曽良翁を語る
http://mtv17.ninpou.jp/iki2/soro2/manabe.htm【 曽良翁を語る】真鍋儀十まなべぎじゅう翁 明治24年(1891)~昭和57年(1982) より
長崎県壱岐郡芦辺町(現在壱岐市芦辺町)で生まれる。長崎師範学校を卒業し明治大学法学部に入学、大学在学中から普選運動にかかわり、大正9年憲政会にはいる。60数回も拘禁を受けたが、昭和5年民政党から衆議院議員に立候補し当選(計6回)。内閣売春対策審議委員などをつとめた。芭蕉研究家として知られ、高浜虚子に師事、「ホトトギス」同人となる。深川芭蕉庵関連の資料を収集し、江東区の芭蕉記念館にコレクションを全て寄贈した。俳号は蟻十。
蕉門の 河合曾良 を語る 真鍋儀十
序
小学校時代の友達から今年の五月二十二日が河合曾良の二百五十年祭に当るから、何か賢翁の追善について考へて見たらどうかと言って来た。曾良の墓は壱岐の勝本に在り、私は此の町の小学校を卒業したものである。三十八年前上京して、私が住所を定め、所謂地盤として政界に担ぎ出して貰ったところが偶然にも芭蕉庵の跡があることで知られた深川で、曾良が芭蕉の薪水の労をたすけたところである。
さうしたことからかねがね芭蕉を崇拝し曾良を尊敬し、多少二人の資料も蒐めてゐたので、この際にと曾良の分を書き技いて見た。急なことでもあり、ほんのささやかなものだが、私は斯の道の専門家ではなく、ただ些かの俳縁につながるものとして、曾良を一人でも多く識って戴ければ追善の一端にもなろうかと思ひ立って上梓したもの。若し之がきっかけとなって更に立派な方々が、相次いで俳人曾良を顕彰して下さるようになれば私の望外の倖である。 昭和三十四年五月一日 芭蕉旧庵に近き深川寓居にて 真 鍋 儀 十
曾良の忌を翁ゆかりのこの庵に
一、芭蕉が語る「奥の細道」の曾良のこと
河合曾良は所謂俳諧の五子とか、蕉門の十哲とか、さう云ふ人ではなかった。併し(しかし)松尾芭蕉は元禄二年(二七一年前)江戸を振出しに奥羽北越の大行脚、即ち奥の細道紀行の旅に上る際、唯一人の侶伴として連れて行った愛弟子で、或る意味では芭蕉にとってもっと大切な人であったかも知れない。
この紀行記は、芭蕉の一生を通じて一番の長篇であり、また我国俳文学史上稀に見る名著として謳はれるものであるが、その旅での曽良を、この「奥の細道」を籍りて(かりて)芭蕉に語らせるならば『剃り捨てて黒髪山に衣更。曾良』。日光で「曾良は河合氏にして惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべ、予が薪水の労をたすく。このたび松島、象潟(さきがた)の眺め共にせん事を悦び、かつは覉旅(きりょ・羇旅/羈旅・たび・旅行)の難をいたはらんと、旅立つ暁、髪を剃りで墨染にさまをかへ、惣五郎を改めて宗悟とす。よつて黒髪山の句あり。衣更(ころもがえ)の二字、力ありてきこゆ」として、自らもまた『斬時(しばらく)は滝に籠るや夏(げ)の初め』と詠んでゐる。
何しろ未開僻陬(へきすう・僻地)のところではあり、加ふるにしとしと と降る五月雨(さみだれ)の季節から、三伏(さんぷく・夏の最も暑い時期)の酷暑にかかり、不案内の地理を探り、草の枕も定まらぬまま、行く雲流るる水に任せた旅のこととて、頗る(すこぶる)難渋を極め、あらゆる艱苦(かんく・悩み苦しむこと)と闘ひ、或は「土座(どざ・土間)に筵(むしろ)を敷きて、あやしき貧家に宿をかり、灯(ともしび)もなければ囲炉裏(いろり)の火かげに寝所をまうけて臥」し「持病さへおこりて消え入るばかり」。「よしなき山中に逗留して」『蚤虱(のみ・しらみ)馬の尿(しと)する枕もと』に眠れぬままの一夜を明かし、軈て(やがて)「道路に死なんこれ天の命(めい)なりと覚悟をきめて、気力いささかとり直し」かくて漸く(ようやく)「伊達の大木戸を越す」と云ふ憂き(うき・心をなやますこと)辛酸(しんさん・苦しく、つらい目)を嘗め(なめ)尽してゐる。
這うして芭蕉は、三代の栄耀一睡の中、草青みたる城の春に、曾良と一所に、笠打ち敷いて、つはものどもが夢のあとを偲んで、時のうつるまで涙を落し、或は各地の俳友と巻いた歌仙の数は寔(まこと)に二十七巻に及んでゐる。江戸出発以来実に百五十日、行程まさに六百里の大紀行を芭蕉あるところ必ず曾良あり、形影(けいえい・形とその影)相伴つて美濃大垣を以て終ってゐる。
さうした二人の忍苦耐乏の所産から、一世を風靡し、百世に伝はる「奥の細道」の大紀行文は完成されたもので、曾良は単なる侶伴(りょはん・仲間、連れ)ではなく、寧ろ(むしろ)この紀行文は見様(みよう)によっては芭蕉と曾良との合作だと評しても過言でなかろう。
二、河合曾良の家系とその生ひ立ち
曾良は幼名を高野庄右衛門正字と称び(よび)、慶安二年、信州諏訪岡村の高野家の総領として生れ、利鏡と云ふ姉と、五右衛門と云ふ弟がある。
曾良は総領ではあつたがおさない頃から伯母に当る岩波家の養子となり、その姓を名乗るようになった。岩波家は現在も諏訪の中洲村福島に伝はつてゐるが、元来は甲斐の武田氏の家臣である岩波兵庫頭重清から七代目に八右衛門昌重と云ふ人があり、その孫に勝左衛門昌武が居て、家系の上からすると曾良はこの昌重(元禄三年十月十八日死亡)と、勝左衛門昌武との間に侠まれてゐる訳である。
また曾良の母は旧姓河合で、河西家(酒造家)の出、旧姓の河合家も先祖は武田家から出て、甲州北巨摩郡中田村字中条、河合美四良光連から始まってゐる中々の家柄である。光連の妻は同じく武田家の重臣篠原讃岐守の娘であるが、何故その由緒ある河合性を河西姓に改めたかに就ては、武田家が織田家に亡され、武田の残党に対する詮議がきびしくなったので変へたものだとされてゐる。
のち、姉の利鏡は小平家に嫁し、弟五右衛門が、兄の養子に行った後の高野家を継いだが、間もなく高野家は絶えてゐる。この外甥に木左衛門、従兄弟に河西徳左衛門がある。この徳左衛門は長じて俳号を周徳と云ひ、曾良の姉の利鏡の子を妻としてゐ
三、伯父の勧めで伊勢長島の藩士となる
曾良のも一人の伯父に当る人で、伊勢長島の大智院の住職となった秀精法師と云ふのがある。曾良は万治三年(三〇〇年前)伯父も伯母も世を去り、故郷で頼る人が居なくなったので、この大智院の秀精法師が引取り、親代りとなって一切の面倒を見ることになったもので、この時曾良は十三歳であった。
大智院は三重県桑名郡長島村字遠浅(とあさ)に在って、領主の祈願所として仲々格式も高い寺であった。後年芭蕉もその縁故からこの寺に逗留して『憂き我を淋しからせよ閑古鳥。芭蕉』と詠んだものであるが、間もなくこの少年曾良即ち岩波庄右衛門正字は、仕官の為め伯父秀精に連れられて、藩主にお目見えすることとなり、ここで母方の河合家の苗跡をとり、新たに河合惣五郎と名乗つてお目見えを済ました。曾良の人生はそこから振り出しに戻っての再発足である。従つて長島では河合惣五郎の名のみが知られ、岩波庄右衛門は消えて了ひ(しまい)、芭蕉ですらよく信濃を忘れて伊勢の曾良と云ひ云ひしたものである。
かくて幸福なるべき河合惣五郎は、折角伯父のお影で藩士となりながら何故長島を去るようになったのか。曾良の仕官した時の藩主は松平土佐守亮直で、次でその子の忠充の二代であったが、その二代目の忠充が城中で斬殺事件を惹起(じゃっき・引き起こすこと)し、これが幕府に聞える所となり、領地を召上げられて闕所(けっしょ・没収されたりして、領主がいない土地)となったため、領主も食禄を失ひ、曾良も自然致仕(ちし・官職を退くこと)するの已むなきに至ったものである。
四、深川で桃青(後の芭蕉)の門に入る
曾良が江戸に上ったのは何時か。諸種の記録を綜合してみると大体延宝四年前後で、二十八歳頃に当る。
曾良は芭蕉の門を敲く(たたく)前に、本所に国学の塾を開いてゐた吉川惟足の門を訪ひ(とい)、惟足から神道や歌を学び、大いに惟足の感化を受け、敬神の念に篤く、軈て(やがて)吉川流の神道の允許(いんきょ・許すこと、許可)をも受けてゐる。これはずつとあとのことであるが、曾良は外の俳人と違って、この神学が曾良の暮しに大いに肋けとなつてゐる。曾良がどうして惟足の門に入ったかは、恐らくそれまで居た伊勢の長島に小島阿倍等(など)惟足の門人が多かつたから、その伝手(つて)からであったと見られる。
曾良にはもう一人の知るべがある。それは惟足の同門の並河誠所で、この人は元禄から享保にかけての著名な地理学者。曾良は同門ながら、誠所からは後で紀行に大変役立つた地誌の基礎的な教養を身につけてゐる。
扨て(さて)曾良は何処に住んでゐたか。それには三井孫兵衛から三狂庵桐羽に宛た書簡の中に「曾良は五間堀と申す所に庵をむすび罷在候」とある。この三井孫兵衛が後に有名な書道の大家となった深川親和と呼ばれる人で、五間堀とは江戸深川の芭蕉庵に近く、竪川と小名木川の間にある六間堀の東南に折れた、小名木川に通ずる運何である。
曾良はそこに住つて(とどまって)、貞享三年(二七四年前)頃からしばしば、桃青(後の芭蕉)を訪ね、附合のことや、呼吸などを聞いてゐる内に、段々門人達とも親しくなり、貞享四年の春、小石川の清風の宿舎で行はれた「俳諧一橋」と名づけられる歌仙で、その附合のうち『耳うとく妹が告げたる郭公。曾良』『つれなき美濃に茶屋をして居る。曾良』などが見え、長島時代の想ひ出を附けたものではないかとも云はれてゐるが、とも角その頃からもう桃青に誘はれて、所々の俳座に出かけるようになつてゐたのである。
五、芭蕉曾良の断金の交り始まる
桃青が芭蕪と改めたのは元禄元年(二七二年前)頃からで『芭蕉野分して盥(たらい)に雨を聞く夜哉』辺りからであるが、この歳の暮の雪の或る夜に訪ねて来て呉れた曾良に、ほのぼのとした温みを感じた芭蕉が『曾良何某は此あたり近く、かりに居をしめて、朝な夕なといつとはる。我くひ物いとなむ時は柴折くぶるにたすけとなり、ちやを煮る夜ば来りて軒をたたく。性穏閑をこのむ人にして、交金を断つ。或夜雪をとはれて『きみ火をたけよき物見せむ雪まるげ。芭蕉』と懐紙に書いて渡した。
思ひがけなくも師匠から、懐紙に書いて貰った俳道精進に燃ゆる若い曾良の感激が、どんなであつたらうか、目に見えるようだ。
かうして次第に芭蕉の知遇を得た曾良は、間もなく芭蕉の鹿島紀行に連れて出かけられるようになったのである。
貞享四年の芭蕉の「鹿島紀行」に「伴ふ人ふたり。浪客の士ひとり、一人は雲水の僧」としてあるが、それが曾良と宗波とである。この時はもう句作に専念した甲斐があって、吟行にも同伴され『雨にねて竹おきかへる月見かな。曾良』などがある。
六、芭蕉、曾良を伴って奥の細道の旅に発つ
「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり」から始まる「奥の細道」は、余りにも人口に膾炙(じんこうにかいしゃ・一般的に知れ渡っていること)してをり、ここに絮説(じょせつ・くどくどと説明すること)するまでも無いが、その中で曾良に関係のある部分だけに就て(ついて)見ても、先づその「室(むろ)の八島(やしま)」は「同行曾良いはく『この神は木の花さくや姫の神と申して、富士一体なり』と芭蕉と曾良との問答から起し、日光で宗悟と改めた曾良と白河の関にたどりつき、『卯の花をかざしに関の晴着かな。曾良』。曾良に詠ませたきりでここでは芭蕉は何も自分の句を示してゐない。
この紀行の圧巻は、何と云っても「国破れて山河あり」の平泉の段であらうが、そこでも三句の中『夏草や兵どもが夢の跡。芭蕉』『五月雨の降り残してや光堂。芭蕉』の間に『卯の花に兼房見ゆる白毛(しらが)かな。曾良』を入れてある。この咲き乱れた卯の花を見てゐると、義経の高館(たかだて)での戦に、白髪をふり乱して奮戦した増尾十郎兼房の姿が眼の前に浮んで来るとよんだのである。
尾花沢では清風にもてなされ、『涼しさをわが宿にしてねまるなり。芭蕉』と詠へば、『蚕飼(こかい)する人は古代のすがた哉。曾良』と続いてゐる。
月山では阿闍梨(あじゃり)の需め(もとめ)に応じて『涼しさやその三日月の羽黒山。芭蕉』に『湯殿山銭ふむ道の涙かな。曾良』と書いた。銭踏むとは、山中のおきてで、地に落ちたものは拾はず、また持つてゐる金銭はすべて奉納する。湯の湧いてゐるあたりには、特にここを尊んで、賽銭があたり一面散らかつてゐることだ。
江山(こうざん・河と山)水陸の風光(ふうこう・景色)数を尽くす象潟(さきがた)では『象潟や雨に西施がねぶの花』『汐越(しおごし)や鶴 脛(はぎ・膝からくるぶしまで)ぬれて海涼し』の芭蕉に対して『象潟や料理何くふ神祭』『波越えぬ契りありてやみさごの巣』と曾良が合せてゐる。
北国一の難所である親知らず子知らずを越えて、疲れた身体に枕引よせ寝たところ一間隔てて伊勢詣りをする「新潟といふ所の遊女」と泊り合せ「行方しらぬ旅路のうさ」「御跡を慕ひはべらん」「結縁させ給へ」とせがむを「我々は所々にてとどまる方多ければ」と云ひすてて出で『一家に遊女も寝たり萩と月』と詠んで「曾良に語れば」曾良はこれを句帳に書きとめた。
元禄二年六月二十七日、二人は野山に月日を重ねつつ、夜に入つてからその効有明に次ぐと云ふ山中温泉に辿り着いたのであるが、ここで「曾良は腹を病みて、伊勢(伊賀・ママ)の国長島といふ所にゆかりあれば、先立ちて行くに」曾良は「『行きゆきて倒れ伏すとも萩の原。曾良』と書きたり。行くものの悲しみ、残るもののうらみ、隻鳧(せきふ)のわかれを雲にまようがごとし。予もまた『今日よりや書付消さん笠の露』」と応えたと云ふのである。
仲よく飛んでゐた二羽の鳧が、別れ別れになって雲間に迷うような思ひがする。そこで今日から一人旅になるから、笠に書きつけてある同行二人の文字を、その笠におく露で消して了はふ(しまう)。何といふ師弟の情の濃やかさであらうか。芭蕉の優しい、そして寂しくなった気持ちが手にとるように見えてゐる。
かうして別れてからも芭蕉は大聖寺で「曾良も前の夜この寺に泊りで『よもすがら秋風聞くや裏の山』と残す。一夜の隔て千里に同じ」と切々の情を叙べてゐる。それ程芭蕉と曾良の二人は離れがたない道行きであつたのであらう。
だがそれらほんの僅かな間に過ぎなかった。芭蕉が敦賀から「駒にたすけられて大垣の庄に入れば」直ぐ「曾良も伊勢より来りあひ」「蘇生の者に逢ふがごとく、かつ悦びかついたはる」と。寔(まこと)に親愛の情の深く籠った一節である。
かうして又「長月六日になれば」二人は「伊勢の遷宮拝まんと」舟に乗っていそいそ出かけるところでこの紀行は終つてゐる。すなはちこの紀行は飽くまで芭蕉と曾良が二人のもので、芭蕉の豊かな詩嚢を、曾良のあたたかいいたわりの心で裏打ちして成し遂げられたに外ならぬものであるが、余りにも芭蕉の形か巨きかつたため、曾良の影か消えてしまひ、世間の曾良に対する関心か興らなかつたことはまた已むを得ないことであつたらう。
七、芭蕉世を去ってその後の曾良
旅を終えたあとの二人の間柄は一層親しみを加へ、弥々(いよいよ)風雅の途に進み、芭蕉は曾良にとって此の上も無い良き師であり、曾良は芭蕉にとって此の上も無い良き弟子であったに相違ない。だが芭蕉は元来旅を栖(すみか)とし、旅に終るが所願(しょがん・神仏に願っている事)の人であり、遂に元禄七年、(二六六年前)五月上旬、草庵を曾良に頼んで、之が最後となるべき尾張伊勢の旅路に立ち、七月伊賀の故郷に帰り、それから大阪に入って園女亭で歌仙の附合中、食にあたり、夢は枯野をかけめぐりつつも、十月十二日、五十一歳を以てこの偉大な俳聖は、数多(あまた)の弟子にみとられながら、眠るが如き大往生を遂げたのであった。
桃隣の「陸奥千鳥」によれば「この度は西国に渡り、長崎にしばし足をとめて、唐土舟の往来を見つ、聞馴れぬ人の詞も間かんなど、遠き末をちかひ首途(しゅと・旅立ち)せられ」とあれば遠く筑紫の果てまでも見きはめん心であったが、志成らず世を去ったのであらう。
巨星地に墜つ。大芭蕉なき後も曾良は深川に在って、亡き師の旧庵を守り・、『俤(おもかげ・面影)や冬の朝日のこのあたり。曾良』と追慕の情 己(や)みがたいものがあったが、遂に元禄十五年の秋、近江の義仲寺に旧師の墓参の旅に出で、墓前で『拝みふしてくれないしぼる汗拭ひ』と合掌回向して第二の故郷長島に入り、ここでも元禄十丁丑十二月なくなった、親代りの秀精法師の寺に詣でて追善供養を行ひ、此の旅は一入に物の哀れを感ずる曾良であった。
八、巡国使に加はつて九州壱岐に向ふ
曾良の身上には大きな変化が起った。元の岩波庄右衛門正字の名に戻ったのは此の時である。恰も(あたかも)元禄十五年(二五八年前)十二月十四日には、世に所謂(いわゆる)忠臣蔵の討入り、越えて十六年十一月二十二日には、史上有名な死傷十数万に達した関東大地震、同二十九日には江戸の大火があり、勿論曾良の住んでゐる深川辺りも大変なことであった。
かうして物情騒然たるなかに年が明け、茲で年号が改って宝永となったが、此の年、丈草も逝き、去来も去り、曾良自身もすでに亡師の歳を越えた。
曾良が還暦に当る宝永六年は、正月に綱吉が薨じ(こうじ・貴人の死)、家宜が将軍職に就き、柳沢吉保の邸宅を没収するやら、新井白石が選ばれて幕吏に登用されるやら、そして天子は東山から中御門に替らせられると云ふ目まぐるしい年である。
家宣の庶政一新の布令によって国内検察の制度が樹ち、全国を八分して巡国使が派遣されることとなり、素より惟足の推輓(すいばい・推挙、推薦)に依るものと思はれるが曾良則ち岩波庄右衛門正字は、巡国使の中の九州方面を命ぜられた小田切靭負(ゆげい)を主将とする永井監物白弘の列に加はって、二筑、二肥、日向、大隅、薩摩、壱岐、対馬、五島にわたり、専門の社寺に関し随員を仰付かった。
宝永六年十一月に随員を承諾した曾良が、翌七年三月半ばに江戸を出発するために、可なり忙しい時を過してゐたと思はれるが、久しい間固定収入の無かった曾良には、この年の暮の思はぬ旅費手当の臨時収入で、いつにない裕り
(ゆとり)のある年越をしたことであらう。
『千貫目ねさせてせはし年の暮。曾良』とは実感ででもあつたろうか。歳旦(さいたん・1月1日の朝、元朝、元旦)の試筆では『正字。立初むる霞の空にまつぞおもふ、ことしは花にいそぐ旅路を』と惟足門下としてのみそひと振りも見せてゐる。
曾良自筆のものとして今日諏訪の竹田家に保存されてゐると云ふ『ことし我乞食やめても筑紫かな。曾良』の句がある。この句を中には壱岐での辞世の句とする向きもあるが、やはり前後の事情と句意からすると、どうも曾良が江戸出発前後に詠んだものと見るのが穏当であらう。
この句意は恐らく、此の度は今まで芭蕉と共に永い間やって来た頭陀袋
(ずたぶくろ)かけての俳諧行脚とはこと変り、歴乎(れっき)とした巡国使と一所の官費旅行だし、衣装は惟足の允許を得た神主すがたで筑紫に行くこととなった。その筑紫こそ先師芭蕉がこころざして遂げ得なかった所であるのだ、との感懐(かんかい・感想)を含めて詠んだものであらう。
ちょっと乞食の二字が気にかかるが、室生犀星の「巴蕉襍記(ざっき)」に「昔は自ら乞食俳人と称して句作をなし、町家に衣食の代を乞うてゐた者もゐた云々。尠く(すくなく)とも蕪村にせよ芭蕉にせよ、孰れ(いずれ)も句巻の選科や、短冊による報酬でなければ、自ら寄進の金銭衣服によって其日を暮してゐたものである」と記してゐる通り、殊更(ことさら)な文字ではない。
九、遂に病を得て勝本の客舎に斃る
曾良が江戸を発った日は余り正確ではないが、おおよそ、出発直前に郷里の岩波六兵衛宛に品物を預ける書簡を出した末尾に、「三月四日」とあるから、この月の上旬から中旬にかけて出発したものであり、且つ壱岐に到着する前に筑前と筑後のニケ国は済ましてゐよう。
既(すで)に齢(よわい)六十を越した曾良が、七十日にも近い忙しい公務旅行に加はってゐるので、勝本に上った時は相当疲労してゐたことに相違なく、「奥の細道」でも判るように高徹居士に薬を乞ひ、道中携えて歩いた位の人で、いかに矍鑠(かくしゃく・元気なさま)な曾良と雖(いえど)も、さうは続かなかったのであらう。
終焉の地勝本はかざもとと訛り(なまり)、壱岐の良港であり、玄海に臨んだ漁船の碇泊地でもある。曾良が病を摂ふために充てられた中藤原は、この勝本の海産物問屋で、巡国使の関係から松浦藩でも叮重(ていちょう)に取扱ひ、手当も行き届き、看護にも粗漏はなかったと思はれるが、何しろ老齢でもあって、惜しくも宝永七年(二五〇年前)五月二十二日、六十二歳を一期(いちご)として、静かに中藤家の一室で世を去ったのである。
墓地は中藤家の菩提寺である能満寺の一劃(いっかく)に、正面に「賢翁宗臣居士霊位」とし、右側に「宝永七庚刀天」、左側に「十二月二十二日」と刻され、右側面に「江戸之住人岩波庄右衛門尉塔」としてある。惟ふ(おもう)るにこの塔は壱岐を領した松浦藩で、曾良の命日である二十二日を選んで十二月に建てたものであらう。
申すまでもなく「翁」とは俳諧では芭蕉を指すと云ふ約束ごとがあり、従つて賢翁とは、曾良も翁と同じく大変優れた俳人であると云ふ意味をあらはし、「宗臣」の宗は、岐れ(わかれ)たものの本源を指すから、徳川本家から遣はされた役人であったことを示し、「尉」とは字そのものは良民をやすんずるの義とあるが、官名の一つで、巡国使の一員としての尊敬を払って附けられたものであらう。
尚(なお)曾良の歿年(ぼつねん)に対しては幾多の異説があって、大正十二年版の「新選俳諧年表」には「宝永六丑己、曾良歿、十月二十二日。享年六十。河合氏(本姓岩波氏)、称庄右衛門。日光に於て剃髪(ていはつ)し宗吾と名乗る。芭蕉門、信濃諏訪人、壱岐勝本の客舎に歿す」とあるが、昭和元年版の「新撰俳諧辞典」には、曾良、河合氏。通称惣五郎、信州下諏訪の人、蕉門に入て奥の細道に師に随行し云々。宝永七年五月二十二日壱故国須(勝の誤か)本にて歿す。年六十。(或は云ふ宝永六年十月二十二日、豊前松本の客舎に歿す、年六十三と)是非を知らず」とある。最も新らしい山本健吉著の「新俳句歳時記」には「河合曾良、忌日旧十月二十一日、歿年宝永六年(一七〇九)」と記されてあるが、どの歳時記にも未だ曾良忌、賢翁忌とも見当らず、かうしてまだ忌日さへしかと定められてゐない実情である。
十、奥の細道随行日記偶然の発見
芭蕉逝(ゆく)いて既に二百六十余年間を、俳人の紀行文中、古今を通ずるの傑作だと推賞さるる「奥の細道」紀行のコンビであった芭蕉の愛弟子曾良に対する研究が、どうしてこれまでおろそかにされて来たか、また何故曾良の真価か世に識られなかったのであるか。
それは芭蕉の一生を透して芭蕉が語った曾良と云ふものだけで、曾良自身の語った曾良と云ふものの資料に欠けてゐたためであった。
ところが偶然にも昭和十三年の夏日、曝書(ばくしょ・書物を虫干しすること)の中から曾良の奥の細道随行日記、並びに俳諧書留が、近畿巡遊日記とともに発見された。
従来も雨考の「青葉集」や一叟の「芭蕉桃青翁正伝記」、曰人の「蕉門諸生全伝」等によって、何となくどこかに未見の文献があるのでは無からうかと想像されてゐたものであるが、果せるかな曾良の歿後二百三十四年振りに此の日記が世に出たことは、独り曾良の動静を窺ふ(うかがう)に役立つばかりでなく、芭蕉の従来殆んど空白であった落柿舎滞留以後や、猿蓑に関することまで、非常に大きな収穫で、江戸文学研究の上に津々(しんしん)たる興味をもたらし、精彩を放つもので、後にこれが公刊された昭和十八年は、あだかも芭蕉の二百五十回忌と生誕三百年祭に当つてゐるのも奇縁である。
十一、新らしい角度から脚光を浴びる蕉門の曾良
発見された日記、書留等の詳細に渉る(わたる)ことは茲に避くるが、問題を投げかけてゐるものは曾良のこの日記の書留める所と、「奥の細道」の叙述(じょじゅつ)とに多少一致しない、いささか喰ひ違ひのあるところである。
譬えて(たとえて)申せば「奥の細道」は平泉で『五月雨の降り残してや光堂』とあるは、五月雨が降って居り、その五月雨が光堂だけを降り残してゐる光景だとすれば、当日は雨天でなければならない。ところが曾良の奥の細道随行日記の十二日には「合羽モトヲル也」と云ふ大雨だったが、当の十三日はあきらかに「十三日。天気晴明已ノ刻ヨリ平泉二趣」と記されてゐる。
しかしこれは何も目鯨を立てて穿鑿(せんさく)すべきではない。寧ろ(むしろ)かうしたことは芭蕉の写実に対する創作意欲のはたらきから来るものとして赦さるべきであり、従つてこの句もその日の晴雨とはかかはりなく、幾百年もの五月雨が、ここだけは降り残してゐると解釈すべきであらう。
その外、芭蕉もこの大紀行を終つてから五年過ぎの元禄七年に定稿(ていこう)を見るに至るまで、幾度かの推敲(すいこう・訂正)加筆がなされたから、この間多少の曲折もあらうし、曾良自身にも記憶違ひや脱漏(だつろう・遺漏)もあらう。現に出船の二十七日に七の字が脱落してゐるのもその例である。
いづれとするもこの日記は、随分小さな地名まで、全般にわたって出されてをり、その里数なども克明に示されてゐるが、それがまた今日の精密な機械にかけてはかったものと大差がないと云ふのであるから、流石(さすが)は誠所に学んだ曾良なればこそと感歎させられるものがある。
何しろこの日記には、毎日の行程、朝夕の晴雨、夕立、雷などのことまで記され、発着の時刻から宿泊の場所、俳筵(はいえん)など細大もらさず綴(つづ)られて「奥の細道」本文の理解を授け、鑑賞をゆたかにし、これがために「奥の細道」研究は飛躍的発展を遂げるに至った。
今や河合曾良は、新らしい角度から脚光を浴びて再認識されてきた。私は此の際もっと権威ある大勢の人々に依って、芭蕉の陰にかくれてゐた曾良の全貌が日本の文学界に紹介されることを期待して已まない。