奥の細道東北キリシタン遺跡巡礼の旅
http://takayama-ukon.sakura.ne.jp/pdf/booklet/2017-12-14-05.pdf 【奥の細道東北キリシタン遺跡巡礼の旅】 より
都から遠く離れた東北の地にキリシタン殉教遺跡が多いのはいささか意外に思っていた。調
べてみるとやはり九州や西日本とは少し事情が異なることがわかってきた。遺跡は東北 6 県
に散在し、しかも山奥や交通不便な所が多い。いちいち巡っていれば時間と費用が大変であ
る。実は昨年秋東北巡礼を計画しながら体調不良で実行できなかった。このときは友人と仙
台で落ちあい車で回るためかなり効率的なコースが組めたが今回は私一人、しかも不便なロ
ーカル列車やバスに頼らざるを得ず訪問場所も限定せざるを得なかった。東北も梅雨入りし
今回は雨に始まり雨に終わった旅だった。雨と奥の細道と言えば「五月雨を集めて早し最上
川」、そう松尾芭蕉である。彼もちょうど今の梅雨の時期にこのあたりを歩いていたのである。
芭蕉は幕府の隠密だったという噂がある。では何をスパイしょうとしていたのか? 仙台伊達
藩、米沢上杉藩と金沢前田藩は幕府から睨まれていた大藩である。しかも禁制のキリシタン
に甘いという理由でそれらの動向をスパイするのに全国に弟子や俳友をもつ芭蕉がうってつ
けだったというのである。ほんまかいな? 実は芭蕉と弟子の曽良一行は中尊寺から尾花沢に
向かう途中鳴子温泉を経て今の JR 堺田駅近くの「封人の家(旧有路家)」で宿泊、有名な「蚤
虱馬の尿する枕元」を詠んでいる。有路家は庄屋で今も現存する立派な邸宅、馬小屋のよう
な所で寝たわけではない。しかしそこからそれほど遠くないのに赤倉温泉の三乃丞で宿泊し
たとの説がある。その説がほんとかどうか気になったので三乃丞旅館に電話してみた。奥羽
三名湯に数えられる三乃丞に実際に泊まったのなら芭蕉が何か句か記録を残さないはずがな
い。もっとも赤倉から尾花沢に向かうには険阻な山刀伐峠を越えなくてはならず(彼はその厳
しい峠越えに難渋したことを記録している)余裕を見て赤倉温泉に一泊しただけなのかも。電
話口で三乃丞の主人はそのような話もあるけれど泊まったという確証はない、詳しくは尾花
沢の芭蕉清風歴史資料館の館長に連絡しとくから聞くがよいとの返事。館長に電話して聞い
てみると、芭蕉の赤倉泊まりについては有路家から尾花沢の清風の家に直行したようだとの
こと、ついでにスパイ説は根も葉もないとのことだった。鈴木清風は出羽の豪商で風雅を楽
しみ芭蕉とも知己だった。芭蕉は久しぶりに居心地がよかったのかここで 10 泊して最上川を
船で揺られながら酒田・象潟へ向かった。実は昨年秋、赤倉温泉・三乃丞に予約していて、
宿の主人から芭蕉のことや近くの銀山や金山のキリシタンについて話を聞く予定だった。
さて、東北のキリシタンを語るとき触れずに通れないのが「東北キリシタンの父」と呼ば
れている後藤寿庵の存在である。彼は伊達正宗の家来、水沢の領主として知られるが、有力
な説によれば元藤沢領主(今の一関市藤沢町)岩淵秀信の二男として生まれた。岩淵家は源頼
朝の家臣で奥州藤原氏の滅亡後このあたりの支配を任されていた葛西氏の一門。秀信は秀吉
の小田原攻めで伊達の一軍として参戦を命じられていたのにぐずぐずして遅参、秀吉から叱
責を受け領地没収、命だけは助けられたがお家断絶、その子の若き寿庵はお家再興と勉学の
志をもって長崎に遊学した。長崎にいた外国人宣教師などから洋学を学び西洋文化を吸収す
るかたわらキリシタンになった。五島列島に渡り五島ジュアン(ヨハネ)と名乗る。やがてス
ペイン視察帰り長崎に立ち寄った京都の豪商田中勝助と出会い、いろいろ海外の話を聞くう
ちに意気投合する仲となった。そして正宗の家臣で伊達藩遣欧使節団長に指名されていた支
倉常長を紹介され、そのつてで正宗に仕えることになった。そこで後藤寿庵と改名、西洋事
情に明るく有能な人物として正宗からも信頼されたという。そしてさっそく委任された水沢
の領地のインフラ開発(土木工事や田畑の開拓)を実施するかたわら宣教師の支援を得て布教
に力を入れた。正宗が送った遣欧使節が日本に戻る前に幕府が禁教令を布告、キリシタンの
取り調べが厳しくなり、伊達藩も寿庵に棄教をすすめたが彼は応じなかった。一方常長ら使
節団の帰国に際して幕府から入国禁止を命じられた伊達藩は使節の目的は通商であって宗教
とは無関係と主張、ただし乗船していた宣教師ら外国人の入国は認められなかった。
当時かなりいたキリシタン大名も次々と改宗、領民のキリシタンで改宗を拒否したものは
津軽や東北各地に流され主に鉱山の鉱夫として使役された。また自発的に身を隠したキリシ
タンも多く、彼らも鉱夫として潜伏した。寿庵は山々を回って彼らキリシタンを励まし援助
したと言われる。なお、幕府はキリシタン禁制令と同時にキリシタンが棄教改宗した証明書
(宗門改帳)を作成、かつ改宗後も四親等までの血縁を類族として「キリシタン類族帳」を作
成して引き続き監視していた。他所へ引っ越ししてもその地で類族として記録された。私の
住んでいる茨木市の山間地(千提寺、音羽地区)には隠れキリシタンが多く住んでいて類族帳
が残っている。類族に死者が出ると町奉行に必ず届け出て検視を受け、埋葬は遺体を塩漬け
にして一般人とは異なる墓地に埋葬したという。昨年千提寺地区を通る第 2 名神の工事中キ
リシタン墓地が見つかり、調査の上埋め戻された。その上を車が走る。村の古文書に町奉行
の役人が監視に村にやってくるときはまずご馳走と酒をふるまい、いい気分にさせて手土産
を渡してお引き取り願ったとある。最近この隠れキリシタンの里を通る第 2 名神の工事現場
でつづけて 2 ケ所で橋が落ちる大事故が起きた。(手抜き工事? それともキリシタンの墓を潰
された彼らの怨念か? どうも偶発的事故とは思えない) 前書きが長くなりました。
後藤寿庵居館跡 6 月 12 日仙台の駅前ホテルに泊まり翌 13 日朝東北本線の在来線で水沢に向かう。在来線は時間かかるが松島の方を回るため地震後の様子が見られてよい。水沢市は今は奥州市水沢区である。
今日の目的地は駅の西方数 km の福原にある寿庵の水沢領主時代の居館跡と後藤寿庵記念館。私は居館跡の近くに記念館があるとばかり思い込んでいたのでタクシーに乗り福原の寿庵記念館に行ってというと運転手はハイと二つ返事。ところが運転手は最近まで大阪にいたので寿庵のことは全く知らないという。それでも寿庵の居館跡はすぐわかったが記念館はどこにもない。とにかくタクーを待たせて石碑や説明板を見て歩く。寿庵の禄高は 1200 石、大大名の家老並みであるが、禄高に見合うほどの屋敷があったとは想像しがたい。
正宗の没後、幕府のキリシタン狩りがますます厳しさを増し、伊達藩も抗しきれず寿庵に改宗を勧めたがそれを断りいずれか身を隠し行方知らずになった。一説には青森と岩手の県境の南部地方に隠れたのではと言い伝えられている。とにかく領民から慕われた人物だった。さて目指す記念館を探して福原の部落を走り回ったが見つからない。運転手が本社に電話してようやく場所がわかった。駅から歩いて行けるほどの場所である。行ってみると本日休館である。仕方なくついでに後藤新平記念館や高野長英記念館もまわってもらったがどこも休館日。
遠来の観光客のために休館日を一日づつでもずらしてくれるほどの配慮があればこんな無駄
足を踏まなくてもよいのに。3000 円はらってタクシーを降り、駅前の食堂で蕎麦を食べ、駅
の待合室に戻って今夜の宿泊地の千厩方面行きの高速バスを待つ。
大籠キリシタン殉教公園 千厩の町は一関と気仙沼の丁度中間にある小さな町。14 日千厩駅から藤沢町経由大籠行きのバスに乗る。バス便が少なくこの殉教公園を訪ねる人はよほどキリシタンの歴史に興味を持つ人である。乗車時間は 40 分少々、乗客は 2~3 人、途中で降りてしまって大籠まで乗ったのは私一人。里山に小さな集落が散在するが村としてはかなり広いようだ。バスの終点はもう少し先だが私は公園の入り口で降してもらう。そこから坂道を上ること数分、山麓を少し切り開いてマリヤ母子のモニュメントが立つ芝生の広場がありその奥に資料館が建っている。館長と事務員の二人しかいない小さな資料館だが展示品や説明もなかなか充実していて、ローマ法王庁から贈られたメッセージもある。私以外見学者はおらず大変親切丁寧に案内してもらった。写真:資料館とローマ法王のメッセージ一説によれば江戸時代初期この大籠周辺にキリシタだけでも 3 万人ほどいたと言う。ではなぜこんな東北の山奥にキリシタンが多く住んでいたのか? その答えは製鉄との深い関係である。仙台の伊達藩は武
器や農機具に不可欠な鉄を自前で製造すべく大籠の山中に大量の労働者を集めて鉄鉱石の採掘から運搬、製鉄、加工、製鉄に使う木炭の製造などに使役したのである。前にも述べたように禁教令下幕府や各藩 地蔵の辻処刑場跡は改宗に応じなかったキリシタンを東北の幕府直轄の金・銀鉱山に流刑人として送り込み、過酷な鉱山労働者として使役していたので東北全体に無宿者やキリシタンが多くいたのである。かつて大英帝国が犯罪者をオーストラリアや南アに送り、鉱山開発や鉄道建設に服役させたのと同じである。一方迫害を逃れて自ら東北や北海道の鉱山に潜伏した隠れキリシタンも多くいた。伊達藩はこのようなキリシタンや流れ者を伊達領内の鉱山開発に鉱山労働者として利用したのである。大籠はまさに製鉄のセンターとして役割を果たしていたいわば伊達藩の製鉄の町だったのである。したがってここにもキリシタン類族帳が残されていたそうである。鉄鉱石や砂鉄は北上山地で豊富に採れたが、刀剣や銃などに使用する高度な製鋼技術は伊達藩はどこから導入したのか? もちろん日本でも弥生時代すでに朝鮮半島を経て製鉄技術が伝わっていたし、金の精錬技術も奈良時代には確率されていた。中でも金は平泉・藤原氏の経済を支えたほど東北には金山が多くその技術は世界の最先端をゆくものであった。製鋼に関しては出雲の斐伊川上流(雲南市)で開発されたたたら製鉄法による玉鋼は世界一の鉄鋼を生み出した。その技術は山を越えて岡山県にも伝わり備中・備前も卓越した製鉄技術をバックに大和朝廷を脅かす存在であった。桃太郎伝説はまさに大和と備国の戦いをお伽話にしたものである。すなわち「桃太郎=大和が派遣した吉備津彦、鬼=備国の豪族の温羅」という筋書きである。忠臣蔵で有名な播州赤穂から岡山県に入った備前に長船という駅がある。ここは昔から名刀の産地として有名であるように備前、備中あたりには高度な製鉄技術を持った職人が多くいた。その中で大八郎と小八郎という兄弟職人を伊達藩がスカウトし大籠に連れてきた。彼ら兄弟以外にも何人か備中から、さらに島根県側(雲南市)からもたたら製鉄に秀でた職人を連れてきている。彼らの優れた技術指導によって伊達藩は日本一の鉄生産量を誇り、徳川政権を脅かす存在となった。実はこの兄弟は熱心なキリシタンで製鉄技術を指導するかたわら布教活動に熱心だった。伊達藩と兄弟の間に交換条件として公然と布教活動が許されていたのであろう。また後藤寿庵も彼らの活動に協力したであろうことは間違いない。かくして製鉄の町はさながらキリシタンの町へと一変した。教会が建てられ、仙台から宣教師もやってきた。しかし幕府はそれを見逃すはずがない。正宗亡き後伊達藩も次第に彼らをかばいきれなくなり、どうしても改宗に応じなかった者を死刑にした。他藩では火刑や水攻め、穴吊りなど長い拷問の末に苦しみ死にゆく様を見せしめにした。伊達藩ではそれもあったが多くは銃殺か斬首と伝えられている。銃殺も樹木にゆるく縛り、自分で縄を解いて逃げてもよいようにしていたという。逃亡しなかった者は改宗の意志なしとして木陰から銃殺した。
斬首も極刑であるが見方によっては苦しむ時間を少なくするとされたようだ。かの二人の兄
弟についてはよくわからないが墓があることから刑死は免じられたと思われる。寿庵は逃亡
して行方不明とされた。宣教師(フランシスコ・バリヤス)は江戸に送られ幕府の手で火刑にされた。な
お大籠の製鉄は今の釜石のルーツでもある。
少し余談になるが製鉄の際必要不可欠なのが木炭である。炭材は主に松である。松炭は高
温が得られ、鉄鉱石の還元材としも最適である。かつて製鉄の盛んな中国山地や北上山地は
松も多かった。岩手県は今でも木炭の生産量は 1~2 を争う。クヌギの多い北上山地はお茶用
の菊炭も焼いている。昔から菊炭といえば大阪の能勢(池田炭)だが最近は後継者がなく今や
1~2 軒に減り風前の灯である。それを補っているのが岩手である。実は公園に来たとき懐かしい炭焼きの匂いがしたので見ると 200m ほど離れた山裾に白煙が出ており、行ってみるとお年寄りが一人炭小屋にいた。周りにクヌギの炭材が積まれていたので菊炭も焼いているようだ。
土窯が 2 つあって 50kg と 100kg 用だという。今 50kg の窯で菊炭を焼いていると言っていた。
資料館で話に夢中になっていて帰りの千厩行きバスの時刻近くになり、その時ポケットに
千厩の旅館の鍵があるのに気づいた。返しに旅館によると千厩から一関行きのバスに乗れな
くなる、乗れないと今夜の宿泊地山形の赤湯に行けなくなる。事情を話すと事務員さんが旅
館に寄って駅まで送ってあげるという。お言葉に甘えついでに、あちこちに散在して歩いて
はなかなか行けない殉教遺跡も巡ってもらうことにした。大籠の集落で 300 余の殉教者の血
がながされたと記録されている。事務員さんの好意のおかげで無事一関行のバスに間に合い、すぐ一関から新幹線で仙台にとって返し、仙山線に乗り換えて 8 時前に赤湯の温泉旅館に着いた。赤湯は古く歴史のある温泉で上杉の殿様が常宿にしていた御殿の湯ものこっている。
赤湯には 4~50 年前一度宿泊したことがある。赤湯にもかつて金山があり、キリシタン遺跡が
あるが交通不便で行けなかった。なお私の一人旅は都会に近いホテルや旅館の宿泊は概ね素
泊りにしている。理由は一人ではなかなか泊めてくれないか泊めてくれても割高になる。素
泊りだと少し割高でも泊めてくれる場合がよくある。また温泉旅館の夕食は多すぎて胃を摘
出した身には食べきれないし消化不良になれば翌日の行動に差し支える。一方素泊りだと朝
夕の出発や到着時間を気にしなくて済む利点もある。(早朝出発で部屋の鍵を返し忘れることも!?)
米沢・北山原殉教公園 山形県にもキリシタン殉教遺跡が多いが、そのうちの一つで交通の便利な米沢の北山原殉教地を訪れた。ここは米沢市役所の数百 m 北にあって米沢藩時代の
キリシタン専用の処刑場である。公園といっても小さな広場で真ん中に十字架上のキリスト像が建てられ、後方に 2~30 基くらいの墓碑が並んでいる。米沢藩では記録されているだけでも 200名近い殉教者がでているが、当時米沢領内に千名ほどのキリシタンがいたようだ。
上杉景勝が亡くなると伊達藩と同様幕府の圧力が増し米沢の城下でも処刑が相次ぐようにな
った。その第一陣は上級武士だった甘粕信綱(洗礼名ルイス)ら家臣とその家族 43 名が 1629 年 1
月この北山原で斬首された。彼らは死に際して持ち物一切を貧しい人々に分け与えたと伝え
られている。この後以前見損なった法泉寺の庭園を見て駅に戻り、今夜の宿の滑川温泉に向
かった。米沢八湯の一つで奥羽本線峠駅で下車すると宿の車が迎えに来てくれる。標高 800m、吾妻連峰の中腹に湧く秘湯である。さらに 4km 上流に更なる秘湯・姥湯温泉がある。滑川には名瀑布の滑川大滝があるが吊橋が壊れていて見に行けなかった。旅館は山小屋風の湯治旅館で立派でないがなんといっても泉質がよい。かけ流しの温泉は硫黄の香りに満ちていかにも山の温泉といった風情がある。料理も山菜にイワナなど下界では味わえない私の好きな山の味である。次は紅葉が素晴らしい姥湯温泉にぜひ行ってみたいと思う。
最後に余談になるが峠の駅(無人駅)は全体が雪よけのドームで覆われている。前から一度
下車してみたかった駅で今回ようやくそれがかなった。そしてふとレールを見ると新幹線用
の広軌である。私は何回か仕事で山形新幹線に乗っているので奥羽本線と新幹線が共用であ
ることは知っていたが、秋田新幹線のように 3 本レールにして在来線と新幹線が走っている
とばかり思っていた。では狭軌の在来線の列車の車輪はどうなっているのか? 翌日福島の駅
で駅員に聞いてみると、福島と新庄の間を走る在来線列車の車輪幅を新幹線と同じに広げ改
造したとのこと。奥羽本線はトンネルや駅も多くそれらを新幹線仕様にすると莫大な金がか
かる。それなら新幹線「つばさ」の車体は在来線なみに小さくし(車輪は広軌)、在来線は車
輪だけを広軌に改造するほうが経費が安くつく、とのことである。それならレールを 3 本に
するのとどちらが安いのかな? ともかく新幹線優先ダイヤなので在来線は間引きされ不便こ
の上ない。駅員は車社会になって乗客が減っているからさして影響はないと言うのだ・・・峠駅に今でも名物「峠の力餅」を立売りしている人がいる。なかなかおいしい餅です。