世が麻原彰晃を称讃し、オウム真理教が法人格を取得するときに東京都に推薦状を提出したため、悪いイメージが広まってしまいました。
しかしながらオウム真理教は仏教ではない外道ですが、チベット仏教は本来、オウム真理教とは全く関係ありません。
チベット仏教には、漢訳経典に匹敵するたくさんのチベット語訳のお経・チベット大蔵経があり、その教えは小乗仏教と大乗仏教と密教を体系化した仏教の宗派の一つです。
密教を重視しているため、仏像は顔や手がたくさんあるものや、男女が抱き合っている姿のものなど、異形のものも数多くあります。
チベット仏教の代表的な宗派は4つあります。
ニンマ派、サキャ派、カギュー派、ゲルク派の4つです。
この中で最も新しいゲルク派が多数派です。
チベットの政治を行うダライ・ラマは、ゲルク派のトップです。
しかし『死者の書』は最も古い宗派であるニンマ派の書物です。
約2600年前、インドで説かれた仏教は、どのようにチベットに伝えられたのでしょうか?
チベット仏教の歴史
7世紀 ソンツェン・ガンポ王
チベットにはもともとボン教という宗教がありましたが、7世紀にチベット初の統一王国を打ち立てたソンツェン・ガンポ王の時に初めて仏教が伝えられました。
ソンツェン・ガンポ王は、現在もチベットの中心となっているラサを都に定め、周辺のネパールやインドにも勢力を伸ばし、唐の支配地域にまで迫り、唐の皇女・文成公主(ぶんせいこうしゅ)とネパールの王女ブリクティを妃に迎えました。
ところが2人はいずれも仏教徒で、仏像を持参して、ソンツェン・ガンポ王に仏教を伝えます。
王はそれぞれに寺院を建立し、仏教に帰依しました。
8世紀 ティソン・デツェン王
やがてティソン・デツェン王(742-797)の時代にチベットの国力は最盛期を迎え、仏教を国教とします。
ティソン・デツェン王はインドから密教僧パドマサンババ(蓮華生)を招き、775年からサムイェーに寺院を建立します。それがチベット仏教で一番古い宗派であるニンマ派の始まりとなります。
こうしてパドマサンババは、チベット密教の開祖とされるようになりました。
日本でいえば弘法大師のようなものです。
779年には、チベット人が初めて戒律を受けて僧侶となり、サンスクリットの経典をチベット語に翻訳する事業が始まりました。
中国の唐は玄宗皇帝の時代で、楊貴妃に惑わされ、安史の乱を誘発して国力を落としたため、チベットのティソン・デツェン王は763年に長安を一時占領し、786年には敦煌を占領しました。
すると王は、敦煌から中国の禅宗の僧侶を招いて教えを広めさせます。
ところがやがて中国の禅宗と、インドの仏教との間で論争が起きたため、王はインドからカマラシーラ(蓮華戒)を招いてどちらが正しい仏教か論争させた所、カマシーラが勝利したので、その後、チベットはインドの仏教を取り入れるようになります。
このインドの仏教は、インドの2つの主要な仏教の宗派であるナーガールジュナの中観派と、世親菩薩の瑜伽行派を融合させた瑜伽行中観派でした。
9世紀 混沌の時代へ
9世紀に入ると、僧侶が政治の頂点に立ち、821年には唐と平和条約が結ばれます。
やがてほとんどの経典の翻訳が終わりますが、僧侶に特権を与えすぎたために、経済的に立ちゆかなくなり、王室が滅んでしまいます。
こうして瑜伽行中観派の仏教への国からの援助がなくなると、それまで禁止されていた密教や禅宗、ボン教が復活します。
それが混ざり合ったりしながら、仏教が庶民の間にも定着していきます。
11世紀 仏教の復興
11世紀になると、チベットの各地で仏教の復興運動が起こり、インドからアティーシャという僧侶が招かれて仏教が再興されました。アティーシャは、当時インドで流行していた後期の密教にも熱心でしたが、チベットには定着せず、瑜伽行中観派の教えが伝えられました。
しかしこの頃、瑜伽行中観派の教えも密教も両方説くサキャ派が現れ、同じ頃にアティーシャの弟子から、やはり両方を行うカギュー派という宗派が現れます。
13世紀 モンゴルへ広まる
1240年、モンゴルがチベットを侵略すると、当時勢力が大きかったサキャ派のトップ、サキャ・パンディタがモンゴルの王を懐柔して災難を逃れ、サキャ派はチベット全土の支配権を確立します。
1270年には、パンディタの甥のパクパが元のクビライ(フビライ)ハンを改宗させて師匠の僧侶になり、色々な特権を獲得します。
ところがチベット僧は、元に対して密教の性的で退廃的な教えを伝え、元は滅亡を早めます。
元の次の明の時代になっても、皇帝の師匠の僧侶を派遣しますが、退廃的な教えを伝え、邪教の汚名を残します。
15世紀 ツォンカパの出現
14世紀末から、ツォンカパという僧侶が現れます。
サキャ派の僧侶に主に中観派や密教を学び、やがてアティーシャの教えをもとに小乗仏教と大乗仏教と密教を融合したゲルク派を1409年に起こします。
それは、密教の性的な退廃的な教えを排除し、出家と戒律を重視して、大乗仏教の瞑想を深めるために密教の瞑想を行うというものでした。
主著は『菩提道次第論』と『秘密道次第論』です。
ツォンカパは、今までの宗派と区別するために、いつも黄色い帽子をかぶっていたのでゲルク派は黄帽派とも言われます。
それ以外は紅帽派といわれます。
その弟子が初代ダライ・ラマとなります。
ダライ・ラマは観音菩薩の化身と崇められています。
その後、ゲルク派は急速に勢力を拡大し、17世紀の五代目のダライ・ラマの時には、モンゴルがチベットを征服し、モンゴルからチベットの政権を譲り受けて、宗教的にも政治的にも権力を確立します。
カギュー派は中央を追われ、ブータンの国教となりますが、チベットは、こうしてゲルク派が主流となったのでした。
ダライ・ラマとは
ちなみにダライ・ラマとはゲルク派の非常に有力な僧侶で、16世紀のモンゴルで最も有力だったアルタン・ハーンの師匠の僧侶となったダライ・ラマ3世、スーナム・ギャツォが、アルタン・ハーンから1578年に贈られた称号です。
「ダライ」とはギャツォのモンゴル語で、大海という意味です。
「ラマ」はチベット語で師匠の僧侶という意味なので、ダライ・ラマは、ギャツォ上人という意味です。
ダライ・ラマ1世をツォンカパの直弟子のゲンドゥン・ドゥプパに追贈し、2世も追贈して、スーナム・ギャツォが第3世となりました。
やがて17世紀になり、ダライ・ラマ第5世のロサン・ギャツォは、モンゴルのグーシ・ハーンの師匠の僧侶となります。
グーシ・ハーンはチベット全土を征服して、すぐにダライ・ラマ5世に布施したために、ダライ・ラマ5世はチベットの王も兼ねるようになり、モンゴルや中国の干渉を受けながらも現在に至ります。
ダライ・ラマは、ゲルク派の総本山の座主ではありませんが、非常に有力な宗教指導者です。
ダライ・ラマは観音菩薩の化身とされており、亡くなると転生した子供が捜索され、転生者と認定されると次のダライ・ラマになります。
ダライ・ラマ14世は、1959年のチベット動乱で中国と戦い、インドに亡命してチベット亡命政府を作りました。
ダライ・ラマ14世は、積極的な活動によりノーベル平和賞を受賞するなど、国際的な影響力を持ちましたが、2011年に引退して精神的指導者になっています。
さて、チベット仏教とはどんな教えなのでしょうか?
チベット仏教の教え
チベット仏教の顕教
チベット仏教は、密教以外の大乗仏教を顕教(けんぎょう)といい、顕教を因として密教を果とします。
顕教を密教の入門とする密教の濃厚な教えです。
顕教は蓮華戒の『修習次第』、アティーシャの『菩提道灯論』、ツォンカパの『菩提道次第論』などで体系づけられた教えです。
顕教を小士教、中士教、大士教の3つで体系化しています。
小士教は、
「善因善果 悪因悪果 自因自果」
の因果応報を説いて、廃悪修善を勧める教えです。
中士教は、輪廻転生を離れるたるために、四聖諦を観察することによって涅槃を得るという教えです。
大士教は、自分だけでなく、すべての人を救おうとして六波羅蜜を行う教えです。
小士教は中士教の前提となり、中士教は大士教の前提となりますので、小乗の修行を前提として大乗の悟りを求める教えです。
六波羅蜜によって智慧を完成すれば、それで完結するのですが、さらに顕教を前提として密教に進むべきだと教えられます。
チベット仏教の密教
チベット仏教では、密教のことをタントラといいますが、ゲルク派では、タントラは4つに分けられます。
所作タントラ、行タントラ、瑜伽タントラ、無上瑜伽タントラの4つです。
1つ目の所作タントラは、口で唱える真言や、身体で結ぶ印、供養の方法などの外に現れた作法がメインです。
日本では前期密教の雑密といわれる密教にあたります。
2つ目の行タントラとは、真言や印と共に、心で行う瞑想も教えられています。
日本では大日経を中心とする、中期密教の純密といわれるものにあたります。
3つ目の瑜伽タントラとは、行タントラと同じように心も口も身体も重要ですが、心をメインとします。
日本では金剛頂経を中心とする、中期密教の純密といわれるものにあたります。
4つ目の無上瑜伽タントラは、瑜伽タントラと同じように、心と口と身体について教えられ、心がメインです。
これは、死や中有などの輪廻の過程を応用して悟りを得ようとするものです。
ゲルク派では、この無上瑜伽タントラによらなければ成仏はできません。
つまり、生きている時に灌頂(かんじょう)という儀式を受けて厳しい修行を行い、死ななければ助かりません。
無上瑜伽タントラはチベット仏教にしか伝えられておらず、インド仏教の正統な後継であると主張しますが、無上瑜伽タントラの究極は幻身といい、これを獲得する実践方法は、ツォンカパのオリジナルであって、仏説には見られません。
ちなみにダライ・ラマは、幻身を獲得した観音菩薩の化身とされています。
また、ゲルク派では実践しませんが、経典には性的なものを多く含み、日本で後期密教とか左道密教といわれるものにあたります。
チベット死者の書とは
このようにゲルク派の教えは、かなり仏教の教えが濃いのですが、『死者の書』は、最も古く、チベット土着のボン教の影響が濃いニンマ派の書物です。
アメリカ人が翻訳した時に、『ザ・チベッタンブック・オブ・ザ・デッド(The Tibetan book of the Dead)』と名づけたために、日本語で『チベット死者の書』と言われていますが、もともとはチベット語で『バルド・トドゥル』といわれます。
「バルド」とは、中有のことで、死んでから来世の生命に生まれるまでの中間のことです。
「トドゥル」とは、聞いて解脱するというような意味です。
『バルド・トドゥル』は、14世紀のチベットで、カルマ・リンバという密教僧が著した書物です。
しかしながらもともと口述で著した著者は、8世紀のパドマサンババ(蓮華生)とされています。それを弟子が記憶、書写して地中に埋めていた書物を掘り出したのがカルマ・リンバといわれます。
このような地中や湖から発見した仏典をチベットで「埋蔵経」といい、チベット全土に埋蔵されているとされています。
『死者の書』は、密教の分類では、ゲルク派では4通りのところ、ニンマ派では9通りあり、その中でも最も深いゾクチェンに分類されます。
ゲルク派でいう無上瑜伽タントラの分類に相当します。
この『チベット死者の書』には、死んだらどうなるかが時系列順に説かれており、ニンマ派では、人が死んだ時の枕経として亡くなった方の耳元で読まれ、また火葬された後も四十九日の中陰の間、読まれ続ける書物です。
チベット死者の書の流行
この『チベット死者の書』は、欧米で2回ブームが起きました。
1回目は、1927年に翻訳された時です。
心理学者のユングが『チベット死者の書』を読んで、こう言っています。
私はこの書から多くの刺激や知識を与えられたばかりでなく、多くの根本的な洞察をも教えられた。
(ユング『東洋的瞑想の心理学』)
こうして1930年代にヨーロッパの思想界に大きな影響を与えます。
次にブームになったのは、1960年代のアメリカでした。
当時のアメリカでは、性の解放やドラッグの解禁を主張し、精神世界を重視する、ヒッピーのカウンターカルチャーが流行しました。
ハーバード大学の心理学教授、ティモシー・リアリーは、幻覚をもたらすドラッグであるLSDを研究していました。授業でもLSDが使われ、全米の大学に広まっていきました。
やがて大学当局がLSDは有害と判断し、ティモシー・リアリーを解雇しますが、幻覚薬の研究を続けたティモシーは、LSDを服用した時に現れるサイケデリックな光や色彩が、『チベット死者の書』の内容に似ていると気づきます。
ティモシー・リアリーは、『チベット死者の書』をLSDを体験するためのガイドブックとして書き直し、それがヒッピーたちの座右の書となり、若者たちに広まっていったのでした。
こうして1970年代には瞑想ブームを起こし、死にゆく人をみとって『死ぬ瞬間』を書いた精神分析医、キューブラー=ロスにも影響を与えていきます。
このような『死者の書』の流行について、有名な宗教学者のミルチャ・エリアーデは、こう言っています。
『死者の書』は、あきらかに西洋世界でもっともよく知られたチベットの宗教文書である。
1928年に英訳、刊行されたこの書は、とくに1960年以降、たいへん多くの若者たちにとっての一種の枕頭の書となった。
この現象は、現代西洋の霊性史、精神史にとって重要な意味をもっている。
『死者の書』は、他のどんな宗教文献にも類例のない、深遠、難解な文書である。
この書が引き起こした、それも心理学者や歴史家や芸術家ばかりでなくもっぱら若者たちのあいだに喚起した関心は、ある兆候を示している。
それは、現代の西洋社会では死がほとんど全面的に脱聖化してしまっていること、そして、人間の実存をまさに疑問に付したままで駛雨血させるこの死という行為を─宗教的にであれ哲学的にであれ─、再び価値づけようとする激しい欲求のあることを同時に示しているのである」
(エリアーデ『世界宗教史III』)
では『チベット死者の書』にはどんなことが記されているのでしょうか?
チベット死者の書の内容
『バルド・トドゥル』では、人が死ねば、49日の間に次の生命に生まれ変わるまでの中有という世界があると教えられています。
日本でも、四十九日の法事が行われるのは、中有が最大49日続くといわれるからです。
『バルド・トドゥル』では、バルド(中有)には3つの段階があると教えられています。
1つ目は「チカエ・バルド(死の瞬間のバルド)」
2つ目は「チョエニ・バルド(心の本体のバルド)」
3つ目は「シバ・バルド(再生のバルド)」
この3つです。
1.死の瞬間のバルド
1つ目のチカエ・バルド(死の瞬間のバルド)は、死の瞬間から、4日半続きます。
死の直後に、まばゆい光明が現れます。
これを阿弥陀如来そのものだと説くチベットの経典もあります。
このまばゆい大光明に飛び込めば解脱できるのですが、そう簡単に飛び込むことはできません。
このチャンスを逃した場合、しばらくすると第二の光明が訪れます。
そして心は肉体を離れ、親族が泣いているのが見えたり、泣き声が聞こえたりします。
やがて第三の光明が訪れ、光明の中から、自らの業で生みだした何千もの雷鳴が聞こえ、すさまじい色彩の光が見えます。
こうして4日半の間失神します。
次に目を覚ますと、チョエニ・バルドです。
2.心の本体のバルド
チョエニ・バルド(心の本体のバルド)は、14日間あります。
前半の7日間は、寂静尊(じゃくじょうそん)といわれる慈悲深い姿の仏や菩薩が現れます。
後半の7日間は、忿怒尊(ふんぬそん)といわれる恐ろしい姿の仏や菩薩が現れます。
死の瞬間のバルドで解脱できなかった人は、4日半の間気を失います。
やがてもうろうとしながら目を覚ますと、宇宙全体が光っています。
そして、中央の仏の世界から、尊い仏が現れ、強烈な青い光が差してきます。
同時に弱い白い光も近づいて来ます。
この強い光に飛び込めば解脱できるのですが、これまでの悪業によって、強い光を恐れ、白い光に近づいて喜びを感じます。
2日目は、尊い菩薩と、白い強烈な光と弱い光、3日目は、尊い仏と黄色い強烈な光と弱い光、と5日目まで続いて行きます。
6日目は、今までの5つの仏や菩薩が中央と東西南北から一斉に現れます。
7日目は、虹の光を背に五色にまばゆく光りながら躍る神々が現れます。
しかしだんだん様子が変わり、真ん中の神は、半月刀と、血の注がれた頭蓋骨の杯を持っています。
そして人骨の装飾をつけたダキニという人を食う神が躍りながらやってきて世界を振動させ、大きな音を響かせます。
ほとんどの人が、これらのすべての強烈な光から逃げて弱い光に近づいてしまうために、解脱できずに後半の7日間に入ります。
8日目から12日目までの5日間は、忿怒尊という神々が1体ずつ現れます。
例えば、白と赤と暗褐色の3つの頭を持ち、それぞれ3つの怒り狂った目を持ち、6本の腕をはやし、4本の足があります。
斧や剣、血が注がれたどくろで作った杯を持ち、時々笑ったり、シューという呼吸をしながら強烈に光り輝きます。
それらが自分の心の現れであると悟り、一体になれば解脱できるのですが、自分の姿は分からないのでとてもそうは思えません。
13日目は、今までの5体の神々が一斉に現れ、14日目は、30体の神々と22体の化物が一斉に現れます。
ここまで解脱できないと、今まで現れたものすべてが閻魔大王になります。
手には善業と悪業の記録を持って、「殺せ」と叫びながら死者を食べます。
これは自分のカルマの表れです。
このチョエニ・バルドの後は、解脱ではなく、輪廻の道へ入っていきます。
3.再生のバルド
シバ・バルド(再生のバルド)では、すでに死んでから3週間が過ぎ、輪廻転生に向かいます。
ここではどんな遠くでも見え、どんな音も聞こえ、どんな遠くにでもあっという間に行ける能力を身につけます。
ところが、後ろからは、自ら造った恐ろしい威力の巨大なカルマの竜巻が襲いかかってきます。
「殺せ」という声や嵐や火の音が聞こえ、追いかけてくるので、逃げたくなりますが、欲や怒りや愚痴の煩悩の深遠に行く手をはばまれ、転げ落ちそうになります。
こんなに苦しいのなら何でもいいから早く生まれ変わりたいとうろつくようになります。
すると、六道の薄明かりが見えてきます。
天上界の白い薄明かり、修羅界の赤い薄明かり、人間界の青い薄明かり、畜生界の緑の薄明かり、餓鬼界の黄色い薄明かり、地獄の灰色の薄明かりです。
それに照らされると、すでに自分も、次に生まれる世界の色に光っています。
さらにここに来ても転生しない方法が教えられていますが、ここまで解脱できずに来てしまった人には、極めて困難です。
こうして6つの迷いの世界をめぐることになり、果てしない苦しみに責められることになるのです。
最後は「現世に残してきた家族や友人には、あなたを助けることはできないのだから、執着を捨てて、さあ、行きなさい」と押し出します。
こうして、正しい仏教を聞かなかった人は、輪廻の淵から転げ落ち、絶えがたい苦しみを無限に受け続けていくことになるのです。
生きている時に救われる方法
チベット仏教では、生きている時に十分な修行ができなかった人でも、死の直後に解脱の可能性があると考えていますが、もしそうだとしても、死ぬまで救われるかどうか分かりません。
いつ死ぬのかも、死んだらどうなるかも分かりませんから、死ぬまで不安に駆られることになります。
ところがお釈迦さまは、欲や怒りや愚痴の煩悩よりもっと深い、輪廻転生の根本原因を明らかにされ、その迷いの根元を断ち切れば、生きているときに、死ねば仏のさとりを得られる、永遠の幸せの身になれると教えられています。
それには出家も修行も必要無いので、どんな人でも仏教を聞けば変わらない幸せの身になれます。
では苦悩の根元とは何か、どうすれば断ち切れるのかは、仏教の真髄ですので、電子書籍とメール講座にまとめておきました。
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