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2020.12.08 08:43
うちの子供たちを湯沢の演説会に連れて行った。
現職の国会議員が二人も来るというビッグな企画。
子供たちにとっては初めての共産党の演説会。現在進行中の政治の話をナマで聞くということ自体、初めての体験だった。
終了後に感想を聞くと、「メチャおもしろかった!」と言う。
「みんなすごいね、話し方が上手で。父ちゃん以外。」
「ほんとに、つい、うん、うんってうなずいちゃうよね。本気で言ってて、説得力がものすごい!政治のことって、みんながわかってないことばっかだね。また聞いて勉強したいよ。」
「父ちゃん以外」という部分にキズつきつつ、僕もほんとに同感だった。
みんな普通に聞いているのだろうけれど、あのようにちゃんと聞かせる弁論術はただ事ではない。僕も予定候補となってその難しさを日々実感しているのだ。
ラジオでしゃべるのとはぜんぜん勝手が違う。ラジオは頭はフル回転させなければならないが、割とボソボソしゃべってもいいし、パーソナリティーとのキャッチボールでしのげる面がある。そういう「世間話モード」だ。
しかし例えば街頭で、人の姿が全くない、ただの家並みに向かって話すときは、もっと高らかな、言わば防災放送的なニュアンスが入ってくる。そしてここに一人でも立ち止まって聞いている人が出てくると、「防災無線」でいるわけにはいかず、ちょっと「語り掛けるモード」が加わる。小集会では「みんなと対話のモード」が求められ、難しい言葉はダメになるし、大集会ではそこに高らかさを加えた感じになる、などなかなか難しい。
うまい候補者、議員さんの演説を聞いていると、自在性があり、さっき見聞きしたことを即座に話に取り入れたりしている。頭に浮かんだことをすぐ整然とした文章に置き換えられるのがすごい!
そして力強く声が張っていて、しかも「かまない」。
しかし一番大事なことは、そういった技術論よりも、その弁舌の下地にある「信念」なのだろうと思う。
その、「どうしても言いたいこと」があるという気持ちが、結局は聴衆に伝わり、説得力を支えているのではないか。
僕は今まで政治を大っぴらに語ることがなかったので、そこに一種の「照れ」がある。自分の心と発言にわずかな乖離があるのかもしれない。
そこをぴったりと一致させて、展望を語る候補者そのものとなって、また子供たちに聞いてもらいたい。