国学と神道を学んだ曽良
http://sigin.sakura.ne.jp/IkiRenaissance/ikihtm/SORAOHAKA.html 【長崎県壱岐市(旧勝本町)壱岐市御柱祭河合曾良終焉の地、300年忌】より
http://mtv17.ninpou.jp/iki2/sora/mokuzi.html#mokuzi
曾良のふるさと諏訪市は壱岐市(旧勝本町と姉妹都市である。
諏訪市・諏訪大社「御柱=おんばしら」
河合曾良(かわいそら)1(慶安二年~宝永七年)壱岐の墓所・「曾良旅日記」 諏訪
曾良は通称岩波庄右衛門正字、のち河合惣五郎と称した、信州上諏訪生れ。伊勢長島の大智院住職の叔父秀精を頼って長島藩に勤めた。後に江戸で国学と神道を学び、これが「おくのほそ道』の旅へ随行する基となったらしい。
曾良は芭蕉初期からの門人で、深川芭蕉庵の傍に住んだ事が「雪丸(ゆきまろ)げ」(曾良)に書かれている。
しかし、何と言っても曾良の功績は、その俳句活動以上に『おくのほそ道』の旅の芭蕉と同行して『曾良旅日記』『俳譜書留』などを残した事であろう。
『曾良旅日記』には、旅の毎日が克明に記され、当時の地方の様手や芭蕉の私生活の一端等が生々しい、 *
平成七年六月、所属結社の九州大会が小倉市で開崔された。終了後仲聞達は、柳川や杉田久女の「谺(こだま)して山ほととぎすほしいまま」の句で有名な英彦山等へ行って旅を楽しんだ、私は一人で福岡港から船で壱岐の島へ渡り、曾良の墓を探訪した。
郷の浦港からタクシーで墓所へ向かう途中、運転手が.元寇(げんこう)の遺跡に立ち寄ってくれた。犠姓になった人達の千人塚である。
あまり家も見えないが、道路は整備されている。城山公園への道を逸れると、小山の中腹に能満寺中藤家の墓域があり、上部の欠けた曾良の墓を見出した。正面に、賢翁宗臣居士 也側面に「江戸之住人岩波庄右衛門慰塔」と彫られている。全国津々浦々を歩き、特に芭蕉と『おくのほそ道』の旅を共にした曾良の足跡が、ここで途絶えて生涯の地となっていることに、異様な感動を覚えた。
この付近の本道の傍に山中温泉での作、行き行きて 倒れ伏すとも 萩の原 曾良
の句碑、そして城山公園には次の碑がある。春に我 乞食やめても 筑紫かな 曾良
書写した法華経を、全国六十六ヶ所の霊場へ一部づつ納める。"乞食行脚"を止めても筑紫へ行きたいと願った句で、それが実現されたこの地に建てられたのである。
この城は、朝鮮征伐の為に秀吉が築いたものだが、戦いに破れた時に敵に利用されないように、白ら破壊したものと言われる。
能満寺では、急に立ち寄ったにも拘らず、曾良が加わった"巡国使"の資料をコピーして下さり、役に立った。往時の調査項目などが詳しく記されている。
壱岐勝本浦の港を指呼に、海岸べりの"曾良終焉の家"を訪ねて、家の人と話をした、この家で療養しながら没した曾良の遺品は、戦後の屡示会に出したまま、行方不明という。
曾良の墓詣という長年の夢を果して、再び訪れることのないだろう壱岐の青領を振り返りつつ、島を去った。
尚、曾良の郷里である諏訪の墓は、遺髪を納めた供養墓である。帰りの新幹線で、前記の句仲間と出逢った。
ところで、曾良は『おくのほそ道』の旅中に、山中温泉で腹を病み、一人で伊勢の長島へ向かう、まず近くの全昌寺へ泊まった。寺はJR北陸線大聖寺駅から十分位の所にあり、ここで一句残した。終夜(よもすがら) 秋風きくや裏の山 曾良
別れてきた師への想いと共に、旅愁がある句。寺裏は墓山で、ゆるい尾根を登り始めると、一面に墓が散荘している。
庭には句碑や宝物殿があり、更に本堂には杉風が作って贈った「芭蕉木像」がある。門の前の道端に、矢印で「深田久弥の墓」とあった。登山に夢中になった青春時代を思い出して懐しかった。
波こさぬ ちぎりありてや 鶴(みさご)の巣 曾良 訪問日 壱岐平成七年六月五日
全昌寺平成七年七月二十八日
https://liberal-arts-guide.com/kokugaku/ 【国学】 より
国学とは、江戸時代中期に『万葉集』や『古事記』などの古典的書物を研究し、古代日本の思想を明らかにすることから、中国の影響を受けていない純粋な「日本らしさ」を追求した学問・思想のことです。
国学の成果は、神道の思想・制度に改変を迫り、明治政府の神道政策にも影響を及ぼしました。
そういった意味で、国学を理解することは日本の歴史のみならず政治・社会を考える上でも大事です。
そこでこの記事では、国学が生まれた背景や国学の特徴 水戸学、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤らの国学研究国学研究の明治体制への影響について詳しく解説していきます。
関心のあるところから読んでみてください。
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1章:国学とは
まずは、国学に関するポイントを押さえていきましょう。国学の詳しい内容や神道への影響などについては、2章で解説していきます。
1-1:国学の要点
もう一度確認しますが、国学とは江戸時代中期に行われた、『万葉集』『古事記』など日本の古典が研究された学問のことです。
儒教、仏教と言った外来の思想を中心に行われてきた旧来の学問を批判し、純粋な日本の思想を追求しました。
代表的な研究者は、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤らです。
彼らの思想は、「純粋な日本人らしさ」という復古的な色合いを持っていたことから、後に尊王攘夷運動に繋がり、また、復古神道という新たな神道体系を作り、吉田神道を中心とした既存の神社界の秩序を批判しました。
1-2:国学の歴史的意義
「国学の何が大事なことなの?」と疑問かもしれませんが、国学は以下の点で重要な出来事です。
既存の神道体制を批判
吉田神道を中心とした神社界の秩序を批判し、復古神道という新たな神道体系を確立させた
「日本人らしさ」という一種のナショナリズムを追求
国家が近代化する上で、国家としての「われわれ意識」を醸成する取り組み(ナショナリズム)は避けて通れないが、国学はまさにナショナリズムの勃興の一例
明治以降の天皇を絶対視する神道思想との対立
明治~第二次世界大戦までは、天皇を現人神とし、伊勢神宮を頂点とする神の秩序が支持されたが、その秩序が成立する前に復古神道を国教化しようと挑戦した
日本人にとって、天皇制や神社の存在はあって当たり前のものですが、その思想も古来から一貫していたわけではありません。現代の形になるまでに様々な対立があり、その中で確立された結果、私たちが見ている形になったのです。
その歴史や、神道と国家の関わり、そして近代化とナショナリズムという政治的テーマとしても、国学は非常に学ぶことの多い出来事なのです。
2章以降では、国学を中心とした当時の思想を詳しく説明しますので、まずはいったんここまでをまとめます。
1章のまとめ
国学とは、儒教や仏教などの外来思想を批判し、日本人本来の純粋な思想を明らかにしようとした江戸中期の学問
国学は、単なる学問というよりも政治的思想でもあり、既存の神道や明治政府のイデオロギーとも対立した。
2章:水戸学の研究
国学の研究の背景には、「日本の歴史を捉えなおそう」という江戸中期の学問の流れがありました。
まずは、国学に影響した「水戸学」の思想から説明します。
2-1:『大日本史』の編纂
日本の歴史を捉えなおす学問的事業として行われたのが、水戸藩第二代目藩主であった徳川光圀による『大日本史』編纂事業です。
後に水戸学と言われるこの事業のきっかけとなったのは、「内憂外患」、つまり国内外の様々な出来事で国家が動揺していたために、国家としてのまとまりを高める「われわれ意識」を強めることにあったと考えられます。
『大日本史』の編纂は、万世一系の天皇の伝統とその徳を守ってきた臣民である日本人の優秀さをあらためて確認し、「われわれ意識」を強めて国家としての一体感を高めよう。そんな問題背景からはじめられたものだったのです。
また、武家による統治の思想的な根拠を明確にし、その思想を一般にも広めようとする目的もありました。
水戸学のはじまりに見られるように、国学は近代化に伴うナショナリズムの称揚という側面が見られる思想であり、その意味で単なる日本史の一出来事ではなく、政治的な大きな出来事と言えるのです。
いずれにしろ、こうした動機から、光圀はすぐれた学者を集め、資料を集めるために全国に人を派遣しました。
これ全国行脚が「水戸黄門」の話のもとになりました。
そして、初段天皇から100代目後小松天皇までの歴史が記述された「百王本紀」
光圀没後の研究成果が集大成された『大日本紀』→幕府に献上(1720年)
その後の研究と塙保己一による校訂による編纂→朝廷に献上(1796年)
明治39年になってようやく全397巻で完成
といった流れで『大日本史』が完成されました。こうして天皇を中心とした日本の歴史
といった流れで『大日本史』が完成されました。こうして天皇を中心とした日本の歴史が明らかにされたのです。
2-2:契沖の『万葉集』研究
徳川光圀は、真言宗の僧である契沖(けいちゅう/1640-1701年)に『万葉集』の研究も求めました。
一般的に、契沖の『万葉集』研究が国学の始まりだと言われます。
言うまでにもありませんが、『万葉集』は日本最古の和歌集であり、7世紀前半から759年までの和歌が収録されており、8世紀後半ごろに成立したと言われています。
近年は、「令和」の年号が『万葉集』を典拠とされたことから注目を浴びました。
『万葉集』は日本の古典中の古典と言えるため、『万葉集』を研究することから、当時の日本人がどのような思想や感性を持っていたのか明らかにすることが、とても大事なことだと考えられたのです。
契沖の成果は、『万葉集』の研究を通じて、実証的な学問的手法を確立したことです。
契沖は、『万葉集』に収録された和歌にどのような意味をこめられているのか研究するため、仏教や儒教の古典における注釈 さまざまな古典の用例
『万葉集』が書かれた時代に関する歴史書 などを深く研究し、実証的な研究方法を整えたのです。こうした研究方法が、後の国学の研究に役立たされていきました。
2章のまとめ
徳川光圀による『大日本史』編纂事業が水戸学を形成し、国学が生まれるきっかけにもなった契沖の『万葉集』研究では、その後の学問で活用されることとなる実証的研究手法が成立した
3章:賀茂真淵・本居宣長による国学研究
さて、契沖から生まれた国学研究は、その後、賀茂真淵や本居宣長によって発展・確立していきました。そして、本居宣長以降には神道の見直し、復古神道の誕生、その後のイデオロギーへの影響など重要な政治的出来事に繋がっていきます。
3-1:賀茂真淵の研究
賀茂真淵(かものまぶち/1697年-1769年)も、『万葉集』や『源氏物語』などの日本の古典の研究をしました。
賀茂真淵も、日本の思想は仏教や儒教によって曇らされている。日本の古典を研究することで、日本人本来の純粋な精神を明らかにできると考えた一人です。つまり、外来思想に影響を受けない日本独自の思想を探求したのです。
賀茂真淵は自らも万葉風の和歌を作り、研究するだけでなく古来の日本人の思想を自らのものにしようと努めました(万葉主義)。
また、賀茂真淵は、「古道説」を提唱したことも特徴的です。「古道」とは多くの国学者が支持した復古神道という思想です。
賀茂真淵や後に紹介する本居宣長によって提唱され、やがて儒教や仏教という外来思想を排斥し、また吉田神道を中心とした旧来の神道の体制を批判し、新たな神道の潮流を生み出していきました。
詳しくは4章で説明します。
3-2:本居宣長の研究
本居宣長(もとおりのりなが/1730-1801年)は、最も代表的な国学者だと言えるでしょう。
本居宣長の研究の主なものは、『源氏物語』と『古事記』の研究です。本居宣長は賀茂真淵が成せなかった『古事記』の研究を行い、『古事記伝』という形でまとめ上げました。
『源氏物語』や『古事記』の研究を通しての宣長の主張は、
儒教、特に朱子学はすべてを理屈で説明できるとしている「からごころ」の思想である
しかし、実際にはすべての現象は神によるものとして説明でき、その思想が「やまとごころ」である
「からごころ」に毒されていない日本人の真心を「もののあわれ」と言い、和歌を詠むことは「もののあわれ」を表現する方法であるそのため、和歌を詠むことは人間の本質的な行為であるというものです。
「もののあわれ」とは、『源氏物語』などの古典文学を評価する義的概念で、本居宣長によって概念化されたものです。
こうした研究から、宣長は儒教に毒されていない日本人の本来の「古道」を明らかにするべきと考えたのです。
宣長の研究で重要なのが、それが『日本書紀』に由来してきた日本の神々の体系と、『古事記伝』にあらわされたその体系との矛盾を指摘したことです。
3-2-1:『古事記』と『日本書紀』の神の体系の矛盾
「そもそも、神の体系ってどういうこと?」と素朴な疑問があるかもしれません。
まず、古来から伝わる神話や伝説というものは、ある程度は恣意的に作られたものであるのが一般的です。
つまり、その時代の支配者が自己の支配を正当化するために、さまざまな歴史的出来事や原始的な信仰を組み込んで、一つのストーリーに仕立て上げたものである、という側面があるのです。
『古事記』と『日本書紀』はそれぞれ以下のように異なるものですが、特に『日本書紀』は、天皇中心の支配を正当化する側面があったと考えられました。
『古事記』:太安万侶が編纂し712年に完成した、神代から推古天皇までの神話や伝説を含む歴史が記録されたもの。
『日本書紀』:舎人親王らによって720年に完成した、神代から持統天皇までの神話や伝説を含む歴史が記録されたもの。当時の支配者である天皇によって編纂されたもので、皇族を中心とした政治的支配を正当化することが目的とされた側面があった。
本居宣長は、『日本書紀』の記載は、日本古来の神々の体系が天皇中心のものに整理されたものである。それは、古来にあった純粋な神の体系とは異なるものだとして、『古事記』にある神の序列を重視したのです。
そして、『古事記』を一種の作られたストーリーとしてではなく、「書かれていることはすべて事実である」と解釈し、『古事記』中心の神々の体系を確立しようとしました。
3-2-2:『古事記』と『日本書紀』の初発神の違い
宣長の研究における、一つのポイントが初発神に関するものです。
「初発神」とは、日本の神話で最初に現れる神のことです。
この初発神についての記載がそもそも以下のように異なります。
古事記:天地が生成されるのと同時にアメノミナカヌシ(天之御中主神)が現れ、その後クニトコタチ(国之常立神)らが現れる
日本書紀:天地の生成の中からクニトコタチが現れる
「それに何の問題があるの?」と思われるかもしれませんが、実はこれが神道の支配構造に影響していたのです。
3-2-3:既存神道の『日本書紀』と結びついた思想
そもそも、日本の神道とは日本古来の神々に由来する民俗信仰です。
そしてあまり知られていませんが、神道の中にもさまざまな流れがあり、江戸時代に隆盛を誇ったのが吉田神道という流れです。
吉田神道とは、室町時代の吉田兼倶(1435~1511年)が大成した神道の宗派の一つです。仏教、道教、儒教などの外来思想も取り入れた融合的な宗派で、江戸時代は全国の神社の家元のような立場を取っていました。復古神道の隆盛以降は衰退していきます。
吉田神道の思想は、前述のクニトコタチを中心とした思想に儒教や仏教の思想を取り入れたものでした。
他にも、林羅山の儒家神道 伊勢神道(度会神道(※))などの神道の宗派がありましたが、これらもクニトコタチを初発神とする思想です。
つまり、クニトコタチを中心とした思想が、当時の支配的な神道の思想だったわけです。
度会神道(わたらい神道)とは、伊勢神宮を源とする伊勢神道の外宮から生まれた神道の宗派です。
こういった旧来の神道が持つ『日本書紀』中心の思想(クニトコタチを初発神とする思想)を本居宣長は厳しく批判したのです。
そして、本居宣長の影響を受けたその後の国学者たちによって、さらに既存神道は批判され復古神道が支持されるようになります。
3章のまとめ
賀茂真淵は、『万葉集』の研究を行い、旧来の神道を批判し古道(復古神道)を支持した
本居宣長は、『源氏物語』『古事記』を研究し、『日本書紀』の記述に依拠した旧来の神道の思想や体制を批判
4章:国学による復古神道の成立と明治体制への影響
宣長以降の国学者は、吉田神道への批判復古神道の提唱、確立、国教化への取り組みなどを行いましたが、結局明治政府によって排除される道を歩みました。
4-1:吉田神道中心体制の否定
まず、国学者たちが批判した吉田神道は、明治政府によって特権的地位を排除されることになりました。
そもそも吉田神道は、1665年に発せられた「諸社禰宜神主法度」による地位諸社禰宜神主法度は神職を拘束する法制度であり、吉田家の神社界における支配的地位の根拠となった1782年の「諸社禰宜神主法度」の遵守の政策この政策により、地方の神職は吉田家の「許可状(神道裁許状)」をもらわなければならなくなったといった特権的な立ち位置を持っていました。幕府の後押しから吉田神道が神社界を支配していたわけです。これを批判したのが、賀茂真淵や本居宣長ら国学者だったのですが、国学者たちはこの吉田神道の特権を名指しで厳しく批判し、神職の中にも国学者の主張を支持する者が多く存在したようです。そうした背景もあり、明治維新後には明治政府によって特権的地位を奪われました。それだけではありません。明治政府は神道の秩序を一新し、それをイデオロギーとして活用しようとしていきます。
まずは、その前に平田篤胤による国学の研究から説明します。
4-2:平田篤胤による国学の継承
平田篤胤(ひらたあつたね/1776年-1843年)は、本居宣長の国学を継承しつつも独自の主張をしました。
篤胤の研究は、アメノミナカヌシを初発神と考えている点では、宣長の国学の継承です。しかし、篤胤は、『古事記』『日本書紀』『風土記』などからつなぎ合わせて作った「古史」である『古史成文』を作成し、そこで以下のように主張します。
作成生前の世界(顕名界)は天皇が収めているが、死後の世界(幽冥界)を収めているのはオオクニヌシである生前の世界は仮の世界であり、真の世界は死後の世界である
どのような人の霊魂も、死後の世界を収めるオオクニヌシによって賞罰を受ける
これは宣長の研究を超える独自のものです。
この平田篤胤の国学の要点は、宣長の神の体系を転回させ、オオクニヌシ(出雲の神)を中心とした体形を確立させた天皇すらも、オオクニヌシによって裁かれると考えたという点です。
こうして篤胤は、復古神道という新たな神道の思想体系を確立したのです。
こうした篤胤の思想は、篤胤の門下の学者たちによって、国家の教学に取り入れようとされていきました。
4-3:復古神道の国教化政策
明治維新以降に、こうした流れから行われたのが「復古神道」を国教にしようという取り組みです。復古神道とは、旧来の吉田神道中心の神道を批判し、国学的な思想に基づいた思想から提唱された神道のことです。
結論を言えば、復古神道の国教化政策は失敗し、平田門下は没落していくことになりました。
4-3-1:明治政府の神道国教化政策
明治政府は、近代国家として一体化した国家を建設するため、イデオロギー面の支配思想を必要としていました。そこで、古代の律令制を見本に「神祇事務局」「神祇官」を設置し、神道の国教化を進めようとします。
そこで、平田篤胤門下の福場美静(1831年~1907年)は、復古神道を、アマテラス(天照大御神)を中心とする体系に修正し、それを用いて国教化を進めようとしました。
明治政府はこれを部分的に取り入れ、
アマテラスを祭っている伊勢神宮を頂点とした神社界の秩序を定める
天皇のもとに近代化を進める
という方針を打ち出します。福場らの復古神道の国教化は明治政府から排除されていきます。
4-3-2:出雲派と伊勢派の対立
こうして明治政府は伊勢神宮を中心とした方針を支持したのですが、一方で出雲大社では本居宣長の復古神道思想に関心を持っていました。
第80代出雲国造(※)だった千家尊福(せんげたかとみ/1845年~1918年)は、出雲大社のトップとして明治の時代には「生き神」として全国行脚します。
しかし、千家ら出雲派の思想は、明治政府が支持した伊勢派の思想と以下のように対立しました。
出雲派:復古神道を重視し、出雲大社を伊勢神宮と対等にしようとする
伊勢派:明治政府の方針である、伊勢神宮を頂点とし天皇を絶対的なものとする秩序を守る
出雲派はこの対立に事実上敗北し、賀茂真淵や本居宣長、平田篤胤らの国学、復古神道から繋がる思想は排除されていきます。
そして、出雲派の教義は民間の神道(教派神道)の一つとしてのみ認められ、伊勢神宮を中心とした神の体系がその後の天皇制を支えるイデオロギーとなっていったのです。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E9%81%93
【吉川神道】より
吉川神道(よしかわしんとう)は、江戸時代初期、吉川惟足によって唱えられた神道の説である。
概要 編集
吉川惟足は師である萩原兼従から吉田神道を受け継ぎながら、それをさらに発展させ、道徳的な側面の強い「吉川神道」を唱えた[1]。
吉川神道は、官学、朱子学の思想を取り入れており、神儒一致としたうえで、神道を君臣の道として捉え、皇室を中心とする君臣関係の重視を訴えるなど、江戸時代以降の神道に新しい流れを生み出し、後の垂加神道を始めとする尊王思想に大きな影響を与えた[2]。
吉川神道では、神道を祭祀や行法を中心とした「行法神道」と天下を治める理論としての「理学神道」に分類し、理学神道こそが神道の本旨であるとした。そのうえで神道を宇宙の根本原理とし、国常立尊等の神々が、すべての人間の心の中に内在しているという神人合一説を唱えた。
会津藩主・保科正之など多くの大名が吉川神道に共鳴し、吉川家は寺社奉行の神道方に任命された。吉川惟足に学んだ山崎闇斎は垂加神道を唱えた。