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キリシタン史 江戸初期の大迫害

2020.12.07 05:27

https://www.collegium.or.jp/~take/christi/rekisi3.html 【キリシタン史 江戸初期の大迫害】 より

家康は、キリスト教布教を黙認してはいたものの、貿易の相手国には宣教師の日本入国禁止を通達していた。家康がキリシタン教界に便宜を図っていた理由はただ一つ、通商貿易のためだけであった。

事実、家康が江戸に呼び寄せたフランシスコ会が、スペイン船関東入港の便宜を図れなかったことで、日本人への布教を禁じ、キリシタンや宣教師への貸家禁止を命じたことがあった。

何かきっかけがあれば、大規模な禁教令が施行されるであろう事は大いにありえた。

しかし見た目上の平和の中、キリシタン教界は順調に教勢を伸ばし、1613年にはついに蝦夷の地まで布教の手が伸びる。禁教令直前の頃にはキリシタンは37万人ほどいたと概算されている。

ここで1610年デウス号事件と呼ばれる出来事が起こる。

キリシタン大名有馬晴信が、マカオで家臣を殺された事の報復にポルトガル商船ノッサ・セニョーラ・デ・デウス号を焼沈させたのだ。

この事件の結果、ポルトガル船が2年の間来航せず、また、秀吉の頃からポルトガル商人との仲介を務め、家康の信任も厚かった通詞ジョアン・ロドリゲス神父がマカオに追放された。

キリスト教布教のための幕府への重要な窓口たるロドリゲス神父を失うことは、キリシタン教界にとって大きな痛手であった。

またこの頃オランダ商船が初来着し、宣教師を介さない貿易への幕府の期待感も生まれることとなった。

そして1612年、岡本大八事件が起こる。

岡本大八はキリシタンであり、主君の幕臣・本多正純を通じて、キリシタン教界に便宜を与えてきた。

この岡本大八と有馬晴信との間に所領問題による贈収賄事件が起こる。

幕藩封建体制の根幹たる所領問題で、このような行為が行われ、またその当事者が二人ともキリシタンであったことで、家康は禁教令施行を決意したのであろう。

ちなみに虚偽を暴かれた大八は火刑に処され、有馬晴信は謀反の嫌疑をかけられ改易され賜死した。

禁教令施行を決意した家康は、まず駿府の家臣団を検問し、キリシタンである者を検挙。信仰を捨てなかったので、改易処分とした。

ここで天領である京都・江戸・駿府に禁教令を布告。キリシタン寺院の破壊を命じ、布教を禁じたのである。この禁教令によって江戸・京都の教会の破壊が行われ、武士のみならず一般庶民もキリスト教信仰が禁止された。

また前述の改易されたキリシタン武士の抱え置きを禁止する旨を、全国の大名、畿内の社寺、京都・長崎のキリシタン教界に通達された。

1612年4月~5月のことである。

同年の9月には、関東の幕領に対し、キリシタン禁制を含む禁令五箇条が発令される。

これにより1613年、江戸の鳥越で、浅草の小屋にいた22人のキリシタンが殉教する。病人達を収容した病院のような物であった。

またこの頃、徳川幕府の幕藩体制の体制固めは大詰めを迎えつつあった。そのために反幕勢力の豊臣氏打倒が急がれていたのである。

関ヶ原の戦いの後、改易された多数のキリシタン武士達が、キリシタンに好意的な大坂方に仕官していること、キリシタンの大旦那・高山右近が加賀前田氏の元で重職を担いつつあったことが、家康の注目するところであった。キリシタン勢力と大坂・豊臣氏とが結びつくことを恐れていたのである。

ここに1614年1月(慶長十八年十二月)、臨済宗の僧、金地院崇伝(こんちいんすうでん)起草による「伴天連追放文」が日本国中の人間が知るべき掟として公布された。いわゆる慶長の禁教令である。

「日本は神国であり(最近誰かさんが言っていたような‥‥?)、吉利支丹の教えは正宗なる神仏を惑わす邪宗である。吉利支丹国の者は日本に商船を来航させ、財貨をもたらすためだけでなく、邪法を広めて正宗を混乱させ、日本の政治を改変しようとしている、これは大きな禍の兆しである」といった内容である。

2月には京都から宣教師が去り、長崎へと護送されていった。4月京都に残り棄教を拒んだキリシタン達71名が奥州は津軽へ流罪となった。

九州へ宣教師追放と教会破却のため伏見城番山口直友が派遣され、各地で宣教師や日本人信徒を摘発し、11月6日には高山右近の一族と共にマカオとマニラに追放し、長崎の11の教会を焼却した。その後有馬地方にも赴き、キリシタンの摘発と棄教を迫り、従わぬ者は処刑した。慶長禁教令による迫害はこれが最初である。

多くの宣教師達が国外追放されたが、どの修道会も日本キリシタンを見捨てたわけではなかった。日本に居残り潜伏してキリシタン教界を維持しようとする者、追放されたが再度日本に潜入して布教しようとする者もまた多かったのである。

彼らもまた、迫害の嵐にさらされ、次々と殉教していった。

1616年、大御所家康が死去し、権力は将軍秀忠に集中する。家康の作った幕藩体制の基礎を固めに入った秀忠はキリスト教禁制も強化していく。

「伴天連宗門御制禁奉書」を発し、日本の万民にキリスト教を厳禁し、外国商船の入港を平戸・長崎の二港に限定した(元和禁教令)。

九州・大村領に追放されたはずの宣教師がいる、との情報が秀忠にもたらされ、領主大村純頼を叱責する。純頼は自らキリシタンであったにもかかわらず、棄教し、宣教師検索に乗り出す。結果、4人の宣教師と2人の宿主のキリシタンが斬首された。この後に続く殉教事件の皮切りとなるような出来事であった。

一体、どのくらいのキリシタンが殺されたのだろう。秀忠時代の主な殉教事件だけでも、

●1619年京都大殉教52人火あぶり

●1622年長崎大殉教55人火あぶり

●1623年江戸大殉教50人火あぶり

●1624年東北大殉教109人殉教

●1624年平戸大殉教38人殉教

と、キリがない。

新井白石の『西洋紀聞』下巻付録によると、殉教者の数は20~30万人にのぼる、となっている。しかしこの数はおおよそであり、しかも根拠が無い。

姉崎正治博士の史料に基づく実数計算では、3792人、その後ラウレス博士による計算では4045人を数えた。これらは確実な史料に基づくものであり、史料発見と共にその数は増加している。未発見の史料、無くなってしまった史料、史料に残されなかった殉教事件なども起こっていただろうから、実際の殉教者総数は、何倍にもなるであろう。

幕府は、最初こそキリシタンを次々と殉教させていったが、崇拝の対象となる栄光の殉教者を作ることを良しとせず、拷問により棄教を迫ることに方針を切り替えた。これによりさらなる悲劇が生まれていくこととなる。一例を『沈黙』で有名なフェレイラ神父の棄教で紹介しよう。

1609年日本に到着したフェレイラは、他の宣教師と同じように熱心に布教活動を行った。1614年の宣教師追放の折には、日本に残り宣教活動を継続する事になった。その後フェレイラは日本準管区長として、潜伏司祭達の柱として活躍する。そんな彼も1633年ついに捕らえられることとなった。キリシタン教界は彼が殉教するものと信じて疑わなかった。

彼は、元天正遣欧使節の中浦ジュリアンと共に穴吊りの刑に処される。穴吊りは、この時代最も過酷な拷問と言われた。その内容は、1メートルほどの穴の中に逆さに吊す、というものであったが、そのやり方は残酷極まりない。吊す際、体をぐるぐる巻きにして内蔵が下がらないようにする、頭に血が集まるので、こめかみに小さな穴を開け血を抜く、などそう簡単に死なないようにし、穴の中に汚物を入れ、地上で騒がしい音を立て、精神を苛んだ。

5時間に及ぶ拷問の末、フェレイラは転んだ。

その棄教の時、吐いた言葉は「南無阿弥陀仏」であったという話がある。

幕府は家康の祖法を守るため、仏教中心の思想統制を行っていた。キリスト教否定のために仏教を用いるのが幕府のやり方であった。穴吊りで意識が朦朧とした者に刑吏が「念仏を唱えよ」と迫るのである。これが棄教した転びキリシタンに、どれほどの精神的苦痛を与えたかは計り知れない。

転んだフェレイラを待っていたのは、さらなる生き地獄であった。江戸の小日向にある宗門改方・井上筑後守政重の下屋敷(通称切支丹屋敷)で通詞として余生を送ることとなった。

沢野忠庵という日本名をつけられ、日本人の妻を強制的に与えられた。そして屋敷に送られてくる捕らえられたキリシタンに棄教をすすめ、宣教師との通訳を務めた。

彼は1650年長崎で死亡、戒名をつけられ仏教徒として葬られた。

ちなみに同じ時同じ拷問を受けた中浦ジュリアンは、穴吊りに屈せず殉教している。

棄教を迫るための拷問は、どれも凄惨を極めるものであった。

火あぶり、、雲仙地獄責め、竹鋸引きなど、残酷な方法が採られた。

火あぶりは、柱にくくりつけ、周囲に薪を置いて火をつける。苦しみを長引かせ、信仰を捨てさせるため、薪は柱から離してとろ火で焼いた。背教したければ逃げ出せるよう、くくる縄は弱く縛ってあったという。

他にも両手両足を引っ張って、回転させながらあぶることもあった。その際、口から煙が出たという。

また簑踊りという火刑は、手足を縛り簑を着せ、火をつける、と言うものであった。苦しみもだえる様が踊っているように見えることから、この名が付いたのである。

雲仙地獄責めというのは、雲仙の硫黄沸き立つ熱湯を、柄杓に入れて少しずつかける、という熱湯責めであり、気絶したり死にそうになったら手当てして同じ拷問を繰り返したという。

竹鋸引きというのは、路傍の柱にキリシタンを括りつけ、首に刀傷を付けておく。そばに竹鋸を置いておき、通行人にそれを引かせた。竹鋸のため切れが悪く、苦しみが長引いた。ホントに人間のやることか、とか思ってしまう。

他にも、木馬責め、切・支・丹の焼印押し、硫黄と灰を鼻に押しあて口を閉じさせる、前回書いた穴吊り、など苦しみが長くなかなか死なないような拷問が数多く採用された。

これらの拷問を考え出したのは、島原領主松倉重政、唐津領主寺沢広高、長崎奉行竹中重義らであった。彼らの非人道的な拷問はキリシタンに、過酷な重税による圧政は農民達に、それぞれ反感を買わせ、それが島原の乱へと繋がっていくのであった。

殺すだけなら斬首で十分、見せしめのためなら磔で十分である。このような残酷な拷問が行われたのは、キリシタン達の心を砕き殉教の栄光を味わわせない事、凄惨な拷問を見せ他のキリシタンを棄教させることがねらいであった。

またキリシタン宗は邪教であるから、どんな残酷な処刑も当然、というキリシタン邪教観を民衆に植え付けようとしたのである。

そして幕藩体制固めのための神仏中心の思想統制と、鎖国の口実作りに、キリシタン禁制は大いに役立ってくれたのである。

そのためキリシタンの処刑は残酷なだけではなく、神州が穢れる、と言う理由から、キリシタンの遺体は焼かれ、その灰は長崎の伊王島の沖まで持っていって捨てたという。

幕府はキリシタンへの弾圧を強化する一方、段々鎖国体制を固めていく。

日本人の海外渡航・出入国禁止、海外船の入港制限、外国人の日本国内移動禁止、混血児追放、などが段階的に押し進められていった。

1639年のポルトガル船来航全面禁止で鎖国体制は完成する。この事態を打破しようとやって来たポルトガルの使者船に対し、乗組員を処刑、船を焼却したことから、その体制の厳しさがわかる。

日本の周りは監視船が巡回し、外国船渡来に目を光らせ、発見すれば攻撃も辞さなかった。

1614年の禁教令から1644年までの30年間で、密入国しようとした宣教師は百名以上にのぼった。彼らは、キリシタン禁制がゆるく、流刑にあったキリシタンも多くいた東北地方などで布教を行っていた。1629年までにフランシスコ会は東北で26000人の信者を獲得した、と自認しているし、1626年までにイエズス会も20000人以上の受洗者を獲得している。

しかしそれも禁教令が強化されていく中、迫害は厳しく、殉教者、棄教者が次第と増えていった。

1638年、イエズス会士で日本巡察使に任命されたアントニオ・ルビノは、転んだ(棄教した)フェレイラを立ち返らせようと、日本潜入を計画し二つの宣教隊を組織した。

ルビノを含む宣教師5人と小者4人の一行(ルビノ第一隊)は、1642年マニラを出発したが、薩摩の下甑に着いたとたん捕縛され、長崎で全員が穴吊り刑で殉教した。

一年後、日本管区長ペドロ・マルケスを頭とし、ジュゼッペ・キャラ(『沈黙』のロドリゴ神父にあたる人物)を含む十人の一行(ルビノ第二隊)は、筑前の大島で捕らえられ、江戸の切支丹屋敷に護送される。ここで彼らは立ち返らそうとしたフェレイラこと沢野忠庵に会っている。こちらは十人そろって棄教するはめになった。

彼らはフェレイラと同じく、日本名を与えられ、妻を強制的に娶らされ、小日向の屋敷で生涯を送ることとなった。

この内二人がキリスト教に立ち返ろうとしたが、一人は女囚の牢に入れられ(宣教師への拷問の一つ。女囚の牢に入れ、性的欲望を促し転ばせる)そこで病死。一人は家族(強制的に作られた)の反対により断念した。

キャラは岡本三右衛門と名付けられ、フェレイラと同じ宗門改方となり余生を過ごした。

十人の宣教師が全員棄教し、日本人にならされ、念仏を唱え、死して戒名をつけられた、というのは無残としか言いようがない。

皮肉にも棄教した十人は、長生きしてしまった者が多い。キャラはこの小日向の屋敷で42年間過ごし、84歳で死亡。他にも80歳前後まで生きた者が3人もいた。人生50年の時代というのに。潜入当時21歳であった同宿トナトは、78歳、1700年まで生きた。人生の三分の二以上を切支丹屋敷という名の生き地獄で過ごしたのである。

この後65年間、1708年のジョヴァンニ・シドッティまで宣教師潜入は途絶えることとなる。

有名なキリシタン一揆と言われる島原の乱に触れておく。

過去、島原は有馬晴信、天草は小西行長というキリシタン大名の領地であったため、領民もキリシタンが多かった。

しかし関ヶ原役と岡本大八事件を通して、この大旦那たちは失われ、かわりに赴任した領主、松倉氏と寺沢氏はキリシタンを過酷に弾圧した。

また松倉氏は島原に城を建立、領民に過酷な負担をかけ、また幕府の歓心を買おうとした松倉・寺沢の両氏は、領民に凄まじい重税をかける。自藩の朱印高の2.5倍の負担を幕府に申し入れていたと言うから、領民から搾取する租税の量はただごとではなかった。

折しも1633年、全国的な凶作がおこり、島原領は翌44年から46年までの3年間不作が続き、領内は飢饉の様相を呈していた。

また領内にあったキリシタンは弾圧に苦しみ、飢餓と弾圧の中追いつめられていった。

1637年、有馬村のキリシタンの庄屋三吉が転び者を立ち返らそうとしたため、代官に捕らえられそうになる。すると農民たちは蜂起し、代官を殺し、島原城を落城寸前まで追い込んだ。

一揆は領内全域に広がり、天草の庄屋たちも一揆勢に呼応。大乱となった。

総大将に小西行長の旧臣益田甚兵衛の子四郎時貞が担ぎ出された(彼に関する伝説・異聞はそれこそ山のようにある)。

松倉氏の島原城と寺沢氏の富岡城を包囲攻撃するが、板倉重昌率いる幕府軍の到着を察知し、原の古城に立て籠もることなった。籠城者は26800人であったという(37000人が定説であったが、中村質氏の研究によるとこの数字となる)。

やがて九州諸藩からも幕府軍への援軍が到着するが、城を落とすことが出来ない。幕府は上使松平信綱を派遣して事に当たるが、それでも落城しなかった。幕府軍の総勢は12万人余であった。

松平信綱はオランダ商館に、原城砲撃の命を下した。オランダ商館は「オランダ人忠節」を実行し、海上から.原城に砲撃を加え、その見返りとして、ポルトガル船の日本からの締め出しを計ったのである。

またこの大乱のニュースは全国を駆けめぐり、九州や東北諸藩に一揆を警戒するよう、幕府が呼びかけている。

1638年4月、幕藩連合軍の一斉攻撃により原城は落城。老若男女の別無く、皆殺しとなった。ちなみに一揆勢の中にキリシタンは多かったが、武器を持って戦った為殉教とは見なされず、列聖も列福もされていない。

この一揆は基本的に農民一揆である。事の発端がキリシタン捕縛にあったり、総大将がジェロニモ四郎時貞であったことからキリシタン一揆のように扱われるが、実際の指導層は庄屋、乙名といった上級農民である。キリシタン弾圧だけでこのような一揆は起こらないハズである。弾圧に対して教会は無抵抗の殉教を良しとしたし、それが出来ない者も棄教するだけだから。

しかし、幕府はこれを大いにキリシタン一揆であると宣伝。キリシタンが国を奪おうと乱を起こしたのであり、キリスト教は国憂であり邪教であるとの観念を国民に植え付けていった。崇伝起草の家康の祖法を証明する絶好の機会であったのである。

これを名目とし、幕府はポルトガル船の全面来航禁止を実施、キリシタン改めの制度を整備していく。

キリシタン達はこの制度の中、身動きできなくなり、また宣教師もやって来ない。潜伏しひたすら夜明けを待つしか無くなったのである。