国定忠治と赤城の山
https://www.rekishijin.com/9384 【侠客の武勇譚と共助力~21歳で親分になった国定忠治、その実像を上州赤城山で探る】 より
天保4年(1833年)からの大飢饉に民衆が求めたもの
「博徒のなかの博徒」といわれたほどの男っぷりで有名な国定忠治。芝居や講談、映画
などでは義理人情にあつく、才智や胆力のある男として描かれることが多い。
天保4年(1833年)から7年にかけて深刻な大飢饉が広がり、餓死者が続出した。
国定忠治は飢饉で苦しむ農民たちの姿を見て、悪代宮を叩き斬り、農民たちを救ったという話もあるが、いくら義憤に駆られたとはいえ、そこまではしないと思われる。これはあくまでつくり話だったようだ。
しかも、忠治は貧農の子とされるが、実際は違っていた。
文化7年(1810)上野の国佐井(さい)郡国定村で生まれたが、生家は富農だった。名主か庄屋のような家柄だった、と考えられている。先祖は武士ともいわれ、本名は長岡忠次郎という。
現代でいうと半グレか?その仕切り力から若くして博徒の縄張りを譲り受ける
忠治は21歳のとき、博徒の縄張りを譲り受け、博徒の親分となった。
それなりに才智と行動力があったから、博徒の世界では伸し上がることができたのだ。しかし……。
天保5年(1834)には、賭場で島村の伊三郎と口論になり、あげ句の果てに相手を殺してしまう。
道端で相手と喧嘩をする忠次。「絵入国定忠治実記」金泉堂/国立国会図書館蔵
凶状持ちとなった忠治は大前田の英五郎に身を寄せたものの、結局は逮捕され、佐渡送りになる。
しかし、まもなく脱出、故郷に舞い戻った。
その後はさまざまな喧嘩の仲裁を行い、謝礼として関東各地に縄張りをもらって勢力を広げていった。
そうした一方、天保7年(1836)、干魃(かんばつ)で苦しむ村を救ったのである。こうして忠治は、やがて赤城山一帯に勢力を張るまでになった。
当時、忠治の元には日光の円蔵ら多くの子分が集まっていたから国定一家の勢力は実に大きかった。
https://www.rekishijin.com/9570 【侠客の武勇譚と共助力~岡っ引きに人の道を説き聞かせて追い返した忠治の“女”】 より
国定忠治をめぐる女たち
忠次(忠治)の妾・お徳がモデルとされるお万が登場。歌舞伎『上州織侠客大縞』豊原国周筆 都立中央図書館蔵
忠治が女房のお鶴を迎えたのは天保3年(1832)、13歳のときのことだ。
お鶴は今井村 (群馬県伊勢崎市赤堀今井町)の農家桐生家の嫁で、忠治の2歳年上。育ちがよく、慎ましい女性だった。
忠治がなぜ、お鶴を女房にしたのか。よくわからない。やがて賭博稼業に熱中するようになると、住む世界が違うし、お鶴を避けるようになったともいわれる。あるいはお鶴の生家に禍が及ぶのを恐れたのかもしれない。
お鶴が「忠次(忠治)の妻・とよ」と書かれており、諸説ある『絵入国定忠治実伝』/国立国会図書館蔵
その後、忠治はお町とお徳を妾(めかけ)にしている。
お町を妾にしたのは天保7年ごろのこと。田部井(ためがい)村(伊勢崎市田部井)に住む尾内市太夫の娘だったが、隣村に嫁いだものの出戻ったところ、忠治が妾にしたのだという。18歳くらいの美人だった。
忠治は天保13年(1842)、三室(みむろ)の勘助と争いがあり、子分の浅次郎(板割の浅太郎)に命じて、伯父の勘助を殺害させた。勘助は関東取締役の手助(てだすかり)となり、目明し(道案内とも呼ばれた)をつとめていた。 関東取締役は水戸家領を除く関八州の天領・私領を区別なく巡回し、治安の維持や犯罪、風俗の取り締まりなども行っていた。そのため忠治は、信州路や隠れやすい赤城周辺 などに潜伏する。
弘化3年(1846)、37歳の時とき、赤城山へ戻り、31歳のお徳を妾にしている。子分の千代松の後妻だったが、千代松は死亡。そのあとふたりの仲が深まったらしい。
あるとき、岡っ引きがお徳の家に押しかけ、「忠治御用!」と声を荒らげて踏み込んできた。忠治は不在だったが、お徳は岡っ引きを押さえつけて逆にののしった。
岡っ引きとはいえ、二足の草鞋(わらじ)をはく稼業だし、必ずしも正義の味方とはいえない。
そんな相手をお徳はののしり、人の道を説き聞かせて追い返したのである。
https://www.rekishijin.com/9727 【大親分・国定忠治の最期「赤城の山も今夜を限り」の実態】 より
忠治の子分との別れの場面が喝采を浴びた昭和
赤城山での子分との別れが見所だった。『国定忠治実記』中村芳松編/国立国会図書館蔵
追い詰められた忠治の逮捕劇は、講談や芝居、時代劇映画などで子分思いのヒーローとして描かれてきた。「上州一の大親分」だけに子分たちを赤城山に集め、しんみりした口調で別れを告げる。
「赤城の山も今夜を限り、生まれ故郷の国定村や縄張りを捨て、国を捨て、可愛い子分の手前(てめえ)たちとも別れ別れになる首途(かどで)だ」
そこで一息つくと、さらに引き抜いた刀を月光にかざしながら、ことばを継ぐ。
「加賀国小松(かがのくにこまつ)の住人五郎義兼(よしかね)が鍛えた業物(わざもの)、万年溜まりの雪水に浄めて、俺にゃあ生涯、手前という強い味方があったのだ」
講談を演じている寄せでは、この場面になると、決まって拍手が沸いたものだった。
しかし、忠治の最期は実は違うようだ。
嘉永3年(1850)7月21日夜の8時頃、お町と同衾(どうきん)中に倒れた。脳溢血(のういっけつ)である。
体は麻痺し、口もきけない。お町は実弟の友蔵と一緒に、忠治を大八車(だいはちぐるま)に乗せてお徳の家に運んだ。お徳は同衾中の発病と気づき、追い返す。
やむなくお町は、忠治を田部井(ためがい)、現在の伊勢崎市の名主・西野目宇右衛門(うえもん)宅へ運び、かくまった。しかし、長続きしない。
8月24日、関東取締出役の手が回り、逮捕され、江戸送りとなったのである。
実は絵のような大立ち回りでの捕縛ではなかった。
『国定忠治実伝』大西庄之助編/国立国会図書館蔵
刑場までの道中、上州特産絹織物仕立ての衣装だった男伊達・忠治
忠治は唐丸籠(とうまるかご)で送られ、12月21日、吾妻郡大戸(おおど)村の関所前で磔刑(たっけい)に処せられた。
記録によれば、忠治は唐丸籠の底に緋縮緬(ひちりめん)と白縮緬(しろちりめん)の座布団を5枚重ねて座っていた。身につけていたのは、白縮緬の下着に白綸子(りんず)の上着。丸くけの同帯を前でしめ、首には大成数珠(だいなるじゅず)をかけていたという。
この忠治の死に装束は、お徳がととのえたものだった。
磔台で長槍を持つ刑吏と向き合う忠治や、13度まで目を見開きながら槍を受け、14度目でついに忠治は瞑目(めいもく)するといった話が伝えられるが、大勢が見守る中、極めて凄惨(せいさん)で残酷な刑により、41年という短く激しい人生を終える。
当時から国定忠治の武勇伝や浪曲などは演じられ、昭和に至るまで広く語り継がれていくのである。