河合曾良の人物像に迫る
http://furusatonosora.akiji.yokohama/2018/03/09/%e6%b2%b3%e5%90%88%e6%9b%be%e8%89%af%e3%81%ae%e4%ba%ba%e7%89%a9%e5%83%8f%e3%81%ab%e8%bf%ab%e3%82%8b%ef%bc%88%ef%bc%91%ef%bc%89%e3%83%bc%e5%ae%b9%e8%b2%8c%e9%ad%81%e5%81%89%e3%81%a7%e5%8f%a3%e6%95%b0/ 【河合曾良の人物像に迫る(1)ー容貌魁偉で口数が少なく無邪気な性分だった】 より
「或る書によると曾良は容貌魁偉な男だったといふ。」
この文章に初めて出会ったとき、私は非常な違和感を感じた。明治41年(1908)曾良没後二百年に、諏訪の俳人岩本木外氏が発行した曾良句集「河合曽良」に寄せられた河東碧梧桐氏の序文の中にある。柔らかな微笑みを浮かべた温厚篤実な曾良のイメージと違い過ぎたからだ。蕉門の森川許六が元禄6年(1693)に描いた有名な「奥の細道行脚図」の曾良の旅姿を思い浮かべていた。生前に描かれた唯一の曾良肖像画である。
碧梧桐氏の文章は、次のように続く。「又た、詞数の少ない無邪気な性分であったといふ。芭蕉の稍(やや)骨立った、丈も余り高くない老成振りと比べて、剃髪した二人の首途(かどで)の興(きょう)のある対照であった。言ふまでもなく、芭蕉は長老である。曾良は所化(しょけ)である。同行二人の托鉢と見えたも無理はないと思ふ。」(( )内は筆者追加。)
私は、碧梧桐氏が曾良の人物評価の根拠とした「或る書」を探し出さなければならないと思った(以下、「曾良容貌魁偉説」と呼ぶことにする)。そして、国立国会図書館の蔵書の中に、明治36年(1903)11月14日に新聲社から発行された「俳諧漫話」という書籍を見つけ出した。そこに同じ内容の記述があったからである。著作者は、河東秉五郎(へいごろう)の名であったが、碧梧桐氏本人であった。以下、該当部分を引用しよう。
「『芭蕉門古人真蹟』という書がある。蝶夢の奥書によると、天明七年頃に刊行されたものらしい。それをあつめたのは浜風法師である。その序文に ~こその天明六年の秋あふみの粟津義仲寺に住る浜風法師とほくとほくこの国に来り宰府まうでのついで我家に旅ねしける頃ある夜の夜がたりに其寺の什物の中に芭蕉翁の古きものはなぞと問にまつ一の宝はもたまへる椿の木の杖あり二のたからはその在世門の人の筆をあつめたるあり(中略)帰り上らばかまへてその筆とも写して見せよといひしを法師しちほくに忘れずしてこの夏のはじめに写しておくるを取る手もあへず見るに皆名誉の人なり(下略)筑前の国飯塚のうまやなる依号発起す~ とあり、又それを開いて見ると、一々所持者寄附者の證明とも思はれる簡単な記事がついて居って孟浪杜撰な著ではない。蕉門高弟の真蹟を知るにはよき標準とするに足るのである。」(一部かな使いを改めている)と書く。その後に、去来、曾良、史邦、野玻、凡兆、杉風、芳賀一晶、園女の筆について、それぞれ評価を加えている。
曾良真蹟(弓道和歌5首)
碧梧桐氏は、曾良の筆について「曾良は風貌魁偉臂(かいな)力人に絶する快男子であったといふことであるに、細字に俳諧歌を五首書いた處などは、其人物と全くそぐわぬ感がある。蓋し曾良は容貌に似合はず細心な人であったのであらう。」と述べている。どうやら、碧梧桐氏自身も、巷間にいわれていた曾良の人物評価を前提にしたようである。
はたして「芭蕉門古人真蹟」に何か曾良の人物評価が載っているのだろうか。同様に、国立国会図書館のデジタル資料に「芭蕉門古人真蹟」(天靑堂、大正14年2月20日発行)を見つけ出した。そこには、義仲寺所蔵の門人真蹟をおそらく木版に写し発行したと思われる「芭蕉門古人真蹟」(井筒屋発行、寛政元年)がそのまま掲載されていた(上記写真)。また、真蹟の内容を書き起こした冊子も別に天靑堂から発行されていた。だが、曾良の真蹟が写真のように掲載されているだけで、その序文や奥書も含め人物評価はないことがわかった。
ちなみに、「芭蕉門古人真蹟」を編纂発行した蝶夢(1732~1796)は、江戸時代中期の京都出身の俳人で時宗の僧である。芭蕉70回忌の時に芭蕉の墓がある義仲寺を訪れ、その荒廃を嘆き蕉門の復興を志したという。芭蕉の遺作を研究し、「芭蕉翁発句集」など多くの著作を残した。寛政4年(1793)には芭蕉100回忌を盛大に成し遂げたという。本書の発行年は、奥書では天明二年(1782)になっているが、奥付では寛政元年(1790)である。芭蕉没後およそ100年になる。
それにしても、よくこれだけ芭蕉門人の真蹟を集めたものである。もともと義仲寺が所蔵していたものもあるだろうが、蕉門の復興を願い、新たに義仲寺に寄贈されたものも多かったかもしれない。曾良の真蹟は、添え書きにあるように諏訪の俳人宮坂自徳が寄贈したものである。宮坂自徳についていえば、故郷の中州福島にある合同句碑に、曾良の黒髪山の句とともに「唐土へ雲吹き拂へ十三夜」の句が刻まれている。
曾良・自徳・素檗・若人の合同句碑(諏訪市中洲福島)
とうとう「曾良容貌魁偉説」の出所探索は行き詰まってしまった。そんな時、うっかりしていたのだが、岩本木外氏が「河合曽良」の中で、出所と思われることを書いていることに気づいた。「さあれ、曾良の本色は別に明瞭々地の赤裸々なるものを持ってゐる。一葉集中浪化云の條に~(中略)~云々とある。膽の短いこと、野武士的であったこと、篤実の半面に剛毅朴訥仁に近き所のあるは、諏訪気質の短所であったかも知れない。」と書いてあった。
浪化(1672~1703)は、浄土真宗の僧で、向井去来の弟子だったという。父は東本願寺14世法主の琢如である。元禄7年(1694)閏5月、落柿舎で芭蕉に会い入門。芭蕉への敬慕の念が厚く、遺髪を得て黒塚庵を建立したという。曾良より24歳年が若く、入門が芭蕉が亡くなる数か月前と遅いので、曾良と面識があったかわからない。浪化は各務支考と親しかったというので、支考から曾良のことを聞いていたかもしれない。さて、一葉集の「遺語の部二」に次のような文章がある。
浪化いわく「奥羽の行脚に、曾良を供し給へること、曾良は生質膚撓ず、目まじろかず。いかさま岩頭に倒れ死んに、容易かいしやくして、去にやぶさかならざる勇あるをたのみてなり。はじめ翁をそしり欺たる輩もかれこれ有たれども、終にはおのれゝが方より、便もとめて恨をわすれ其人を直くし、ちなみけるよし。翁、俳諧を勉て終に俳諧をわすれたるより、この道には達し給へるならん。」(「芭蕉一葉集」、紅玉堂書店発行、大正14年9月)というのである。
どうやら、蕉門門人の浪化の言説が後世に伝わり「曾良容貌魁偉説」となったのは間違いないようだ。長文になるので省略したが、曾良の人物評価がもっともらしく伝わってしまった理由には、浪化が前段に「奥の細道」越後直江津での宿を巡るエピソードを紹介しているからである。そして、芭蕉の句意に対し誤った解釈をしたからである。この点について、諏訪の俳人今井黙天氏が「蕉門曾良」(信濃民友社発行、昭和12年10月)の中で、浪化に対して激しく憤っていることがわかった。その芭蕉の句とは、
文月や六日も常の夜には似ず (芭蕉)
七月も今日は六日。明日の夜は花やかな七夕だと思うと、今宵からもう、空の星、人の有様にも、何やら普段の夜とはどこか違った、なまめいた趣が感じられる。(新潮日本古典集成「芭蕉句集」今栄蔵校注)直江津の宿で、土地の俳人と興行した連句の発句である。
今井黙天氏が書いているところは、こうである。「浪化のいうのは、芭蕉が、文月や六日も常の夜には似ず、と作句していることは、北陸行脚の砌、曾良と二人で、ある寺に泊めてもらう積りで、紹介状を持って、日暮れ方訪ねて行くと、あまり風采がよくないので、寺の和尚は小坊主に、折角だがお泊め申すことは出来ないと断らせた。二人はいろいろ頼んだが聞いて呉れない、仕方なくその寺をでようとすると、小坊主が俳諧が上手ならばというので、芭蕉に短冊を書いて呉れろという、芭蕉はこころよく何枚かの短冊を書いている。それを曾良は腹立ちげに『そんな泊めてもらえもしない寺の小坊主に、短冊など書いてやって、日が暮れて仕舞っては仕方がない、先生もあまりのんきすぎる』といって、芭蕉を引っ立て門前の石に休らい、どこへ泊ろうか相談しているところへ、来かかった男に竹風という者がある。芭蕉と曽良の話を聞いて、そんなことは造作がない、この寺は自分の檀那寺であるから、私が話してあげようと、二人を寺に案内して、和尚に話をし、芭蕉と曽良はしばらくその寺に泊めてもらう事が出来たが、その時芭蕉が手づから足を洗い、仏間の奥に端然と坐っているのに、曾良は次の間に控えて、荒げ立った風貌を示している。それは尋常人の面影ではなかった。芭蕉も実は面白くない。その心境をうたっているのが『文月や六日も常の夜には似ず』―面白くない夜であるという意をこめているのであるという―又曾良を奥羽行脚の旅に伴ったのは、曾良は腕力が人に勝れていて、旅の用心棒によかったからであると、芭蕉を偉くしようとして書いている伝説的な一節がある。」
今井黙天氏は、「全く無価値な事件の捏造と見るのが至当で、同時に曾良が、腕力が人に勝れて芭蕉の用心棒のためにのみ奥羽行脚に伴して行ったというように、後世の者を誤らせる出所をなしていることが明らかだ」と批判している。曾良随行日記が明らかになっている今日、浪化の言説が荒唐無稽であることは明らかだ。曾良随行日記によれば、元禄2年(1689)7月6日は、紹介状を持って聴信寺に宿を取ろうとしたが忌中だったため無理をせずに旅を続けた。しかし、石井善次郎という人が再三戻るようにいい、雨も降ってきたので、その日は古川市左衛門方に泊ることにした。その夜に地元の俳人たちも集まって、俳諧興行があった。翌日は、聴信寺に招かれて俳諧が興行されている。浪化のいうような事件は起こっていないし、先の句意の解釈も間違っている。
なぜこのような言説が捏造されたかを考えるとき、理由は二つあると思う。一つ目は、芭蕉没後の時代状況である。つまり、一部の門人において、芭蕉をあがめ立て神聖化して利用しようとする動きがあったことである。浪化が毀誉褒貶の激しい支考と親しかったことも気にかかる。芭蕉は越後路で持病を悪化させ、雨も降り続く中、気分がすぐれなかった。その不機嫌について、同行の曾良の言動に原因を帰せようという考えがあったかもしれない。二つ目は、曾良のみすぼらしい風体である。「奥の細道」の旅において乞食巡礼のごとくであったことは書かれているが、その後も曾良の風体は変わりがなかったかもしれない。特に、芭蕉没後は俳諧への意欲も失い、全国の山々で修行する修験者のような生き方をしていたのではないかと想像する。浪化のような立派な出自の人間からすると、全く理解できない胡散臭い人間であったかもしれないと思う。ただ、以上のことは想像の域を出ず、今後の研究課題としなければならない。
問題は、「曾良容貌魁偉説」が「奥の細道」における「曾良用心棒説」に直結してしまったという不幸である。私も、案外曾良の容貌は魁偉ではなかったかと想像するのである。そうした印象は、このブログの松島の項でも書かせてもらった。しかし、今井黙天氏が言うように、この言説が曾良の一人の俳人としての生き方や評価に誤った理解をはびこらせてしまったことを残念に思う。乞食のような行き方をしていても、詩人としての精神を失っていたのではないことを信じたい。だから、もし浪化が生きていたならば、見た目で判断して申し訳なかったと、まず曾良に謝ってもらいたい。だが、もっぱら彼の責に帰すことは出来ないかもしれないとも思うのである。
http://furusatonosora.akiji.yokohama/2018/03/14/%e6%b2%b3%e5%90%88%e6%9b%be%e8%89%af%e3%81%ae%e4%ba%ba%e7%89%a9%e5%83%8f%e3%81%ab%e8%bf%ab%e3%82%8b%ef%bc%88%ef%bc%92%ef%bc%89%e2%80%95%e7%af%a4%e5%ae%9f%e6%9c%b4%e8%a8%a5%e3%81%aa%e6%9b%be%e8%89%af/ 【河合曾良の人物像に迫る(2)―篤実朴訥な曾良は、芭蕉の「影」かそれとも「伴」か】 より
「曾良といふ人を思ふ時、私には、どうも『影』といふ感じがしてならない。」
荻原井泉水(荻原藤吉)氏が「國語と國文學」第5巻第4号(1928年4月)に書いた「河合曽良」の一節である。井泉水氏44歳頃の執筆であろうか。この文は、ひとつのまとまった曾良小伝ともいえるもので、さまざまな側面から曾良の人物像を浮かび上がらせていて、学ぶところが多い。「影」という印象に大いに不満があるものの、その不満は最後に述べることにして、まずは井泉水氏のいうところに耳を傾けたい。
「庵に居る者は自分獨りなのだけれども、灯火をともせば自分に自分の影法師が添うてくる。そうした芭蕉の影のように、時々、静に顕はれて来るのが曾良である。芭蕉が深川の庵に居る時は、いつも彼の影のやうに、彼から離れなかったのが曾良である。貞享四年、芭蕉が鹿島に遊んだ時も、曾良は影の如く従った。元禄二年、芭蕉が奥羽の大行脚を果した時は五ヶ月の長い間、影の如く付き添うてゐた。曾良の名が私達に親しくひゞくのは、主として芭蕉の「奥の細道」を通じてゞあると云っても好い。而して、芭蕉の没後、曾良の存在は……さうだ、彼は影の如く消えてしまった観がある。」そのあとに冒頭の文章が続く。
井泉水氏が「影」という印象を強く持つのは、曾良という人物の「実像」が見えてこないからだろう。故郷の信州上諏訪で曾良のことをいろいろ調べてみても、解らないことだらけで、いよいよその印象を深くしたと書いている。その点はよく理解できる。当時、曾良随行日記などはまだ世に知られておらず、情報は一定の資料に限られていたからである。さて、井泉水氏は、曾良についてどのような疑問を持ったのだろうか。
①(父は高野氏、母は河西氏の出であり、岩波氏に養子に行ったというのが諏訪では普通に信じられている説であるが)いったん岩波氏に養子に行った曾良が後に河合姓を名乗るとはおかしなことである(墓碑銘は「岩波庄右衛門塔」とあるのだから)。生家が岩波氏だとすれば、問題は解決されるのではないか。
②曾良が俳諧に指を染めたのは何年頃であるか。延宝四年頃から指を染めていたに違いない。芭蕉に近づくようになったのは、早くとも天和三年以降であろう。貞享三年頃は作家として、門下の中で認められていたに相違ない。
③江戸に出て、さて何を以て生活していたのか。剣術指南はどうかわからないが、武道には相当練達していたのであろう。神道を以て衣食の資だけを得ていたのであるまいかと考えられないこともないが、推測である。多少医術の心得があってそれで生活していたのではないかと考えられないこともないが、断定しがたい。つまり、そのころ世間に多くあった浪人であって、浪人ゆえに飢え死にしたものもいないから、そんな風にして日を送っていたものだろう。
④深川の芭蕉庵の近くに居をしめた訳は、芭蕉に親しく師事したいという意図と、師の孤独を慰め、ときには炊飯の手助けもしてあげたいという気持ちから、移っていったものらしく思われる。非常に篤実な性格の人だったということをよく語るものは、彼の「道の記」以上のものは無い。
曾良「道の記」(諏訪史料叢書巻九)
こうした諏訪での調査を踏まえ、井泉水氏は「影」と感じる理由を述べる。「芭蕉は『奥の細道』に、日光山の麓で一夜の宿を恵まれた時、そこの主を『剛毅朴訥の仁に近きたぐい、気稟の清質尤尊ぶべし』と書いているが、私には曾良といふ人が、やはり気稟の清質尤尊ぶべしといふ風な人だったらうと思われるのである。此様な気質だから、彼が師の芭蕉に對して傾倒するや、殆んど全人的な歸敬の気持を以てしたらしく、芭蕉も亦その気持を嬉しく汲みとるが故に彼を又なく愛してゐたであらうと思われる。それで、芭蕉に於ける彼は、形に於ける影のやうに離れ難いものにさへなったのだと思はれるのである。」「芭蕉と曽良とは旅の好き道伴れであり、いよゝ以て影の形に添ふ如く、好く困苦を共にし、旅愁をわかちあえたのであると思はれる。」
このように述べて、曾良のひとつひとつの句に対する評価が続くのだが、「表現は悪くしつこい」「機智的に巧み」「想像の上の趣味」「俗の骨頂」「誇張にすぎて、自然の感じがない」「殊更らしく、実感が移りにくい」「理屈である」「観念の作に堕してしまった」「風雅らしい気取りがあるので、一種のくさみである」といったように、悪意を感じさせるほどにこき下ろす。要するに、曾良の句は、①純情が表現の上では観念的に傾いて、芸術的に消化されていない、②個性が乏しく、芭蕉の芸術の好くない一面を模倣している、と評価を下そうとするためである。そして、「奥の細道」中の曾良の句でただ一つ光っているものは「終夜秋風きくやうらの山」であり、奥の細道が句作の上の修行であったとしたならば、この句に到って悟るところがあったことを証していると述べるのである。
このとき曾良もすでに41歳で、門人としても相当の評価を得ていたから、奥の細道の随行者に選ばれたのであり、それは芭蕉が「同行二人」と書いているところから明らかである。旅をつつがなく進めるために事務処理をする単なる秘書役であったわけではない。にもかかわらず、単なる秘書役に落とし込めようとするから、曾良を「影」と捉えて存在感を薄め、曾良の句への評価をゆがめる結果をもたらしているのではないだろうか。偉大なる師につき従う弟子としては、存在が小さい方が美しく見えるのかもしれないが…。
まして、曾良随行日記の発見によって「奥の細道」に芭蕉の創作が多く含まれていることが知れるやいなや、曾良の「俳諧書留」に記載がないなどを理由として、一部の句は芭蕉によって代作されたなどという言いがかりは、まず論外であると考える。「奥の細道」中の曾良の句は11句あるが、曾良「俳諧書留」にあるのがわずかに5句、あとの6句はない。それは、芭蕉の句も同様で、全50句中で山中温泉までの42句のうち、18句はやはり「俳諧書留」にないのである。つまり、「俳諧書留」は厳密に1句ももらさず記載されたものでなく、長期滞在の時にまとめて記入していたと思われる。この「俳諧書留」の性格を明らかにしたのは、伊坂裕次氏の「曾良日記考―奥の細道理解の一基盤として―」(昭和34年3月)の論文である。
このように考えてくると、曾良の持っていた「容貌魁偉」が「曾良用心棒説」に結びついてしまったように、曾良の「篤実」「朴訥」な性質と行動が芭蕉の「秘書役」の人物評価に直結し、一人の俳人としての曾良をまさに「影」のように消し去ってしまったのではないだろうか。
以前このブログで、「曾良の句は観念的」との評価が広く行われ、そうした評価の発信源は荻原井泉水氏ではないかと書いたが、今回じっくり読んでみて、改めてそのことを確信したものである。とても正当な評価と私には思えない。しかし、私の力量不足から、今は諏訪の俳人今井黙天(邦治)氏の反論に委ねるしか方法がない。「かさね」という女の子のいじらしさに感動している場面について、「それを曽良など居たか居ないか、之れを問題にして居ないような書き方をして居る井泉水氏の芭蕉認識は、本当に芭蕉を見て居る態度かどうかは疑はしい。」と批判している。その詳細は、ぜひ今井邦治著「河合曾良追善集々録」(信濃民友社、1959年発行)を読んでいただくようお願いする。
井泉水氏は、最後に「旅の心を以て人生の心とする気持、所謂『日々旅にして旅を栖とす』といふ気持、即ち、旅人といふものになりきってゐる気持、其をうけついで、實践したものは、門下の數多いうち、曾良一人であらうと思ふ。」と述べ、曾良は旅から旅を続けたいと思えば六十六部のような生き方をする外はなかったとまとめた点については、私も井泉水氏の意見に大いに頷くところがある。乞食巡礼の如く生きていたのではないか。曾良が故郷に送った手紙や地誌学者関祖衡が贈った送別詩などが、晩年の曾良の生き方と精神を証明しているように思う。
確かに、曾良は芭蕉の死とともに消えてしまったのである。しかし、一人の俳人としてどこかでしっかり生きていたことも確かであろうと思う。
http://furusatonosora.akiji.yokohama/2018/03/21/%e6%b2%b3%e5%90%88%e6%9b%be%e8%89%af%e3%81%ae%e4%ba%ba%e7%89%a9%e5%83%8f%e3%81%ab%e8%bf%ab%e3%82%8b%ef%bc%88%ef%bc%93%ef%bc%89%e2%80%95%e3%81%a9%e3%81%ae%e3%82%88%e3%81%86%e3%81%aa%e5%b8%ab%e5%bc%9f/ 【河合曾良の人物像に迫る(3)―どのような師弟関係であったか】より
終宵(よもすがら)秋風聞くや裏の山 (曽良)
「奥の細道」の旅の途中、腹の病気で山中温泉から芭蕉と別れて先行したあと、加賀全昌寺で泊まったときの吟である。裏山の木々に激しく吹く秋風の音に、眠れぬままにさまざまのことを思いめぐらしつつ、とうとう一夜を明かしてしまったというのである。行脚中の出来事、師翁の身の上のこと、そして身体不如意な己れのこれからの一人旅のことなどが脳裏を去来したことであろう。師翁と別れた曾良のさびしい心情がよく表わされている。(岩波文庫「蕉門名家句選(上)」堀切実編注)
元禄2年(1689)8月5日、曾良は、昼頃に北枝を伴って那谷寺へ出立する師芭蕉を見送ったのち、自分もすぐに全昌寺に向かって旅立った。前日の夜のことであろうか、伏して別れを告げた山中温泉の場面はすぐに思い出されるところであるが、病気とはいえ師と別れることになってしまった孤独感から、曾良は打ちひしがれていただろう。ただ一人でこの寺に泊り、江戸出立以来ともに積み重ねてきた数々の日々を思い出して万感の思いがこみ上げ、眠れないままこの句になった。
一方芭蕉は「大聖持の域外、全昌寺といふ寺にとまる。猶加賀の地也。曾良も前の夜、此寺に泊て、 終宵(よもすがら)秋風きくや裏の山 と残す。一夜の隔(へだて)千里に同じ。」と「奥の細道」に書き残した。芭蕉が抱く孤独感も曾良と同じであり、曾良の残した句の想いに心を動かされたのではないだろうか。山中温泉から全昌寺までの「奥の細道」の文章を読めば、この師弟の偽りのない関係に何ら疑問を挟む余地はないと思う。
師芭蕉に別れを告げる曾良(与謝蕪村筆)
しかし、人によって見方は違うものである。例えば、芭蕉と曽良はとうとうここで喧嘩別れをしたのだとか、曾良の隠密としての任務(諜報活動)が終了したので許しを得ておさらばしたとか、さまざまである。病気であるならむしろ山中温泉にとどまるのが普通ではないかというのが理由である。そのひとつの極め付きは、童門冬二著「師弟 ここに志あり」(潮出版社、2006年6月)である。小説であるから目くじらを立てるなと言われればそれまでだが、曾良の人物像に迫るためには、これを取り上げなければならないと考えた。タイトルは「芭蕉と曽良 師の句に違和感をもった弟子」である。以下、ポイントとなる部分を引用する。
「金沢で、曾良の師への嫌悪感は沸点に達した。師というのは松尾芭蕉のことだ。弟子の曾良の気持をそこまで追い詰めたのは、芭蕉が詠んだ次の一句である。 塚も動け我泣声は秋の風 (略) 曾良はこれをきいた途端、心が青ざめた。<なんというおおげさな>という感じを持った。」
「彼の神道に対するのめりこみは深く、また詳しい。曾良の性格はそのために、几帳面で理知的だといわれる。反面、情感に欠けるところがあった。したがって、芭蕉の門人の中では、必ずしも独特な句風を確立することもなく、またその作品の多くは、『拙劣だった』という酷評がある。」
「いわば曾良の性格は硬質といってよく、芭蕉のそれは軟質だった。本来なら、このへんにそもそも旅の同行者としてのもつれが出るはずなのだが、芭蕉の方が一段人物が大きいからそのへんは大目にみる。しかし、師の愛を独占したいと眼を吊り上げている曾良には、そのへんの柔軟性が理解できない。いや理解できても、それを承認しない。」
「曾良の立場に立つと、芭蕉が『荒海や』という句を詠んだ時は雨続きであって、例え佐渡島が見えたとしても、空に天の河が掛かっているはずがない。曾良にすれば、『お師匠様はウソをついていらっしゃる』ということになる。」
「曾良には芭蕉のいうことが初めてわかった。『お前にはまだ芸術心が不足している。だから、雨の夜の出雲崎で天の河が見えないのだ』という指摘である。曾良は真っ赤になった。恥ずかしかった。芸術心が高まっていれば、雨の日本海にも天の河が横たわっているのがはっきり見える。」
「しかしその後芭蕉が死んだ時に、琵琶湖畔の義仲寺で葬儀が行われたが、曾良は出席していない。初七日の追善句会にも出ていない。おそらく彼は一時でも師を疑ったことに対する自分の罪を責め続け、『師の葬儀にも出る資格はない』と、自らを戒めたのだろう。」
童門冬二氏は、このように芭蕉と曽良の師弟関係を描くのである。芭蕉の句の芸術性を理解できない弟子曾良が師に違和感をもち、病気であることを理由に自ら別れを告げることを決心したが、最後に師の本当の心を知り自責の念を持つというストーリーである。曾良が師芭蕉の葬儀に出席できなかったのも、その贖罪意識からであるとする。
こうしたストーリーに、従来からの曾良に対する誤った人物評価が反映していることはいうまでもない。つまり、剛毅朴訥で冷徹な直情型の性格や俳諧の芸術性を理解できない稚拙な文章能力など、さまざまになされてきた言説が影響を与えているのである。このブログではこれらの言説に対し縷々検討を加えてきたが、芭蕉を「俳聖」として祭り上げるため、一方で道を諭される「無知蒙昧な弟子」曾良という師弟関係をクローズアップさせたいという動機が見えてくる。
言い換えると、一方通行の師弟関係を描き、互いを高め合っていく同志としての師弟関係は想定されていないのである。前回のブログでも検討したが、「奥の細道」が曾良にとってはひたすら自身の俳諧修行の道であったとする荻原井泉水氏の見方と相通ずるものがある。新たな俳諧の道を模索し旅していたのは芭蕉自身であり、その思いを共有する曾良自身だったと思うのだが…。
確かに、芭蕉の葬儀に曾良は参列していない。江戸の俳人が参列しなかった理由はよくわからないが、江戸から参列したのは、たまたま近畿に来ていた其角ただひとりであった。しかし、曾良の亡き師に対する想いは、次の句によくあふれている。芭蕉没後8年目、元禄15年(1702)の秋にして、ようやく墓参を果たした時である。
芭蕉翁墓所(大津市義仲寺)
ー翁の墓にまいりてー おがみ伏して紅しぼる汗拭い (曾良)
「紅しぼる」とは紅涙の意であろう。是は表現が誇張に失して面白くないものの、彼が師の臨終にも参り合さなかった心残りに涙しつつ、義仲寺の墓前に額づいている悲嘆やる方ない気持は、十分に推測することができる。――荻原井泉水氏でさえこのように評価し、師に対する曾良の真情に疑いをはさんではいないのである。
このように見てきたとき、思い出すのは曾良追福五十回忌集(「乞食袋」)に柳下庵志水(小平志水)が書いた「曾良小伝」(「諏訪史料叢書 巻九」諏訪史料叢書刊行会、昭和3年7月20日発行)にある文である。「壮年の頃故ありて窂浪の身となりそれより二君に仕さるの操を守り」と書くように、自分の信頼した俳諧の師に対し全面的に傾倒する「純粋さ」である。その「純粋さ」の根源はどこにあったか。生まれつきの性格によるものなのか、それとも芭蕉の人生観に対する深い共感にあったか。
いずれにせよ、芭蕉の死とともにひとりの俳人曾良も死んでしまったといえよう。「翁物故の後はしばらく俳諧にも遊ばず神の道仏の道につきて遠き近き野や山をたずねまたある時は事にふれてかりそめにも句もいい出られしことなれど只それまでの事とかや」(「続雪まろけ」)。また、芭蕉没後に俳諧への意欲を失い離れてしまった背景には、蕉門門人の芭蕉の名声を利用しようとする動きや四分五裂の様相に嫌気がさしてしまったのかもしれない。曾良の性格の「純粋さ」がなせる業であろう。
http://furusatonosora.akiji.yokohama/2018/04/05/%e6%b2%b3%e5%90%88%e6%9b%be%e8%89%af%e3%81%ae%e4%ba%ba%e7%89%a9%e5%83%8f%e3%81%ab%e8%bf%ab%e3%82%8b%ef%bc%88%ef%bc%94%ef%bc%89%e2%80%95/ 【河合曾良の人物像に迫る(4)―「人の生涯は仮の世の仮の栖に過ぎないのではないか」】 より
河合曾良の人物像について、過去3回にわたり考察してきた。ここで、いったん中間的なまとめをしてみようと思う。もちろん、河合曾良の人物像についての考察は、今後も続けていくつもりだ。
既述したように、荻原井泉水(荻原藤吉)氏が「河合曽良」(1928年4月「國語と國文学」第五巻第四号に所収)の中で展開した曾良の評論は、後世の人々に大きな影響を与えてきた。今日、曾良に関して書かれる文章の多くにおいて、曾良は「機智的」「観念的」「詩人としての天稟に恵まれていなかった」といった評価が当たり前に多くみられるのは、井泉水氏に端を発するものであろうと思う。論者自身の十分な検証がないままに、こうした評価が「無批判的」に継承されてきたということができる。師の芭蕉があまりにも偉大であったから、師に随行する弟子曾良は一人の詩人として評価されにくい運命にあるが、曾良の句のひとつひとつと向き合い鑑賞・評価する態度が必要ではないだろうか。
その点、井泉水氏はさすがである。井泉水氏の「河合曾良」の最終部分をじっくり読んでみると、実は、曾良の句ひとつひとつについて鑑賞し評価をしていることがわかった。それまでとはやや異なる評価であった。具体的には、次のような句についてである。
麥畑に鶯の啼く音や朧月 (曾良)
月鉾や͡兒の額の薄化粧 (曾良)
鶯やうは毛しほれて雨あがり (曾良)
「曾良といふ人の風采を考へると、武骨な、もっさりとした感じが第一に起るので、『麥畑』や『月鉾』や『鶯』のやうな、繊麗な見方と細微な表現をした作は、どうも曾良の人がららしくないとも思はれるが、反對に、是等の句を通して、曾良の性格の中には、斯うしたやさしい、神経質な一面があったのだといふ證據とすることが出来ようかとも思はれる。而して、『道の記』にある駕の上で居睡りして身を耻ぢた話なども、こゝに思ひ合せて考へれば、うなづかれる点もあるのである。」
一見武骨で容貌魁偉でありながらも、繊細でやさしい几帳面な性格。以前のブログで触れた河東碧梧桐氏も「蓋し曾良は容貌に似合わず細心な人であったのであろう。」と書いた。井泉水氏は曾良の繊細な感覚の句からその性格を想像したが、碧梧桐氏は曾良の真筆からこれを想像した。このような曾良の性格の「二面性」がいかに形成されたかを考えるとき、私は、彼が出生以来経てきたであろう人生の艱難に思いをいたさざるを得ない。彼の紆余曲折の人生、将来の保証なき流浪の人生しか用意されていなかったという運命が、曾良の「二面的」ともいえる性格を陶冶したのではないかと思うのである。
伊勢長島の大智院(桑名市)
曾良は、信州上諏訪の酒造業高野家(もともとは武田氏家臣)の長男に生まれた。長男にもかかわらず、生家を継ぐことなく(この背景には諏訪の「末子相続」の慣習があるとされる)、母の実家の河西家に養育に出され、さらに伯母の嫁ぎ先である岩波家の養子になるという複雑な成長過程をたどった。そして、12歳頃といわれるが、岩波家の養父母が相次いで亡くなってしまったため、伊勢長島の長松山大智院住職(第4世)であった伯父法印良成を頼って故郷を離れることになる。伊勢長島には33歳頃までいたとされるので、12歳頃までいた生まれ故郷の信州よりも伊勢長島の方がふるさとと言えるのかもしれない。
商人酒造業を営んでいた高野家や河西家、福島村で農家(庄屋)となっていた岩波家は、もともと武田氏に仕える武士であったが、武田家の滅亡と同時に身分を隠した。というのは、織田信長の武田残党狩りが厳しく、これから逃れるために名前や身分をさまざまに変えて生き残りを図ったといわれている。信長亡き後、徳川家康の支配地となり、許されて再び取り立てられたものも多くいたが、商人や農民のまま家を継続していたものも多かったという。曾良の周辺はすべてこうした没落士族であり、いずれにしても、俸禄で生きて行けるような出世の道は望むべくもなかったと思われる。武田家家臣に限らず、浪人となっていた士族も多くいたと思われる。伊勢長島に行き伯父のつてにより武士に取り立てられたとはいえ、将来の出世を描くことは出来なかったに違いない。
そのような曾良にとって、心が救われたのは和歌や俳諧ではなかったか。その嗜みの基礎は、伊勢長島藩に出仕していた時に身につけたものだと思う。しかし、それで食べて行こうとは思っていなかっただろう。また、主家の伊勢長島藩主松平家にはお家騒動があり、いつかは伊勢長島にも見切りをつけざるを得ないと考えていたかもしれない。だが新たな人生を求めて江戸に出た時、同じような境遇にあった俳諧宗匠の芭蕉に出会ってしまった。芭蕉の生き方に深く共感を覚え、曾良はこの人について行こうと思ったのではないだろうか。
復元された幻住庵(大津市国分)
曾良と芭蕉には、人生観に対する深い共感があったのだと思う。芭蕉の人生観、それは「幻住庵記」の中によく表れている。「奥の細道」の長い旅のあと、芭蕉は江戸には戻らず、伊賀上野や膳所の義仲寺「無名庵」などに滞在したり、京都の落柿舎を訪れたりして過ごしていた。その中でも、元禄3年(1690)4月6日から7月23日までの約4か月間は、琵琶湖の南の山中にある「幻住庵」で隠者のような生活を送った。芭蕉はこの地をこよなく愛し、庵を提供した近江の門人で膳所藩士、菅沼曲水への手紙の中でも、もう一度幻住庵を訪れたいと述べている。芭蕉は、「幻住庵記」で自分の人生を振り返っている。
「かく言えばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隠さむとにはあらず。やや病身、人に倦んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移り来し拙き身の科を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏離祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。『楽天は五臓の神を破り、老杜は痩せたり。賢愚文質の等しからざるも、いづれか幻の住みかならずや』と、思ひ捨てて臥しぬ。 先づ頼む椎の木も有り夏木立 」
曾良もまた、ある時は武士としての出世を望み、また、一度は仏門に入ろうとしたであろう。しかし、自分の力ではどうすることもできない漂泊流転のさだめに遇い、思い描いたようにはならず、栄達をあきらめ、ただ花や鳥の美しさを求め旅から旅への人生を送ることになったのではないだろうか。芭蕉の「どちらにしても人の生涯というものは、仮の世の仮の栖にすぎないのではないかと思いあきらめて横になった。」(尾形仂編「芭蕉ハンドブック」三省堂から)という深い諦観を、曾良も抱き続けていたのかもしれないと思う。