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生き延びるためのラカン ①

2020.12.08 06:27

https://www.cokes.jp/pf/shobun/h-old/rakan/01.html 【生き延びるためのラカン 第1回 なぜ「ラカン」なのか? 斉藤 環】より

この世界に意味なんてない じぶん探しに答えなんかない こころが癒されました 生きていて良かった こころが傷ついた 絶望だ、死んでしまいたい、でもそれはみんなナルシシストのはかない幻想 そう、たとえそれが「愛」であってもね 
ほんとうに愛されていたのは鏡に写った自分の姿 でも、ふと気がつくと 鏡のこちら側には誰もいない とまあ、いきなり絶望的なポエムではじめてみたのだが、どうだろう。猛烈に腹が立ったり、ひきこもりたくなったりしただろうか。

 でも、これは僕の考えでも流出した326の本音原稿でもなくて、フランスの精神分析家ラカンの思想を、とりわけその邪悪さを2倍くらい増量してまとめたものだ。このジャック・ラカンという名前、ちょっとくらいは聞き覚えがあると思う。フランスで一番えらい精神分析家、というよりも、ポストモダンの思想家として有名だった人。うーん、そうだな、精神分析を発明したのがフロイト、これは知ってるよね。そのフロイトに影響を受けて、とうとう俺様が一番フロイト師匠のことをよく判っている、俺が一番まともな弟子だ、とか言い始めちゃったひとがラカンだ。

 ところが本人の書いた本とか講義とかの内容が、むちゃくちゃ小難しいうえに、ちょっと判る人にとっては、ものすごくインパクトが大きかった。おかげでフランスでは、ご本尊のフロイト以上にラカンの信者が増えてしまった。信者のことを「ラカニアン」という。ラカニアンには精神分析家だけじゃなく、思想家、哲学者、映画評論家、社会学者なんかがいて、いまでも「ラカンの教えによれば」とか、まるで聖書か何かみたいに良く引用される。まあ、そんなような人だ。

 いまやラカニアンはフランスだけじゃなく、世界中にたくさんいる。ラカンの言葉は、難しいけど曖昧じゃないし、すごく切れ味も良い。おまけに死ぬほどカッコいい。エッセイや論文とかにちょっと引用すると、頭が良くておしゃれな感じでポイント高し。さっそく応用してみよう。そうだな、彼女にふられたら、ためしにこう呟いてみるといい。「女は存在しない」。どう? 癒されること限りなし。おや、ますます絶望したって? 君、ちょっとラカニアンの素質あるかもね。

 さて、この連載で僕は、日本一わかりやすいラカン入門をめざそうと思う。なんでそんなものを目指すのかって? 今までなかったからさ。僕の見たところ、いまの社会は、なんだかラカンの言ったことが、あまりにもベタな感じで現実になってきているような気がする。精神分析そのものには、もう昔ほどの力はないけれど、なにもかも失敗だったと片づけるにはあまりにも惜しい人類の知恵だ。とくにラカンの考えたことは、ラカンが生きた時代よりも、おそらく今のほうがずっとリアルに感じられると思うんだけどな。

 僕はラカニアンを名乗るほど、信者でも勉強家でもないから、むしろ解説役としては悪くないんじゃないかな。そんな、私めがあの偉大なラカン先生の解説だなんておこがましい、なんてちっとも思わないからね。いちおうラカンの限界はどこらへんにあるか、ということも完全に見切っているつもりだし。そういう小難しげな文章が読みたい人は、どうぞ画期的な名著の拙著『文脈病』(青土社)を買ってください。

 ラカンの言ったことは、シンプルといえばすごくシンプル。でも、あまりにもその論理が厳密かつ緻密なので、やけに難しく見えるだけなんだ。ラカンはたとえば、こんなふうに考えた。こころは、言葉だけで出来ている。そして、言葉にはもともと意味などなく、ひとまとまりの音にすぎない。言葉は記号みたいに、直接に何かを示すことはしない。つまり、言葉はものの身代わりじゃない。

 「犬の記号」は犬しか意味しないけど、「犬」という言葉は、犬に直接には結びついていない。「犬」は、「猫」「馬」「牛」といった、他の言葉との関係性のなかだけで成立する言葉だ。極端な言い方をすれば、「犬」以外の言葉が存在しなければ、犬も存在しないということだ。あらゆる言葉は、ほかのすべての言葉とのつながり、ネットワークの中に位置づけられて、はじめて成り立つ。意味を決定づけるのは、その言葉じゃなくて、言葉どうしの関係と、その背景にある「文脈」の作用だ。だから、「犬」という言葉が、動物の犬だけじゃなくて、時には人をののしる言葉や、忠実さのたとえになったりする。

 僕たちはふだん、意味とイメージの世界を生きている。これをラカンは「想像界」と呼ぶ。ところが、意味を生み出すはずの「言葉」は、じつは言葉だけで独自の世界を作っている。こちらは「象徴界」と呼ばれる。このへんの話は、また今度するから、いまは簡単に理解しておいて欲しい。問題は、この言葉だけの世界のほうにある。言葉だけの世界、つまり「象徴界」のメカニズムを、僕たちはじかに知ることができない。だからそれは、「無意識」と呼ばれたりもする。そして、無意識の中での言葉同士の関係が、人間の欲望を生み出したり、あるいは病気の症状をもたらしたりしているのだ。精神分析というのは、こうした、じかには知ることができない無意識のメカニズムを理解するための技術として発見されたわけだね。

 いうまでもないことだけど、言葉には実体がない。つまり、言葉は空虚だ。その空虚な言葉でできあがっている僕たちの心も空虚だ。僕たちが互いに語り合えるのは、言葉を共有しているから。言い換えるなら、おなじ空虚さを共有しているからなのだ。その限りにおいては、言葉は僕たちの社会を支えていると考えることもできる。言葉が社会そのものではないけれど、政治や社会を決定づける僕たちの欲望の、その背後にある存在が言葉である以上、やはり言葉が社会を動かしていると考えるべきだろうね。

 ただ、誤解しないで欲しい。これは「言葉の力を信じましょう」「なんでも話し合いで解決しましょう」といったお題目とは、百万光年くらいかけ離れた意味だからね。ラカンならむしろ、話し合いによる合意の不可能性について、雄弁に語ったはずだ。ちょっと安易なたとえかもしれないけど、ここで僕が言いたいのは、一見話し合いによって動いているようにみえる社会も、実は「無意識の言葉」によって大きな影響をこうむっている、ということ。今回の同時多発テロとかみていると、まさにラカンの正しさが証明されたような感慨すら覚えるくらいだ。

 それでは、人間がどんなふうに、言葉だけの世界に生きるようになったのか。それは人間の乳幼児期についてのラカンの考えから説明する必要があるんだけど、それも次回以降にまわそう。この連載では、僕はラカンを体系立てて説明しようなんて、ぜんぜん考えていないから。気分次第の風まかせで、ごくお気楽にやらせてもらうつもりだ。

 携帯電話の精神分析

 さて、いきなり応用編だ。今回はつかみをかねて、ケータイについて分析してみよう。

 電車の中で携帯電話を使う人間は、いまや世界中で憎悪の対象だ。彼が携帯で喋る姿があまりに素敵なので恋に落ちた、という女性がもし居たら、お目にかかりたいくらいだ。ことほどさように、あらゆる人間にとって、電車内の携帯電話は不快な行為なのである。つまり、嬉しそうに電話を掛けている当人を除いては。これは一体、なぜだろうか。すでにいろんな説明が、あるにはある。

 (1) 周囲の人間を無視している態度が気に入らない。これはダメ。無視というなら、ウォークマンを聴いて漫画を読んでいる人間だって、周囲を無視している。でもまあ、あなたがウォークマンを初めて見た人間でもない限り、あるいはヘッドホンから歌詞まで聴き取れるほど音漏れでもしていない限り、携帯電話ほどの不快は感じないだろう、たぶん。

 (2) たんに傍若無人だから。これもダメ。考えてみて欲しい。二人の若者が大声で話をしている姿と、一人の若者が大声で携帯をかけている姿と、どちらが不愉快か。いうまでもなく後者ですね。傍若無人という程度がほぼ数量的に、というか音量的に同一であるならば、携帯の方が不快指数が高い。これはたんに傍若無人だけでは説明できない。

 (3) 電話というプライヴェートな行為を、人前でするということは、周囲の人間を人間扱いしていないという屈辱感を味あわせるから。なるほど、一理くらいはあるかな。きみはたぶん会田雄次『アーロン収容所』(中公新書)を読んだんだね。イギリス人女性が、日本人捕虜の前で平気で着替えたりするのは、日本人を同じ人間と見なしていないから、という「伝説」ね。僕なんかこのエピソードの演劇性の方が気になるくちなんだけど、まあそれはいいや。

 でも、プライヴェートな行為ということなら、電車内の化粧はどうかな。僕はあれ、言われるほど不愉快じゃない。ちょっと、みっともないとは思うけど、でも携帯ほどには不快感はないな。まして噂に聞く電車内着替えなるものなら、ぜひ一度拝見してみたいと思うくらいだ。

 さて、ここまでで携帯電話の不快に関する解説は出尽くしたわけだけど、ごらんの通り、どれも説明になっていないね。ラカンを援用すれば、こんな問題はすぐに解ける。

 それでは、正解。電車内で携帯電話をかける人は、電車内で訳のわからない独りごとを大声で呟いている電波系の人と同じ存在だから。あの理屈抜きの、ほとんど反射的な嫌悪感のみなもとは、そこにある。

 電波系の人、ひらたく言えば精神病の人というのは、僕たちと同じ言葉を喋れなくなった人のことだ。すくなくとも、ラカンはそう考えていたし、僕もそれに条件つきで賛成する。ただし現実には、きみたちが精神病の患者さんと話をしても、ちゃんと普通に会話は成り立つと思う。ラカンが言っていることは、あくまでも理念的な精神病、つまりラカンにとって理想的に狂ってしまった人にだけ、完全に当てはまるだろう。僕が賛成なのは、そういう徹底して厳密に考え抜く姿勢に対してであって、その言葉をそのまま臨床に持ち込もうとは思わない。まあ、当たり前のことだけど。

 精神病の人の言葉は、どんなに表面上は僕たちの言葉に似て見えても、本質的に「違う世界」の言葉なのだ。それが最もはっきり示されるのが、「独語」の症状。まさに本人にとってだけ存在する世界との対話、それが独語だ。だから、たとえ精神病じゃなくても、独り言を呟き続ける人は、どこか僕たちに異様な不快感を与える。同じ世界にいるはずの人が、別の世界を背負って歩いているようなものだからね。

 携帯電話もまったく同じこと。ここではない違う世界と電波で交信しているという点では、携帯人間も精神病患者も本質的に変わらない。いや、もし精神病であることがはっきりしているなら、いずれ独語にも慣れることができるだろうけど、携帯電話はそうはいかない。僕たちは、異常な人間の異常な振る舞いには適応できるけど、普通の人間の異常な振る舞いには、なかなか慣れることが出来ないものなんだ。

 ……とまあ、ラカンの切れ味というのは、ざっとこんなものだ。僕が思うに、今の社会には、ラカンじゃなければ解けないことがあまりにも多い。なるほど、ラカンの言葉は、たしかに悲観的でニヒリスティックに響く時もある。でも、幻想に取り込まれずにものを考える出発点としては、けっして悪くない。癒しも幻想だけど、絶望はもっと幻想だ。もちろん幻想が好きな人には、余計なおせっかいするつもりなんかない。寝ていたい人は寝かせといてあげよう。でも、僕は覚醒していたい。幻想と現実がどんどん接近しているようにみえるこの世界で、できるだけリアルに生き延びたい。そのためにも僕たちには、いまこそ「ラカン」が必要なのだ。


https://www.cokes.jp/pf/shobun/h-old/rakan/02.html 【生き延びるためのラカン 第2回 貴方の欲望は誰のもの? 斉藤 環 】 より

さて、前回は言葉と心の関係についての話だった。つまり、心は言葉で出来ていて、そのために途方もない自由さを得たけれども、果てしない空虚さをも抱え込んだ、ということだ。これ、ラカンの精神分析にとっては、かなり基本的な視点だから、しっかりおさえておいて欲しい。その上で、今回は別の話をしよう。そう、「欲望」についての話を。

 「欲望」もまた、精神分析における重要なキーワードだね。精神分析というのは「欲望の科学」だ、という人もいるくらい。僕も条件付きで、ほぼそれに賛成だ。

 言葉を使うことによって、人間は「欲望」を手に入れる。それはすごく重要で決定的なことだ。おおざっぱに対比するなら、動物は「本能」と「欲求」に突き動かされ、本能の欠如した人間は「欲望」に従う。そんなふうに言うことができるだろう。ここで「本能の欠如」という言い方に引っかかった人も居るかも知れない。人間についても「生存本能」とか、「母性本能」とか、良く言うものね。日常的にも「本能的に~」という表現が普通に使われているし。

 でも、ここで考えてみて欲しい。動物の本能というのは、遺伝子にプログラムされた特殊なソフトウェアのことだ。これがあるから動物たちは、誰に教わったわけでもないのに、異性と出会えば性行為に及んだり、巧みに獲物を捕らえたりすることができる。この意味では、動物はとても精巧にできたマシーンみたいなものだ。つまり、ある状況下での反応や行動パターンが先天的にプリセットされている、という意味で。だからロボット犬AIBOも、その意味では動物と同等と考えていい。

 それじゃあ、人間はどうか。もちろん、人間は動物とはちがう。だいたい人間は、教わらなければ何もできない。言い換えるなら、あらゆる行動を、後天的に、学習によって修得する必要があるのだ。そして人間の学習は、そのほとんどが言葉の助けを借りて行われる。だからもちろん、「欲望」も言葉に根ざした学習の産物なのだ。

 欲望と欲求の違いを考えるうえで、ここでは「性欲」を例にとろう。動物の性欲は、「発情期」という言葉があるように、タイマー付きのプログラムとして遺伝子に書き込まれている。発情期に異性と出会ったら、どんなふうに誘惑し、どんなふうに性行為に及ぶかが、はっきりとパターンとして定まっている。だから、性行為は完全な満足で終わるわけだし、発情期以外には性欲そのものが湧いてこない(まあ、「ボノボ」って猿みたいな例外もあるけどね)。

 で、人間はどうか。まず人間は年中発情期ですね。これを否定する人はいまい。性行為の知識は先輩とかAVなどによって学習されますね。異性との出会いから性交に至るまでのパターンは「恋愛」の名のもとにきわめて複雑な洗練をとげています。そして、性行為。ここにもいろんなパターンがあるけど、共通していることは、人間が性行為によって完全に満足することがあり得ないということ。

 よく、猿にオナニーを教えたら死ぬまでやり続ける、と言われる。これ、僕はホントか嘘かは良く知らない。でも、こういう言い方は、すごく精神分析的な意味で、人間を特権化しているんだね。この言い方にはもちろん、その裏側に「人間はオナニーを死ぬまで続けるなんてことはしない。サルってバカだね」という共通の認識がある。

 それでは、なぜ人間はオナニーし続けることができないか。男性を例にとるなら、射精の後で虚脱するからだ。この射精後の空虚感は、30年くらい前なら罪悪感で説明できた。なにしろオナニー害悪説は根強かったし、そもそも昔は「自涜」って言ってたんだからね。さすがに今は害悪説のような「迷信」は消えたけど、それでも射精後の空虚感は変わらず存在する。僕の考えでは、この空虚感こそが、欲望本来の空虚感なんだ。射精によって欲望の生理的側面が満たされたかに錯覚するわずかな時間だけ、僕たちは性欲の本質的な虚しさを、ほんの少しかいま見ているってわけだ。

 さて、もう一度確認しよう。欲求は満足することが出来る。でも欲望は、決して満足しない。そして、人間の活動は、そのほとんどがこうした「満たされない欲望」のうえに成立している。たとえば「資本主義」システムがそうだ。いろんな問題解決を常に先送りしながら成立しているこのシステムは、その究極的な解消がありえないことが、成立のための根拠になっている。だから人間の欲望のあり方と、すごく良く似ているわけだ。もちろん「だから資本主義がすばらしい」とかいう、ベタな話じゃないけどね。

 あるいは、「嗜癖」の問題も欲望と関係がある。アルコール中毒、薬物中毒、ギャンブル中毒と、ほとんどの人間の営みは中毒、つまり嗜癖に結びつく。これもまた、欲望の際限のなさがそのまま病理としてあらわれたものと考えていい。現代人は、誰もが多かれ少なかれ、こうした嗜癖性を抱えて生きている。いや、そもそも嗜癖に至るような過剰な欲望がなかったら、文明社会もあり得ないわけだしね。いわゆる未開社会の多くは、いろんなしきたりや儀礼などで欲望に幻想のタガをはめている。それは社会の自由な発展を犠牲にして、安定と存続のほうを取ったと考えることもできる。でもそうなると、いったいどちらが賢いかなんて、誰にもわからないよね。

 ともあれ、欲望の特徴が、その本質的な充足の不可能性にあることはわかった。それでは、その欲望はどこから来るのか。

 ラカンの言った言葉でいちばん良く引用されるのが「欲望は他人の欲望である」というものだろう。そう、ラカンは欲望が僕たちの内面にあらかじめ備わっているわけじゃなく、常に他人から与えられるものだ、ということを強調したのだ。これにはいろんな言い回しがあって、ほかにも「欲望は、それを他人に認められることで初めて意味を持つ」というのもある。いずれにしても、完全な孤独にあっては、欲望は生じない。みんなが欲望を持っていると信じられるから、僕も欲望を持つことができるのだ。

 これはたぶん、いちばん実感的に判りやすいところじゃないかな。たとえば、もういらないから捨てようと思っていたオモチャを、友達が「いらないならちょうだい」と欲しがったとたんに、すごく惜しくなったりすることってあるよね。社会的にみても、あるものが集団的な欲望の対象となる、つまり「ブーム」になる背景には、こういう欲望のメカニズムが作用していることが多い。ファービー人形に行列が出来たのは、なにもファービーがものすごく優れたオモチャだったからじゃなく、単にみんながそれを欲しがったからだ。「他人が欲しがっている」ということは、とりわけ現代にあっては強烈な欲望の根拠になる。そうでなきゃ、そもそも「サクラ」って商売がなりたたない。

 ここで挙げた例は、本当はちょっと正確じゃない。間違いでもないけどね。でも、ラカンの言おうとしたことには、もっと抽象的な次元も含まれている。そう、欲望と言語の関係だ。でも、それについては、また次回ということにしよう。

 さて、いまから10年くらい前、西武百貨店のポスターに、こんなコピーがあった。

 「ほしいものが、ほしいわ」

 糸井重里によるこの名コピーは、欲望の本質をとてもよく表している。

 高度成長期には、みんなが「欲しいもの」を持っていた。まるで車とかカラーテレビ、冷蔵庫といった、共通の欲望が実体として存在するかのようだった。でも、社会が成熟し、安定期に入って、僕たちは物質的には満たされてしまった。もう僕たちには、いますぐ切実に欲しいものなんか何もない。せいぜい「おいしい生活」をまったり楽しむことを、ささやかに願うくらいだ。でもそんな暮らしの中でも、僕たちはひそかに憧れている。そう「何かを切実に欲しがる心」に。

 こーゆうココロの変化が、なにか時代の病理のせいみたいに言われたこともあるが、必ずしもそうじゃないんだな。むしろ、これこそが人間の欲望の本質にもっとも近い事態なのかもしれない。

 思うんだけどさ、人々がすごく貧しい時代って、誰も精神分析なんかに用はないんだよね。だって、みんな食べることで精一杯だし、そこでは欲望は限りなく欲求に近いものになるわけだから。でも時代が進んで、だいたいの人が衣食足りるようになってくると、人々の心も、その精神分析的な本質をあらわにするようになってくるんじゃないか。いや、物質的な充足だけじゃない。僕はこれに加えて、コミュニケーション的な充足という面も大きいと思う。どういうことかって?

 携帯電話やインターネットは、あらゆる人に、コミュニケーションに参加するチャンスを与える。そう、もはやコミュニケーションに辺境はない。誰もが、その意図さえあれば他人とつながることが出来る。この変化は、あんがい決定的なものなんだ。だってそうだろう。社会が成熟していく段階の中に「物質的に満たされても、心が満たされない」という過渡的な状況がある。でも、これは要するに、ネットワークが不備な時代には、コミュニケーション弱者の孤独がいっそう深まりやすくなるということでしょう。現代のように、ネットワークが幾重にも張りめぐらされて以降は、こうした孤独は意志的に選択されなければ成立しなくなってくる。

 コミュニケーションのネットワークが発達すると、コミュニケーションだけで満たされてしまう人たちが大量に現れてくる。携帯電話のせいでCDが売れない、とかはそういう現象のあらわれだ。実はこれも、欲望の満足を先送りしているに過ぎないんだけど、「誰かと話をする」っていう行為は、先送りのための最良の手段なんだよね。そうなると、いよいよ「欲望の無根拠性」という、ラカン的な事態がはっきりみえてくる。

 前にも話したけど、なんだか最近の世の中って、ラカン的な解釈があまりにもベタに当てはまるような事象が多すぎるような気がする。田中真紀子のヒステリー性とか、田代まさしの自滅的な「死の欲動」とかね。いろんな進歩だの進化だのの結果、僕たちは物質的な貧困、コミュニカティブな貧困、その双方から解放されつつある。これとともに、僕たちの欲望はかぎりなく精神分析的なものになるだろう。そう、フロイトが言ったように、それは「満たされない欲望を持ちたいという欲望」なんだ。「ほしいものが、ほしい」っていうのは、そういうこと。いまや僕たちが求めるのは「満たされない心」そのものなんだ。最近脱税でつかまった、野村って有名なおばあさんがいたけど、彼女の人気のかなりの部分は、その「満たされなさ加減」に人々がシビれたせいじゃないかな。

 で、もっと本質的な問題、欲望と言葉との関係については、また次回ってことで。