生権力の思想 大澤真幸(2013)
まさにタイトルの通り、「生権力」の思想がどう移り変わってきているのか、という現代社会の転換について様々な事件から考察していく本だ。事件は、宮崎による「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」や、「オウム事件」、そしてヒトラーによるユダヤ人虐殺の歴史や、シュレーバーの精神病などが扱われ、説明されていく。どの事件も、想像を超える狂気・異常さを感じられるもので、その重さにすごくストレスを感じた。
この本に限らず、多くの思想家は、人間の変遷を説明するために象徴となる大きな事件を取り上げる。あるいは自身がその最中で葛藤する。フーコーの同性愛や、アレント自身が亡命する人生だったこと、ハイデガーの苦悩など。
それらは「普通な」私にどういうことなのか想像をさせるためなのか、あるいはただ負担が大きいからなのか、最近悪夢をよくみる。なかなか寝付けなくなる。あるいは昼寝をしても、悪夢の続きを見る。ちょっと狂いそうだ。
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すみません、ここまでは雑談。本の感想は「事件の重さに比べて、(失礼を承知の上で)その読み解き方は少し煩雑ではないか」と全体的に感じたという感じかなあ。
まとめると、「フーコーの規律訓練型から、東浩紀のいうような管理訓練型の主体化が起きていて、かつ人々が実はそうやって見られることを欲している」と要約できるだろう。言い換えるなら、ジョージオーウェルによる『1984年』の「ビックブラザー」から、村上春樹の『1Q98』における「リトル・ピープル」らしい。パノプティコンに代表される規律訓練型では、主体者にはいつ見られているかわからない状態であることで、常に監視されていると思わせる主体化のためには、小さな穴が必要になるが、例えばGPS機能のように、もはや穴を持たずにも監視者が内在しているのが現在ということだ。著者の方は、思想や古典の読み解きから現代の現象への考察になると、一気に煩雑というか、不慣れな感じを、94年生まれの私からは感じる。あまりにも急激に変化したインターネット後の社会は、その時代の人が考察したほうがリアリティがありそうだと思った。
本の中で、注目したのは以下の二点。
1、まず本全体の前提となるフーコーの「生権力」についての説明がある一章。そもそも生権力がなにかとい定義の振り返りと、一方で実は生権力を内面化・主体化しなくても、人は不可解にも服従するという考察。
「自然のむきだしの身体が権力の対象となること、ここに近代への転換がある。」「アリストテレスによると、共同体は、「生きるために生まれたが、本質的に善く生きるために存在する」。」「古代ギリシャでは、単に生きているという事実、自然的な生を指す語は「zoe」であり、個人や集団に固有の生の形成は「bios」と呼ばれた。」「アリストテレスが述べていることは、政治あるいは国家(ポリス)が固有に関わるのは、biosの方だということである。」「食事などの生存に関わる問題は、オイコスの私的な関心事であって、政治の主題ではない。」(:012-013)
「近代への転換は、かつて排除の上に政治が成り立っていた自然に生、自然の身体を政治の対象へと包含したときに画される。自然の生が権力の掲載の対象となったのだ。フーコーは、こうした権力を「生権力」、生権力に基づく政治を「生政治」と呼んだ。」「フーコーによると、近代の権力とは、(中略)生への権力、生かしめる権力だというのだ。」「人口の管理調整に関わる権力が、この時期に登場したのだ。この権力が直接問題にしているのは、キギリシャ語で表現すれば、「ビオス」の方ではなく、「ゾーエー」としての生、つまり自然的な身体だろう。」(:014-015)
「一般に、規律訓練型の権力は、従属者の自己反省を通じて、服従動機を内面化する。服従者は、自ら正しくあろうとして、あるいは不正や誤りを避けようと自ら意識して、結果的に権力に従うのだ。だが、カフカの「法の門」は、いかなる内発的な同期もなしに、人は、不可解にも命令に従う可能性がある、ということを示唆している。」(:028)
2、権力からみる、女性と男性について。
こうやって今前提となることを、それが常識である以前から知っていくと、自分が生きている様々な規定事実が、実はつくられていると感じる。今朝呼んだ雑誌TRANSITIONでのハワイのアミニズム特集の中で、かつてハワイの原住民の人たちは、女性も上半身裸だったけど、西洋人が卑しいといって服を着させたとかいてあった。当たり前に恥ずかしいと思っている気持ちも、実は「私が思ったこと」じゃなくて、「思わされた」ことかもしれない。
「十九世紀において、体育と舞踊が、それぞれ男性と女性に配分されたのはなぜか?舞踊は、言うまでもなく、見られることを前提にした身体の動作である。だから体育と舞踊の間のs永別分担は、少なくとも十九世紀の段階において、女性は見られる客体に、男性の方が見る主体になったことを意味している。しかしこうした区分は、十九世紀より前にはなかった。実際に、絶対王政期までの王はしばしばダンスをしていうる。」(:090)
「それ自身としては何者でもなく、空白なのだが、どんなものにも変換できる可能性を持っている抽象的な身体こそが、体育によって目指されている身体ではないだろうか。舞踊する身体は、それが内属している共同体の文化によって、初めから色づけられている。それは、共同体の中で実践的に規範化されている、リズムや動作によって、最初から規定されている身体である。これに対して、体育において目指されている身体は、アプリオリな色付けから脱した身体である。」(:094)
「女性の身体は、この婦人科医に対して、そして男に対して、目いっぱい現前していながら、なお謎であり、不可視だったのである。」「この普遍的に観察しようとする視線に対して、盲目が生じてしまう、ということだ。といより、むしろ、普遍的に見ようとするがゆえにこそ、その視線に対して盲点が生じてしまうのではないだろうか。偏在する視線と盲点とは構造的に関連しており、両者は双対的な相関項なのではあるまいか。」(102)
ここから感じたことは、むしろ管理訓練型になった現代は、その生活そのものは監視されているものの、①監視されていることが救済に繋がるわけではないという放置と、②人の心までは見てくれていないという孤独を人々に気づかせてしまった状態ではないかということだ。
例えば宇野常寛は、インタビューの中で、最近ではTwitterよりもLINEを求めているように、物語よりもリアリティを求めているということにも繋がる。監視があっても、返答のない状態に人は繋がりを求めているのではないかなあーと思った。