室の八島 糸遊に結びつきたる煙哉
http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2014/05/post-1dfb.html 【今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅2 室の八島 糸遊に結びつきたる煙哉 芭蕉】
本日二〇一四年五月 十八日(陰暦では二〇一四年四月二十日)
元禄二年三月二十九日はグレゴリオ暦では一六八九年五月 十八日である。「奥の細道」の旅ではこの日、室の屋島へ辿りついている。
室八島(むろのやしま)糸遊(いとゆふ)に結(むすび)つきたる煙哉
入(いり)かゝる糸ゆふの名殘かな 入かゝる日も程々に春のくれ
鐘つかぬ里は何をか春の暮 入逢(いりあひ)の鐘もきこえず春の暮
[やぶちゃん注:第一句目は曾良自筆の「随行日記」中の「俳諧書留」の句(なお、そこには三月二十九日という日附が附されてある。最終推敲形としての本句の成立が十一日後のことであったことを指すか。因みに三月二十九日には芭蕉は日光の手前の鹿沼に着いている)。第二句目は同じく「随行日記」中の「俳諧書留」の句で、この句を見せ消ちにして第三句目が改稿として示されてある。第四句及び第五句も同じく「随行日記」中の「俳諧書留」の句で、第五句には真蹟懐紙があり、そこには、 田家にはるのくれをわぶ
という前書があるという。句の底本としている中村俊定校注の岩波文庫版「芭蕉俳句集」では第四句目の脚注に、前の「入かゝる」の句の別案かとしており、私もこれら第二句以降の四句総てを第一句目の初期稿と見、ここに並べた。但し、安東次男は「古典を読む おくのほそ道」ではこの第二句以降の四句を総て次の鹿沼までの途中吟と断じている。
「室八島」は栃木県栃木市惣社町にある大神神社(おおみわじんじゃ)で、名の由来は境内にある池の八つの島を指すということになっているが、これはこじつけっぽい(後述)。
「糸遊」は陽炎(かげろう)のこと。語源は未詳で歴史的仮名遣を「いとゆふ」とするのは平安時代以来の慣用であってその正当か否かは不明である。「糸遊」という漢字表記も、はもともとあった陽炎を意味する和語としての「いとゆふ」若しくは「いとゆう」に、「陽炎」の意の漢語である「遊糸(ゆうし)」という熟語を転倒させて当て字にした表記に過ぎない。晩秋の晴天の日、蜘蛛の子が糸を吐きながら空中を飛び、その糸が光に輝いてゆらゆらとゆれて見える現象が原義であって、漢詩に出る漢語の「遊糸」もそれを指すという、と「大辞泉」にはあるが、語の成立史を見る限りでは私は必ずしも肯んずることが出来ない。
第一句や第二句の心象は、……古人は多く歌枕として詠む際、水気の「煙」とともに「室の八島に立つ煙」と詠じたものだが、いまその実景に接してみると、その煙は、今まさに、暮れゆく春の野に燃える陽炎と縺れ合っては、天に立ち昇って、消え行かんとしているかのように見える……というニュアンスであろう。この「煙」というのが分かり難いが、安東次男の「古典を読む おくのほそ道」の「室の八島に話す。同行曾良が曰」の注に、
《引用開始》
下野(しもつけ)国の歌枕。栃木市惣社にある大神(おおみわ)神社。「いかでかは思ひありとも知らすべき室の八島の煙ならでは」(詞花集・恋、藤原実方)を初見として、勅撰集が二十二首。かなり通俗な名所である。社前の八島ノ池に立つ水雲を釜(やしま)の煙に豊て、コノハナサクヤビメ伝説に付会したものらしいが、芭蕉たちが尋ねたときの社殿は天和二年(七年前)の再建で(天正十二年に戦火で全焼している)、池の面影なども無かったようだ。
曾良がこの旅に用意した手控(てびかえ)に、「煙カト室ノヤシマヲ見シホドニヤガテモ空ノカスミヌルカナ」「五月雨ニ室ノヤシマヲ見渡セバ煙ハ波ノ上ヨリゾタツ」の二首(共に千載集)を書抜き、脇に「名ノミ也ケリトモ、跡モナキトモ」と注記がある。「人を思ふおもひを何にたとへまし室の八島も名のみなりけり」(続後拾遺集)「跡もなき室の八島の夕けぶり靡くと見しや迷なるらむ」(新拾遺集)後からの書入でなければ、景勝には初からあまり期待を寄せていなかったか。
それにしても旅の最初の歌枕で、俳譜師が句の一つもしるさず、予め知っていたか、もしくは行けば自(おの)ずと知れた程度の縁起ばなしを、わざわざ他人の口から語らせて責塞(せめふさぎ)とした書きぶりは気になる。とりあえず同行(どうぎょう)の人柄の一端を見せて楽みは後日にとっておく紹介の手には違ないが、句を詠む興がなかったわけではない。[やぶちゃん注:後略。]
《引用終了》
として、この後の二句を示しているのが、十分条件を満たす注とは言える。それでも何故、室の八島と「煙」がペアになるかは、今一つ判然としない憾みがあるから、水垣久氏のサイト「やまとうた」の「歌枕紀行 室の八島」から引用しておく。「室の八島」というのは『歌枕の本などをみると、もともと下野国とは何の関係もなく、宮中大炊(おおい)寮(づかさ)の竃(かまど)のことを言ったらしい。「むろのやしまとは、竃をいふなり。かまをぬりこめたるを室といふ。(中略)釜をばやしまといふなり」(色葉和難集)。つまり、竃=塗り込めた釜、を宮中の隠語(?)で「室の八島」と謂い、これがいつしか下野の国の八島に付会された、ということである。そうして、この辺りを流れる清水から発する蒸気が「室の八島のけぶり」と見なされた。これを、恋に身を燃やす「けぶり」に喩えて、多くの歌が詠まれたのである』とある。しかし「清水から発する蒸気」なんて当たり前には想起出来ない。さればこの「煙」も、そしてまた芭蕉の句の陽炎と絡む「煙」も、想像上の「煙り」と採った方が無難である。また、以下に掲げた「奥の細道」の同段の記載もその淵源を匂わせてくれている。即ち、大神神社の主祭神は大物主命であるが、配祭神が木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)であり、彼女についてはウィキの「コノハナノサクヤビメ」によれば、『日向に降臨した天照大神の孫・ニニギノミコトと、笠沙の岬(宮崎県・鹿児島県内に伝説地)で出逢い求婚される。父のオオヤマツミはそれを喜んで、姉のイワナガヒメと共に差し出したが、ニニギノミコトは醜いイワナガヒメを送り返し、美しいコノハナノサクヤビメとだけ結婚した。オオヤマツミはこれを怒り「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天津神の御子(ニニギノミコト)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたからである。コノハナノサクヤビメだけと結婚すれば、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」と告げた。それでその子孫の天皇の寿命も神々ほどは長くないのである』とし、『コノハナノサクヤビメは一夜で身篭るが、ニニギは国津神の子ではないかと疑った。疑いを晴らすため、誓約をして産屋に入り、「天津神であるニニギの本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と、産屋に火を放ってその中でホデリ(もしくはホアカリ)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦、山稜は宮崎市村角町の高屋神社)の三柱の子を産』み、その『ホオリの孫が初代天皇の神武天皇である』とあること、またよく知られるように永遠に煙を登らせ続ける富士山の本宮浅間大社は彼女を主祭神としているから、まさに火煙(ひけむり)とは縁が深いからである。
第三句・第四句の「春の暮」は入相の鐘の鳴るはずの日暮れである以上に行く春、暮春を意味し、しみじみとした入相の鐘、それを撞かぬ里、それが聴こえぬこの鄙にあって、一体、何を惜春のよすがとすればよいのか、というのであるが、やや陳腐で底が浅い印象は免れない。因みに山本健吉は、「芭蕉全句」で、この二句は「新古今和歌集」の能因法師の和歌、
山里の春のゆふぐれ來てみれば入相の鐘に花ぞ散りける
を踏まえるという説があると紹介、『意識にはあったであろう』と述べている。
にしても、第一句・第二句は古歌歌枕に付会させたものの、実景が今一つ見えてこず、句としてのドゥエンデも私には全く感じられない。安東氏や角川文庫版の頴原・尾形氏の評釈にある通り、日光への道程をわざわざ三里(約十一・八キロメートル)も遠回りして折角訪れた歌枕であったが、その実際の景観は残念ながら芭蕉が想像していたものとは大きく異なり、期待は美事に裏切られてしまったというのが真相であったように思われる。既にお分かりのことと思うが、芭蕉はこの句を「奥の細道」には採っていない。既に前の「行く春や」の句で惜春の情を詠じた芭蕉にしてみれば、句格も下がる季重ねは不要と判断したものではあろう。
以下、「奥の細道」の「室の屋島」の段を見ておこう。
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室の八嶋に詣ス曽良か曰此神は
木の花さくや姫の神と申て冨士一
躰也無戸(ウツ)室に入て燒たまふ
ちかひのみ中に火火出見のみこと
うまれ給ひしより室の八嶋と申又煙を
讀習し侍るもこの謂也將このしろと云魚を禁す
緣記の旨世に伝ふ事も侍し
*
■異同
(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文で、一部に歴史的仮名遣で読みを附した)
〇曽良 → ●同行(どうぎやう)曾良
■やぶちゃんの呟き
「將このしろと云魚を禁す」「はた、このしろといふうをきんず」と読む。「將」は、また。「このしろ」は条鰭綱新鰭亜綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目ニシン科ドロクイ亜科コノシロ Konosirus punctatus。寿司でお馴染みのコハダの成魚である。ここに示された本種の食の禁忌について、私は既に寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「鰶(つなし)」(コノシロ Konosirus punctatus )の項で詳述注をものしているので参照されたい(ここに引用するにはあまりに膨大なので省略するが、この「室の八島」のことにも言及しているので是非ともお読み戴きたい)。また、安永七(一七七八)年に刊行された高橋蓑笠庵梨一の「奥の細道」注釈書である「奥細道菅菰抄(おくのほそみちすがごもしょう)」には以下のような「このしろ伝説」が記されてある(「おくのほそ道総合データベース 俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」の「大神神社(室の八島)について」に引用されてあるものを参考に恣意的に正字化した)。
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むかし此處に住けるもの、いつくしき娘をもてりけり。國の守これを聞給ひて、此むすめを召に、娘いなみて行ず。父はゝも亦たゞひとりの子なりけるゆへに奉る事をねがはず。とかくするうちに、めしの使數重なり、國の守の怒つよきときこえければ、せむかたなくて、娘は死たりといつはり、鱸魚(ろぎよ)を多く棺に入て、これを燒きぬ。鱸魚を燒く香は、人を燒に似たるゆへなり。それよりして此うをゝ、このしろと名付侍るとぞ。歌に、あづま路のむろの八島にたつけぶりたが子のしろにつなじやくらん。此事十訓抄にか見え侍ると覺ゆ。このしろは、子の代にて、子のかはりと云事也。此魚上つかたにては、つなじと云。
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なお、文中の「鱸魚」は条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ Lateolabrax japonicus で全く種が異なり、生物学的には誤った記述である。また、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「鰶(つなし)」でも述べたが、ここに出るのと同じような各地の伝説に於いてコノシロを焼くと人を焼く臭いがするとするが、全くの誤りである。これは秦の始皇帝の故事を起源とし、始皇帝が真夏の巡行先で死去するも、権力奪取を画策した宰相李斯(りし)と宦官趙高がそれを秘匿、龍馭の中で腐りゆく始皇帝の遺骸の死臭を誤魔化すために大量の魚を積んだ車を並走させたが、その際に一説にコノシロが用いられたとする、それに基づいた誤伝承である。コノシロ(子の代)と祀るコノハナノサクヤビメの伝説及び「コノ」の類音による共感呪術的禁忌のように私には思われる。
この「奥の細道」の「室の八島」の段は句もなく、特に芭蕉の感懐も記されていないのであるが、ここはまさに「同行」と後から添える、本旅の道連れである門弟河合曾良を紹介し、その碩学ぶりを称揚するためのものであったのだと考えてよい(角川文庫版の頴原・尾形両氏の評釈にもそうある)。曽良は、慶安二(一六四九)年に信濃上諏訪生まれで、芭蕉より五歳年下で元禄二(一六八九)年当時は四十歳)二十の頃に伊勢長島に赴き、岩波庄右衛門のと名乗って藩主松平良尚に仕え、その後、伊勢長島藩を出て江戸移り、神主となるため、後に幕府神道方となる吉川惟足(きっかわこれたる)に就いて学び、広汎な国学の知識や各地方の地誌を身につけていたのであった。
ともかくもこの「室の八島」の段自体、「奥の細道」の最初の訪問地であるにも拘わらず発句を示しておらず、まただからこそこの中途半端な博物学的俳文も、作中、極めて例外的に、著しく精彩を欠いているように私には見えるということを最後に述べおく。]